ヤコブ1:12-18「試練を耐える人の幸い」

2025年3月9日(日)受難節第1主日礼拝メッセージ

聖書 ヤコブ1:12-18
説教 「試練を耐える人の幸い」
メッセージ 堀部 舜 牧師

試錬を耐え忍ぶ人は、さいわいである。それを忍びとおしたなら、神を愛する者たちに約束されたいのちの冠を受けるであろう。

 12試錬を耐え忍ぶ人は、さいわいである。それを忍びとおしたなら、神を愛する者たちに約束されたいのちの冠を受けるであろう。13だれでも誘惑に会う場合、「この誘惑は、神からきたものだ」と言ってはならない。神は悪の誘惑に陥るようなかたではなく、また自ら進んで人を誘惑することもなさらない。14人が誘惑に陥るのは、それぞれ、欲に引かれ、さそわれるからである。15欲がはらんで罪を生み、罪が熟して死を生み出す。16愛する兄弟たちよ。思い違いをしてはいけない。

17あらゆる良い贈り物、あらゆる完全な賜物は、上から、光の父から下って来る。父には、変化とか回転の影とかいうものはない。18父は、わたしたちを、いわば被造物の初穂とするために、真理の言葉によって御旨のままに、生み出して下さったのである。

ヤコブ1:12-18

教会暦:受難節(レント)

教会暦では、今日は受難節第一主日です。今年の復活祭イースター4/20で、それまで6回の日曜日があります。教会では伝統的に、主イエスの復活を祝う日曜日を別にして、受難節の40日の週日を、主イエスが荒野で誘惑を受けた40日を覚えて、自らを戒め・節制する時として守ってきました。

聖書日課では、毎年この時期に、福音書では主イエスの荒野の誘惑の箇所が読まれます(マタイ4:1-11、ルカ4:1-13)。今年は、聖書日課の福音書ではない箇所から、試練・誘惑に関連したヤコブ1章を取り上げます。

■【1.試練の中で神の目的に気付く】

【ある兵士の祈り】

私たちの部屋に、アメリカ南北戦争を戦った無名の兵士の祈りの言葉があります。

成功するために、私は強さを神に求めたのに、
謙遜に従うことを学ぶために、弱い者とされた。

偉大なことができるようにと、私は健康を求めたのに、
より良いことができるように、病いを与えられた。

幸せになるために、私は富を求めたのに、
賢い者となるために、貧しさを与えられた。

人々からの賞賛を得るために、私は権力を求めたのに、
神が必要であることを知るために、弱さを与えられた。

人生を楽しむために、私はすべてのものを求めたが、
すべてのものを楽しむために、命が与えられた。

求めたものは何も得なかったが、願っていた全てを与えられた。
私が願った形ではなかったが、言葉にならない祈りは答えられた。
私は、人々の間で、もっとも豊かに祝福されている![①]

ある兵士の祈り(説教者が翻訳)

この詩の作者がどのような人生を歩んだのかは分かりません。南北戦争という嵐に翻弄されて、敗北した南軍の兵士として敗北と失望と不名誉を経験し、おそらく負傷してハンディキャップを負い、人生設計が大きく狂ったのかもしれません。しかし彼はそこで「私は、もっとも祝福されている=幸いな男だ」と喜んでいます。

人生には多くの苦しみがあります。病気、人間関係や仕事上のトラブル、愛する家族を失うこと。受ける苦難や感じ方は人それぞれですが、苦難のない人生はありません。[②]

私が経験した試練:誤解を受ける

「苦しみ」という側面から「試練」を考える時に、私自身が経験したことをお話しします。▼昔いた教会で、誤解され、厳しい非難を受けたことがあります。互いに多忙とコミュニケーション不足の中で、些細なミスを厳しく咎められ、身に覚えのないことで疑われて非難され、奉仕を次々と外されたことがありました。それは私にとって、厳しい試みでした。▽しかし、その誤解と取り扱いの中で、祈り続け、忍耐して愛し続ける中で、その中にある神の御心に気付いていきました。周囲には理解されてなくても、神は私を愛していて下さること。神は私の奉仕を喜んでおられること。私に敵対する人のために祈り・愛をもって善を求める私の心と生き方を神は見ておられて、時にかなって正しくさばいて下さること。神の前で身を低くするときに、神が高くして下さること。そして、愛と祈りのうちに、攻撃してくる相手のことも、より深く理解することができることを経験しました。

