1サムエル22:1-5「見えない明日を神にゆだねて」
聖書 1サムエル22:1-5
説教 「見えない明日を神にゆだねて」~洞窟で主を待ち望んだダビデ~
メッセージ 堀部 舜 牧師

1ダビデはそこを去って、アドラムの洞穴に避難した。彼の兄弟たちや父の家の者はみな、これを聞いてダビデのところに下って来た。2そして、困窮している者、負債のある者、不満のある者たちもみな、彼のところに集まって来たので、ダビデは彼らの長となった。約四百人の者が彼とともにいるようになった。3ダビデはそこからモアブのミツパに行き、モアブの王に言った。「神が私にどのようなことをされるか分かるまで、どうか、父と母をあなたがたと一緒に住まわせてください。」4ダビデは両親をモアブの王の前に連れて来た。彼らは、ダビデが要害にいる間、王のもとに住んだ。5預言者ガドはダビデに言った。「この要害にとどまっていないで、さあ、ユダの地に帰りなさい。」それで、ダビデはそこを出て、ハレテの森へやって来た。」
1サムエル22:1-5
【試練の時期】
私は大学の博士課程にいたのですが、いくつかの理由でそれをやめて、企業に就職しました。年度の途中だったこともあり、就職活動もなかなか会社が見つからずに苦労をしました。IT系の会社に決まり、神様に頼って歩んでいる中で、きっと神様が自分の仕事を目に見える形で祝福してくださるという確信がありました。それが実際に起こる前に、周りの同僚に言いたいなと思ったのですが、当時は自分に余裕がなく、勇気もなくて言えませんでした。初めての仕事で、会社勤めに慣れるのも最初は苦労しましたが、祈り進む間にだんだん祝福が表れてきました。ある大手サイトの運営をまかされたのですが、私が担当して1年後くらいに急激に受注が増え、新規ウェブサイトの立ち上げがあり、開発案件も増え、担当者も増えて、売り上げは社内で10位くらいから2位にまで増えました。神が祝福してくださったと深く感じ、会社の方々にも証しをする機会となりました。後から振り返ると、祝福を頂いた後の時期も祝福でしたが、まだ成果が目に見える前、誰にも知られずに、期待を持って祈り続けていた時期も、今思えば大きな祝福の時期でした。
人生には、神様に期待して踏み出しだ場所で、思うようにいかないことがよくあると思います。病気になったり、年齢と共にいろいろなことが変わり、仕事でも家庭でも教会でも、それぞれの時期に経験する様に思います。▼ダビデもそうでした。王として選ばれて油を注がれま、主が共におられて戦いには何度も勝利を治めました。でも、かえってサウルの嫉みを買い、命からがら逃げだして外国へ逃れ、そこでも命の危険に遭い、ついに人里離れたアドラムの洞窟に逃れます。そこに人々が集まり始め、400人というちょっとした群れとなります。社会に対して不満のある者たちが集まり、イスラエルの国を動かすには小さすぎるけれども、外国との戦いでは成果も出ていました。ダビデは、「神が私にどのようなことをされるか」という期待を持って、この時期を忍耐して過ごします(22:3)。
今日は、神様が通された訓練の期間である洞窟時代のダビデの姿から、信仰の歩みを見ていきましょう。
1.主は避け所である
【1サムエル記の背景】 先々週は、ダビデが王として油を注がれる箇所を読みました。ダビデは主と共に数々の戦いに勝利します。先週の箇所では、サウル王の息子ヨナタンとの真の友情が描かれました。しかし、ダビデは主が共におられたあまりの勝利のために、むしろサウル王の激しい嫉みを買い、命を狙われて、当時の敵国であったペリシテへと逃げ込みます。ところがペリシテ人は、「これはあの国の王ダビデではありませんか」と言って彼を捕らえます。ダビデは恐れて、気が狂ったふりをしてそこから逃れます。ダビデがたどり着いたのが、アドラムの洞穴でした。
