ローマ8:14-17「恐れから、父の愛へ」
聖書 ローマ8:14-17
説教 「恐れから、父の愛へ」
メッセージ 堀部 舜 牧師 (ペンテコステ礼拝)

14すべて神の御霊に導かれている者は、すなわち、神の子である。15あなたがたは再び恐れをいだかせる奴隷の霊を受けたのではなく、子たる身分を授ける霊を受けたのである。その霊によって、わたしたちは「アバ、父よ」と呼ぶのである。16御霊みずから、わたしたちの霊と共に、わたしたちが神の子であることをあかしして下さる。17もし子であれば、相続人でもある。神の相続人であって、キリストと栄光を共にするために苦難をも共にしている以上、キリストと共同の相続人なのである。
ローマ8:14-17
ペンテコステ
今日はペンテコステ(聖霊降臨)を記念する礼拝です。主イエスが天に昇られた後、主イエスに代わって地上に来られたのが聖霊でした。今日は、聖霊が私たちと共におられることがどんなことなのか、ローマ書8章から見ていきます。
婿養子
昨年、高校の同窓会に出た時に、クラスメートの一人が結婚していました。奥さんは会社の社長の一人娘で、彼は社長の家の婿養子になったそうです。彼は今その会社を継いで、新しい社長になったそうです。幼い子どもではなく、大人になってから「婿養子」となるケースが、今の日本でもあるんだなと思いました。
今日のローマ書のテキストの主題は「神の子ども」です。8章15節の「子とする御霊」という言葉は、「養子にする」という意味です。聖書の時代のローマ社会でも「大人の養子縁組」が盛んでした。歴代のローマ皇帝にも養子であった人物が何人もいました。当時のローマ社会で養子は劣った存在ではなく、実の子どもと全く同じ名誉と地位が与えられました。新約聖書で「神の養子とされる」と言われる時は、このような社会を背景にしています。
私のクラスメートは、会社を受け継ぎ、奥さんの家も継ぐことになります。それは名誉と責任を伴うことです。同じように、神様が私たちを養子にして下さる時、私たちは神の家族となり、その名前を継ぎ、神の国を受け継ぎ、その共同相続人・共同管理者となります。それは、大きな栄誉と責任を伴います。▼今日は、「神の子」とされる特権と責任を見ていきますが、それは聖霊がなされる働きです。
1.奴隷の霊
ローマ8:15 あなたがたは再び恐れをいだかせる奴隷の霊を受けたのではなく、子たる身分を授ける霊を受けたのである。…
ローマ8:15で「子たる身分を授ける霊(聖霊)」と「奴隷の霊」が対比して述べられています。聖霊は、私たちが惨めな奴隷のように生きることを喜ばれません。

劣等感の奴隷
アパルームという小冊子に、ある女性の黙想文が載っていました。その方は、人と自分を比べて劣等感を感じて、何年間も、「もし人々が本当の私を知ったら、どう思うだろう」と恐れて生きていたそうです。友人が自分から離れていくのではないかと心配して、ありのままの自分でいることを恐れていました。▽彼女は、劣等感を克服するために神様に祈りました。彼女は聖書を読むうちに、神様が彼女を愛し、赦してくださっていることに気付きました。「私は、神様が創造されたそのままの自分なのだと心から信じるようになりました。もう恥ずかしくありませんでした。私は王の娘なのですから!」
彼女は書いています。「この新しい考え方のお陰で、私はありのままの自分に自信を持つことができ、より隠し事のない、正直な生き方をするようになりました。クリスチャンとして自信を持って生きることは、イエス様を映し出し、自分が生ける神の子であることを認めることを意味します。イエス様の愛によってセルフイメージを変えていただく時、神様の光が私たちを通して輝き、他の人々はそれを見ることができるのです。」[i]
彼女は、人からの評価を恐れて、劣等感の奴隷となり、不安と恐れの中にいましたが、「私は神様が創造され、神様に愛されている神の子ども・王の娘なんだ」と信じた時に、ありのままの自分に自信を持ち、自分を恥じることなく、正直に生きるようになりました。
