マタイ10:40-42「確かな報い」

2023年7月2日(日)聖霊降臨後第6主日礼拝メッセージ

聖書 マタイの福音書10章40-42節
説教 「確かな報い」
メッセージ 堀部 舜 牧師

【今週の聖書箇所】

「40あなたがたを受けいれる者は、わたしを受けいれるのである。わたしを受けいれる者は、わたしをおつかわしになったかたを受けいれるのである。 41預言者の名のゆえに預言者を受けいれる者は、預言者の報いを受け、義人の名のゆえに義人を受けいれる者は、義人の報いを受けるであろう。42わたしの弟子であるという名のゆえに、この小さい者のひとりに冷たい水一杯でも飲ませてくれる者は、よく言っておくが、決してその報いからもれることはない」。

マタイ10:40-42

「23罪の支払う報酬は死である。しかし神の賜物は、わたしたちの主キリスト・イエスにおける永遠のいのちである。」

ローマ6:23
わたしの弟子であるという名のゆえに、この小さい者のひとりに冷たい水一杯でも飲ませてくれる者は、…決してその報いからもれることはない

【報告】 先週の日曜日の礼拝後に、有志で教会墓地に行き、墓前礼拝の時を持ちました。暑い中でしたが、きれいな緑の中で、ひと時、天国の希望に思いを馳せるひと時になりました。

【天国の希望】 クリスチャン向けの雑誌(デボーションガイド)に掲載されていた出来事です。ある教会に、肺がんの診断を受けた方が来られて、聖書の話を聞いて主イエスを信じるようになり、熱心に聖書を学んで、信仰が成長しました。彼は亡くなる数日前に、天国を見たそうです。主がいのちの書を見せて下さり、そこには、彼の名だけでなく、彼が知っている信徒たちの名前も記されていたそうです。

彼は、亡くなる直前まで家族や親戚を呼んで、主イエスの話をしました。「天国のいのちの書に名前が記されていなければ、誰も天国に入ることはできないんだ。だから、必ずイエス様を信じて、天の御国のいのちの書に名前が記されるようにしなければならないんだよ」。彼は生涯を終える時まで、主イエスを伝えました。ガンの痛みに耐えている瞬間にも、救われた事実を思って喜び、天の御国を夢見ながら最後まで福音を伝えたそうです。[①]

天国の希望は、神様が値なしに与えて下さる高価な贈り物です。それは、試練を乗り越える喜びと力を与える、確かな希望です。

【今日の聖書の文脈】 3週間続けて、マタイ10章を読んでいます。主イエスが12弟子を宣教に遣わされた時の教えです。▽主イエスは弟子たちに「権威」を与えて、神の国の到来を告げさせます(10:1,7-8)。弟子たちは平安をもたらすために遣わされますが、迫害は避けられません(10:15-25)。人を恐れず、全てを支配する神に信頼し、自分の十字架を負ってキリストに従い通すように励まされます(10:26-39)。

■【1.決して報いを失わない】マタイ10:41-42

最初に注目したい言葉は「報い」です。主イエスは、10:41-42で「報い」という言葉を3回繰り返して、その確かさを強調しています。

マタイ10:41-42「41 預言者の名のゆえに預言者を受けいれる者は、預言者の報いを受け、義人の名のゆえに義人を受けいれる者は、義人の報いを受けるであろう。42わたしの弟子であるという名のゆえに、この小さい者のひとりに冷たい水一杯でも飲ませてくれる者は、よく言っておくが、決してその報いからもれることはない」

【報い=賃金?】報い」という言葉は、聖書に何度か出てきます。「給料」という意味もありますが、神からの「報い」という時は、注意しなければなりません。神様の恵みが、まるで私たちの働きに対する「正当な対価」(賃金)であるかのように受け取ってはなりません。 

▽神様は人間に服従を求め、報いを約束されます。しかし、神の報いは私たちがなすことよりも、はるかに大きいものです。マタイ19:29「おおよそ、わたしの名のために、家、兄弟、姉妹、父、母、子、もしくは畑を捨てた者は、その幾倍もを受け、また永遠の生命を受けつぐであろう」。

