マタイ9:9-13, 18-26「主イエスを必要とする人」
2023年6月11日(日)聖霊降臨後第3礼拝 メッセージ
聖書 マタイの福音書9章9-13, 18-26節
説教 「主イエスを必要とする人」
メッセージ 堀部 里子 牧師
【今週の聖書箇所】
「丈夫な人には医者はいらない。いるのは病人である。『わたしが好むのは、あわれみであって、いけにえではない』とはどういう意味か、学んできなさい。わたしがきたのは、義人を招くためではなく、罪人を招くためである。…娘よ、しっかりしなさい。あなたの信仰があなたを救ったのです。」
マタイ9:12-13、22
東京もとうとう梅雨に入りました。今月ベランダ菜園を始めて、トマトとバジルと紫蘇とゴーヤーが恵みの雨を喜んでいます。トマトが赤くなってきて二個ほど収穫できそうです。私の沖縄の父も畑でマンゴーやいろいろな野菜を育てており、時々収穫物を送ってきてくれて、おすそ分けをしてくれますが、自分の育てたものは子どものように嬉しいと思います。農夫は豊かな実りをいつも期待しています。神様も神の子である私たちの人生に、豊かな実りを期待しているのではないでしょうか。
先週月曜日から水曜日まで静岡県掛川市で開催された「JEA(日本福音同盟)総会」にオブザーバーとして夫婦で初めて参加しました。正に神様が「豊かな実を結びなさいよ」と励ましという名の肥料を与えられた思いです。教会の皆さんには祈って送り出してくださりありがとうございました。JEAに加盟している各教団・教派やクリスチャン団体の代表の方々と交わりが与えられたことがとても大きな恵みでした。最終日にある先生に「初めて参加していかがでしたか?先生方お二人がJCE7の事務局に入ってくださって感謝しています。神様は必要な人を送ってくださいました」と話しかけられて恐縮しましたが、同時に必要とされているのだと嬉しく思いました。主の御名を崇めます!
私たちは互いに必要とされたり、または誰かを必要とすることがあると思います。4月に私がコロナになって何も出来なかった時、皆さんの祈りを必要としていました。皆さんに祈られて重症化することなく、また後遺症の咳も癒されました。そして様々な支援物資にも本当に助けられました。
私たちが何らかの必要を感じる時、その必要が満たされるならどんなに嬉しいでしょうか。イエス様は私たちの人生に真に必要なものを与えてくださる方です。今朝は「主イエスを必要とした人」という題で、三人の人に焦点を当てて、主の語りかけを共に受け取りたいと思います。
【取税人マタイを呼ぶ主イエス】
「さてイエスはそこから進んで行かれ、マタイという人が収税所にすわっているのを見て、『わたしに従ってきなさい』と言われた。すると彼は立ちあがって、イエスに従った。」(9)
イエス様はガリラヤ湖畔のカペナウムという町にやって来ました。収税所に座っていたマタイを見つけます。「主イエスを必要とした人」の一人目は、マタイです。マタイは取税人でした。取税人は、同胞からローマ政府に納める税金を取り立てていたので、ローマ政府の手先として嫌われていました。
イエス様はマタイを見ると「わたしに従ってきなさい」と弟子となるよう直接呼びかけました。イエス様についていくことはマタイにとって、取税人を辞めることを意味しました。つまり転職です。取税人という安定した職を失い、弟子としてイエス様に従う決断は容易でなかったと思います。しかしマタイは、イエス様の招きの声にすぐに従いました。何と勇気のいる決断と行動でしょうか。マタイは何も考えずに決断したのではないと思います。反対に以前から、イエス様の噂や教えを心に留めていて、自分の人生を振り返り、いつかイエス様とお会いしたいと思っていたでしょう。そして、イエス様について行く機会を心の奥底で密かに待っていたのかもしれません。そして実際にイエス様にお会いすると、不思議とイエス様について行くんだ!と決断させる何かがイエス様にあったのを感じたのだと思います。
例えて言うなら信仰とは、「バンジージャンプ」のようなものだと思います。後ろのものを振り切って、信じて従うことです。私自身、イエス様について行くことを決断した時、心は晴れ晴れとして真っ直ぐにイエス様を向いていたのですが、一方でいろいろな不安や心配も押し寄せて来ました。なぜならイエス様についていくことで、失うものも多くあるのではと思ったからです。しかし実際に、歩み始めると全ての心配は取り越し苦労でした。神様に従う道は神様が整えて、必要な物を備えてくださることをはっきり教えられています。私たちは新しく歩みを始める時、今までの自分の歩みを整理しないといけないかもしれません。でももし神様が招いてくださった道なら、最高で最善な道なはずです。
