Ⅱサムエル7:8-16「主が築いてくださる人生」
聖書 Ⅱサムエル7:8-16
説教 「主が築いてくださる人生」
メッセージ 堀部 舜 牧師

8それゆえ、今あなたは、わたしのしもべダビデにこう言いなさい、『万軍の主はこう仰せられる。わたしはあなたを牧場から、羊に従っている所から取って、わたしの民イスラエルの君とし、9あなたがどこへ行くにも、あなたと共におり、あなたのすべての敵をあなたの前から断ち去った。わたしはまた地上の大いなる者の名のような大いなる名をあなたに得させよう。10そしてわたしの民イスラエルのために一つの所を定めて、彼らを植えつけ、彼らを自分の所に住ませ、重ねて動くことのないようにするであろう。11また前のように、わたしがわたしの民イスラエルの上にさばきづかさを立てた日からこのかたのように、悪人が重ねてこれを悩ますことはない。わたしはあなたのもろもろの敵を打ち退けて、あなたに安息を与えるであろう。主はまた「あなたのために家を造る」と仰せられる。12あなたが日が満ちて、先祖たちと共に眠る時、わたしはあなたの身から出る子を、あなたのあとに立てて、その王国を堅くするであろう。13彼はわたしの名のために家を建てる。わたしは長くその国の位を堅くしよう。14わたしは彼の父となり、彼はわたしの子となるであろう。もし彼が罪を犯すならば、わたしは人のつえと人の子のむちをもって彼を懲らす。15しかしわたしはわたしのいつくしみを、わたしがあなたの前から除いたサウルから取り去ったように、彼からは取り去らない。16あなたの家と王国はわたしの前に長く保つであろう。あなたの位は長く堅うせられる』」。
2サムエル7:8-16
映画観賞会「天国からの奇跡」
「天国からの奇跡」という映画を見ました。実話を元にした映画です。次女のアナベルが治療法のない消化器系の難病にかかり、非常に苦しみます。どんなに手を尽くしても直らないのですが、ある日、木の穴に転落する事故に遭い、その事故の後、奇跡的に病気が癒されます。その時、アナベルは臨死体験をして、天国のような場所で神様の声を聞き、「戻りなさい。病気は癒されている」と言われて、気が付いてみると難病は癒されていたそうです。
私の印象に残ったのは、アナベルの友だちの小児がん患者で、イエス様を信じて平安のうちに亡くなったヘイリーと、苦しみの果てに奇跡で病気が癒されたアナベルの対比です。ほとんどの患者には奇跡は起こらず、病気に苦しんで亡くなります。それでも、癒されたアナベルも、癒されなかったヘイリーも、主イエスの恵みの支配の下にある事実は同じです。▽アナベルはイエス様の声を聞いて、奇跡の癒しを経験しました。ヘイリーは、まだ病気で苦しんでいたアナベルを通してイエス様を信じて、平安のうちに最後の数週間を過ごして、亡くなりました。そのどちらも神様の恵みと支配の下にいました。
今日のお話しは、キリストの王国=神の御国=聖霊の支配の約束です。私たちのほとんどは天国を見るような経験はしません。アナベルにとっても一生に一度の経験で、人生の多くの時間は何の変哲もない生活が続きます。それでも、主イエスが支配している神の国の現実を知る者として、心に留めて生きていくのが信仰ではないかと思います。
【サムエル記の文脈】
礼拝では続けてサムエル記を読んできました。ダビデは、預言者サムエルから油を注がれて、王としての使命を受けたのですが、サウル王が生きている間、かえって困難な状況に置かれます。サウルやペリシテ人などから命を狙われて転々と逃げ回りながら、どこへ行っても決して敵の手に陥らず、神の守りを経験します。ダビデの周りには次第に人が集まり、神が御業を進めておられるのをダビデ自身経験していきます。
先々週は、ツィクラグで略奪隊に家族が連れ去られた試練を乗り越えた場面でした。その後、サウルが死んで、ダビデが王となり、イスラエル全体を統一します。▼政治面だけでなく信仰面でも、先週の箇所で、ダビデは神の箱をエルサレムに運んで、その前で心からの礼拝を捧げました。ダビデの時代に、礼拝の制度が整えられました。神殿が建てられたのはダビデの子ソロモンの時代ですが、エルサレムの主の箱の前で、聖歌隊や門衛などの組織を整え、ダビデ自身多くの詩篇を作りました。後の神殿礼拝に繋がる、様々な礼拝の制度が整えられ、主への礼拝が復興していった時代でした。
