ヘブル11:13-16「天の故郷に憧れて」

2023年11月5日(日)召天者記念礼拝

聖書 ヘブル書11:13-16,詩篇116:15
説教 「天の故郷に憧れて」
メッセージ 堀部 里子 牧師

【今週の聖書箇所】

13これらの人はみな、信仰をいだいて死んだ。まだ約束のものは受けていなかったが、はるかにそれを望み見て喜び、そして、地上では旅人であり寄留者であることを、自ら言いあらわした。14そう言いあらわすことによって、彼らがふるさとを求めていることを示している。15もしその出てきた所のことを考えていたなら、帰る機会はあったであろう。16しかし実際、彼らが望んでいたのは、もっと良い、天にあるふるさとであった。だから神は、彼らの神と呼ばれても、それを恥とはされなかった。事実、神は彼らのために、都を用意されていたのである。

ヘブル11:13-16

「主の聖徒の死はそのみ前において尊い。」

詩篇116:15
©Alex Does Pictures, pexels.comより

おはようございます。今日は召天者記念礼拝です。召天者記念礼拝に初めて参加される方も皆さんを歓迎いたします。

恩師からの連絡

先月、私の中学生の時の恩師からメールがありました。

「実は大切な夫が8月27日に天国に逝きました。肺癌でした。何の前触れもなく、本当に突然でした。入院した時は手遅れですぐにホスピスを紹介され、10日間、一緒にホスピスで過ごし、安らかに、静かに息を引き取っていきました。ホスピスで苦しみを味わうことがなかったようで、それだけは救われた気がします。これから先、彼がいない毎日がどうなるか、あまりにも寂しくて、考えることができません。彼が、安らかに天国の階段を上っていけるように一緒に祈ってもらえますか。」

すぐに、その日の朝に読んだ聖書の言葉が私の心に迫ってきました。

「天が下のすべての事には季節があり、すべてのわざには時がある。生るるに時があり、死ぬるに時があり、植えるに時があり、植えたものを抜くに時があり、殺すに時があり、いやすに時があり、こわすに時があり、建てるに時があり、泣くに時があり、笑うに時があり、悲しむに時があり、踊るに時があり、石を投げるに時があり、石を集めるに時があり、抱くに時があり、抱くことをやめるに時があり、捜すに時があり、失うに時があり、保つに時があり、捨てるに時があり、裂くに時があり、縫うに時があり、黙るに時があり、語るに時があり、愛するに時があり、憎むに時があり、戦うに時があり、和らぐに時がある。…神のなされることは皆その時にかなって美しい。神はまた人の心に永遠を思う思いを授けられた。それでもなお、人は神のなされるわざを初めから終りまで見きわめることはできない。」(伝道者の書3:1-8,11)

恩師に電話でお祈りをして、その日の朝に読んだ聖書の言葉を分かち合うと、涙が溢れてきました。そして最後に夫婦で讃美歌を歌いました。先生は音楽の先生でしたのでとても喜んでくれました。「さーとー、良い言葉をありがとう。生まれるのにも死ぬのにも時があるんだね。慰められました。連絡してよかった。」とおっしゃいました。愛する家族の召天は悲しいことです。急なことなら尚更です。時間が経ってもその悲しみは完全に癒えることは難しいかもしれません。いろいろな「時」がありますが、自分にとって良いと思える時も、そうでない時も後に「神のなされることは皆その時にかなって美しい」と言えるようになれたらいいなと思います。

「召天」とは「天に召される」と書きます。キリスト教では天に召されることを、神のタイミングが来て「天(神)に呼ばれること」であると考えます。その時期は誰もが、遅かれ早かれいつか経験する出来事です。いつから死が存在し、なぜ人は皆死を経験するのでしょうか。聖書には、「死の起源と理由」が記されています。この世界が創られた時、死はない状態でした。死だけでなく、病気や争いなど、悪しきものは全く存在せず、永遠の天国のようでした。しかし、人間の神への反抗により、罪が人間の世界に入って来ました。すると神は、人間の寿命に終わりを定められたのです。こうして、人間は永遠に生きるものでなくなりました。

命と死

「罪の支払う報酬は死である。しかし神の賜物は、わたしたちの主キリスト・イエスにおける永遠のいのちである。」(ローマ6:23)