試練の中で神の御心に目が開かれる

ここにおられる皆さんの多くが、病気や愛する方の死別など、より大きな苦しみ・試練を経験してこられたと思います。試練の種類や状況は人それぞれですが、試練の中で「神の御心に気づく」ことが、信仰生活の成熟のために、大切なことです。▼試練で悩む時、人は苦しみに心が奪われます。「なぜ自分がこんな目に合わなければならないんだ」「どうしたら抜け出せるんだろう」。苦しめる相手への不満があふれ、神様に「解放して下さい」と訴えるかもしれません。あるいは、病気のことで頭がいっぱいになって、他のことを考えるゆとりがなくなるかもしれません。▼しかし、その苦しみのただ中で、私たちと共におられる神の御心に目が開かれる時に、状況に対する自分の見方が変わってきます。

ヘブル12:5-6…「わたしの子よ、主の訓練を軽んじてはいけない。主に責められるとき、弱り果ててはならない。主は愛する者を訓練し、受けいれるすべての子を、むち打たれるのである」。

今私が経験している試練は、私を成熟させるために、私を愛する方から与えられていると知る時、心にゆとりが生まれ、自分を客観的に見ることができ、希望と対処する知恵と元気が沸いてきます。

■【2.試練の中で神に信頼する】

主イエスの「荒野の誘惑」

主イエスは荒野で誘惑を受けられた時、悪魔から3つの誘惑を受けられました。マタイ福音書によれば、①断食中の主イエスに、「もしあなたが神の子であるなら、これらの石がパンになるように命じてごらんなさい」と、自分の肉体の必要のために神からの権威を用いるように誘惑しました。 ②神殿の屋根の上から身を投げて、御使いに守ってもらい、主イエスが神の子であることを自分で証明するように誘惑しました。③サタンは非常に高い山から世界の全ての王国の繁栄を見せて、全ての富と引き換えに自分を礼拝するように誘惑しました。

サタンは、①肉体の欲求、②人から認められること、③この世の富と繁栄によって、主イエスを神に従う歩みから引き降ろそうとしました。▼主イエスは、聖書の言葉によって誘惑を退けて、神に従い、自分の利得よりも神の栄光を求める道を選び取りました。▽先週から受難節に入りましたが、私たちも主イエスにならい、聖霊に導かれて、神の前をへりくだって歩んでまいりましょう。

主イエスの「荒野の誘惑」

「試練」/試み

「試練」という言葉は、単なる「苦難」ではなく、「試す」「試みる」「テスト」という意味があります。▼主イエスの荒野の誘惑では、神の子としての力と特権を自分のために用いるか、神様の栄光のためだけに用いるかが試されました。そして、試練に打ち勝った主イエスは、神の御心に従って歩むまことの人間として「証明」されました。「試される」ことによって、本物であることが明らかになります。それが「試練」です。▼金属を溶かして不純物を取り除くように、試練という火は、私たちから不純な考えや汚れを取り除き、神様だけにより頼ませる、精錬する火の役割を果たします。

誘惑と欲

私たちが試練に遭う時、自分の欲にひかれて、神から離れることがあります。ヤコブはこのことを警告しています。

ヤコブ1:14 人が誘惑に陥るのは、それぞれ、欲に引かれ、さそわれるからである。

試練は、もし私たちが神に堅く結ばれているなら、私たちの信仰と愛の真実を証明する機会になります。もし私たちがつまずくなら、それは自分の欲に引きずられて、コントロールを失っているからです。

