マタイ14:22-33「しっかりしなさい」

2025年3月2日(日)礼拝メッセージ

聖書 マタイ14:22-33、詩篇107:10-22
説教 「しっかりしなさい」
メッセージ 堀部 里子 牧師

舟は、…波に悩まされていた。
イエスは夜明けの四時ごろ、海の上を歩いて彼らの方へ行かれた。

しかし、イエスはすぐに彼らに声をかけて、『しっかりするのだ、わたしである。恐れることはない』と言われた。

マタイ14:27

彼らはその悩みのうちに主に呼ばわったので、
主は彼らをその悩みから救い、
そのみ言葉をつかわして、彼らをいやし、
彼らを滅びから助け出された。
どうか、彼らが主のいつくしみと、
人の子らになされたくすしきみわざとのために、
主に感謝するように。
彼らが感謝のいけにえをささげ、喜びの歌をもって、
そのみわざを言いあらわすように。

詩篇107:19-22

【小さき者への導き】

新聖歌231番「いさおなきわれを」
1. いさおなきわれを 血をもて贖い イエス招き給う 御許にわれ行く
2. 罪咎の汚れ 洗うによしなし イエス潔め給う 御許にわれ行く
3. 疑いの波も 恐れの嵐も イエス静め給う 御許にわれ行く
4. 心の痛手に 悩めるこの身を イエス癒し給う 御許にわれ行く
5. 頼りゆく者に 救いと命を イエス誓い給う 御許にわれ行く
6. いさおなきわれを かくまで憐み イエス愛し給う 御許にわれ行く

おはようございます。メッセージ前に賛美した新聖歌231番「いさおなきわれを」ですが、私が大学時代に参加した集会で、献身の招きの時に賛美された曲です。「いさおなきわれが」が賛美される中で、外国からの講師が舞台上で一人ひとりを招いておられた姿が思い出されます。招きに応答して前へ出て行く方々を見て、私は心躍るほど感動しました。大人になって初めて私が「献身」を意識させられた出来事でした。目に見えない神ですが、確かに生きておられることを確信しました。幼い頃、「将来は神様のために働きたい」と決心したことを長い間、忘れていましたが、神様が思い出させてくださったのだと思います。私の信仰の歩みには、折々に私の信仰を導く方々が存在しました。大人になった今、次の時代を歩む者たちのために主の道を示す者でありたいと願います。

一人の女の子の質問

先週、5歳の女の子が質問があるといってお母さんと教会に来ました。その子は子どものイベントに親子でよく参加してくれる子です。彼女の質問は「イエス様は半分神様なんですか?半分人間なんですか?」でした。なぜそのような質問が出てきたかと言うと、以前、子どものための伝道漫画で「ミッション」という小冊子を子どもたちに配りましたが、彼女は何度も何度も読み返して「ドはまり」(女の子の言葉より)したのだそうです。「イエス様は半分でなくて、全部神様で全部人間なんだよ」と丁寧に説明をしたら納得してニコニコして帰っていきました。

【人間イエス、神の子イエス】

イエス様はヨセフとマリアを両親として、人間の体をもって生まれ育ちましたが、30歳を境に公生涯に入ってからは、神として人々の病を癒し、奇跡をなさいました。今日の箇所は、5千人にイエス様が食べ物を与えるパンの奇跡の後のお話です。並行箇所に次のように書かれています。

「人々はイエスのなさったこのしるしを見て、「ほんとうに、この人こそ世にきたるべき預言者である」と言った。イエスは人々がきて、自分をとらえて王にしようとしていると知って、ただひとり、また山に退かれた。」(ヨハネ6:14-15)

奇跡を目の当たりにした人々は喜びましたが、イエス様は彼らの反応に便乗せず、静かに祈るために山に登られたのです。イエス様はパリサイ人や分別のない群衆の熱烈な追従を避けて、山に登り祈られました。何か物事が起こる時、人は様々な反応をしがちですが、イエス様は過度に一喜一憂することなく、その場から退かれ、祈りに打ち込まれました。イエス様の癒しと力の源は祈りにありました。一方で、一緒に行動していた弟子たちはどうしたでしょうか。

舟に乗り込ませられた弟子たち

「それからすぐ、イエスは群衆を解散させておられる間に、しいて弟子たちを舟に乗り込ませ、向こう岸へ先におやりになった。23そして群衆を解散させてから、祈るためひそかに山へ登られた。夕方になっても、ただひとりそこにおられた。」(マタイ14:22-23)