キリスト教では、「命と死」が大きなテーマで、聖書には命の始まりと終わりが言及されています。医学や科学の発達により寿命を延命できても、最終的に死から逃れることはできません。「命と死」は神の領域です。使徒パウロは「わたしにとっては、生きることはキリストであり、死ぬことは益である。」(ピリピ1:21)と言いました。

信仰を持つ人にとって、死は怖いものというより、ゴールを目指して進むレースのようです。使徒パウロは晩年に、「わたしは戦いをりっぱに戦いぬき、走るべき行程を走りつくし、信仰を守りとおした。今や、義の冠がわたしを待っているばかりである。かの日には、公平な審判者である主が、それを授けて下さるであろう。わたしばかりではなく、主の出現を心から待ち望んでいたすべての人にも授けて下さるであろう。」(Ⅱテモテ4:7-8)と言いました。私たちは残されている人生をどのように生き、最後にどのような言葉をもって人生を終えたいでしょうか。現代は「終活」という言葉が示すように、天への召されることについて、準備する・備えることができます。私たちは、地上の競技場でレースに参加していて、観客席には先に天に召された多くの方々が、雲のように取り巻いて私たちを応援していると聖書に書いてあります。ですから、一切の重荷とまとわりつく罪を捨てて、自分の前に置かれている競争を、忍耐をもって走り続けようと励ましの言葉が続いています(ヘブル12章)

神に呼ばれる時を見据えて、どのように地上の歩みを重ねるかを考えて生きることは、生きる価値を高め、良い影響を自分自身時も周りにも与えるのだと思います。ですから信仰を持つ人にとって、地上の生活は永遠に向かう巡礼の旅です。なぜなら国籍は天にあるからです。

「しかし、わたしたちの国籍は天にある。」(ピリピ3:20)

聖書の約束

今日、開かれた聖書の箇所を読みます。

これらの人はみな、信仰をいだいて死んだ。まだ約束のものは受けていなかったが、はるかにそれを望み見て喜び、そして、地上では旅人であり寄留者であることを、自ら言いあらわした。」(13)

これらの人とは旧約聖書の人物たち(アブラハム、イサク、ヤコブなどのことで、彼らは死ぬまで信仰を持っていたという意味です。信仰を持って洗礼を受けても、途中で神様から離れてしまうこともあります。でも大切なことは最後の最後に神に立ち帰るかどうかです。

「なだ約束のものは受けていなかった」とありますが、確かに彼らは、神様から約束された土地と子孫の繁栄を彼らの存命中には、受け取ることはできませんでした。約束された土地を所有することはできず、外国人(寄留者・旅人)として生きました。でも彼らは約束された土地を受け継いだものと信じて生きました。これが彼らの信仰でした。

「さて、信仰とは、望んでいる事がらを確信し、まだ見ていない事実を確認することである。」(1)彼らが見ていたものは、地上の土地でなく、その先にある約束された永遠の住まいである、天の故郷でした。

故郷

 先日、老人ホームで歌を歌いました。入居者の方々に「どちらの出身ですか」と質問すると、静かにされていた方々が次々に「茨城です、北海道です、群馬です、文京区です」と嬉しそうに応えてくださったのが印象的でした。私は海外に行くとアジアショップを見つけるだけで嬉しくなります。皆さんにとっても、自分の故郷・生まれ育った町や国はそこを離れても懐かしい場所だと思います。

 アブラハムはメソポタミア出身でしたが、75歳の時に神様から「あなたは国を出て、親族に別れ、父の家を離れ、わたしが示す地に行きなさい。」(創世記12:1)と言われた時、「なぜ私がこの年で?」と思ったかもしれません。でもアブラハムは家族と一緒に、神様の言葉に従って出発しました。旅の途中でアブラハムは神様から幾つかの信仰のテストがありました。子どもがいなかったアブラハムでしたが、子どもを与えると神様の約束を信じて待ち、25年後に、息子イサクが与えられました。しかしそのイサクを「…わたしが示す山で彼を燔祭としてささげなさい」(創世記22:2)と言われたこともありました。もしイサクが死んだら、アブラハムの子孫を繁栄させると言った神様の約束はどうなったのでしょうか。アブラハムは子どもを与えてくださった神様が、もしイサクが死んでもよみがえらせてくださると信じていたに違いありません。アブラハムは、生まれ育った故郷に帰りたいと思ったこともあったと思います。

