1ペテロ1:3-9「復活がもたらす希望」

聖書 1ペテロ1:3-9
説教 「復活がもたらす希望」
メッセージ 堀部 舜 牧師

3ほむべきかな、わたしたちの主イエス・キリストの父なる神。神は、その豊かなあわれみにより、イエス・キリストを死人の中からよみがえらせ、それにより、わたしたちを新たに生れさせて生ける望みをいだかせ、4あなたがたのために天にたくわえてある、朽ちず汚れず、しぼむことのない資産を受け継ぐ者として下さったのである。5あなたがたは、終りの時に啓示さるべき救にあずかるために、信仰により神の御力に守られているのである。6そのことを思って、今しばらくのあいだは、さまざまな試錬で悩まねばならないかも知れないが、あなたがたは大いに喜んでいる。7こうして、あなたがたの信仰はためされて、火で精錬されても朽ちる外はない金よりもはるかに尊いことが明らかにされ、イエス・キリストの現れるとき、さんびと栄光とほまれとに変るであろう。8あなたがたは、イエス・キリストを見たことはないが、彼を愛している。現在、見てはいないけれども、信じて、言葉につくせない、輝きにみちた喜びにあふれている。9それは、信仰の結果なるたましいの救を得ているからである。

1ペテロ1:3-9
報告:フィリピンからの来訪・病床のMさんの信仰

今日はYさんのさとごのMさんがフィリピンから3年ぶりに来日され、一緒に礼拝できることを感謝いたします。

去る月曜日に、病床のMさんを訪問して来ました。目覚めたり起きたりされていましたが、目を開かれた時に「イエス様が一緒にいますよ」と言いましたら、静かに「うん、うん」とうなずいてくださいました。お孫さん・ひ孫さんが来られて讃美歌を歌っていましたら、一生懸命身体を起こそうとされて、ひ孫さんと手を握って、「今日まで守られ」を讃美しました。私は、Mさんのうちに神様の命が息づいていて、神様が共におられてMさんご一家の歩みを守っておられると感じました。

1.復活がもたらしたもの

今日は、ペテロの手紙1の冒頭を読みます。先週イースター礼拝で主イエスの復活を祝いました。今日の1:3にイエス・キリストの復活が出てきます。「ほむべきかな、わたしたちの主イエス・キリストの父なる神。神は、その豊かなあわれみにより、イエス・キリストを死人の中からよみがえらせ、それにより、わたしたちを新たに生れさせて生ける望みをいだかせ、…」。キリストの復活は、ペテロの手紙全体の土台です。私たちが頂いた全ての祝福は、主イエスの復活に根差しているとも言えます。▽今日は、主イエスの復活が、私たちの信仰生活にどんな意味があるか、見ていきます。

今日の箇所は、1ペテロ1:3-5と1:6-9に分けられます。手紙の冒頭の箇所で、クリスチャンに与えられる恵みの全体像が凝縮して述べられています。まず前半の1:3-5から、「すでに」「今」「将来に」与えられる神様の恵みを順番に見ていきます。

①新生――「すでに」神の子とされた

1:3 ほむべきかな、わたしたちの主イエス・キリストの父なる神。神は、その豊かなあわれみにより、イエス・キリストを死人の中からよみがえらせ、それにより、わたしたちを新たに生れさせて生ける望みをいだかせ、

神様をほめたたえるということは、私たちが何かをしたのではなく、神様が何かをして下さったということです。それは、私たちができることをはるかに超えたことです。

イエス・キリストを死人の中からよみがえらせ、それにより、わたしたちを新たに生れさせて…」とあります。イエス様の復活によって、信じて洗礼を受けた私たちは、新しい命を頂きました。この箇所で、「新しく生まれさせられた」とは、過去に一度だけすでに起こった出来事として描かれています。イエス様の復活が一度きりであるように、私たちも何度も生まれる必要はありません。信仰によって・洗礼によってキリストに結ばれ、新しく生まれた人は、その命が内で成長し、やがて花が咲き・実を結びます。

イースターに子どもたちが来てくれましたが、赤ちゃんはミルクを飲み、ご飯を食べて、自然と成長します。同じように、神から生まれた人は、ある意味自然に成長して、神を知り・神と共に生きるようになり、神の命はその人の人生を変えていきます。

この命は、目に見えません。究極的には、この地上の命の最後に私たちが死を迎える時、私たちの永遠の命は、肉体の目には見えません。しかし、それをも越えて、私たちの永遠の命はキリストのうちに保たれています。