▽ローマ6章では、パウロの言葉でこのことが述べられています。私たちはかつて「罪の奴隷」だったのが、「神の奴隷」となりました。「汚れと不法」の奴隷とされていたのが、「義と聖さ」のために仕える者となりました。パウロはこの状況を次のように要約します。「23罪の支払う報酬は死である。しかし神の賜物は、わたしたちの主キリスト・イエスにおける永遠のいのちである」。 つまり、罪は、私たちを奴隷にし、罪のために働かせ、罪の正当な報酬として死を報います。それに対して、神がくださる永遠のいのちは(パウロの言葉遣いでは)「贈り物/プレゼント(賜物)」であって「報酬」ではありません。私たちの行いにふさわしい報酬としてではなく、それをはるかに越える大きな贈り物として、永遠のいのちをくださいます。 ▼パウロは「罪の奴隷」と「神の奴隷」を対比します。神に従うことは確かに労苦を伴いますが、罪の支配と神の支配は、性質が全く異なります。つまり、「」のために働く奴隷は、その行いにふさわしい賃金として」の報いを受けますが、「」のために働く奴隷は、義のために働き、主イエスの恵みのために、私たちがしたことをはるかに越える大きな贈り物として永遠のいのち」を頂きます。

マタイ10章の「報い」という言葉も、私たちがなすことをはるかに越えて、惜しみなく与えて下さる計り知れない賜物である点は同じです。それは、神の国を受け継ぐことです。「報酬」という言葉が使われていますが、「労働の対価」としての賃金とは全く異なる「惜しみない愛の贈り物」です。[②]

ここまで第一のポイントとして、「報い」という言葉に注目して、惜しみない恵みの約束に基づいていることを見ました。

■【2.「あなたがたを受けいれる者は、わたしを受けいれる」】マタイ10:40

第二に注目したい言葉は40節です。

マタイ10:40a 「あなたがたを受けいれる者は、わたしを受けいれる…。」

この言葉は、つまり、主イエスが弟子たちをご自分の代理人として派遣され、弟子たちの背後に、主イエスの権威がある、ということです。

【人間の権威への注意】 誤解のないように最初に申し上げますが、このような御言葉から、人間の権威に対する盲目的な信頼に流れることがあってはなりません。▽人間にとって、目に見えない神に祈り・尋ね求めるよりも、目に見える人間の権威に従うほうが、容易なことです。複雑で分かりにくい聖書に取り組むよりも、手っ取り早く教えてくれる単純化された教えに満足する方が楽です。「神様のことはよく分からないので、とりあえず権威のありそうな牧師の言葉に従っておけば、たぶん神様に受け入れてもらえるのではないか」と、盲目的に人間の権威に頼ってしまうようなケースを見聞きします。▼主イエスを宣べ伝えるのは、私たちクリスチャンですが、私たちがメッセージを聞いて、信仰を持って結びつく相手は、イエス・キリスト/神ご自身でなければなりません。神にのみ捧げるべき忠誠が人間に向けられる時、その信仰は必ず歪んでいきます。▼「あなたがたを受けいれる者は、わたしを受けいれる」という言葉から、人間の権威に従えば事足れりとせず、私たち一人ひとりが、直接に主イエスと結びついて、道を外れないように、注意したいと思います。

【弟子に委ねられた権威】 このような危険性はあるものの、この御言葉の意図は、主がご自分の権威を人間に委ねられた、ということです。福音を伝える働きは、人間を通してなされます。 ▼私たちも、証しの働きを委ねられていますが、それは自分自身の力ですることではありません。私たちは、①主の命令に従って神の国を宣言します。その時、②主イエスが共におられて、③主イエスご自身が働かれます。▽巧みな言葉で説得するのではなく、大勢に伝えれば何人かは信仰を持つ、というようなものでもありません。宣教は神の働きです。「聖霊によらなければ、だれも『イエスは主である』と言うことができない」のです(1コリント12:3)。 ▽主は、私たちの祈りに答えて、出会うべき人に出会わせ、語るべき言葉を与えて下さり、その人の心を開き、信仰を与えてくださいます。