【アドラムの地理】 この地域は、山側にイスラエルの町々があり、海沿いの平野部にペリシテの町々があり、その中間にある人の住まない丘陵地帯でした。母国イスラエルでも、亡命先の敵国ペリシテでも命を狙われて、まさに行き場がなくなったダビデが逃げたのが、中間地帯のアドラムの洞窟でした。ダビデが生まれたベツレヘムから比較的近い地域で、羊飼いをしていたので、この地域を良く知っていたのかもしれません。[①]
【ダビデの孤独】 アドラムに着いた当時のダビデは非常に孤独でした。サウル王から逃れる時も、妻ミカルを置いてたった一人で逃げました。要所要所で、妻ミカルや預言者サムエルや親友のヨナタンが、逃亡を助けてくれました。しかし、敵国ペリシテに逃げて、捕らえられた時も一人でした。ユダの町にもペリシテの町にも住む所がなく、洞窟に逃げ込んだときも、ただ一人でした。
【適用】 私たちも、そんな孤独を感じる時期があるのではないかと思います。病気になった時。愛する人を失った時。人生の挫折を味わった時。私は、大学の博士課程を途中でやめて、就職をした時が、そんな時期でした。親しい関係から切り離されたり、目に見える日常生活がなくなってしまうように感じて、平安と喜びを感じていたものが失われたりすることがあります。▼ダビデにとっては、全く先の見えない、よりすがる土台がすべて取り除かれたような時期でした。

詩篇に見る、ダビデの信仰
詩篇には、この時期のダビデの詩篇がいくつもあります。詩篇56篇は、表題によると「ダビデがガテでペリシテびとに捕えられたときによんだもの」とあります。
56:3 わたしが恐れるときは、あなたに寄り頼みます。
まさに恐ろしい時でした。しかし、ダビデは主に信頼します。
56:4 わたしは神によって、そのみ言葉をほめたたえます。
わたしは神に信頼するゆえ、恐れることはありません。
肉なる者はわたしに何をなし得ましょうか。
人間には何もできない、主が私を守っておられるという告白です。
56:8 あなたはわたしのさすらいを数えられました。
わたしの涙をあなたの皮袋にたくわえてください。
これは皆あなたの書にしるされているではありませんか。
家族を離れ、信頼する指導者と親友に送り出され、ただ一人で涙をのんださすらいの旅路を、主は知っておられます。
56:9 わたしが呼び求める日に、わたしの敵は退きます。
これによって神がわたしを守られることを知ります。
56:11 わたしは神に信頼するゆえ、恐れることはありません。
人はわたしに何をなし得ましょうか。
彼は、人間としてはたった一人でした。家族を離れ、指導者サムエルを離れ、親友ヨナタンを離れ、部下もおらずたった一人でした。でも、不思議な方法でサウルの手を逃れ、敵地でただ一人捕らえられた時も、救い出されました。ダビデは孤独なさすらいを通して、「神がわたしを守られる」ことを身をもって経験しました。
詩篇34篇は、同じくガテで捕えられ、そこから逃れた時の歌です。
34:6 この苦しむ者が呼ばわったとき、主は聞いて、
すべての悩みから救い出された。
34:7 主の使は主を恐れる者のまわりに
陣をしいて彼らを助けられる。
ダビデは、頼る者が何もない状況で、主の救いを経験しました。人間的には、軍隊の助けも全くない、神だけが共におられる状況で主に叫び求め、救い出されました。
34:22 主はそのしもべらの命をあがなわれる。
主に寄り頼む者はひとりだに 罪に定められることはない。
ダビデは、「主に身を避けて」、救い出されました。
この時期の詩篇に、「主に身を避ける」という言葉が繰り返し出てきます。詩篇57篇は、ダビデが洞窟にいた、この前後の時期の詩篇です。
57:1 神よ、わたしをあわれんでください。わたしをあわれんでください。
わたしの魂はあなたに寄り頼みます。
滅びのあらしの過ぎ去るまでは あなたの翼の陰をわたしの避け所とします。
