マタイ28:16-20「わたしはあなたとともにいる」

2023年6月4日(日)聖霊降臨後第一礼拝 メッセージ

聖書 マタイの福音書 28章16~20節
説教 「わたしはあなたとともにいる」
メッセージ 堀部 舜 牧師

【今週の聖書箇所】

 16 さて、十一人の弟子たちはガリラヤに行って、イエスが彼らに行くように命じられた山に登った。17 そして、イエスに会って拝した。しかし、疑う者もいた。
 18 イエスは彼らに近づいてきて言われた、「わたしは、天においても地においても、いっさいの権威を授けられた。19 それゆえに、あなたがたは行って、すべての国民を弟子として、父と子と聖霊との名によって、彼らにバプテスマを施し、20 あなたがたに命じておいたいっさいのことを守るように教えよ。見よ、わたしは世の終りまで、いつもあなたがたと共にいるのである」。

使徒2:2-4
ジョン・シングルトン・コプリー: 「昇天」(部分)、Wikimedia Commons

【あしあと】 マーガレット・パワーズという人が書いた「足跡」という詩を紹介します。[①]

 ある夜、わたしは夢を見た。
 わたしは、主とともに、なぎさを歩いていた。暗い夜空に、これまでのわたしの人生が映し出された。どの光景にも、砂の上にふたりのあしあとが残されていた。一つはわたしのあしあと、もう一つは主のあしあとであった。これまでの人生の最後の光景が映し出されたとき、わたしは、砂の上のあしあとに目を留めた。そこには一つのあしあとしかなかった。わたしの人生でいちばんつらく、悲しい時だった。このことがいつもわたしの心を乱していたので、わたしはその悩みについて主にお尋ねした。

「主よ。わたしがあなたに従うと決心したとき、あなたは、すべての道において、わたしとともに歩み、わたしと語り合ってくださると約束されました。それなのに、わたしの人生のいちばんつらい時、ひとりのあしあとしかなかったのです。いちばんあなたを必要としたときに、あなたが、なぜ、わたしを捨てられたのか、わたしにはわかりません。」

主は、ささやかれた。

「わたしの大切な子よ。わたしは、あなたを愛している。あなたを決して捨てたりはしない。ましてや、苦しみや試みの時に。あしあとがひとつだったとき、わたしはあなたを背負って歩いていた。」

マーガレット・パワーズ「足跡」

 今日は「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます」という主イエスの約束を、心に留めたいと思います。

【背景】 今日の聖書箇所は、主イエスが十字架で死なれて、3日目に復活された後、40日間弟子たちに現れた時の出来事です。▼弟子たちは、エルサレムからガリラヤに戻って、そこで復活の主と会いました。 ▼聖書で、山は、しばしば、神が人々に現れる場所です。神がモーセに山で現れたように、今日の箇所では、主イエスが山で弟子たちに現れて、使命を与えます。

■【1.礼拝――基本的な応答】

17 そして、イエスに会って拝した。しかし、疑う者もいた。

弟子たちは、主イエスの死を目撃しましたが、同じ方が、復活して目の前に立っているのを見ました。「礼拝」は、弟子たちの最も自然な応答でした。

しかし、死んだ人がよみがえったことを、皆がすぐに飲み込めたわけではありませんでした。「疑う」とは、「迷う」「ためらう」という意味の言葉です。主イエスが遠くから近づいて来るのを見て、初めは主イエスだと見分けられなかったのかもしれません。弟子たちも、主イエスの復活をすぐには飲み込めず、戸惑い、ためらった姿が描かれています。[②]

私たちにとっても、神に出会う経験は、常識や世界観が覆されます。神に出会い、求め始める最初の頃は、平安や喜びよりも、むしろ戸惑いやためらいを感じることが多くあります。聖書の人物ではモーセも、ギデオンも、イザヤも、エゼキエルも、ペテロもそうでした。教会の歴史では、ルターやウェスレーもそうでした。▼その神ご自身に、私たちがイエス・キリストを通して、無条件に愛されていることを知って、罪を告白して、主イエスに信頼して神に向き合う時に、神の愛と赦しを、個人的に経験することができます。神が私たちと出会われる時に、目をそらさずに神に向き合い、祈りの格闘をして、恵みの門が開かれるまで、恵みを求めて戸を叩き続けることが大切です。