スポーツ選手のたとえ

ペテロにとって、イエス様の復活が与えたのは、「生き生きとした」「命に満ちた希望」でした。▼高校野球の選手にとって、甲子園は夢の舞台です。一度甲子園を経験した選手には、甲子園の舞台が現実になります。そこで勝ち残るために、日頃の練習の仕方が変わってきます。オリンピックの舞台はスポーツ選手の夢の舞台ですが、一度表彰台に立った選手は、金メダルが手の届く視界に入ります。そうすると、日頃の練習のレベルがそこで勝てるレベルにまで高くなります。▽ある面では、イエス様の復活はペテロにとってそんな側面があったと思います。はるか遠い将来の予言で想像するのも難しかった「死者の復活」が、身近なイエス様が実際に復活したことで、はるかに身近なものになりました。ペテロにとって、自分たちにもやがて起こることなのだと、ひしひしと感じられるようになりました。▽もちろん、復活は、スポーツと違って努力と訓練で勝ち取るものではありません。しかし、主イエスの復活によって経験した、その現実に合わせて生きるようになるのです。復活は、スポーツとは違い、自分の力で到達できるものではありません。しかし、その土台は、私たちが主イエスを信じて洗礼を受けた時に、すでに据えられました。

1:3神は、…イエス・キリストを死人の中からよみがえらせ、それにより、わたしたちを新たに生れさせて生ける望みをいだかせ、

②資産を受け継ぐ――「今」準備された状態にある

神が私たちにして下さることの第二は、4節にあります。

1:4 あなたがたのために天にたくわえてある、朽ちず汚れず、しぼむことのない資産を受け継ぐ者として下さったのである。

資産を受け継ぐ」という言葉は、(原文では名詞ですが)ギリシャ語の旧約聖書では、「相続地」という言葉です。約束の地で神の民が割り当てられる所有地を指す言葉です。

新約聖書では、神の国を受け継ぐこととしてこの言葉が使われています。

エペソ1:18-19「聖徒たちがつぐべき神の国がいかに栄光に富んだものであるか、…あなたがたが知るに至るように、と祈っている。」

エペソ1:14「聖霊は、わたしたちが神の国をつぐことの保証…である。」

天では、私たちは住む場所のない寄留者/流浪の民になることはありません。しっかりとした住む場所(相続地)を割り当ててくださいます。それは、取り去られたり、悪くなったり、なくなってしまうような不確かなものではありません。

そして、それは「あなたがたのために天にたくわえてある」。この言葉は、ギリシャ語の完了形です。「蓄えられた状態が今も維持されている」というニュアンスがあります。神様は、神の国に私たちの相続地を今、しっかりと確保していて下さいます。天には、澄むべき場所が・相続地が、すでに用意されているのです。

このことは、「神の国を受け継ぐ」ことの保証金のように聖霊が与えられていることを思うと、ただ私たちが死んだ後だけの話ではありません。神様はこの地上でも、それを味わわせてくださいます。聖霊の約束と共に主イエスは約束されました。

ヨハネ16:23-24「…あなたがたが父に求めるものはなんでも、わたしの名によって下さるであろう。24…求めなさい、そうすれば、与えられるであろう。そして、あなたがたの喜びが満ちあふれるであろう。」

神様は、ご自分の豊かさに従って、私たちの必要を満たしてくださいます。

ローマ14:17「神の国は…、義と、平和と、聖霊における喜びとである。」

③神の守り――「今」守られている

1:5 あなたがたは、…信仰により神の御力に守られているのである。

神の御力による守りは、現在形――今も絶えず続いている守りです。軍隊で見張りが立つように、神様は私たちの周りに盾を巡らして、その力によって敵の攻撃から守ってくださいます。

身近な証し:洗礼の記憶・再会の恵み

Mさんが、ご高齢でいろいろなことを忘れてしまうけれど、洗礼を受けたことは忘れておられず、イエス様が共におられることを忘れておられません。これは神様の守りです。▽今日はフィリピンからYさんのさとごのMさんが来られています。3年前の来日では、フィリピンへの帰りの空港では、涙で別れられましたが、今日までこうしてYさんのご健康も守られて、再会することができました。「あなたがたは、…信仰により神の御力に守られているのである」。このことを心に留めて、神様をほめたたえたいのです。

④終わりの時の救い――「将来」の約束

神様の守りはいつまで続くでしょうか?

1:5 あなたがたは、終りの時に啓示さるべき救にあずかるために…

主イエスの再臨と、新しい天と地が到来する時。その時のために、神様は私たちのために救いを準備していて下さいます。その救いの時まで、私たちを守り続けてくださいます。

このように、主イエスの復活によって、私たちは既に神の子として頂きました。その祝福は今も豊かに天に蓄えられ・守られていて、やがて主イエスの再臨の時に救いが完成する時のために、神様は今もずっと私たちを守っていて下さいます。これが、神の救いの時間軸です。

この希望が、イエス様の復活によって与えられました。この希望は、私たちの実際の生活の中でどのように働くでしょうか。1世紀のペテロの手紙の読者たちは、厳しい迫害の中に生きていました。1:6-9節で、そのような信仰者たちに、ペテロは神様の約束の希望を思い起こさせています。続いて、1:6-9を読んでいきます。