【務めにふさわしく】 証しは、一部の牧師や伝道者ではなく、教会のすべての信徒の使命です。▼主が私たちを任命し、遣わされ、代理人としておられるのですから、私たちも主イエスにふさわしくふるまわなければなりません。▼自分の利益を求めず、主イエスがあがめられるように行動します。 ▽41節の「預言者」という言葉は、神の言葉を聞いて伝える人のことです[③]。私たちも自分自身が神の御声を聞くのでなければ、他人に福音を伝えることはできません。 ▽41節の「義人」とは、神の戒めに従って生きる人のことですが、私たち自身が主イエスの教えに従って生きて、失格者にならないようにしなければなりません。 ▽42節の「弟子」とはキリストに従う人ですが、私たち自身が、日々自分の十字架を負って主に従っていなければ、キリストに従う高価な恵みを教えることはできません。

【小さな者】 主イエスは弟子たちを「小さな者」と呼びました。社会的には取るに足りず、霊的にも不完全で未熟な者たちでした。 ▽私たちも、宣教の現場に立ち、自分の力に頼らず、神の力に頼る時、「小さな者」であることを痛感します。私たちは確かに、主イエスが「小さな者」と呼ばれた一人です。▼しかし、主は、その私たちに権威を委ね、「あなたがたを受けいれる者は、わたしを受けいれる」と言われます。主が私たちを召し、遣わし、共にいて、私たちを通して働かれます。

【報いの確かさ】 41-42節で、主イエスは「報い」という言葉を3度繰り返して、「報い」の確かさを強調されました。

マタイ10:41-42「41預言者の名のゆえに預言者を受けいれる者は、預言者の報いを受け、義人の名のゆえに義人を受けいれる者は、義人の報いを受けるであろう。42わたしの弟子であるという名のゆえに、この小さい者のひとりに冷たい水一杯でも飲ませてくれる者は、よく言っておくが、決してその報いからもれることはない」。

私たち自身は、主が言われた「小さい者たちの一人」に過ぎません。取るに足りない、平凡な信仰者の一人です。しかし、その背後におられるのは、主イエスご自身であり、神ご自身です。聖書のメッセージを受け入れることは、主イエスご自身を受け入れることです。

▼暑く乾燥したイスラエルでは、水をふるまうことは、命を支える最低限のもてなしだそうです。そのようなごく小さな好意でも、キリストの弟子だからという理由でするなら、その人は主イエスご自身を受け入れ、主イエスご自身をもてなすのであり、その報いから漏れることは決してありません。

●【適用】 信仰者の皆さん。主イエスは私たちをご自分の代理人として、ご自身と一つと見ておられます。私たちは取るに足りない「小さい者」ですが、主が私たちを大切に見ておられることを、いつも心に留めていましょう。 ▼主イエスを求めておられる皆さん。教会は平凡な・弱く不完全な人間の集まりです。しかし、神はその弱く不完全な教会に、ご自分のメッセージを委ね、教会を通して人々をご自分のもとに招いておられます。私たちには誇るものはありませんが、教会の内におられる主イエスに目を向けて頂きたいと願っています。 ▽主イエスを求めて祈る、どんなに祈りでも、教会のためになされるどんな善い業も、「決してその報いからもれることはない」と言われます。義理や誰かのためではなく、主イエスご自身のためにそれをなすなら、その祈りや善い業が、無駄になることは決してなく、計り知れない良い贈り物を頂くことになる、と主は約束しておられます。

【証し】 私自身、福音宣教に携わる教会の人たちのために祈ったことが、主イエスを信じるきっかけとなりました。初めて一人で主イエスの名前によって祈り、福音宣教に携わる人たちのためにとりなし祈った、その夜に夢を見て、それがきっかけで信仰を持つようになりました。神様は、まだ聖書も自分で読んだことがなく、何も知らなかった私の祈りを聞いて、私の目を開き、信仰に導き入れて下さいました。

「42 わたしの弟子であるという名のゆえに、この小さい者のひとりに冷たい水一杯でも飲ませてくれる者は、よく言っておくが、決してその報いからもれることはない」

ここまで、「あなたがたを受けいれる者は、わたしを受けいれるのである」という言葉に注目して、私たちに委ねられた権威を見てきました。

■【3.冷たい水一杯でも】マタイ10:42

心に留めたい第三の言葉は、「冷たい水一杯でも」です。神がご自分の権威をもって遣わされる時、人々の反応は冷淡です。10章で主イエスがはっきりと言われることは、多くの人は主イエスを受け入れず、私たちはむしろ迫害を受ける、ということです。