ある人は、3つのことに注意するように教えています。第一に怠惰について。なすべきことを怠らなかったか、祈りに励み、悪を退けたかについて。第二に欲望について。安逸な生活、美食や高価なものに惹かれる心、虚栄心を戒めています。第三に邪悪について、怒り、嫉妬、嫌悪感に警戒するよう教えます。そして、その反対を身に着けるように勧めます。聖霊の助けを祈り求めつつ、怠惰に対しては勤勉を、欲望に対して節制を、邪悪に対して優しい心という善を獲得するように勧めています。[③]

試練と知恵

ヤコブは直前の1:5-6で、知恵を求めるように勧めます。

ヤコブ1:5-6「5あなたがたのうち、知恵に不足している者があれば、その人は、とがめもせずに惜しみなくすべての人に与える神に、願い求めるがよい。そうすれば、与えられるであろう。6ただ、疑わないで、信仰をもって願い求めなさい。疑う人は、風の吹くままに揺れ動く海の波に似ている。」

知恵がなければ、誘惑を乗り越えることはできません。この知恵は、神から与えられるものです。神に知恵を求めるのでなければ、どうして試練を乗り越えることができるでしょうか。惜しみなく与えて下さる神に、知恵と識別力を求めて祈りましょう。

ヤコブ1:12  試錬を耐え忍ぶ人は、さいわいである。それを忍びとおしたなら、神を愛する者たちに約束されたいのちの冠を受けるであろう。

試練と忍耐

ここで「耐える」「忍耐」と訳されているギリシャ語は、語源的には「下に+留まる」という言葉です。対応するヘブライ語は、「待ち望む」という意味を持つそうです。▼試練とは、自分の力でもがき・格闘して・乗り越えていけるような性質のものではなく、自分の力ではどうしようもない、自分の力を越えたものです。そのような中で、絶望するのではなく――いや、誰しももがき・格闘し・絶望も感じると思いますが――その中でも神を見上げ、自分の力を越えて、神に希望を置き、そこにとどまり、祈りを捧げ、神により頼んで待ち望むのが、この言葉から読み取れる「試練に耐える」人の姿です。▼「いのちの冠」とありますが、聖書では私たちの前に「祝福と呪い」の2つの道がおかれます。「いのちの祝福」を選び取った人に与えられるのが、「いのち」という栄光の冠です。信仰の忍耐によってこそ、約束の祝福を受け取ることができます。

例話:試練が品性を磨く

メディカルカフェを主催する樋野興夫先生が紹介しているエピソードです。

胃がんが再発して厳しい闘いをしていた50代の患者さんが樋野先生を訪ねて来ました。扉を開けた時、笑顔だったのがとても印象的でした。その方は「これから治療や薬の副作用は厳しくつらくなるかもしれないけれど、人のためになることがしたい」と強い決意を話されました。その澄んだ目を見て、樋野先生は言いました。「人生の目的は、品性の完成だからね」「今まで自分が生きてきた中で仕事、趣味、いろいろなことをやって来たでしょう。それをあなたという人間の品性として、どうやって完成させればいいのか考えてみてはいかがですか。与えられた使命はひとりひとり全部違います。自分はいったいどんな花かを考える。その花に見合った花を咲かせればいいでしょう」

その方は、残された時間を自分らしく生きるにはどうすればいいのか思い悩んで、大の演劇ファンだったので、同じ病気に苦しむ人たちにお芝居で安らぎを与えたいと考えて、メディカルカフェでお芝居を上演するイベントを企画しました。親しくなった劇団の役者さんたちに相談して、「葉っぱのフレディ」という、葉っぱの四季を通して、生と死、自分たちがどこから来て、どこに行くのか、いのちは永遠に続くという人生といのちの意味を考える作品です。

しかし、患者さんは、お芝居の完成を待たずに亡くなります。その4か月後、遺志を継いだ家族や劇団員、友人たちが、故人のメモリアル・メディカルカフェという形で、音楽劇を上演し、満場の客席は、感動の涙と割れんばかりの拍手に包まれました。永遠に続くいのちの意味と、死に直面した時の勇気は、患者さんからの贈り物でした。お芝居を一緒に見ていた奥様は、「ありがたい気持でいっぱいです。こうやって皆さんが主人の思いをつないでくださって。・・・どうやってこの感謝の気持ちをみなさんにこれからお伝えしていけばいいのか今はまだ分かりません。それが私の使命になるのかもしれません。」