2.復活の希望に生きる

1:6 そのことを思って、…あなたがたは大いに喜んでいる。

そのことを思って」――キリストの復活によって、私たちは「すでに」神の子として新しく生まれさせて頂きました。「今」天には私たちのために相続地が備えられていて、「終わりの日」には、イエスキリストが大いなる救いをもって現れてくださいます。そこに至るまで、神様は「絶えず」私たちの信仰を守り続けて下さいます。そのような、満ち満ちた神様の愛の配慮を頂いているので、私たちは「大いに喜んで」「喜び踊っている」とペテロは言います。神様の愛に気付く時、私たちの心は「喜び踊る」のです。

現在の試練

これは、現実の生活が気楽だということではありません。

1:6 そのことを思って、今しばらくのあいだは、さまざまな試錬で悩まねばならないかも知れないが、あなたがたは大いに喜んでいる。

今の日本では、当時のクリスチャンのような命がけの迫害はありません。しかし、それぞれの人生に、それぞれの困難と信仰のチャレンジがあります。ペテロは、クリスチャンの実際の歩みは、楽しいことだけではないことを認めて、むしろ悲しみを通らされることがあるのを認めています。

神様の大きな恵みに「さまざまな試錬で悩まねばならない…が、…大いに喜んでいる」ここに、クリスチャンの置かれた「今」があります。▽だからペテロは、この試練の中にあるクリスチャンたちに、私たちが「すでに」「今」そして「将来に」受ける神様の恵みを思い起こさせています。

私たちは、①すでに「神の子とされた」のだ。私たちには②今、「天に相続地が備えられて」いて、聖霊の支配は始まっているのだ。③「終わりの日に完全な救いを備えて」いてくださって、④その日に至るまで、「今日も明日も絶えず神は私たちを信仰によって守っていて下さる」のだ。

目に見える試練の中で、目に見えない主に頼る

この神様の視点に立つときに、私たちは今の困難の中でも、神の民として生きる勇気が湧いてきます。

1:8-9 あなたがたは、イエス・キリストを見たことはないが、彼を愛している。現在、見てはいないけれども、信じて、言葉につくせない、輝きにみちた喜びにあふれている。9それは、信仰の結果なるたましいの救を得ているからである。

私たちの前にある課題は、しばしば目に見えるものであったり、具体的なことだったりします。▽メイアンさんが日本に来られるまでに、ビザの取得などの具体的な手続きや調整のハードルがありました。でもそれを越えて、神様の見えない御手を信じて一歩一歩進んで、こうして再会を果たすことができました。私たちは、「現在、見てはいないけれども、信じて」います。▽病床のMさんも、「イエス・キリストを見たことはない」けれども、共におられるイエス様の恵みを心に頂いて、イエス様を「愛して」います。▼私たちは、目に見えるものを越えて、目に見えないイエス・キリストを愛し、イエス・キリストに信頼し、自分自身を御手に委ねて、その「言葉につくせない、輝きにみちた喜びにあふれている」。

輝きにみちた喜び」の輝きとは、「栄光」という言葉です。栄光とは、共におられるイエス・キリストの栄光以外何でしょうか。目に見えないキリストご自身が、私たちと共におられるのです。

このような生き方こそ、クリスチャンの生き方です。9節にある通りです。

1:9 それは、信仰の結果なるたましいの救を得ているからである。

試練の乗り越え方――十字架を負うこと

もし、信仰をもっているはずなのに、この信仰の喜びを見失っている方がおられるでしょうか。ある方が、こんなこと言っています。「問題を克服する方法は、それを担うことです。自分の十字架を克服する方法は、進んでそれを肩に載せることです。」[1]

避けられる苦しみは避ければ良いのですが、主ご自身から与えられた避けがたい苦しみは、その重荷を担うことです。キリストと苦しみを共にしているなら、栄光も共にするようになります(ローマ8:17)。

信仰の精錬

信仰の試練は、無駄ではありません。

1:7 こうして、あなたがたの信仰はためされて、火で精錬されても朽ちる外はない金よりもはるかに尊いことが明らかにされ、イエス・キリストの現れるとき、さんびと栄光とほまれとに変るであろう。

金属の精錬

神様は、銀を炉で溶かして不純物を取り除くように、愛する信仰者を困難に合わせて、ご自分への信頼と愛を聖い純粋なものに造り変えられます。▼試練を通して、自分に頼るのではな、人に頼るのでもなく、お金に頼るのでもなく、神様に頼ることを学んでいきます。何を愛するよりも、第一に神様を愛することを学びます。恐れと不安を委ね、神様に委ねることを学びます。こうして、銀のように精錬され・確かめられた信仰の品性は、神様の目に金よりも尊く、イエス・キリストの再臨の時に、神様から賞賛と栄光と栄誉を受けるのだと言います。試練はあってもなくてもよい余計なものではありません。それは、私たちの生涯に、光栄を添えて、もっと主を信頼し、もっと主を愛する者にするのです。

1:3 ほむべきかな、わたしたちの主イエス・キリストの父なる神。神は、その豊かなあわれみにより、イエス・キリストを死人の中からよみがえらせ、それにより、わたしたちを新たに生れさせて生ける望みをいだかせ、…て下さったのである。


[1] マクグラス「信仰の旅路」P110