18節で、復活の主は、半信半疑でためらっていた弟子たちのところに、ご自分から近づいて来てくださいます。▽同じように主イエスは、私たちが主を求めるときに、ご自分から歩み寄り、近づいて来てくださいます。

■【2.権威――キリストの神性】

18-20節で主イエスは、弟子たちに①ご自分の権威を宣言し、②宣教を命じ、③いつも共におられる約束をなさいます。

まず、「キリストの権威」について見ていきます。

18 …「わたしは、天においても地においても、いっさいの権威を授けられた。

この言葉は、旧約聖書ダニエル書7:13-14を背景にしているとも言われます[③]。▽主イエスは、「自分こそ、聖書が預言している救い主キリストだ」、「世界中の王たちにまさる、全世界の支配者だ」「一羽の鳥が地に落ちるのも、主の許しなしには起こらない」。その権威が「十字架と復活を経て、ついに与えられた」ことを宣言しておられます。▼この全世界に対する権威に基づいて、弟子たちは世界に遣わされて行きます。

【三位一体】 「権威」に関して、19節は三位一体に関する重要な箇所の一つです。19節に「父と子と聖霊との名によって…」とあります。▼第一に、これは、イエス・キリストを指す「子」を、神と同列に並べていて、キリストが神に等しいことを示す、重要な表現です。

もう一つ、「父、子、聖霊の名」の「名」という言葉は、原語では単数形です。「父、子、聖霊」の「位格の統一」を表します[④]。▼《「位格の統一」》 「父、子、聖霊」は、それぞれ区別できる固有の位格(ペルソナ)を持つのですが、その働きはバラバラではなく、世界の創造でも人間の救いでも、常に一致して共に働かれます。 ▽「父・子・聖霊」の3つの位格が、1つの「名」を持つように、「父・子・聖霊」の神は、私たちの救いのために一致して働かれるのです。

【適用】 このように今日の箇所では、主イエスの権威が宣言されています。このことは、私たちにとってどんな意味があるでしょうか。

(1)私たちは、神に祈ることができます。すべてのことが主イエスの御手の中にあると知ったなら、どんなことでも主に願い求めることができます。主イエスの言葉です。「あなたがたが父に求めるものはなんでも、わたしの名によって下さるであろう。…求めなさい、そうすれば、与えられるであろう。そして、あなたがたの喜びが満ちあふれるであろう。」(ヨハネ16:23-24)

答えの形やタイミングは、私たちの思い通りにはならないかも知れません。しかし、神様が知っておられる最善の答えを、必ず与えて下さいます。

(2)私たちは魂の救いについて、神にゆだねることができます。主イエスが全能であるならば、主イエスから私たちを奪い取ることはできません。私たちは魂の救いについて、全能の神の愛の御手にゆだねることができます。「わたしは確信する。死も生も、天使も支配者も、現在のものも将来のものも、力あるものも、高いものも深いものも、その他どんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスにおける神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのである。」(ローマ8:38-39)

(3)私たちは、自分の力を越えた試練の中で、神に頼ることができます。私たちは、病気、社会の荒波、愛する者の死、家庭の困難など、自分の力では乗り越えることが難しい荒波に会うことがあります。しかし、聖書は教えます。「神は真実である。あなたがたを耐えられないような試錬に会わせることはないばかりか、試錬と同時に、それに耐えられるように、のがれる道も備えて下さるのである。」(1コリント10:13)

キリストの権威と力を知ることは、初めて主を知る方にも、熟練したクリスチャンにも、学び尽くすことのない広大な信仰の領域です。

■【3.弟子とする――教会の使命】

19節では「弟子としなさい」との命令が続きます。

19 それゆえに、あなたがたは行って、すべての国民を弟子として、父と子と聖霊との名によって、彼らにバプテスマを施し、20aあなたがたに命じておいたいっさいのことを守るように教えよ。