この患者さんが痛みで辛い中でも最後まで穏やかだった、と聞いて、樋野先生は、「『品性の完成』に向かって最後まですごくよく頑張ったのですね」と、その品性をたたえました。「人生の目的は、品性を完成するにあり」。品性は耐えることで生まれ、行いによって磨かれる、と樋野先生は教えています。どのような境遇にあっても、希望と喜びのために生きる努力を続けるまじめな生涯・「勇ましく高尚な生涯」こそ、私たちが残すことができるもっとも価値のある生きた証しだと教えています。[④]

樋野興夫「いい覚悟で生きる」P144-147、161より自由に引用した

練られた品性は、苦難の中から生まれ、そこから生きる希望が出てきます。

ヤコブ1:12「試錬を耐え忍ぶ人は、さいわいである。それを忍びとおしたなら、神を愛する者たちに約束されたいのちの冠を受けるであろう。」

試練の中でこそ、この幸いを証しすることができ、いのちの冠を頂くことができるのです。

■【3.試練の中で神に希望を置く】

試練の中で「忍耐を働かせる」とは、具体的にどういうことでしょうか。そこにはどんな希望があり、どんな幸いがあるでしょうか。信仰・希望・愛について見ていきます。

(1)信仰:試練の中で、良い神様に信頼する

第一に、試練の中で神に信頼することです。それは、「神は良い方」だと信じ続けることです。試練の時には、周囲の人が「あなたの神はどこにいるのか」と思っているのではないかと感じて、「主は良い方」だと告白しにくいと感じることがあるかもしれません。

小説・泥流地帯:苦難の意味

三浦綾子さんの泥流地帯という小説は、十勝岳の噴火という自然の猛威の中を生き延びた人々が、苦難の意味を問う作品です。

主人公は、まじめに生きながらも火山の噴火で被災して非常な苦しみを味わいます。そして、周囲の人々の「被災を免れたのは心がけが良かったのだ」という何気ない言葉や、「災害に苦しむのは先祖の祟りだ」という陰口に傷つきます。しかし、「子孫を守るのが先祖であって、祟るのは先祖ではない」「まして、神や仏がいわれもなく恐ろしい罰を与えたりはしないんじゃないのかな」と考えるようになります。そして、キリスト教の教えに触れて、「人間の思い通りにならないところに、何か神の深いお考え」があり、神は罰を与える方ではなく、「神は愛なり」という言葉に心が向いていきます。そして、「苦難を試練として受け止めて奮い立つ時に、苦難の意味が分かるんじゃないか」と考えて、試練を耐えて一歩ずつ真摯に前へ進んでいく姿が描かれます。

ヤコブ1:17「あらゆる良い贈り物、あらゆる完全な賜物は、上から、光の父から下って来る。父には、変化とか回転の影とかいうものはない。」

苦難という試練のただ中にあって、「神は愛なり」「神は良い方です」と神を信頼してまいりましょう。

(2)希望:試練の中で、神を待ち望む

第二に、試練の中で、神に希望を置いて待ち望むことです。神の約束は変わりません(ヤコブ1:11, 12)。神の真実に希望を置くことができます。

【待望と謙卑】

私が誤解から苦しんでいた時期に、繰り返し思い起こして慰められた御言葉は、哀歌3章のエレミヤの告白です。試練と迫害の中で身を低くして耐え忍び、静まって主を信頼して待ち望むことは、速やかに神様の慰めと喜び、回復と癒しを与えてくれます。

哀歌3:19-32

19どうか、わが悩みと苦しみ、
 にがよもぎと胆汁とを心に留めてください。
20わが魂は絶えずこれを思って、
 わがうちにうなだれる。
21しかし、わたしはこの事を心に思い起す。
 それゆえ、わたしは望みをいだく

