マタイ25:1-13「さあ、花婿を迎えなさい」
2023年11月12日(日)礼拝メッセージ
聖書 マタイ25:1-13
説教 「さあ、花婿を迎えなさい」
メッセージ 堀部 舜 牧師
【今週の聖書箇所】
「1そこで天国は、十人のおとめがそれぞれあかりを手にして、花婿を迎えに出て行くのに似ている。2その中の五人は思慮が浅く、五人は思慮深い者であった。3思慮の浅い者たちは、あかりは持っていたが、油を用意していなかった。4しかし、思慮深い者たちは、自分たちのあかりと一緒に、入れものの中に油を用意していた。5花婿の来るのがおくれたので、彼らはみな居眠りをして、寝てしまった。6夜中に、『さあ、花婿だ、迎えに出なさい』と呼ぶ声がした。7そのとき、おとめたちはみな起きて、それぞれあかりを整えた。8ところが、思慮の浅い女たちが、思慮深い女たちに言った、『あなたがたの油をわたしたちにわけてください。わたしたちのあかりが消えかかっていますから』。9すると、思慮深い女たちは答えて言った、『わたしたちとあなたがたとに足りるだけは、多分ないでしょう。店に行って、あなたがたの分をお買いになる方がよいでしょう』。10彼らが買いに出ているうちに、花婿が着いた。そこで、用意のできていた女たちは、花婿と一緒に婚宴のへやにはいり、そして戸がしめられた。11そのあとで、ほかのおとめたちもきて、『ご主人様、ご主人様、どうぞ、あけてください』と言った。12しかし彼は答えて、『はっきり言うが、わたしはあなたがたを知らない』と言った。13だから、目をさましていなさい。その日その時が、あなたがたにはわからないからである。」
マタイ25:1-13
【報告】先週は、召天者記念礼拝でした。召天者のご家族も来られて、共にこれまでの召天者を偲び、天国の希望を覚えるひと時を持つことができました。お昼には、今月入籍をされる兄姉のための祈りと祝福の時も持つことができ、感謝でした。
悲しみの時も喜びの時も、私たちは、人生のあらゆる営みを、神とともに、神の家族とともに歩みます。「喜ぶ者とともに喜び、悲しむ者とともに悲しむ」者となりたいと思います。主イエスご自身が、私たちとともにいて、「喜びの時にともに喜び、悲しみの時にともに悲しんでくださる」方です。もっと深くイエス様を知る者となりたいと思います。そして、地上の生涯を歩みとおしたお一人お一人の姿を思い出しながら、私たちも「この地上の日々の歩み」に励んでまいりましょう。
【教会暦 - 再臨の御言葉】教会の暦は、クリスマスを待望するアドベントで始まります。アドベントが近づくこの時期は、教会の暦では「年の暮れ」に当たります。教会暦の一年の最後の礼拝(今年は11/26)には、主イエスの再臨にかかわる聖書箇所が読まれる伝統があります。▽先週は召天者記念礼拝がもたれて、それに続く教会暦の最後の1か月で、主の再臨にかかわる約束や警告の御言葉が続いています。▽今日は、主イエスの「再臨」を心に留めたちと思います。
【聖書の文脈】
今日の聖書箇所は、マタイ24-25章の主イエスの長い教えの中の一つです。受難週のおそらく火曜日に、主イエスが宗教指導者たちとの論争を終えて、神殿を出て、オリーブ山で弟子たちに教えられた教えです。「オリーブ山の説教」などと呼ばれています[①]。
マタイ24:1-3「1イエスが宮から出て行こうとしておられると、弟子たちは近寄ってきて、宮の建物にイエスの注意を促した。2そこでイエスは彼らにむかって言われた、「あなたがたは、これらすべてのものを見ないか。よく言っておく。その石一つでもくずされずに、そこに他の石の上に残ることもなくなるであろう」。」
当時のエルサレム神殿は、二回目に建てられた「第二神殿」ですが、主イエスの時代の前後にヘロデ大王が大拡張していました。巨大な美しい石で組み上げられ、「ヘロデの神殿を見ないうちはだれも壮麗な建物を見たことにはならない」と言われたほど、見事な美しい神殿だったと伝えられています。▼しかし、神殿の崩壊を預言した主イエスの言葉は約40年後に文字通りに成就します。AD70年のユダヤ戦争で、エルレサムは徹底的に破壊されます。神殿に火が放たれ、溶けた金が石組みの間に入り込んだため、ローマ軍は全ての石を取り除いてそれを略奪したとも言われています。エルサレムは人が住んでいたとは思えないほどに徹底的に破壊されたといいます[②]。
