詩篇3篇「主が私を支えてくださる」

2023年6月27日(火)メッセージを再編集したものです。

聖書 詩篇3篇
説教 「主が私を支えてくださる」
メッセージ 堀部 舜 牧師

わたしはふして眠り、また目をさます。主がわたしをささえられるからだ。

ダビデがその子アブサロムを避けてのがれたときの歌

1 主よ、わたしに敵する者のいかに多いことでしょう。
わたしに逆らって立つ者が多く、
2 「彼には神の助けがない」と、
わたしについて言う者が多いのです。
 〔セラ

3 しかし主よ、あなたはわたしを囲む盾、わが栄え、
わたしの頭を、もたげてくださるかたです。
4 わたしが声をあげて主を呼ばわると、
主は聖なる山からわたしに答えられる。  〔セラ

5 わたしはふして眠り、また目をさます。
主がわたしをささえられるからだ。
6 わたしを囲んで立ち構える
ちよろずの民をもわたしは恐れない。

7 主よ、お立ちください。わが神よ、わたしをお救いください。
あなたはわたしのすべての敵のほおを打ち、
悪しき者の歯を折られるのです。
8 救は主のものです。
どうかあなたの祝福があなたの民の上にありますように。  〔セラ

詩篇3:1-8

【概観】

5節の「わたしは…目をさます」とありますが、詩篇3篇は、伝統的に「朝の祈り」と呼ばれています。「夕べの祈り」と呼ばれる詩篇4編とセットになっています。

表題でアブシャロムの事件が触れられていますが、詩編3編は、当時のダビデの心境を非常に良く表現されているように思います。

祈りのモデル

ダビデは自分の力では立ち向かえない試練の中で、神に呼びかけ、思いを吐露しますが、そこで終わらず、信仰を告白し・宣言し、神に求めて確信します。▼私たちが詩篇に心を合わせて祈る時に、私たちの思いも、思い煩いや悩みから、主に向かって心を引き挙げられます。

構造

詩篇3篇は、構造的には、2節ずつ、4つのブロックに区分できます。

  • 1-2節で、ダビデは神様の前に出て、敵に囲まれた状況をありのままに神様に申し上げます。
  • 3-4節で、祈りの確信に立って、信仰を宣言します。
  • 5-6節では、確信に立って、安息している姿を見ることができます。
  • 7-8節では、その安息の土台の上から、神様の救いのわざを求めています。

ヘブライ語の詩篇に特徴的な、中央にクライマックスが来る左右対称の構造(交差並行法)です。最初と最後のブロックは、「敵」との激しい戦いを思わせますが、真ん中の4節では、ダビデは、戦いを感じさせない主の安息の中にいます。

苦難に打ち勝つ祈り

詩篇3篇は「嘆きの歌」の一つですが、「嘆きの歌」は「嘆き」で終わらず、神に呼びかけて現状を吐露するだけでなく、信仰の告白、嘆願、祈りの確信、賛美の誓いがを捧げます。今日は、詩編3編から、「苦難に打ち勝つ祈り」について、4つのポイントで見ていきます。

◆1.神の御前に出る

「苦難に打ち勝つ祈り」の第一のポイントは、「神の前に立つこと」です。

1主よ、わたしに敵する者のいかに多いことでしょう。
 わたしに逆らって立つ者が多く、
2「彼には神の助けがない」と、
 わたしについて言う者が多いのです。
 〔セラ

【ダビデの窮状】

ヘブル語では「多い」という言葉が3回繰り返して強調され、最後の「ない」と対比されています。「私の敵」が多くなり、「私に立ち向かう者」が多く、「私のたましいのこと」を多くの者が噂しています、「彼には神の救いがない」と。多くの敵の中で、まったく無力にされているダビデの姿が表現されています。

【アブシャロムの反乱】

アブシャロムの反乱は、ダビデの姦通の罪から始まった神のさばきでした。ダビデはエルサレムを落ちのびて、オリーブ山を登ったとき、「彼は泣きながら登り、その頭をおおい、はだしで登」りました(2サム15:30)。

将軍アヒトフェルが反乱に加わった時、「〈ダビデ〉には神の救いがない」という人々の声が聞こえてきそうな状況でした。

【適用】四面楚歌のような状況で、私たちなら、どのように振舞うでしょうか。何を信頼し、何に助けを求めるでしょうか。

【端的な祈り】

1節も2節も、ヘブライ語ではどちらも7つの語からなる短い文章です。短い言葉の中に、多くの敵に囲まれ、人の目から見ればもはや望みもないような絶体絶命の状況が、鋭く、端的に強調され、対比されて述べられています。

詩篇3篇は「嘆きの歌」と言われていますが、詩人の祈りは、自分の苦境を嘆き、気落ちして、ため息をつきながらぼやいたり、思いがあっちへ行き、こっちへ行き、悶々と思い巡らしたりしている歌では決してありません。帯を引き締めて、神様を見上げて、ギュッと絞られた短い言葉を用いて、厳しい状況を、神様に的確に伝えています。