22主のいつくしみは絶えることがなく、
 そのあわれみは尽きることがない。
23これは朝ごとに新しく、
 あなたの真実は大きい。
24わが魂は言う、「主はわたしの受くべき分である、それゆえ、
 わたしは彼を待ち望む」と。

25主はおのれを待ち望む者と、
 おのれを尋ね求める者にむかって恵みふかい。
26主の救を静かに待ち望むことは、良いことである。
27人が若い時にくびきを負うことは、良いことである。

28主がこれを負わせられるとき、
 ひとりすわって黙しているがよい
29口をちりにつけよ
 あるいはなお望みがあるであろう
30おのれを撃つ者にほおを向け、
 満ち足りるまでに、はずかしめを受けよ。

31主はとこしえにこのような人を捨てられないからである。
32彼は悩みを与えられるが、
 そのいつくしみが豊かなので、またあわれみをたれられる。
33彼は心から人の子を苦しめ悩ますことをされないからである。

ヤコブ4:10「主のみまえにへりくだれ。そうすれば、主は、あなたがたを高くして下さるであろう。」

「主のみまえにへりくだれ。そうすれば、主は、あなたがたを高くして下さるであろう。」
希望と約束

そして、やがてこの信仰の歩みを終える時、試練を通して神を愛する者だと証明された者として、栄光の冠を頂く確かな約束があります。

ヤコブ1:12  試錬を耐え忍ぶ人は、さいわいである。それを忍びとおしたなら、神を愛する者たちに約束されたいのちの冠を受けるであろう。

それは、人からではない、神から頂く冠です。

(3)愛:試練の中で、神の愛を経験する

第三に試練を通してこそ、神の愛を経験し、神の愛を確信することができます。①訓練は、愛する者としての子どもとして、与えられているものです(ヘブル12:5-6)。試練を通してきよめられ、成長することを経験する時、子どもとして訓練して下さっている神の愛を経験します。  ②試練の逆境の中でも私たちが神を愛する時、自分が神に属していること、神が私たちを愛して下さったことを確信することができます(ヤコブ1:12,18、1ヨハネ3:18-19、4:7)。  ③試練の中で共にいて下さる聖霊によって、「神の愛が私たちの心に注がれて」います(ローマ5:5)。

試練の中で、自分の力ではどうしようもない、自分にはこれ以上できないという無力さと限界の中で、ただご自分の憐れみによって私たちを顧みて下さる神の愛を経験します。自分のした良いことや努力を越えた、惜しみない神の愛を経験します。だからこそ、試練は学びの場となります。試練を通して聖書を深く経験し・理解し、神の深い愛を経験します。

  試錬を耐え忍ぶ人は、さいわいである。それを忍びとおしたなら、神を愛する者たちに約束されたいのちの冠を受けるであろう。

ヤコブ1:12

■【まとめ:祈り】

天の父なる神様。私を愛する子どもと呼んでくださり、訓練として試練を与えておられることをありがとうございます。

(1)苦難の中であなたを見上げます。私たちの知恵の心を与えて、試練を通らされる目的を悟らせてください。

(2)主に信頼して、忍耐を働かせる時、私を主に似る者として、私の品性を練って下さり、主が用いやすい整えられた器にしてください。

(3)試練の中でへりくだって、主に希望を置き、忍耐強く主を待ち望む者としてください。あなたのいのちの恵みを受け継ぐものとして、この幸いの内を喜びをもって歩ませてください。

主イエスの御名によって祈ります。アーメン。


[①]https://www.wvtf.org/civil-war-series/2019-12-15/an-unknown-confederate-soldier 説教者の翻訳。

[②] 「試練」という言葉のニュアンスを考える前に、まず「苦難・苦しみ」から考える。なぜなら、「試練」という神の目的に気付かないことがあるから。

[③] ボナヴェントゥラ「観想の道 三様の道・生命の完成」p8-16

[④] 樋野興夫「いい覚悟で生きる」P144-147、161