2 わたしはいと高き神に呼ばわります。
わたしのためにすべての事をなしとげられる神に呼ばわります。
ダビデはサウルやペリシテの軍隊から逃れて、洞窟に身を避けましたが、何よりも主により頼んで、神様の守りのうちに身を避けたのでした。
S兄の祈り
S兄がここ数年間の歩みについて証しを書いてくれました。5年前に仕事を失ってから、再就職して、昨年再び正社員になった時のことを証ししてくれました。デボーションの学びを一緒にする中で、よく当時のことを話してくれます。
祈りに関する学びの中で、詩篇62:8を一緒に読んで、感じたことを分かち合い、自分の言葉で言い換えました。「民よ、いかなる時にも神に信頼せよ。そのみ前にあなたがたの心を注ぎ出せ。神はわれらの避け所である。」これをS兄は、こんなふうに言い換えました。「祈りは大変な時に「避け所」になる。「心を注ぎ出せ」とは、「心を捧げること」。その時に、心にゆとりができる」――「心を注ぎ出す」とは、「心を捧げること」だと。これを聞いた時に、兄弟はこの祈りを経験して話していると思いました。そして、「心にゆとりができる」「祈りは、大変な時に「避け所」になる」。そのような祈りの恵みを経験していきたいなと思います。
孤独の中で味わう試練は、神様が信仰を育てる学校です。
詩篇62:8「民よ、いかなる時にも神に信頼せよ。
そのみ前にあなたがたの心を注ぎ出せ。
神はわれらの避け所である。」

2.「神は何をしてくださるのだろう」
ダビデが神により頼んで、救い出されてたどり着いたのがアドラムの洞窟でした。人の住まない洞窟。ユダにもペリシテにも居場所がなくなってたどり着いた暗く寒い洞窟でした。しかし、このどん底で、ダビデの境遇に変化が起こり始めます。
ダビデの家族が彼のもとに集まりました。そして、22:2で、イスラエルの社会で居場所を失った人たち、「しえたげられている人々、負債のある人々、心に不満のある人々」が集まって、ダビデが彼らの長となります。▼はじめに集まったのは、不満のある者たちでした。欠けの多い人たちでした。しかし、ダビデが、サムエルを通して主に油を注がれて、王として任命されたことを知っている人たちでした。▽400人という人数は、サウル王やペリシテに対抗できる規模ではありません。でも、何もないところに生まれる集団ではなく、無視できない勢力になります。それは、神様が何かをしておられるしるしでした。▼後から振り返ってみれば、この時期はダビデの王国が芽を出した時期でした。ダビデの王朝で大きな役割を果たしたヨアブなどの親戚も、各地を転々とする逃亡生活の初期に加わったのだろうと思います。[②] 後に触れるように、後にダビデの3勇士として知られる戦士たちも、このアドラムの時期に加わりました。そのように見ると、ダビデ王国の核を担う人々が、この時すでに集まってきていることになります。
ダビデはこうしたことをまだ知りません。しかし、何かが起こっているのを感じました。ダビデは曾祖母のルツがモアブの出身でしたので、父と母を安全なモアブの王に預けます。
22:3「神がわたしのためにどんなことをされるかわかるまで、どうぞわたしの父母をあなたの所におらせてください。」
ダビデの状況は厳しいものでした。命がけの逃亡生活が続き、ペリシテとの戦いも断続的に起こっていました。しかし、ダビデの言葉には「主は私に何をしてくださるのだろう」という期待感があります。
ただ頭で・教理として神を知っているだけではありません。これまで神が守ってくださったという経験に基づいて、これまでに頂いた恵みの記憶が、現在を導く神への信頼と、未来への期待を生みます。ダビデは「わたしのためにすべての事をなしとげられる神」に期待し、信頼しました。(詩篇57:2)
社会人青年の祈祷会