成功の奴隷
私は学問の世界に憧れていたこともあり、今でも研究者の方々との関わりがあります。思い通りにいかない時に、「何か成果を出していないと、自分には価値がないのではないか」と不安になることがあります。本来なら「面白いから」「役に立つから」勉強しているはずが、ふと我に返ると、「世の中に認められたいから」頑張っている自分に気付きます。
そのモードに入ると、頭の中でずっと何かを考えていて、妻と食事に行っても、心ここにあらず。食事を待っていても落ち着かない。▽自宅で食事を準備するのも面倒くさくなって、パソコンに向かっていると、妻に「自分のことに没頭してないで、野菜切ってほしい」と言われる(笑)。それは、「社会的な成功」や「人からの評価」に捕らわれて、恐れに支配されているのだと思います。
理想像の奴隷
あるクリスチャンの姉妹の妹さんが、ご事情があって家を離れなければならず、幼い息子さんの子守をお姉さんである姉妹に頼んだそうです。その妹さんは教育に強いこだわりがあって、小学校入学前から英才教育。食事はお姉さん曰くフルコースのような料理で、ファストフードはもってのほか。でも、お姉さんが子守をした時、シンプルなスパゲッティナポリタンを作ってあげると、「僕はこんなのが食べたかったんだ」と喜んで食べたそうです。(健康的な食事を食べさせてあげられるのは、多くの人には真似することができない良いことですが、)教育者でもあるお姉さんは、自分の理想の姿で子どもを縛り上げてしまう家庭としつけのあり方に苦言を呈しておられました。
「家庭はこうあるべき」「しつけはこうでなければならない」「男性なら/女性なら/父親なら/母親なら/社会人ならこうあるべき」という理想の姿が、家族を縛り、人を傷つけ・さばき、自分を苦しめてしまうことがあります。それは、「理想像の奴隷」になっているのかもしれません。
聖書
ローマ8:2に「キリスト・イエスにあるいのちの御霊の法則は、罪と死との法則からあなたを解放した」とあります。聖書の教えを神様ぬきで読んで、「あれをしなければ、これをしなければ」というルールブックとして読んでいくと、聖書の教えは命を奪い束縛するものになってしまいます。すると、「自分は教えを守れていない」と絶望するか、「自分はこれだけできている」「なのにあの人はなぜそうしないのか」と人を見下すか、どちらかに傾きます。主イエスの時代の多くの人々もそうでした。しかし、聖霊は私たちの心に共に住まわれて、私たちの心を解きほぐし、恐れと束縛から解放してくださいます。

2.子とする御霊、アバ父
ローマ8:15 あなたがたは再び恐れをいだかせる奴隷の霊を受けたのではなく、子たる身分を授ける霊を受けたのである。その霊によって、わたしたちは「アバ、父よ」と呼ぶのである。
15節で、「奴隷の霊」と「子たる身分を授ける霊」が対比されていました。ここに、神様と人の二つの関係性があります。一つは主人と奴隷の関係。もう一つは親と子の関係です。
雇用関係と親子関係
奴隷と主人の関係は、現代では雇い主と従業員の関係かもしれません。雇い主は従業員に指示を出し、その働きを監督して、良く働けば評価され、悪いことをすれば解雇されます。もし何かのルールを神様の代わりとして生きていると、私たちは神様の目を気にしなければなりません。律法を守っている時は安心ですが、律法を破れば自分は神様に見捨てられるという不安がどこかにつきまといます。
親子関係は、そうではありません。親も子どもの生き方に気を配り、子どもを時に厳しく叱りますが、それは従業員に対するのとは違います。子ども自身のためを思って教えるのであって、「自分の利益になるように」するのではなく、「自分の言う通りにならないから」と言って関係を断ち切ることはありません。私たちと神様の関係もそのように、不安と恐れがつきまとう「奴隷と主人」の関係ではなく、愛と信頼に根差した「親子の関係」です。[ii]