2サムエル7章の背景
2サムエル7章は、旧約聖書全体の約束の中心にある、非常に重要な箇所です。2サムエル7:1には、こうあります。「1さて、王が自分の家に住み、また主が周囲の敵をことごとく打ち退けて彼に安息を賜わった時…」
「安息」という言葉は、イスラエル人が出エジプトをして、約束の地に入った時に、ヨシュアを通して神様がくださった約束です。士師の時代には、イスラエル人は好き勝手に生きて、敵に悩まされて安息がありませんでした。しかし、主に従うダビデの時代に、主は安息をくださいました。士師の時代が終わり、王朝時代に映り、主の約束が成就した安息の時代が訪れました。その時に与えられた神様ご自身からの約束が、今日の7章の御言葉です。
2サムエル7:13 彼はわたしの名のために家を建てる。わたしは長くその国の位を堅くしよう。
主がダビデの王朝と王国を建てられるという約束です。「彼」と呼ばれるダビデの子孫は、直接にはダビデの子ソロモンを指しますが、「とこしえまで」続く王座とは、救い主キリストを指し示していると読み取れます。この約束は後の時代まで繰り返し引用され、究極的にはイエス・キリストによって成就します。
今日は7章の約束を、いくつかのキーワードから見ていきます。それは、①「安息」、②「家」、③「父」と「子」、④「主のしもべ」です。
1.主が「安息」をくださる
一つ目のキーワードは「安息」です。
7:1「さて、王が自分の家に住み、また主が周囲の敵をことごとく打ち退けて彼に安息を賜わった時、…」
戦いの連続であったダビデは、主によって敵に打ち勝ち、安息を得ました。それは単に戦いが止んだというだけではありません。6節で主は出エジプト以来のイスラエルの歴史を振り返っています。「安息を賜わった」とは、モーセとヨシュアが約束した神様の安息が成就して、主の計画が新しいステージに入ることを示しています。
【適用①:終わりの日の安息】
新約聖書のヘブル4章で「安息」とは、私たちが終わりの日に頂く究極的な安息を指し示しています。安息を頂くのは、イエス・キリストへの信仰によります。この地上の様々な試練や戦いを越えて、生きた真実な信仰に立ち続けるならば、私たちには終わりの日に永遠の安息が備えられています。
【適用②:約束の成就のしるしとしての安息】
しかしそれだけでなく、ダビデやヨシュアのように、この地上で味わえる安息もあると思います。それは、主に従う者が、地上の人生のある時期に経験することができる安息です。
クリスチャンの人生には、渇いた時期もあれば、満ち足りた時期があります。順風満帆の時期もあれば、仕事に追い立てられて心も体も余裕のない時期もあれば、健康を崩して苦しんで主に叫ぶ時期もあります。仕事や健康や周囲の状況などに影響されることもありますし、神様との関係で、喜びの時期や暗闇の時期を通ることもあります。▼私は、クリスチャンになって初めの10年ほどは、非常に渇いた時期・混乱した時期を過ごしました。その時にはずっとこれが続くのかと思うと、非常に暗い思いになりました。しかしそれは、やがて変わっていくものです。私もその後には、クリスチャンとして非常に楽しく充実した時期も経験しました。▽渇いた時期を通る時には、主が安息をくださる時期があることを心に留めたいと思います。それが主の約束であり、主の訓練の方法です。それは、主の恵みによって、御心にかなう時に与えられます。忍耐強く待ち望みたいと思います。▽それは、自分の知恵と力で勝ち取るものではありません。反対に、何もせず怠惰に過ごすことが「安息」でもありません。私たちは主に祈り・求め、委ねられた責任に忠実に励みます。しかし、私たちを導き・道を開き・決定的な働きをなし・安息を与えてくださるのは、主ご自身です。▽主に信頼し、安息を待ち望み、また、感謝してそのうちに憩わせて頂きましょう。
2.神が建てる神の支配・王国