【主の前に立って祈る】

敵の状況をしっかり見つめながらも、「主よ」と呼び掛けて、主の御前に立って、主と向き合って、主の助けを求めています。一見すると、敵の存在が前面に出ているように見えた1-2節も、神様の前に立つ、「聖前感」が一貫した基本的な姿勢になっていることが分かります。

わたしを囲んで立ち構える
ちよろずの民をもわたしは恐れない。

【セラ】

ここで、「セラ」という言葉があります。▼「セラ」は、聖書の詩文の中でだけ用いられている言葉です。詩篇を讃美歌として歌った時の歌い方を指示した音楽用語だろうと考えられており、讃美歌の「間奏」を示すマークのようなものと考えて良いのではないかと思います。

こうした背景から、スポルジョンやバックストンは、「セラ」が出て来た時は、よく注目するように、と言っています。「セラ」で間奏に入ると、礼拝者はしばらく歌を止めて、その前に出てきた御言葉を思い巡らします。だから、「セラ」が出てきたら、その前後を良く注目せよ、というのです。

2節の終わりの「セラ」で賛美は間奏に入り、礼拝者たちは主の御前に出て、主の答えを待ち望みます。

◆2.神の答えを受け取る

3-4節は、セラの沈黙の後に、詩人は祈りの確信を宣言します。「苦難に打ち勝つ祈り」の第二のポイントは、「神の答えを受け取る」ことです。

3しかし主よ、あなたはわたしを囲む盾、わが栄え、
わたしの頭を、もたげてくださるかたです。
4わたしが声をあげて主を呼ばわると、
主は聖なる山からわたしに答えられる。  〔セラ

【祈りの経験】

「声をあげて主に呼ばわると」とありますが、「声をもって」という言葉と、「呼ばわる」という言葉があります。「呼ばわる」(カーラー)という言葉は、「大きな声を出す」「呼ぶ」「叫ぶ」「大きな声で朗読する」といった意味です。つまり、「私の声をもって、主を大声で呼び求めると」というような意味に取れます。ダビデは実際に大きな声を出して、主に祈り求めたように思います。

【祈りの習慣】

主に呼ばわる」「答えてくださる」という言葉は、継続を表す未完了形です。ダビデは祈りの習慣を身に着けていたことを示しているかもしれません。「私はいつも主に呼ばわってきたように、今も主を呼び求める。すると、主はいつものように、今回も答えてくださる」と確信したようです。

「ダビデ王の祈り」シャゴール

【あなたこそ】

このような祈りの確信から、3節の信仰の宣言が出てきます。

ダビデには多くの敵がおり、「彼に神の助けはない」と言っていました。「しかし主よ、あなたは…」と詩人は言います。神様は「わたしの盾」、「わたしの栄光」、「わたしの勝利」であると告白しました。

▼「盾」は神の守りを指し、「栄え」は、敵のあざけりを受けるダビデに、神の臨在が彼の栄誉となることを指します。「かしらを高く上げ(る)」とは、神がダビデを受け入れて、苦しい立場を逆転させて下さることを指します。

▼3節の「あなたは」は強調されています。多くの敵が「彼に神の救いはない」と言うけれど、「あなたこそ、私を守って下さる。あなたが共にいてくださるという栄誉をくださり、卑しい私を御前に受け入れ、尊厳を与えて下さいます」と。

【キリストの予表】

この時のダビデの歩みは、罪の報いとしてこの苦難を受けたのですが、それにもかかわらず、主イエスの姿と重なるところがあります。▽主イエスが逮捕される直前にゲツセマネの園に向かわれた時、同じキデロン川を渡って、オリーブ山へ向かわれました。多くの敵に追われ、供の者たちを連れて行かれました。主イエスは、ご自分は罪は犯されませんでしたが、全ての人の罪の代価を負い、「神からの助けがない」という最悪の苦しみを担われました。▼スポルジョンは言います。「ダビデは、頭を手で覆いながらオリーブ山に泣きながら登った時、大きな栄誉を受けた。なぜなら、彼は主イエスに似た者とされたからである。」

罪が招いた苦難は、誇るべき何物でもありません。しかし、苦難の中で悔い改めて神に従う時、苦難の中で共にしてくださるキリストがおられます。キリストの苦難にあずかり、苦難そのものの中にキリストの栄光に出会うことがあります。

【適用】苦難と人々の嘲りの中で、自分がちっぽけで、誰にも顧みられていないと感じることがあります。しかし、苦難の中でも主が共におられることこそ、私たちの栄誉です。主が、私たちを認め、高く引き挙げ、神の前に立たせてくださいます。▼自分が取るに足りない者であることに打たれる時、ダビデのように主の前に出ましょう。私たちは取るに足りないものですが、神はそのようなものを愛し、ご自分のものと認め、尊厳を与えて下さいます。偉大な神の前でこそ、私たちは自分の小ささと同時に神に知られている自分の価値を知ることができます。