「アバ」お父さん
これこそ、主イエスの教えの特徴でした。主イエスは神様を「父」と親しく呼んで、私たちにも主の祈りを教えて「天におられる『私たちの父』よ」と祈るように教えられました。イエス様の神様との祈りは、温かく喜びに満ちて、神様が喜んで答えてくださるという信頼に満ちていました。
そのような主イエスと神様の間の、親子のような親しい関係を象徴的に表すのが、15節の「アバ父」という言葉です。主イエスが使ったアラム語で「お父さん」という親しい呼びかけが「アバ」です。
神の父性:砂漠の岩山のたとえ
神様が「父」であるとは、どういうことでしょうか?神が父であるとは、神が全ての源であり、すべてのものが神に由来することを意味します。神学者のジェームズ・フーストンが、このことを指し示す、非常に印象的な逸話を述べています。
一九五〇年代初頭、南アルジェリアのオアシスから初めて見たサハラ砂漠を、生涯忘れることはないでしょう。小さなオアシスの外側に広がるどうしようもない虚無と砂漠の広大さが私を圧倒しました。砂は風に吹かれ流されて、絶えず動いていました。この風景の中でただ一つの救いは、地層形成エネルギーによって砂漠の中に突き出た格好の、巨大な岩山でした。その陰にオアシスが形成されています。その岩山が太陽と流砂からのシェルターとなり、ふもとからは泉が湧き出てオアシスの緑を潤していました。その大岩とは、文字どおりそこに生きるものに安定といのちをもたらすオアシスの「存在理由」だったのです。このような場所がサハラ砂漠の至る所にあります。地下水脈のそばに岩がある所ではどこでもオアシスの形成が可能なのです。
フーストンは、父なる神は、この世界を生きる私たちにとって、この岩のような存在なのだと言います。神のいない世界は、砂漠のように荒涼として孤独で無意味な偶然の世界で、私たちは吹き流される砂のようにアイデンティティもなく、強い力に押し流されて生きるしかない存在です。しかし、神が人生の土台となって、嵐と太陽の熱を避ける日陰をもたらし、そのふもとに湧く泉に命が生まれ、潤いとやすらぎをもたらします。[iii]

ローマ8:15 あなたがたは再び恐れをいだかせる奴隷の霊を受けたのではなく、子たる身分を授ける霊を受けたのである。その霊によって、わたしたちは「アバ、父よ」と呼ぶのである。
神の父性:お父さんと手をつなぐ
神様が私たちの「お父さん」であるとは、どういうことでしょうか?ある牧師の息子さんの作文が、「神様はお父さんである」ということの意味をよく表していると思いました。
きょう、わたしたちかぞくみんなで、のじりこ一しゅうをしました。すこしつかれたけど、ほんとうにたのしかったです。いろいろの木のみや、花のさいたあとのみや、いろいろなものがとれました。
つかれた人はおとうさんと手をつなぎます。わたしも、つかれてつまずいたりしました。けれども、おとうさんと手をつなぐと、ふしぎにげんきがでてきます。おとうさんの手はとても大きくて、あったかいので、とてもじぶんの手があたたかくなります。[iv]
私たちも、お父さんである神様と一緒に歩む時、疲れても、つまずいても、不思議に元気が出てきます。お父さんである神様の御手は、私たちを導き、励まし、支え、力づけてくれます。

共にいる聖霊:溶接工の父のアドバイス
お父さんの存在は、子どもの頃だけでなく、大人になってからもとても大切です。あるクリスチャンの兄弟は、お父さんから最初に溶接の技術を学び、学校を出た後、お父さんと同じ仕事に就きました。彼は職場で経験を積み、より高度なプロジェクトに携わり、技術と経験を重ねていきました。そんな過程で、難しい溶接の問題で行き詰まってお父さんに電話をすると、いつも解決のためのアドバイスをしてくれたそうです。そのお父さんが亡くなり、数週間後に、再び溶接の問題で行き詰まった時、彼はいつものように「お父さんに電話をかけてみよう」と思ったそうです。電話をしようとした時に、もうそれはできないことに気づいて、私は深い孤独を感じました。彼はもう一人なのだから、自分の技術で問題を解決しなければならないことに気付きました。