第二のキーワードは、「家」「主が家を建ててくださる」(11,13節)です。ダビデは主のために家(=神殿)を建てようとしました。▽ダビデは、貧しい羊飼いであった自分を主が引き上げて、洞窟や荒野の放浪生活からも救い出し、今や王として立派な王宮に住むようになった、神様の御恩を思い起こしました。そして、主の幕屋を見ると、荒野の放浪時代から変わらない、移動式の簡素なテント張りでした。ダビデは主のために、もっと立派な神殿の建設を提案しました。▽しかし、神様の答えは、ダビデが神様のために建てるのではなく、むしろ神様がダビデのために建ててくださるというものでした。それは、物理的な家(建物)ではなく、「ダビデの家」すなわち王朝であり王国でした。

「家」とは、単にダビデ個人の人生を主が豊かにしてくださるということではありません。「ダビデの家」とは、ダビデの王朝、そしてその王が治める王国です。主が「あなたのために家を造る」と言われた時、そこには、主が王を立て、主がその王国を治め、主の支配を歴史の中に実現していくという約束が含まれています。
ダビデ王家の永遠の王座を約束したこの御言葉は、歴史上、絶えず信仰の拠り所となりました。
救済史
王朝時代
イスラエルの悪王アハブの時代にも、この約束が拠り所になりました。
2列王8:19「主はしもべダビデのためにユダを滅ぼすことを好まれなかった。すなわち主は彼とその子孫に常にともしびを与えると、彼に約束されたからである。」
バビロン捕囚時代
ダビデ王朝が滅びたバビロン捕囚時代にさえ、この約束が希望になりました。
エレミヤ33:17 主はこう仰せられる、イスラエルの家の位に座する人がダビデの子孫のうちに欠けることはない。
ダニエル7:14 彼に主権と光栄と国とを賜い、諸民、諸族、諸国語の者を彼に仕えさせた。その主権は永遠の主権であって、なくなることがなく、その国は滅びることがない。
キリスト到来
この約束は、イエス・キリストにおいて成就しました。キリストが王として来られ、「神の国」が到来しました。主イエスの受胎告知の言葉です。
ルカ1:31-32 「31見よ、あなたはみごもって男の子を産むでしょう。その子をイエスと名づけなさい。32彼は大いなる者となり、いと高き者の子と、となえられるでしょう。そして、主なる神は彼に父ダビデの王座をお与えになり、…」
この「支配」という言葉が、ギリシャ語で「王国」「(神の)御国」という言葉です。キリストの支配は、聖霊によって私たちのただ中に働いています。だから神の国は、単に将来死んだ後に行く場所ではありません。私たちは今もキリストの支配のもとに生きています。
中村哲「天、共にあり」
再来週の子ども夏祭りの絵本朗読のために、アフガニスタンで用水路を作り、65万人を養う農地に緑をもたらした医師の中村哲さんの物語を準備しています。中村さんは、聖書のインマヌエルという言葉を日本語に言い換えた「天、共にあり」という言葉で、自分の生涯を表しています。彼がアフガニスタンで水路を掘るように至った神の導きを、「天、共にあり」と表現しています。
中村哲さんは1946年に福岡に生まれます。小学生の頃、同級生の父親との出会いで昆虫採集に没頭。この昆虫と山への関心が、後にパキスタンとアフガニスタン訪問のきっかけとなります。中学でミッションスクール西南学院でキリスト教に触れて、中学3年で受洗します。32歳で登山隊の医師として、パキスタンの山に登ります。その時、貧しい人たちから薬を求められますが、登山のための薬でしたので、断らざるを得ませんでした。その時の悔しい思いが、後に医師としてパキスタンに赴任する動機となりました。
38歳でパキスタンの病院に赴任すると、そこは物資が不足する野戦病院のようでした。アフガニスタン内戦で大量の難民が押し寄せたため、情勢の変化に合わせてアフガニスタンにも診療所を開き、多い時には11カ所の診療所を運営しました。