弟子たちは、主イエスのこの言葉に心が騒いだのでしょうか。オリーブ山に戻ったときに、主イエスに質問します。
24:3またオリブ山ですわっておられると、弟子たちが、ひそかにみもとにきて言った、「どうぞお話しください。いつ、そんなことが起るのでしょうか。あなたがまたおいでになる時や、世の終りには、どんな前兆がありますか」。
弟子たちのこの質問に対する主イエスの答えが、24-25章の主イエスの一連の教えです。▽「紀元70年のエルサレムの破壊」から「主イエスの再臨」まで、「終わりの日」「終末」の預言がまとまっています。
【預言の確かさ】
主イエスは、神殿の破壊を非常に正確に預言されました。▼同様に、主イエスは再臨について、何度も繰り返しはっきりと予告されました。神殿破壊の預言が成就したように、再臨の預言も確かに成就することを、信仰を持って受け止めたいと思います。
今日のたとえの主題は、主イエスの「再臨」、特に、「再臨が遅れること」と、「備えているべきこと」です。
■【1.結婚式のたとえ】
1そこで天国は、十人のおとめがそれぞれあかりを手にして、花婿を迎えに出て行くのに似ている。
【背景】 今日の主イエスのたとえ話は、古代イスラエルの結婚式の風習に根差しています。
古代のいくつかの翻訳では、ここに「花嫁」が加わって、「花婿と花嫁を迎えに出る、十人の娘」となっています。10人の娘たちは、花嫁の付き添いをする友人たちです。花婿は友人たちと一緒に花嫁の家に行き、花嫁を連れて、友人たちの華やかな行列で村中を練り歩いて祝福を受けます。そして花婿の家に着くと、結婚式を挙げ、1週間のお祝いが始まります。[③]
花嫁の側には、結婚式がいつになるのかは知らされません。そして、花婿がやってくるのが遅くなることがありました。▼主イエスは、この箇所で、ご自分の再臨が遅くなることの譬えに、結婚式の譬えを用いました[④]。
2その中の五人は思慮が浅く、五人は思慮深い者であった。3思慮の浅い者たちは、あかりは持っていたが、油を用意していなかった。4しかし、思慮深い者たちは、自分たちのあかりと一緒に、入れものの中に油を用意していた。
ともしびとは、油の壷のついた松明です。▽中東で40年間を過ごしたある学者によると、(現代でも)村の未婚の女性が灯火を持たずに夜道を出歩くことは、とんでもないことだといいます。中東の乾いた夜空では、月や星の光でも、あたりを十分に見ることができるそうです。その中で、灯火を持っていれば、誰かが彼女たちに手出しをすれば、見つからずに済むことはありません。村の女性たちは、自分が誰であるか、どこへ行くかが、村人たちに分かるように、自分の顔の前に灯火を掲げて歩いていたそうです。▽灯火を持っていることは、女性の評判はもちろん、身の安全を守るためにも、なくてはならないものでした。[⑤]
5 花婿の来るのがおくれたので、彼らはみな居眠りをして、寝てしまった。
花婿の遅れは、「再臨が遅れること」を表しています。「再臨の遅れ」は、24-25章の一連のたとえの共通のテーマです。▼娘たちは、賢い娘も、愚かな娘も寝入ってしまいます。▽愚かな娘たちは、花婿が来るのが夜になるとは思っていなかったのかもしれません。少なくとも、真夜中になるとは思っていなかったようです。▽村中を練り歩く行列は、時間がかかり、十分な油が必要です。しかし、娘たちが寝ている間に松明の油は少なくなっていきました。
続く6節は、ユダヤの修辞法で書かれた主イエスの譬えの、構造上の中央に来るクライマックスです[⑥]。
6 夜中に、『さあ、花婿だ、迎えに出なさい』と呼ぶ声がした。
「さあ、花婿だ、迎えに出なさい」とは、主イエスの再臨を告げる叫び声です。1テサロニケ4:16「主ご自身が天使のかしらの声と神のラッパの鳴り響くうちに、合図の声で、天から下ってこられる」。▼この時こそ、最も大切な時、そのために準備してきた時です。主イエスは劇的な言葉で、花婿の到来を表わしています。
7 そのとき、おとめたちはみな起きて、それぞれあかりを整えた。