私が社会人時代に通っていた教会では、社会人青年が少なくなっていた時期で、2人しかいない時もありました。その時期に、少人数の青年で学びと祈りの会を続けていたことを思い出しました。平日の夜、仕事帰りに会堂の片隅で、暗い電灯の下で、兄弟たちと一緒に祈ったことが、暗い洞窟で祈ったダビデの姿と重なって思い出しました(笑)。(私にとって、人生の方向性を探し祈る、苦しい時期でした。)メンバーが入れ替わりながら、少しずつ人が加わっていき、体制が変わる中でその会の形は変わりましたが、神様により頼んでいくことを実践する時でした。
自分自身の取り組みの萌芽
私はこの2年ほど、先輩牧師と共に、ある神学者に関する学びを続けてきました。今秋に先輩牧師が、ある学会でこの学びに関する研究発表をすることになりました。小さなことなのですが、自分たちのやっていることが実を結んでいくことに、喜びを感じています。「主は私に何をしてくださるのだろう」。「私を通して何をしてくださるのだろう」。主に期待して、今、目の前にある事柄に誠実に取り組みたいと思います。
今、病気や年齢を重ねる中で、肉体的な試練を受けておられる方もおられます。仕事の中で奮闘しておられる方もおられると思います。家庭生活や、いろいろな不安の中で、「これからどうなるんだろう」と思っておられる方もおられるかもしれません。
そのところで、今日のダビデの言葉は私たちの言葉になります。「主よ、あなたは私に何をしてくださるのでしょうか。」これまで頂いた主の恵みを思い起こし、主に信頼と期待を置いていきたいと思います。

3.神は人を育てられる
アドラムの洞窟に400人が集まってきた時期の出来事が描かれている箇所が、実は2サムエル記23章にあります。ダビデ王を支えた30人の勇士たちのかしらである、三人の勇士がいました。彼らがダビデのもとに来たのが、アドラムの洞窟でした。
当時はペリシテ軍が優位な情勢で、ダビデたちは洞窟に隠れていました。乾燥したイスラエルで、飲み水がなく、ダビデが井戸の水を飲みたいと切に願いました。それを聞いた三勇士は、敵の陣地を突き破って町の井戸に行き、水を汲んで洞窟のダビデのもとに持っていきました。ダビデは、彼らが命を懸けて持ってきた、彼らの命である血のように尊い水を「どうして飲めるだろうか」「そんなことは、神の御前に絶対にできない」といって、水を飲まずに神様に前に注ぎます。▼この3人は、ペリシテとの戦いで、味方が退却した時に一人で踏みとどまって敵を討ち、大勝利をもたらすなど、大きな戦いの功績を残しました。
アドラムの洞窟とは、こんな3人のような人たちが集まり、ダビデとの信頼関係を築いた特別な時期でした。ダビデにとって、ユダにもペリシテにも身の置き場がなくなり、一人逃げてきた、人間の住まいではない洞窟でしたが、 そこで多くの信頼できる力強い仲間を得て、神が御業を始めておられることを実感し、ダビデの王国の最初の芽が出てきた、そんな時期でした。▼この最初の逃亡と戦いの生活を通して、彼らが練達の勇者となり、互いに命を大切にする共同体となり、その信仰と勇気と人格が練られました。洞窟の時代は、神の御国の学校だったとも言えると思います。
かつての青年会での経験
最近に、私たち夫妻の友人が婚約して、私たちが証人をさせて頂きました。私にとっては、彼らはそのような洞窟時代を共に過ごした仲間でした。教会の青年たちがこの世の戦いで疲れて弱っていた時期を越えて、主にあって共に信仰をもって歩んでいこうと励まし合い・祈り合い、礼拝し・讃美し、一緒に食事をしてキャンプをして、楽しい時を過ごしました。今回婚約した兄弟とは、青年会の「祈祷部」で一緒でした。部員は二人。私が部長で、彼が部員でした(笑)。例会では学生と社会人を合わせて10人強だったのが、20-30人ほど集まるようになりました。その中から、私を含めて牧師・伝道師が3-4人、牧師夫人等が2人、教会役員や礼拝や教会学校で奉仕する方々が何人も出ました。
