エゼキエル37:1-14「生きよ、と語られる神」
聖書 エゼキエル37:1-14、ヨハネ11:25-26
説教 「生きよ、と語られる神」
メッセージ 堀部 里子 牧師

25イエスは彼女に言われた、「わたしはよみがえりであり、命である。わたしを信じる者は、たとい死んでも生きる。26また、生きていて、わたしを信じる者は、いつまでも死なない。あなたはこれを信じるか」。
ヨハネ11:25-26
4彼はまたわたしに言われた、「これらの骨に預言して、言え。枯れた骨よ、主の言葉を聞け。5主なる神はこれらの骨にこう言われる、見よ、わたしはあなたがたのうちに息を入れて、あなたがたを生かす。6わたしはあなたがたの上に筋を与え、肉を生じさせ、皮でおおい、あなたがたのうちに息を与えて生かす。そこであなたがたはわたしが主であることを悟る」。
エゼキエル37:4-6
イースターおめでとうございます。
Yさんを導かれた神
メッセージ前のYさんが証しをしてくださいました。病や退職があり、老後のことなど心配が尽きず、ご自分の人生設計が打ち砕かれたとき、「これからどうしたらいいのだろう」と不安になられたと。しかし、ちょうど礼拝で開かれた聖書の言葉、「心を尽くして主に拠り頼め。自分の悟りに頼るな。あなたの行く道すべてにおいて、主を知れ。主があなたの進む道をまっすぐにされる。」(箴言3:5-6)を心に留め、進む道を一歩一歩確実に教えてくださる神様の言葉を信頼してこられたことを伺い、主の御名を崇めます。
病床のMさんとの会話
教会員のSさんの93歳のお母さまのMさんと、土曜日にビデオ通話をして一緒にお祈りをしました。体調を崩しておられます。今朝のSさんからのメールでは、「無事にイースターの朝を迎えられました。名前を呼ぶと返事し、『洗礼を受けてから初めての復活祭だよ』と言うとうなずいていました。昨日の午後に往診を受けて、薬も飲むことができ、熱も下がってゆっくりと水分を取ることができました」とのことです。
去年、Mさんにお会いしたとき、Mさんが「天国に行きたい」と意思表示をされました。昨日、お電話でお祈りする前に「Mさん、最後に天国に行くという大きな仕事が残っていますね」とお声がけをしましたら、うなずいておられました。私たちは今朝、それぞれに大切な方を心に覚えて、共にイースター礼拝をおささげいたしましょう。
復活日 イースター
イースターは、イエス・キリストが十字架にかかって三日目の朝によみがえられたことをお祝いする日です。一度、完全に死んだ人間がよみがえるなど、信じられないことのように思えるかもしれませんが、イエス様は人として、私たちと同じように苦しみも痛みも悲しみも経験されるために地上に来られました。そして誰もが最後に経験しなければならない死を越えた唯一の方でもあります。そのために、神の子として来られました。
イースターは「イエス様がよみがえった日」だけではありません。今日も神様が一人ひとりに「生きよ」と語っておられることに耳を傾ける日です。もし神様が「生きよ」と語っておられるとしたら、あなたにとってその言葉は、どんな意味でしょうか。

絶望の状態から
預言者エゼキエルは、神様に不思議な光景を見せられました。それは谷いっぱいに広がる「骨」でした。しかもその骨はすべて干からびていました。骨が干からびる状態になるということは、長い年月ずっとそのままに放っておかれたからでしょう。つまり、もう命が戻る可能性はゼロということです。エゼキエル書は、バビロン捕囚のど真ん中で生まれた文書です。その時代は、イスラエルの民が苦しみ、嘆き、戸惑い、神様に叫び求めた時に、神様が語られたことを記しています。谷を埋め尽くすような枯れ果てた骨たちは、イスラエルの民を現わしています。国家を失い、捕囚として異邦人の中に散らされ、絶望の状態にありました。民族として将来に何の希望も持てず、地上から消し去られてしまう恐れがありました。エゼキエルは、そのような苦しみと悲しみが蔓延し、死が覆っているようなイスラエルの状況を見せられています。これはイスラエルの民の神様への不従順、反逆、罪の結果でありました。
パウロは、私たちも罪の中に死んだ状態があるのだと言います。パウロの言葉を読みます。エペソ2:1-3「1さてあなたがたは、先には自分の罪過と罪とによって死んでいた者であって、2かつてはそれらの中で、この世のならわしに従い、空中の権をもつ君、すなわち、不従順の子らの中に今も働いている霊に従って、歩いていたのである。3また、わたしたちもみな、かつては彼らの中にいて、肉の欲に従って日を過ごし、肉とその思いとの欲するままを行い、ほかの人々と同じく、生れながらの怒りの子であった。」