ところが、2000年54歳の時にアフガニスタンに大干ばつが起こります。栄養失調の子どもが泥水を飲んで感染症になり、特に赤ちゃんが多く亡くなりました。医療が崩壊し、飢餓で人々の命が危険にさらされる中で、中村さんは井戸を掘り始めます。現地の人たちと共に6年間で1600カ所の井戸を掘りました。2年後、厳しい干ばつで地下水が枯れ、井戸も干上がります。農民が仕事を失い、生活のために兵士となる状況を見て、農業の再建が必要だと考えた中村さんは、ついに全長25kmの用水路を建設する計画を立てます。彼は土木の技術を一から一から学び、自ら設計図を書き、人々を励まし奮い立たせ、政府機関と交渉し、重機を入手して、自らショベルカーに乗り現場を指揮しました。7年の工事を経て、「真珠の水」という意味のマルワリード用水路が完成します。400名の作業員、日本のペシャワール会のスタッフと日本から寄付を寄せた2万人の会員。汚職がはびこる地方行政で出会った誠実な長官の協力、誠実な重機会社の社長。難しい政治交渉に当たった同僚との出会いと助けがありました。
現地の人たちでメンテナンスできる用水路は成功をおさめ、65万人の暮らしを支えるようになりました。政府の後押しでアフガニスタン全土で展開しようとしていた矢先、2019年に誘拐犯の襲撃で、73歳で命を落とされました。[1]
中村哲さんと神の国建設
中村さんは、アフガニスタンで用水路開発に至る一つ一つの出来事の中に、神の導きを感じていました。もし昆虫に興味が無ければアフガニスタンには行かなかった。虫の面白さを教えてくれた友だちのお父さんとの出会い。パキスタンに同行した山岳部の人たちとの出会い。ハンセン病医師との出会い。事務局のスタッフや日本人ワーカーとの出会い。難民キャンプでの診療、日本で支えた家族の存在。一つ一つの出会いの中に、「天、共にあり」という神の導きを認めておられました。これが「神の国/神の支配」の中に生きるということではないでしょうか。
リーダーであった中村哲さんだけが主の働きに携わったのではありません。名前を知られていない数多くのワーカーたち・日本の支援者たち・現地の人々・その他多くの人たちが、それぞれの形で神の御国の働きにあずかりました。私たちも、そのように人に知られず、時には自分自身も気付かない形で、神の国の御業に携わっているのかもしれません。
神が建てる
神様のために神殿を建てようとしたダビデに、主は言われました。
7:5 「…あなたはわたしの住む家を建てようとするのか。」
7:11「…主はまた「あなたのために家を造る」と仰せられる。」
最終的に(ソロモンによって)神殿は建てられます。しかし、それ以上に、主が事を成してくださることが重要です。主が御業をなされるので、私たちの働きが永遠の意味を持つようになるのです。
中村さん本人も、最初から用水路造りをしようと思ったことはなく、目の前にある必要に必死で答えようと取り組んできて、行きついた先がこの働きでした。薬を上げられなかった貧しい患者を思い続け、一人のハンセン病患者の叫びに耳を傾け続け、紛争と干ばつに苦しむ住民と共に歩んだ先にあったのが、用水路の開発と豊かな実りでした。後から振り返れば、そこに至る一つ一つの過程に、主の導きの御手を見ることができます。
私たちも、日々起こってくる出来事に対応することで精一杯かもしれません。状況に圧倒されて、自分の無力感を感じるかもしれません。▼私たちは精一杯努力します。でも、最終的に残るのは、主がなされた御業です。主の御業が残ります。
詩篇127
1 主が家を建てられるのでなければ、
建てる者の勤労はむなしい。
主が町を守られるのでなければ、
守る者のさめているのはむなしい。
2 あなたがたが早く起き、おそく休み、
辛苦のかてを食べることは、むなしいことである。
主はその愛する者に、眠っている時にも、
なくてならぬものを与えられるからである。
箴言19:21「人の心には多くの計画がある、しかしただ主の、み旨だけが堅く立つ。」
だからこそ、私たちは主に信頼して、主にあって為した働きは無駄にはならないのだから、焦ることなく、平穏な心で、今目の前に置かれた働きに黙々と取り組みたいと思います。
3.「父」と「子」
第3のキーワードは、「父」と「子」です。
父が担う
ダビデが主のために神殿を建てることを提案した時、主は言われました。
7:6 わたしは、エジプトからイスラエルの子らを連れ上った日から今日まで、家に住んだことはなく、天幕、幕屋にいて、歩んできたのだ。
この言葉を読んで、まるで息子に面倒をかけさせない父親のような神様の気持ちを感じました。「イスラエルよ、あなたは私の子どもだ。あなたが私を養うのではない。私があなたを養ってきた。私がその労苦を担う」と言っておられるかのようです。