イエス様が地上から天に昇られた時、弟子たちもそんな気持ちで、「イエス様から遠く離れてしまった」「もう一緒にいることはできない」と感じました。しかし、ヨハネ14:16にこうあります。
ヨハネ14:16 わたし(主イエス)は父にお願いしよう。そうすれば、父は別に助け主を送って、いつまでもあなたがたと共におらせて下さるであろう。
この、主イエスに変わる「もう一人の助け主」が、聖霊です。溶接工の兄弟は言います。「私たちは独りではありません。いつも私たちを導いてくださる聖霊がおられるのです」。お父さんがいつもそばにいて励ましてくれたように、聖霊は絶えず私たちの隣にいて、力づけてくださいます。[v]
ローマ8:15b-16 その霊によって、わたしたちは「アバ、父よ」と呼ぶのである。16御霊みずから、(わたしたちの霊と共に、)わたしたちが神の子であることをあかしして下さる。
3.神の御霊に導かれる
それでは、神の子どもである私たちは、どのように歩めば良いのでしょうか?それは、14節にあります。
ローマ8:14 すべて神の御霊に導かれている者は、すなわち、神の子である。
「神の御霊に導かれている」ことが、神の子どものしるしです。では、「神の御霊に導かれる」とはどういうことでしょうか? ここで言う「導き」とは、私たちの具体的な行動についての「~へ行きなさい」のような指示のことではありません。14節の意味は、13節から分かります[vi]。
「霊によって、からだの働きを殺す」
ローマ8:13 なぜなら、もし、肉に従って生きるなら、あなたがたは死ぬ外はないからである。しかし、霊によってからだの働きを殺すなら、あなたがたは生きるであろう。
「神の御霊に導かれる」とは、13節の「霊によってからだの働きを殺す」ことを指します。つまり、自分の欲望を満たす生き方を離れて、聖霊によって、「悪い行いを殺す」ことです。別の言い方では、「神の御霊に導かれる」とは、「聖霊に支配された聖なる生き方をすること」です。
聖書には、パウロが宣教に行く場所を神様が夢で指示されたり、戦争のための作戦を教えられたりする記事もありますが、それらは日常的な経験ではありません。ハリウッドの映画で、携帯電話にかかってくる誰か分からない人物からの細かな指示やサインを受けて、追っ手をかいくぐっていくような、不安定な人生でもありません。▼イエス様が生き、教えられたのは、全生涯を神様の手に委ねて、神様との絶え間のない深い交わりの内に生きる生き方です。どんなときにも神様の御心に従って歩み、すべての危険から守り、良いものを与えて下さる神様に信頼して、「全生涯がまるごと神様に導かれる歩み」でした。[vii]
ここに、クリスチャンの戦いがあります。
ローマ8:13 なぜなら、もし、肉に従って生きるなら、あなたがたは死ぬ外はないからである。しかし、霊によってからだの働きを殺すなら、あなたがたは生きるであろう。
しかし、この戦いは自分の力で戦うのではなく、聖霊による戦いです。「霊によってからだの働きを殺す」――ここに、クリスチャンの生き方の秘訣があります。
神の子のアイデンティティに立つ
ジェームズという牧師が、彼のところに来た友人のケアリーのストーリーを紹介していました。ケアリーさんは、成功したビジネスマンでしたが、彼はある悪習慣と戦い続けていました。彼は罪意識を感じ、神さまに告白し、「もう決して同じことを繰り返しません」と約束をしても、しばしばその誘惑に負け続けていました。
ジェームス牧師は、ケアリーのアイデンティティを確認します。「あなたは自分が誰であるかをご存知ですか」と尋ねました。「ええと、私はクリスチャンですが」。彼は主イエスを信じ、教会に通い、聖書を学び、罪を犯さないように努めていました。しかし、誘惑に負け続けていました。