「それからすぐ、イエスは自分で群衆を解散させておられる間に、しいて弟子たちを舟に乗り込ませ、向こう岸のベツサイダへ先におやりになった。」(マルコ6:45)

イエス様は弟子たちを舟に乗り込ませ、ガリラヤ湖の向こう岸へ向かわせました。「無理やり」とありますので、弟子たちは天気が良くないのを見て、舟を出すことをためらったのかもしれません。しかし、私たちは、神の導きであるならしたくないことを強いて成すべき時もあります。

弟子たちは、パンの奇跡を目の当たりにした直後で、舟の中でもその話がもちきりだったかもしれません。ガリラヤ湖は南北に21キロメートル、東西に13キロメートルの大きさです。普通は向こう岸に行くまで何時間もかかりません。

逆風で進まない舟

「逆風が吹いていたために、波に悩まされていた」(マタイ14:24)とあります。ガリラヤ湖はヘルモン山から吹いてくる冷たい風と、湖の温かい空気がぶつかり合うため、よく強風と高波が起こるようです。彼らは、夜中じゅう舟を漕いでも、約4~6キロほど進んだだけで(ヨハネ6:19)目的地の向こう岸に到着できませんでした。順調に舟が進めば2~3時間で行ける距離です。しかし、夜中になり辺り一面真っ暗闇の中、舟は強風と高波で湖の真ん中で立ち往生していました。弟子たちは口数も少なくなり、お腹もペコペコに空いていたでしょう。成す術もなく、10時間以上も強風と波風に悩まされ、全く眠れなかったかもしれません。ゴールに到着できない舟で過ごす心情はどのようなものでしょうか。不安と心配で押しつぶされそうで、死ぬかもしれない恐れに苛まれていたと思います。

暗闇の中の船から

私は小学校六年生の時に船で沖縄から北海道へ行った時、当時の船で四泊五日かかりました。「沖縄県豆記者交歓会」という北方領土の取材と学習と交流が目的でした。その時の規則に「緊急の場合を除いて児童・生徒からも、家庭からも電話は一切かけない。絵はがきなどで近況は知らせる」と心構えが記されていました。出発前はワクワクしていましたが、親元を離れて一日目の夜に船から外を見た時、真っ暗闇にポツンと取り残された気がしました。もし今台風が来て遭難したら助かるだろうか、死ぬかもしれないと考えると恐怖が襲って来たことを覚えています。

【不安と無力さの只中で、主と出会う】

パンの奇跡を見て感動した弟子たちでしたが、不安の世界に送り出され、イエス様も傍におらず、自分たちの無力さを思い知ったでしょう。「イエス様が一緒に居てくださったらいいのに」と思ったと思います。そんな時に、イエス様が湖の上を歩いて来られたのです。イエス様は地球の重力の法則を超越されました。これは自然を治める神の子だからこそできることです。

海は当時、竜が住む所として考えられていたので(イザヤ27:1;51:9、ヨブ7:12;26:12)、暴風に襲われた舟の中に弟子たちが苦しめられている湖の上を歩いて来られたということは、竜もサタンも征服されるキリストの力と威厳を象徴しています。

レンブラント「ガリラヤ湖の嵐」

湖の上を歩く主イエス

「ところが逆風が吹いていたために、弟子たちがこぎ悩んでいるのをごらんになって、夜明けの四時ごろ、海の上を歩いて彼らに近づき、そのそばを通り過ぎようとされた。」(マルコ6:48)

弟子たちは喜ぶと思いきや、イエス様だと気付かずに「幽霊だ」と言って怯え、「恐怖のあまり叫び声をあげた」と書いてあります。取り乱した弟子たちに、イエス様がかけてくださった言葉が「しっかりするのだ、わたしである。恐れることはない」(マタイ14:27)でした。

「わたしだ」という言葉はギリシャ語で「エゴー・エイミー」と言い、旧約では神様がモーセに自らを紹介して「私はいる、という者である」と告げた言葉と同じです。つまり、イエス様はご自分が神であることを湖の上を歩きながら、はっきりと示されたのです。「わたしはあってある者だ。全能の神だ。恐れてはならない」とだから言ったのです。弟子たちは誰もすぐにはイエス様だと信じられなかったのでしょう。