与えられる神の言葉
その状態はずっとそのまま続くのでしょうか。神様はエゼキエルに問いかけます。「これらの骨は、生き返ることができるのか」(37:3)。普通に考えるなら答えは「いいえ」です。
ヨハネの福音書11章でも、同じような場面があります。ラザロという若い男性が亡くなり、すでに四日経っていました。でもイエス様はこうおっしゃいました。
「あなたの兄弟はよみがえるであろう」。…「わたしはよみがえりであり、命である。わたしを信じる者は、たとい死んでも生きる。26また、生きていて、わたしを信じる者は、いつまでも死なない。あなたはこれを信じるか」。(ヨハネ11:23,25-26)
このような言葉を、自信を持って言えて、実現可能な人がどれだけ他にいるでしょうか。普通は頭がおかしいと一蹴されてしまうと思います。聖書は「もう無理だ、終わりだ、おしまいだ、元に戻らない」という現実をぼんやりでなく、はっきり記しています。そして、その「終わりの場所」で神様は語られます。
復活させる神の力
エゼキエルに神様は「4彼はまたわたしに言われた、「これらの骨に預言して、言え。枯れた骨よ、主の言葉を聞け。5主なる神はこれらの骨にこう言われる、見よ、わたしはあなたがたのうちに息を入れて、あなたがたを生かす。6わたしはあなたがたの上に筋を与え、肉を生じさせ、皮でおおい、あなたがたのうちに息を与えて生かす。そこであなたがたはわたしが主であることを悟る」。(37:4-6)
するとどうなったでしょうか。骨と骨が互いに繋がり、肉がつき、皮膚がその上をおおって、最後に息が入って、生き返ったと。
ラザロにイエス様は言いました。「ラザロよ、出てきなさい」(ヨハネ11:43)。すると長い布で手足と顔を巻かれたラザロが、お墓から出て来ました。小説や漫画の世界でなく、現実にそのようなことが起こったのかどうか、私たちはタイムスリップしてそれぞれが確かめることはできません。
イエス様が十字架で死んだときも、死んだご遺体を十字架から降ろしたときも、アリマタヤのヨセフのお墓に葬られたときも、見ている人たちがいました。イエス様の場合は、身体を包んでいた亜麻布がお墓の中に残されていて、身体はありませんでした。しかし、その時に居合わせた人たちが証人です。
私たちが生きているこの社会を見ると、決して「命に満ちている」とは言えない現実があります。今も世界の中で争いや戦争があり、人と人が傷つけ合う出来事が頻繁に起こっています。また身近なところでも、人を大切にできなかったり、言葉で誰かを傷つけてしまったり、人に対して無関心であったり、また自分でどうにもならない弱さや罪を感じることがないでしょうか。そのような現実を受け止めるとき、この世界も私たち自身もどこか「干からびた骨」のようだと感じることがあります。けれども、神様は素晴らしい完璧な世界に語っておられるのでなく、むしろ壊れてしまったところに向かって「生きよ」と言われるのではないでしょうか。
イエス様が復活されたことは、ただ昔に起こった一人の人の出来事で終わらず、この壊れた世界、癒やされなければならない私たちの部分に対する神様の答えでもあります。
イエス様は「わたしはよみがえりであり、命である。」とおっしゃいました。これは「わたしは命を与えることができるよ」というだけでなく、「イエス様ご自身が命そのものだ」とはっきり宣言しています。また「わたしを信じる者は、たとい死んでも生きる。また、生きていて、わたしを信じる者は、いつまでも死なない。あなたはこれを信じるか」と問うておられます。これは私たち一人ひとりに向けられた問いです。復活の出来事は私たちの中の「信じる力」という領域が発動して初めて、受け取れることです。すべてが分かってから信じるのでなく、「本当かもしれない」と受け取ってみることです。神様は生きよとおっしゃいますが、その命は押し付けではありません。信じて受け取るときに、私たちの中に入ってくる命なのです。
もし、今日、心の中で「その命を私も受け取りたい、できることなら神様の言葉を信じてみたい」と思われる方がおられたら、その思いを大切にしてください。そして命の源である神の「生きよ」に対してそれぞれ応答いたしましょう。「はい、イエス様、あなたが復活された命を私に注いでください。私の内側のひからびた骨のような部分に触れてください。回復されるべきところをもう一度、生かしてください。」主はあなたに分かるように、答えてくださいます。イースターの祝福が豊かに皆様にありますように。