イエス様についていくことを決断したマタイですが、ルカの福音書には「それから、レビ(マタイ)は自分の家で、イエスのために盛大な宴会を催したが、取税人やそのほか大ぜいの人々が、共に食卓に着いていた。」(5:29)とあります。マタイは取税人の仲間や罪人と呼ばれる人たちを招いてパーティーを催しました。弟子となった喜びを最大限に表したのだと思います。しかし喜んで客人をもてなしているマタイを尻目に、パリサイ人たちは監視役のように非難の目をイエス様に浴びせました。
「パリサイ人たちはこれを見て、弟子たちに言った、『なぜ、あなたがたの先生は、取税人や罪人などと食事を共にするのか。』」(11)
パリサイ人にとって取税人や罪人は、ユダヤ教の教えである律法を守れず、汚れている人々という先入観があり、許しがたい存在でした。彼らと食事をするなら自分たちも汚れるとパリサイ人は思っていたのです。しかし、イエス様はそのようなことは全く気にせず、マタイの家で喜んで食事をしていました。
日本人は和を重んじるメンタリティーがあり、人と違うことして目立つことを好みません。「出る杭は打たれる」という諺があるくらいです。イエス様のように行動を起こすことは勇気の要ることです。一方でパリサイ人が持っていた先入観は、人の間に壁を作り、真実をぼやけさせて見せます。パリサイ人たちには彼らの信念と立場があり、罪人と食事をするイエス様の行動を理解できなかったかもしれませんが、律法を定めた神から送られたイエス様は、「罪人を救うために来られた」という神の意図を汲み取れたら大っぴらに非難はできなかったのではないでしょうか。
イエス様はパリサイ人の「なぜ」に対してこう答えました。
「丈夫な人には医者はいらない。いるのは病人である。『わたしが好むのは、あわれみであって、いけにえではない』とはどういう意味か、学んできなさい。わたしがきたのは、義人を招くためではなく、罪人を招くためである。」(12-13)
「医者」は主イエス自身を指します。「丈夫な人」とは自分は正しいと思っているパリサイ人のことです。ホセア6:6をイエス様は引用され、いけにえのような形式を重んじて、大切な「心」をあなたたちは忘れていないかと問われたのです。「学んできなさい」という言葉を聞いて、十分に旧約聖書を学んでいたパリサイ人は侮辱されたと思ったでしょう。医者は患者に適切な治療をし、癒しへ導く人ですが、主イエスが診たのは「病人=罪人」でした。パリサイ人は律法を守り行い、いけにえも捧げる「正しい人」たちだったかもしれませんが、その正しさに固執してしまい、心と魂の医者であるイエス様を必要としませんでした。形式や習慣、伝統にとらわれ、神であるイエス様を喜ばせることはできなかったのです。イエス様を喜ばせるのは、律法という形ではなく、その内にある愛でした。真実の愛はこれですよと、イエス様は彼らに見せるためにも罪人と食事をしたのです。
結果として取税人マタイの生き方は方向転換され、イエス様の弟子として新しく生まれ変わり、イエス様の弟子としてマタイの福音書を書きました。悔い改めとは、神様へ方向転換する生き方を選び取ることです。今日、この聖書の箇所を読んで、パリサイ人のようにはなりたいと思わないでしょう。しかし、信仰生活が長くなってくると、私自身そうですが、パリサイ人の立場に知らない内に立ってしまっていることがあります。そのような時、罪の結果を刈り取るのは自業自得だからと突き放すのでなく、自分が罪人としてどのように扱われたいかを考えたいと思います。人の目にある木くずはよく見えても、自分の目にある丸太が見えていないかもしれないからです(マタイ7:3)。「あなたがたがさばくそのさばきで、自分もさばかれ、あなたがたの量るそのはかりで、自分にも量り与えられるであろう。」(7:2)
マタイは取税人でお金を扱う仕事をしていたので、損得なしに接してくれるイエス様の愛と真の自由さに触れてびっくりし、正に自分が必要としていたものを得たと思ったと思います。
【会堂司の死んだ娘と長血を患った女性の癒し】