ペテロの挑戦

ペテロが口を開きます。「主よ、あなたでしたか。では、わたしに命じて、水の上を渡ってみもとに行かせてください」(マタイ14:28)イエス様はペテロの願いを聞き入れて「おいでなさい」とおっしゃいました。イエス様はご自分が湖の上を歩くことができるだけでなく、他の人にもそのような力を与えることができる方です。荒波の中をペテロは船から出て一歩ずつ踏み出します。しかし、強風を見て怖くなりました。イエス様の「来なさい」という命令を信じて従ったとき、ペテロも水の上を歩くことができました。しかし、強風を見て水の中に沈みかけました。

信仰は実に紙一重です。何を見るかが重要な分かれ道になります。

危機の中の一番短い祈り

「主よ、お助けください」と叫んだペテロをイエス様は手を伸ばしてつかんで助けてくださいました。危機の中で叫ぶ短い祈りですが、切実さが溢れていて本気の祈りそのものです。

「神は、祈りの数を数えるのではなく、その重さを量られる。神は、祈りの長さを測るのではなく、その深さを測られる」(イ・サングン)。

クリスチャンは、イエス様の「来なさい」という言葉に聞き従って、信仰の道を進んで行く者たちです。しかし、逆境に遭うこともあります。信仰が揺らぐこともあります。そのような時にこそ、主に祈り、救いを求めたいと思います。イエス様は私たちの祈りに応えてくださる方です。

叫ぶ者に答えて下さる主イエス

沈みかけたペテロを助けてくださったイエス様はこうおっしゃいました。「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」(マタイ14:31)「信仰がないな」とはおっしゃいませんでした。「信仰が薄い」とおっしゃったのです。ペテロは信仰が全くない者ではありませんでした。信仰が全くない人は祈りませんが、信仰が少しでもある人は祈ります。

イエス様がペテロと一緒に舟に乗ると、風がやみました(32)。イエス様が共におられたからです。ヨハネの福音書ではその後のことを次のように記されています。

「そこで、彼らは喜んでイエスを舟に迎えようとした。すると舟は、すぐ、彼らが行こうとしていた地に着いた。」(ヨハネ6:21)

「舟の中にいた者たちはイエスを拝して、『ほんとうに、あなたは神の子です』と言った。」(マタイ14:33)

「ほんとうに、あなたは神の子です」は、16:16のペテロの信仰告白、そして27:54の百人隊長の信仰告白と同じです。イエス様の共同体が主イエスを神の子だと告白し、礼拝すること、これはマタイが強調したかった点だと言えます。

【心の留めたい六つのこと】

この一連の出来事を通して学ぶことは何でしょうか。心に留めたいことが幾つかあります。

三つの捨てること

①先入観・思い込み:イエス様が乗り込ませた船だから、嵐に遭わない。イエス様は湖の真ん中にまで来れないだろう。幽霊でなければ湖の上を歩くことができない。

②恐れ:「恐れることはない」いつでも「主よ、お助けください」と声をあげてよい。自分の力の限界まで待つ必要ない。困難や苦しみを歯をくいしばって我慢することが信仰生活ではない。

③不信仰・疑い:「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」

三つの持つべきこと

①イエス様を迎え入れる心:自分が乗っている舟、問題・課題の真ん中に迎え入れる

②篤い信仰:「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」

③主イエスを見る目:実体のない幽霊を見るのでなく、キリストをしっかり見据えること

私にとっての逆風とは何でしょうか。雑音、迫害、信仰を邪魔するもの、前進する足を止めるものなどです。目的に着けない、しかし後戻りも出来ない、ただ立ち往生する時があります。しかし、イエス様がこの舟に乗せたことを思い出したいと思います。

イエス様は逆風に漕ぎ悩むことをご存知で、敢えて天候の良くない湖へ弟子たちを舟に乗せて向こう岸へ行きなさいとおっしゃいました。そして、そのプロセスで更にご自分が神であることを示され、同時に私たちのクリスチャンとしてのアイデンティティを明らかにしてくださいました。つまり、イエス様なしに進む舟でなく、主が共に乗る舟で目的地まで行くのだ!ということです。

また、ペテロの薄い信仰を諭されながらも、手を伸ばして水から引き上げ、助けてくださいました。イエス様に信仰をもって叫び求めたいと思います。主イエスを信頼して進むとき、苦難に打ち勝つことが必ずできます。

「あなたがたは、この世ではなやみがある。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝っている。」(ヨハネ16:33)

「しっかりするのだ、わたしである。恐れることはない」というイエス様の御声を聞き分けることができますように。私のところへ向かって来られるイエス様を幽霊と間違えることなく、救い主として信頼して依り頼むことができますように