突然の来訪に驚いた娘たちは、灯火を持って出る準備をしますが、その時初めて、油が足りないことに気が付きます。▼彼女たちの灯火は、勢いが弱くなって、村を練り歩く間に消えてしまいそうです。慌てて隣の娘に頼み込みます。
8 ところが、思慮の浅い女たちが、思慮深い女たちに言った、『あなたがたの油をわたしたちにわけてください。わたしたちのあかりが消えかかっていますから』。9すると、思慮深い女たちは答えて言った、『わたしたちとあなたがたとに足りるだけは、多分ないでしょう。店に行って、あなたがたの分をお買いになる方がよいでしょう』。
しかし、長い時間を練り歩くためには、油は自分の分しかとても足りません。▽結局、自分の分は、自分で準備をするしかありません。
10 彼らが買いに出ているうちに、花婿が着いた。そこで、用意のできていた女たちは、花婿と一緒に婚宴のへやにはいり、そして戸がしめられた。
婚礼の祝宴は、天の御国の喜びに満ちた祝いを表します。私たち一人一人の死を越えて、主イエスの再臨と最後の審判を越えた先には、喜びの祝宴が待っています。そこでは、人生最大の喜びの時である結婚式に譬えられる、喜びの時・感謝と親しみの時が備えられています。
普通の結婚式では、遅れて来た友人が拒まれることはありません。しかし、「天の国のたとえ」では、婚礼の祝宴の扉は閉じられます。▽私たち読者は、常識とは違う物語の展開に驚き、考えさせられます。主イエスは、「婚礼の祝宴に与れなくなる時が来ること」「招かれた全ての人が入れるわけではないこと」を、示しておられます。
愚かな娘たちは、戸が閉じられた後になって、花婿の家にやって来ます。
11 そのあとで、ほかのおとめたちもきて、『ご主人様、ご主人様、どうぞ、あけてください』と言った。12しかし彼は答えて、『はっきり言うが、わたしはあなたがたを知らない』と言った。
村人すべての祝福を受ける結婚式で、付き添いの人たちが締め出されるのは、想像できないことです。教えを聞いている人たちは、驚き、考えさせられました。 ▼旧約聖書の教えでは、「祝福」と「呪い」の二つの道が対比して描かれます。主イエスの十字架による罪の赦しは、敗者復活のように、「呪い」の中にいた私たちが、「祝福」の道に移る道を、確立してくれました。▽しかし、その扉はいつまでも開かれているのではありません。やがて戸が閉じられる時が来ます。 ▼マタイ7:21「わたしにむかって『主よ、主よ』と言う者が、みな天国にはいるのではなく、ただ、天にいますわが父の御旨を行う者だけが、はいるのである。」▽これは、口先だけで内実の伴わない、見せかけの信仰者に対する警告です。
13 だから、目をさましていなさい。その日その時が、あなたがたにはわからないからである。
■【2.キリストの再臨に備える準備】
主イエスが預言した神殿崩壊の預言は、文字通りに実現しました。同じように、「わたしは再び来る」と何度も言われた再臨の預言も、必ず成就します。▼「その日、その時」を私たちは誰も知らず、キリストは「思いがけない時に」「突然」やって来ます[⑦]。だから、それに備えなければなりません。
【まだ信仰を明確にもっておられない方たちへの勧め】
礼拝に集う皆様は、神を求め、あるいはいくらかでも神を知りたいという願いがあるからこそ、続けて教会に集われていると思います。私たちが「思慮深い娘」の一人として、どのように主イエスの再臨に備えれば良いか、考えたいと思います。
まず、まだ明確に主を信じておられない方たちに対してですが、ジョン・ウェスレーは「悔い改めと信仰」を教えています。▼「悔い改め」とは、単に申し訳なく思うことではありません。そうではなく、「自分が何者であるか」を認識して、神の前に罪ある者であること、永遠の裁きにふさわしい者であることを認めることです。▽そのような人は、真実な「悔い改めの実」を結びます。すなわち、「兄弟を赦し、悪から遠ざかり、善を行い、礼拝に参加し、聖書を読み、思い巡らし、祈るようになります。そして、与えられた恵みに応じて神に従おうと努力」をします。▼しかし、どんなに努力をしても、自分の力では、自分の罪は解決できず、罪に対して徹底的に無力であることを知ることが、「悔い改め」です。▽そのようにして、自分の罪深さと、自分で自分をきよめることはできない無力さに絶望することなしには、キリストだけに頼ることはありません。