フラ・アンジェリコ「キリストの逮捕」

◆3.神の約束にとどまること

ダビデは与えられた確信の中で、安息します。

5 わたしはふして眠り、また目をさます。
主がわたしをささえられるからだ。
6 わたしを囲んで立ち構える
ちよろずの民をもわたしは恐れない。

【神の働きと私の安息】

5節のヘブライ語は、冒頭は、強調された「このわたしは…」で始まっていて、3節の神様を指す「あなたこそ…」という強調と対応しています。▼「あなたが働いて下さり、あなたが守って下さり、あなたが支えてくださるので」、「この私は、安心して眠ることができます」と、主の働きと私の安息が対比されます。

【習慣】

「眠る」「主がささえてくださる」は、習慣や継続を表す未完了形です。「主はいつも支えて下さるので、私はいつも安心して眠ることができる。」これまでそうであったように、今もそうして下さる、という確信です。

ダビデは、主が盾となって取り囲んでくださるので、幾万の民に囲まれても恐れません。▼ダビデは、若い頃から神に信頼していました。神様は、彼が羊飼いの頃には野獣から守り、サウル王の迫害から救い、外国人との戦いから救い出されました。▼人生最大の危機となったアブシャロムの反乱の時に、ダビデは「私は幾万の民をも恐れない」と言いました。▼それは、神への信頼と祈りが繰り返し身体に沁み込み、身に着いた習慣となり、心身に沁み込んだ気質となって、危機の時にも神に目を向けさせ、神の臨在と守りの内に安らぐことができました。 

【朝の祈り】

詩篇3篇は5節の言葉から、伝統的に「朝の祈り」と呼ばれてきました。▼試練の中で、苦難や敵や嘲りに心が向かう時、私たちは安息を失い、自信や誇りを失います。だから、毎朝、ひと時、取り囲む敵やその言葉から目を上げて、取り囲んでおられる神ご自身に目を向けたいと思います。▽自己憐憫や被害者意識はそれを妨げます。自分を神に捧げなければなりません。主は私たちに全てをくださり、惜しみなく報いて下さるのですから。自分を捧げて、神を見上げる時に、私たちの目は神の力と守りに目が開かれます。この視野をもって、日々の歩みを歩み、苦難に耐え、主の業に勤しみたいと思います。

わたしはふして眠り、また目をさます。
主がわたしをささえられるからだ。

「苦難に打ち勝つ祈り」の第三のポイントは、「神の約束に留まる」ことでした。

4.神の平安の内から祈る

3~6節で、ダビデは神の臨在の中で祈りの確信を頂き、安息しました。7-8節で、ダビデは、再び、現実の戦いでの神様の助けを求めます。

7 主よ、お立ちください。わが神よ、わたしをお救いください。
あなたはわたしのすべての敵のほおを打ち、
悪しき者の歯を折られるのです。
8 救は主のものです。
どうかあなたの祝福があなたの民の上にありますように。  〔セラ

ここに至って、ダビデは実際的な救いを主に求めます。祈りの確信と平安の土台に立って、現実問題の祈りの戦いに帰って行きます。「苦難に打ち勝つ祈り」の第四のポイントは、「神様の約束の実現を求める」ことです。

具体的な助け

「お立ちください」と、神の具体的な行動・現実の助けを求め祈ります。「頬を打つ」とは相手に侮辱を加えること、「歯を砕く」とは相手をやっつけて無力にすることです。

8節で「救いは主のものです」とあります。この「救い」は、2節で「彼には神の助けがない」と言われた「助け」と同じ言葉です。

敵であれ味方であれ、人々の目には、「ダビデが自らの罪によって招いた苦難であり、救いようがない、神の裁きにあっているのだ」と見えるような状況でした。しかし、ダビデは「主は、私を救ってくださる。救いは主からくる。私のためではなく、ご自身の御名のために、恵みによって、救ってくださる」と確信していた。

そしてダビデは、自分と同じように神様だけに救いを信頼して待ち望んでいる神様の民のために、とりなしの祈りをささげています。――「どうかあなたの祝福があなたの民の上にありますように」

これが、「苦難に打ち勝つ祈り」の最後のポイント、「神様は必ず答えてくださる、答えてくださった」と確信して祈ること、「神様の約束の実現を求める」ことです。

まとめ

6 わたしを囲んで立ち構える ちよろずの民をもわたしは恐れない。

私たちは、ダビデのような苦難の中でも、このような信頼のうちに安息できることが約束されています。それは、苦難の中で
 ①「神様の御前に立ち」、
 ②「神様の答えを受け取り」、
 ③「神様の約束に留まる」
ことを通して、神様が与えてくださいます。そして、その安息の中から、
 ④「神様の約束の実現を求めて」祈ることができます。

私たちも、どのような状況でも、恵みによって信仰を通して与えられる全き平安と救いを求めてまいりましょう。

【参考文献】
C.H.スポルジョン「ダビデの宝庫」
黒木安信「詩編に聞くⅠ 新しい歌を主に」
小林和夫「小林和夫著作集 第5巻 詩篇講解Ⅰ」
ビー・エフ・バックストン「詩篇の霊的思想」