初めは、アドラム共同体に「困窮している者…不満のある者」が集まったように、教会は社会的には周辺的な・陽の当たらない群れに見えるかもしれません。でも、そこに真実な共同体が起こり、一人一人の信仰と人格が育まれていきます。「神は今、私に何をしてくださるのだろう」という期待をもって主に信頼したいと思います。
◆「さあ、ユダの地に帰りなさい。」
ダビデが安全なモアブの要害にいた時、預言者がダビデに言います。ガドという預言者は、ダビデと行動を共にしていた一人のようです。[③]
1サムエル22:5「要害にとどまっていないで、去ってユダの地へ行きなさい」。
預言者の命令は、旧約聖書の律法がモアブ人と距離を置くことを命じているため、この律法を守るためのものでした。[④] このことは、ダビデが、安全な要害とモアブの王の保護を離れて、ユダのサウル王の攻撃に身をさらすことになります。実際に、この後、ユダのサウル王は軍勢を連れて執拗にダビデを追跡して、ダビデは荒野を逃げ回ることになります。▼一見すれば、この場面で神の律法に忠実であることは、ダビデを危険な状態に押し出すことでした。しかし、ダビデもその部下たちも、神様が命じていた当時の律法に逆らって、自分たちの安全を守ろうとはしませんでした。むしろ、神様が彼らを守ってくださることに信頼して、ユダの地に戻ります。彼らは、「神様ご自身の翼の陰に身を避ける」ことを選んだのでした。そして、この圧倒的に不利な状況の中で、神様はダビデを不思議な導きによって繰り返し守り、救い出されます。
22:5「要害にとどまっていないで、去ってユダの地へ行きなさい」。
この言葉の中に、自らの危険と労苦をも顧みずに、主に信頼して、自らの使命に向かって進んでいく、信仰の決意と勇気を頂きたいと思います。
結び
ダビデは荒野の洞窟に逃げた時、孤独で行き場がなく、未来を知らなかった。しかし、神が彼を守っておられることを経験し、「神が味方である」ことを知りました。その神の恵みの記憶のうちに、彼は勇気を得て、主に信頼しました。
アドラムに集まって来た勇士たちを見て、「神が何をなされるのか」を期待して、未来を主にゆだねました。そこに集まった人々は、行き場をなくした雑多な人々でしたが、それが神が起こしたダビデの王国の最初の始まりでした。
主が御業を始められる時、思いがけず試練や逆境を通されることがあります。しかし、その中で主は私たちの信仰を育て、人を育て、私たちの人生にも御業を進めてくださいます。だから今日も、主の御翼のもとに身を避けましょう。そして、「主よ、あなたはこれから私に何をしてくださるのでしょうか。」という期待をもって、神様と共に、主に従う新しい一歩を踏み出して参りましょう。
【祈り】
主よ、あなたはこれまで私たちを守り導いてくださったことを感謝します。だから、私たちは今日もあなたに身を避けます。そして、あなたがこれから何をしてくださるのか、期待しながら歩みます。どうか私たちを育て、私たちの教会をあなたの愛に生きる群れへと造り上げてください。
[①] https://www.bibleplaces.com/blog/2010/07/adullam-city-in-no-mans-land/?srsltid=AfmBOopfX1RhTT4UgwQd6mb4A96W9si2lL7Q_AxLYTIgCMVHmKI3w7Mv
https://www.itsgila.com/adullam.htm
[②] Ⅰサムエル26章 アビシャイ
[③] 預言者ガドは、「先見者ガドの働き」と呼ばれるダビデの伝記もあることから、ダビデと共に歩んだ人物と考えられる。歴代上29:29、サムエル下24:11
[④] 申命記23:2-6(New American Commentary 22:3-5)