【全民族へ】「すべての国民」とは、ユダヤ人以外の「外国人」を意味する言葉です。この時まで、主イエスの働きはユダヤやガリラヤに限られていましたが、この時から、対象が全世界に広がります。

【弟子とする】 この箇所を原文で読むと、命令の中心は「弟子とし(なさい)」という言葉です。「弟子」とは、キリストに従う人です。聖書を学ぶだけではなく、それに従うライフスタイルを身に着ける人です。つまり、信仰を生活の中で実践する人です。ここで主イエスは、2つの特徴を挙げています。それは、①洗礼を授けることと、②教えることです。

【洗礼】 洗礼は、聖書ではいろいろな意味が説明されていますが[⑤]、今日の箇所では、「父と子と聖霊との名によって…バプテスマを施し」とあります。この言葉は直訳すると「父・子・聖霊の中に向かって洗礼を授ける」という意味です。洗礼を通して、三位一体の神との「交わりの中に」入れられ、神の「恵みの支配の中に」入れられることを意味しています。神との新しい関係が生まれるのです。

【教え】 弟子とすることの第2の特徴は「教える」こと、特に「主イエスが命じた全てのことを守るように教える」ことです。ここから2つのことが指摘できます。▼第1に、キリストの弟子になることは、心の内側だけではなく、生活も変化しなければなりません。守るべき主イエスの命令は福音書全体ですが、特にマタイ5-7章の山上の説教や18章などに具体的に要約されています。

▼この聖句から読み取れる第2の点は「教える」ことが一人ひとりの信仰者にゆだねられていることです。 ▽講壇からメッセージを語るのは、誰もがすることではありません。しかし、すべてのクリスチャンは、互いに教え合うように教えられています。「キリストの言葉を、あなたがたのうちに豊かに宿らせなさい。そして、知恵をつくして互に教えまた訓戒し…なさい」(コロサイ3:16)。▽皆さんは、主の弟子として、主の教えに従って、本当に良く生活の中で福音に生きておられると思います。一方で、「互いに教え合う」という使命には、どれくらい答えておられるでしょうか。「あなたがたのうちにある望みについて説明を求める人には、いつでも弁明のできる用意をしていなさい」(1ペテロ3:15)。 聖書の一つ一つの質問に的確に答えるのは、牧師にも難しいことがしばしばあります。しかし、毎週礼拝に集い、聖書を通読している皆さんは、基本的な信仰上の質問に答えることは、十分にできると思います。信仰や聖書のことを聞かれた時に、ぜひご自分の言葉で答えてみて頂きたいと思います。▽誰かに教えるためには、自分自身が福音に生きるという以上の備えが必要です。

・自分の考えが独りよがりの思い込みでないか、調べなければなりません。

・人に教えても自分は従わないことがないように、より慎重に歩むようになります。

・相手に理解できるように、言葉と考えを整理しなければなりません。

・そして何よりも、相手に伝わるために、へりくだって愛を持って忍耐強く教えなければなりません。祈りと愛と献身が問われます。

私たちは、互いに教え、励まし合うことによって、より深く御言葉を学び、より深く神に祈り、より徹底して神に従うようになります。主にゆだねられた「教える」という使命に、共に答えて参りましょう。

■【4.共におられる――主イエスの約束】

マタイ福音書の最後の御言葉は、主イエスの臨在の約束です。

20b 見よ、わたしは世の終りまで、いつもあなたがたと共にいるのである」。

【マタイ福音書】 マタイ福音書の主イエスの誕生の預言で、「神が私たちとともにおられる」と言われます(1:23)。そして、マタイ福音書の最後の言葉が上述の御言葉です。「神である主イエスがいつも私たちと共におられる」という約束がマタイ福音書の初めから終わりまでを貫いています。

【ウェスレー】 18世紀英国の牧師ジョン・ウェスレーが亡くなる前の夜の出来事です。ウェスレーは遺言を残し、友人たちに最後の言葉を伝えましたが、やがて声がかすれて聞き取れなくなりました。涙を流す友人たちに向かって、彼は弱った腕を掲げて、弱い声で、しかし聖なる勝利に満ちて、言いました。「最も良いことは、神が私たちと共におられることだ」この言葉を繰り返し言ったそうです。[⑥]