ジェームズ牧師は提案します。「たぶん、別のやり方があるのです。それをするにはある程度の時間が必要となります。手早い修理や魔法の薬などないのです。そのやり方とは、あなたの考え方、つまり自分自身のアイデンティティーを変え、クリスチャン生活が意味することは何かということの理解を刷新することと関係しているからなんです。」「あなたは(クリスチャンとして、)必要なものすべてを手にしているんですよ。あなたに必要なのは新しいアプローチの仕方なのです。」
ジェームスは、彼の問題を「主イエスの復活のいのちがもたらす力についての理解不足」だと見抜きました。それは、今日お話ししたクリスチャンのアイデンティティに関する部分です。「私たちが誰であり、誰のものとされているか」「どのように愛されているか」を深く理解し、それにふさわしい生き方で生きることを励ますものです。
ケアリーはこのことを理解することができ、それを理解するにつれて、人生も変えられていきました。数年後に二人が再開した時、話の間中、ケアリーの顔には笑顔が絶えませんでした。彼はそれを理解した時から、いつも誘惑に合っていた状況の中でも不安がなく、微笑みながら、「私は自分が何者であるかを知っています。私は神の子です。私は神の豊かさにあずかっている者です」と言って平穏の内に過ごすことができました。罪が残っていることは知っていても、その罪はもはや彼を支配していないのでした。彼は自分の経験を他の人に分かち合うようになっていました。
ジェームズは述べています。「最もよい対処法は、キリストにある私たちのアイデンティティという真理の中にどっぷりと浸り続けながら、そうした真理を深める霊的訓練を受けつつ、その真理を互いに確認し合える共同体の一員となることなのです」。[viii]

4.永遠の希望
ローマ8:17 もし子であれば、相続人でもある。神の相続人であって、キリストと栄光を共にするために苦難をも共にしている以上、キリストと共同の相続人なのである。
栄光とは、神のために用いられる言葉です。「キリストと共に栄光を受ける」とは、キリストと共に、キリストに似た者となることを指しています。▼神の相続人となるとは、永遠に神と共にいて、神ご自身を喜ぶことを指しています。
キリストに似た姿に造り変えられていく、それは、私たちの内に与えられた聖霊が、私たちと共に、私たちの内でなして下さる御業です。
ローマ8:15 あなたがたは再び恐れをいだかせる奴隷の霊を受けたのではなく、子たる身分を授ける霊を受けたのである。その霊によって、わたしたちは「アバ、父よ」と呼ぶのである。
祈り
天の父なる神様。主イエスキリストの恵みによって私たちの罪を赦し、聖霊を遣わして私たちを神の子としてくださったことをありがとうございます。揺るがない大岩である神様の上に土台を据えてしっかりと立ちます。共にいてくださる優しい神様の愛で、いつも励ましてください。あなたに選ばれた者として、恐れることなく神様と共に歩ませてください。主イエスの御名によって祈ります。アーメン。
[i] アパルーム2025年11月1日(土) 自信に満ちた自分
[ii] 藤本満「ガラテヤ人への手紙」4:1-7。奴隷と主人の関係は、雇用主と労働者の関係と異なり、暴力と恐怖によって支配される。
[iii] ジェームズ・フーストン「神との友情」p185-187
[iv] 清水恵三「手さぐり信仰入門」、YMCA出版、203頁(藤本 満「乱気流を飛ぶ」6章より)
[v]アパルーム2025年9月15日(月)
[vi] 14節冒頭に日本語に訳されていない「なぜなら」があり、13節と14節が繋がっている。
[vii] ジェームズ・フーストン「神との友情」p173-174、J.I.パッカー「神を知るということ」20章 われらの導き手なる神、
[viii] ジェームズ・ブライアン・スミス「エクササイズ 生活の中で神を知る」いのちのことば社、最8章 神は造り変えるお方