次に病の癒しを必要としていた二人の女性を見て見ましょう。一人の会堂司(管理者)がイエス様のところに来てひれ伏して言いました。「わたしの娘がただ今死にました。しかしおいでになって手をその上においてやって下さい。そうしたら、娘は生き返るでしょう。」(18)
会堂司は、シナゴーグで礼拝が正しく行われるための監督者であり、会堂の建物の維持・管理を任された責任者です。ユダヤ人の長老の中の有力者が選ばれたようです。その娘が今死んだことをイエス様に報告し、彼がイエス様に願ったことは「娘の上に手を置いて欲しい」ということでした。「そうするなら娘が生き返る」と心から信じて出た言葉です。病を患っていた娘のために、良い医者に見せ、一番良い治療と薬を与え、親としてできる限りの手を尽くしたと思います。しかし娘は死に、「死という壁」が立ちはだかっていました。
昨日のニュースで、南米コロンビアで起きた飛行機墜落事故から約40日後に、四人の先住民族の子どもたちが見つかったと報道されました。子どもたちは上は13歳で下は1歳になったばかりです。母親はその墜落事故で召されました。父親のところに行く途中の出来事だったようです。お父さんは「長女はジャングルの中でも生きていける術を持っているから」と、彼らの生存を信じていました。実際に一ヶ月以上経過して、子どもたちが生きて見つかったことに世界中が驚きと安心を覚えたと思います。母親は帰らぬ人となりましたが、残された四人の子どもたちと一緒に父親は命の大切さを子どもたちに教え、力を合わせてこれから生きていくと思います。
死を前にして私たちは無力です。会堂司の家では娘の葬儀が執り行われていました。笛吹く者は葬儀のために雇われた人たちです。笛の音や嘆き悲しむ泣き声の中、イエス様は到着され、「あちらへ行っていなさい。少女は死んだのではない。眠っているだけである。」(24)とおっしゃいました。その場にいた人たちはイエス様をあざ笑いましたが、「しかし、群衆を外へ出したのち、イエスは内へはいって、少女の手をお取りになると、少女は起きあがった。」(25)とあります。父親の信仰の通り、願った通りに生き返ったのです。イエス様にとって死は眠りと同じでした。イエス様は自分が復活されただけでなく、イエス様を信じる者をよみがえらせる力を持った方なのです(ヨハネ11:25、Ⅰコリント15:20-21)。
イエス様が会堂司の家に向かう途中で、長血をわずらっている女性のことが書かれています。「長血」とは出血を伴う婦人科系の病気です。この女性は12年間も出血が止まらず、苦しんでいました。ユダヤ人社会ではこのような出血のある女性は汚れた存在であり、触れる人も汚れると考えられていました(レビ15:25-27)。ですから彼女はたった独りで病と闘い、治療のためにお金を使い、経済的・肉体的・精神的・社会的にも困窮していたでしょう。
この女性は「み衣にさわりさえすれば、なおしていただけるだろう」(21)と唯一の希望を抱いていました。人目を気にしながらもゆっくりしかし大胆に後ろからイエス様の衣の房に触りました。すると「イエスは振り向いて、この女を見て言われた、『娘よ、しっかりしなさい。あなたの信仰があなたを救ったのです。』するとこの女はその時に、いやされた。」(22)
死に瀕していた会堂司の娘も、「み衣にさわりさえすれば、なおしていただけるだろう」と信じて主イエスの衣の房に触れた女性の病も、直ちに癒されました。イエス様が私たちの人生に関わりを持ってくださる時、私たちはそれぞれ抱えている病という名の問題や課題に新しい光が与えられます。主イエスがもたらしたこの「福音」こそ、どの病にも効く薬です。主イエスはあなたの最期まで診てくださる「かかりつけ医者」です。
【三人の共通点】
取税人マタイと、会堂司の娘と長血を患った女性の共通点は何でしょうか。それは、「主イエス様を必要とした」ということです。それは言い換えると、「私には万策尽きた」という経験を持つ人ではないでしょうか。万策尽きる経験は、一見希望がないように見えますが、そこに行き着いたからこそ開かれるキリストとの出会いがあります。
三人ともイエス様と関わりを持ったことがきっかけで、今までの歩みに終止符を打ち、新しい人生が始まりました。三人とも(会堂司の娘は父親の信仰による)イエス様の力を信じ、唯一の望みを主イエスに置きました。信仰をすでに持っている人も、私も含めて毎日イエス様と出会うことを、今までに増して喜びとさせていただきたいと思います。あなたに主イエス様は必要ですか?