【臨在の約束】 主イエスの臨在の約束は、快適で安穏とした生活を約束してはいません。むしろ、聖書も主イエスも、弟子たちに苦難と迫害を予告されました。それらすべての中で、主が共におられることを約束しておられます。神に信頼する一人一人のために、そして、使命に答える一人一人のために、主イエスの臨在が約束されています。

20節の約束の言葉は、ギリシャ語では強調されています。「見よ」「このわたしは」――復活したこのわたし、救い主であるこのわたしが、「あなたがたとともにいる」。▽苦難の日も迫害の日も、栄光と喜びの日も、「すべての日々に」あなたがたとともにいる。▽「この時代が完成するまで」、すなわち、あなたがたを通して全世界に福音が証しされ、主イエスが再び来られる日まで。

神がモーセに「わたしは、あなたとともにいる」と言ってエジプトのファラオのもとに遣わされたように(出エ3:12)、主イエスは同じ約束をもって、弟子たちを遣わされました。この約束を持って、私たちは世に出て行くのです。

【臨在にとどまる】 「礼拝」こそ、復活の主イエスに対する最も基本的な応答でした。主の教えに従って生きる時も、宣教の使命に答える時も、「わたしは…いつもあなたがたと共にいる」という主イエスの臨在にとどまり続けることが、私たちの力の源です。

【臨在に集中する①】 アメリカのある著名な牧師は、アメリカの砂漠の真ん中の高速道路で運転中に、激しい砂嵐に襲われて、すぐ前が見えなくなる、とても危険な状況に置かれました。彼はただ一点を見つめて、ひたすらハンドルを握り続けてまっすぐに進み、砂嵐を抜けました。▽そのように、試練の時・苦難の時は、神の臨在に集中するようにと励ましています。[⑦]

【臨在に集中する②】 別のある牧師は、ギターを弾くのですが、騒がしい舞台裏でギターをチューニングする時は、ギターに耳をつけてその音を聞きながら、チューニングするそうです。そのように、私たちが人生の苦難の中にある時に、神様に耳をくっつけるように、ただ主の御声だけに集中して聞き分けるように勧めています。▽聖書にかじりつき、むさぼるように御言葉に飢え渇いて、毎回毎回祈りつつ聖書を読むなら、神は、その人に、ご自分の御心を示して下さるでしょう。

わたしは、天においても地においても、いっさいの権威を授けられた。19それゆえに、あなたがたは行って、すべての国民を弟子として、父と子と聖霊との名によって、彼らにバプテスマを施し、20あなたがたに命じておいたいっさいのことを守るように教えよ。見よ、わたしは世の終りまで、いつもあなたがたと共にいるのである」。


[①] https://blog.goo.ne.jp/yumiyumiyumi/e/741b34f9fe8297eb6f1c7ba3a40a7bf5

[②] Osborne, G. R., Matthew (Zondervan Exegetical Commentary on The New Testament), 28:17.  France, R. T., The Gospel of Matthew (The New International Commentary on The New Testament), 28:17.  参考:Carson, D. A., Matthew (The Expositor's Bible Commentary). 28:17.

[③] 「権威」「与える」は、ダニエル7:14(ギリシャ語旧約聖書)と同じ言葉。「天においても地においても」は、ダニエル6:27(同6:28)と同じ言葉。

主イエスはダニエル7:13-14を繰り返し引用している。マタイ16:28, 19:28, 24:30-31, 25:31-34, 26:64。そこでは「将来」の予告であったものが、十字架と復活を経た28:18では、「すでに」与えられている。

[④] France, R. T., The Gospel of Matthew (The New International Commentary On The New Testament), 28:19.  FRANCE, R. T., Matthew an Introduction and Commentary (Tyndale Commentary). 28:19

[⑤] たとえば、洗礼は「神への誓約」(1ペテロ3:21)、「罪に対して死に、神に対して生きる」(ローマ6:3-4,11)という意味があります。

[⑥] ウェスレー日誌よりhttps://www.ccel.org/w/wesley/journal/cache/journal.pdf

[⑦] ビル・ジョンソン「神の臨在をもてなす」P273