【この世の冷淡さ】42 わたしの弟子であるという名のゆえに、この小さい者のひとりに冷たい水一杯でも飲ませてくれる者は…」とあります。水は安くて、最低限のもてなしですが、「たった一杯の水」ということは、ごくわずかなもてなしで、それを与えてくれる人は一人しかいなかったことを暗示します。私たちはこの世では相手にされず、軽んじられる「小さな者」です。 ▼裏を返せば、私たちが主の言葉に従って出て行っても、私たちが神の言葉を預かる「預言者」ではなく、自分の思いに従う者だと言われることがあります。 神に従う「義人」ではなく、陰で不正を行う「偽善者」だとあざけられることがあります。 キリストの「弟子」ではなく、自分の弟子を作っていると言われることがあります。 ▼私たちが遣わされるのは、そのよう無理解と冷淡さの中にです。現代の日本では、あからさまな迫害にあることは少ないと思います。しかし、この世俗的な、宗教を軽んじる社会の中で、私たちは主を信じる者としての立場を鮮明にして、力と愛と慎みをもって戦っているでしょうか。神を信じる者として、馬鹿にされたり、笑われたりすることを、避けることはないでしょうか。

【主が共におられる】 しかし、冷淡なこの世にあって、私たちは孤軍奮闘しているのではありません。主は、いつも私たちと共におられ、私たちを導き、私たちを通して主が働いておられます。

「40わたしの弟子であるという名のゆえに、この小さい者のひとりに冷たい水一杯でも飲ませてくれる者は、よく言っておくが、決してその報いからもれることはない」。

【回心者への風当たり】 非宗教的な現代社会で、私たちを通して主を信じた人たちも、冷たい態度を受けることがあります。「間違った宗教に騙されているのではないか」「なぜ急に熱心になったのか」「キリスト教は間違っている」「宗教は作り物だ」…。世俗的で反宗教的な社会で、信仰を持つことは、冷ややかな視線を浴びることがあります。パウロも「いったい、キリスト・イエスにあって信心深く生きようとする者は、みな、迫害を受ける」と言います(2テモテ3:12)。▼特に、私たちを通して主を信じた人たちが、そのような苦しみで悩むことは、私たちにとって、辛いことです。しかし、主は、福音のメッセージを受け入れる人々に、確かな報いを約束しておられます。

「41預言者の名のゆえに預言者を受けいれる者は、預言者の報いを受け、義人の名のゆえに義人を受けいれる者は、義人の報いを受けるであろう。42わたしの弟子であるという名のゆえに、この小さい者のひとりに冷たい水一杯でも飲ませてくれる者は、よく言っておくが、決してその報いからもれることはない」。

私たちを愛し、主イエスの命まで与えて下さった神の愛が、全ての良い物を私たちに備えて下さり、全ての必要を満たして、私たちを支えて下さることを信頼しましょう。自分の力ではなく、神の力に信頼して、神を信じ、主イエスを宣べ伝えて参りましょう。


[①] リビングライフ2023年6月27日

[②] Kittel, G., Theological Dictionary of the New Testament. “μισθός”の項目参照。「報い」という言葉が使われていることは、主イエスが私たちの応答を重視されたことを示しているとも言える。(参照:マタイ19:20、20:1-16)

[③] 特別な賜物を持つ人を指す可能性もあります。(使徒11:27-28, 1コリ12:28)

【参考文献】

◆マタイ福音書

Osborne, G. R., Matthew (Zondervan Exegetical Commentary On The New Testament).

Carson, D. A., Matthew (The Expositor's Bible Commentary) (pp.952-959). Zondervan Academic. Kindle 版.

France, R. T., The Gospel of Matthew (The New International Commentary On The New Testament).

FRANCE, R. T., Matthew an Introduction and Commentary (Tyndale Commentary).

◆ローマ人への手紙

Thielman, FRANK, Romans, Zondervan Exegetical Commentary on the New Testament