自分の力に頼ることをあきらめた時に、はじめてキリストだけに頼ります。▼「御子を信じる者は一人も滅びることなく、永遠の命を持つ」という御言葉に従って、主イエスを信じる時、自分の力ではなしえなかったのに、主イエスの十字架のおかげで、罪が赦されます。それは、感じようと感じまいと、私たちの感情が揺れる時も変わることはありません。▼しかし、主はその確信をも与えて下さいます。聖霊が私たちの心に語りかけ、「子よ、あなたの罪は赦された」という個人的な語りかけを心の内に受ける時に、私たちは平安と喜びを頂きます。[⑧]
私たちは「静まって神の御業を待つ」のですが、神が定めた「恵みの手段」を遠ざけてはなりません。
来るべき御怒りから逃れようとする彼は、どうしたらそれができるかを自分から聞きに行く。ある説教者が彼の心を刺すようなことがあれば、彼は驚いて、それが説教者の言う通りなのかどうか、聖書を探求し始める。聞けば聞くほど、読めば読むほど、彼は確信し、夜に昼にそれを思いめぐらすようになる。たぶん、彼は自分が聞いたり聖書で読んだりしたことをさらに説明し、補強してくれるような書物を見い出す。これらの手段によって、罪の意識の矢はさらに深く魂に突き刺さる。その人は、神に関する事柄を話すようになる。今やその事柄は思考の最重要課題になっている。それどころか、彼は神と話し、神に祈り始める。もちろん、恐れと恥とのために、何を話してよいのか判らないのであるが。だが、話せるか否かは別として、…祈らざるを得ないのである。[⑨]
そのように、神が定めたあらゆる手段を用いながら、神の憐れみを求めるのです。あきらめることなく、願っているものを得るまで、忍耐強く求め、待ち続けるのです。
【信仰者に対する勧め】
主イエスを救い主として信じるクリスチャンにとって、再臨への備えとは何でしょうか。すでに与えられた救いにしっかりととどまり続け、聖霊による新しい命に生き・成長するということです。
ジョン・ウェスレーは、福音的回心の経験をした後、罪に打ち勝つ力が与えられましたが、平安の中にもしばしば不安や恐れが入り混じり、激しい誘惑で喜びを奪われてしまう不安定な時期を経験しました。
私たちクリスチャンは、「聖霊に従って」歩み続けなければなりません。救われた私たちの内にも、汚れた思いは相変わらず残っています。プライド/神に逆らう意志/この世への愛/妬みなどです。ここに、クリスチャンの戦いがあります。私たちがこうした悪い思いに屈服せず・従わず、それと戦い、聖霊に従って歩むなら、罪に定められることはありません。 ▼ウェスレーは、そのような「内なる罪」を認めることを「クリスチャンの悔い改め」として教えています。クリスチャンが悪い思いと戦って、祈りつつ聖霊に従うことを選び続ける限り、罪に定められることはありません。しかし、私たちはありったけの努力をしても捕り除くことのできない、心の内にある悪い思い/言葉や行いの背後に隠れた思い/なすべきことをしない怠惰の罪に気づきます。▽それに打ち勝つ力は自分のうちにはないこと、神の子とされた時に受けたすべての恵みを用いて努力しても、悪しき思いを取り除くことはできず、言葉や行いにこびりついた悪い思いを取り除くこともできない無力さを知ります。 ▼このように「まだ完全にされていない」ということは、さらなる恵みが必要であることを示しています。 ▼外側の罪に打ち勝つ力が与えられただけでなく、内なる思いにこびりついた悪意をきよめ、全き愛で満たす恵みを神様に求めます。その恵みは、その都度その都度与えられ、毎瞬間与えて下さることを信頼するのだと、ウェスレーは教えます。[⑩]
この「キリスト者の完全」「全き救い」「全き愛」の恵みを、私たちはどのように待つべきでしょうか。――ウェスレーは、次のように述べています。
注意散漫で無関心でなく、怠慢で何もしないのではなく、力強くすべてのことで神に従い、すべての戒めを熱心に守り、目を覚まして苦闘し、自分を否定し、日々自分の十字架を負いつつ、加えて熱心に祈り、断食し、すべての恵みの手段に親しくあずかりながら、待つべきである。もし他の方法で到達できると夢見るなら、…その人は自分のたましいを欺くことになる。私たちはこの体験を単純な信仰によって受ける。しかし、神は私たちがその体験をご自身が定められた方法で誠心誠意に求めていなければ、その信仰を…与えることはない。