「もしその出てきた所のことを考えていたなら、帰る機会はあったであろう。しかし実際、彼らが望んでいたのは、もっと良い、天にあるふるさとであった。」(15-16)

この章に記されている人たちに共通していることは、いろいろな困難な状況を経験しても、神の約束の言葉を信じ、導かれた地で信仰を最後まで守り通したことです。ノアもイサクもヤコブもヨセフも、約束のものを手に入れることはありませんでした。でもその土地で旅人・寄留者として最期まで全うしました。

彼らは未来のことをある程度知って、先に進んだのではなく、神を信頼していたので、先のことは神様にお委ねして、自分の故郷(大切にしているもの)を離れました。信仰とは、全部は分からなくても、神の言葉に従って、導かれる道に身を委ねていくことでもあります。

目に見えないもの

「わたしたちは、見えるものにではなく、見えないものに目を注ぐ。見えるものは一時的であり、見えないものは永遠につづくのである。」(Ⅱコリント4:18)

「天の故郷」は私たちの肉眼では見えません。心の目、信仰の目で見て信じなければ見えません。先人たちが憧れた「天の故郷」は神様が備えてくださった都です。私たちはいろいろな夢を持つと思います。大学合格、就職、結婚、マイホーム、出世などそれらが実現する日を待ち望むと思います。しかしそれらはすべてこの地上のことで終わります。地上の先にある「天の故郷」のことを私たちはもっと知り、憧れを持とうではありませんか。

去る金曜日に「こどもの国」でJoyJoy Kids Festivalというこどものイベントがあり、日曜学校の子どもたち3人を連れて参加してきました。グラウンドいっぱいにいろいろなブースが出ていて、子どもたちが喜ぶゲームやトランポリンなどの遊びを、スタッフの方々が全力で提供してくれました。同じ敷地内の牧場では、牛が放牧されていて見学したり、丘の上の芝生からゴロゴロ下へ転がってみたりと、大人も子どもも存分に楽しめました。また、ウクライナで支援活動をしているサムエルさんが子どもたちへ向けて大切なメッセージを伝えてくれました。

「今、世界で戦争が起こっている地域があって、たくさんの人が死んで、悲しい思いや苦しい思いをしている人たちがたくさんいるんだ。土地や物を奪い合い、人の命を殺す戦争がどうして起こると思いますか。それは人間の中に『罪』があるからなんだ。悪口を言ったことある人いますか、喧嘩したことがある人がいますか。誰にも罪を教えられてないのに僕たちは悪口を言ったり、喧嘩をするんだ。僕は人のものを人の物を盗んだことがある。でもイエス様と出会って変わったんだよ。今はウクライナの子どもたちが安全に暮らせるように何人かを日本に連れてきてお世話をする仕事をするようになるまでイエス様が僕を変えてくれたんだよ。イエス様ってすごい方なんだ。

神様は最初この世界を創ったとき、綺麗な世界として創ったんだ。でも人間が罪を犯して神様から離れたから罪が入って来てしまったんだよ。罪は何によっても消えないんだ。ただイエス様の十字架の血でしか綺麗にならないんだ。みんな、今日このイエス様に一歩近づこうよ。自分の前の壁をそのために一緒に乗り越えよう。…」

私たちのこの地上の旅路は、常に罪が付きまとってきます。前進すればするほど、年を重ねれば重ねるほど、自分に覆いかぶさる罪は増して行くばかりです。天の故郷は罪を持ったままでは、残念ながら入れないのです。でも大丈夫です。罪と死に打ち勝ったイエス・キリストが道となってくださいました。

「わたしは道であり、真理であり、命である。だれでもわたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない。」(ヨハネ14:6)イエス・キリストの十字架の死によって成し遂げられたことは誰にも真似できない前代未聞の出来事です。天の故郷への道を開通してくださったからです。この天国への道は罪の赦しと、永遠の命と平安などが「大きなパッケージ」に詰まっており、それを願う人には与えられる贈り物です。共に天の故郷を目指して前進いたしましょう。天よりの祝福が皆さまの上に豊かにありますように!