こう考えていくと、この恵みにあずかった人がどうしてそんなに少ないのかと尋ねる人々も納得するであろう。この方法で求めている人がどれくらいいるか尋ねてみたらよい。そうすれば、納得のいく答をえるであろう。
特に祈りは欠けている。ひとときでも祈りに留まっている人がどれほどいるだろうか。まさしくこのことのために神と格闘している人がどれほどいるであろうか。…「求めないから、与えられないのであり、誤って願うから、与えられないのである」…。死の直前に求めるぐらいで、あなたは満足しているのか。いや、今それが与えられるように求めよ。…このことを、「時を定めてくださる神に時を指定することだ」と言うな。確かに、明日もそうなら今日も神の時なのだから。急げ。人よ、急げ。[⑪]
主イエスの再臨に備えることについて述べてきました。クリスチャンにとっては、「罪からの解放」「全き救い」「全き者になりなさい」と言われた約束の通りに、その恵みを慕い求めて、祈り・十字架を負い・従って参りましょう。
まとめ
2その中の五人は思慮が浅く、五人は思慮深い者であった。3思慮の浅い者たちは、あかりは持っていたが、油を用意していなかった。4しかし、思慮深い者たちは、自分たちのあかりと一緒に、入れものの中に油を用意していた。5花婿の来るのがおくれたので、彼らはみな居眠りをして、寝てしまった。6夜中に、『さあ、花婿だ、迎えに出なさい』と呼ぶ声がした。
主イエスは約束の通りに、必ず再び来られます。▼しかし、主の来臨は遅れていて、「思いがけない時に」「突然」やって来られます。▼「さあ、花婿だ。迎えに出なさい」と言われる時、喜んで主を迎え、喜びの宴席に着くことができるように、 目を覚まして見張り、絶えず祈り、十字架を負って主に従い、全能の力に強められて、肉と世と悪魔に打ち勝って、主に従って歩んでまいりましょう。
■参考文献
Carson, D. A., Matthew, The Expositor's Bible Commentary.
Osborne, G. R., Matthew, Zondervan Exegetical Commentary On The New Testament.
France, R. T., The Gospel of Matthew , The New International Commentary On The New Testament.
Hagner, D. A. , Matthew 14-28, Word Biblical Commentary.
Blomberg, C. L., Matthew, The New American commentary.
ケネス・ベイリー「中東文化の目で見たイエス」
[①] マタイ24:3
[②] https://kotobank.jp/word/ヘロデの神殿-1412788 https://www.bibleref.com/Matthew/24/Matthew-24-2.html
[③] Carson, D. A., Matthew, The Expositor's Bible Commentary. 25:1、ケネス・ベイリー「中東文化の目から見たイエス」p410-412、
[④] 一連の教えで、再臨の「遅れ」や「いつか分からないこと」が強調されています。24:36, 37-39, 42-44, 48-50, 25:19 ▼旧約聖書ではしばしば神が花婿に譬えられていて、主イエスはご自分を神様の位置に置いておられます。
[⑤] ケネス・ベイリー「中東文化の目で見たイエス」p410-411
[⑥] ケネス・ベイリー、前掲書、p408-409
[⑦] マタイ24:44、50,37-39、25:6
[⑧] 藤本満「ウェスレーの神学」p165-167、ウェスレー説教10-11「聖霊の証し」訳者ノートp244-246
[⑨] 藤本満 同上 p177
[⑩] ウェスレー説教14「信仰者の悔い改め」
[⑪] ウェスレー「キリスト者の完全」19章「キリスト者の完全についての考察」