7:8 …『万軍の主はこう仰せられる。わたしはあなたを牧場から、羊に従っている所から取って、わたしの民イスラエルの君とし、
「私はあなたを幼いころから知っている。あなたをここまで育てたのはこのわたしだ」と。私たちが主のために何かをする以上に、主が私たちを養い育ててくださいます。
父の訓練
7:14「わたしは彼の父となり、彼はわたしの子となるであろう」は、直接にはソロモン王と主の深い関係を指しています。そしてこの父と子の関係は、14節にある、罪を犯した時の懲らしめと、15節にある、決して取り去られることのない神の恵み(ヘセド)を教えています。
ヘブル12:5-7 5また子たちに対するように、あなたがたに語られたこの勧めの言葉を忘れている、
「わたしの子よ、
主の訓練を軽んじてはいけない。
主に責められるとき、弱り果ててはならない。
6 主は愛する者を訓練し、
受けいれるすべての子を、
むち打たれるのである」。
7 あなたがたは訓練として耐え忍びなさい。神はあなたがたを、子として取り扱っておられるのである。いったい、父に訓練されない子があるだろうか。
ヘブル13:5 主は、「わたしは、決してあなたを離れず、あなたを捨てない」と言われた。
【適用】 主はソロモンを子と呼んで、父親として彼を懲らしめ、導き、決して見捨てませんでした。そのように、主は私たちクリスチャンを「子」と呼んでくださいます。この時代の親子関係が表すものは、厳しく懲らしめて導くことと、決して見捨てることのない愛の絆です。私たちが労苦する時、親が子の責任を負うように、主ご自身が、私たちを担い、責任を持って導いてくださいます。
4.「しもべ」
第4のキーワードは「しもべ」です。5節と8節で主はダビデを「しもべ」と呼びます。
「主が私の人生を築いてくださる」と聞くと、では私は何もしなくてよいのか、と思うかもしれません。そうではありません。私たちは、自分の人生の主人ではないということです。だからこそ、私たちは主のしもべとして生きるのです。
聖書では、神に従う忠実な信仰者が「しもべ」と呼ばれます。主は、アブラハムを、モーセを、ダビデを、神の言葉を伝えた預言者たちを、そして旧約聖書で預言されたメシア/新約聖書の主イエスを、そして使徒たちを「神のしもべ」と呼んでいます。
「しもべ」とは、自分の人生の主人は自分ではなく、神様が主人であることを認めている人です。自分が良いと思った時にだけ従うのは、「しもべ」ではありません。従いやすい時だけ従うのは「しもべ」ではありません。▼祈祷会で主の祈りを読みましたが、「御名を崇めさせたまえ」と祈り、ゲツセマネの祈りのように「わたしの思いのままにではなく、みこころのままになさって下さい」(マタイ26:39)と祈るのが、神様を主人とする「主のしもべ」の祈りです。「御国を来たらせたまえ」「御心が地上でもなされるように」。「私の人生を、私の思い通りにしてください」ではなく、「主よ、あなたの御心を私の人生に成してください」と祈るのです。
「神のしもべ」となることは、私たちの生き方に表れます。
エペソ6:6 キリストの僕として心から神の御旨を行い(なさい)。
ローマ6:18-19 (あなたがたは)罪から解放され、義の僕となった。19…今や自分の肢体を義の僕としてささげて、きよくならねばならない。
キリストを王としてその支配の下に生きるならば、私たちは自分の欲望のままに生きることはできません。神の御心を行い、自分の手足を義の奴隷として捧げるのです。

まとめ
私たちは、自分の人生の先をすべて知っているわけではありません。いつ安息が来るのか分からないことがあります。神様が何を築いておられるのか、今は見えないことがあります。なぜこのような訓練を受けているのか、分からないこともあります。
しかし、今日の御言葉は私たちに教えています。
・主は、時にかなって安息をくださる。
・主は、私たちの家・人生を建ててくださり、私たちはその支配の中を生きます。
・主は、父として私たちを担ってくださる。
・だから私たちは、主のしもべとして生きる。
自分の人生を自分で切り開き、完成させる必要はありません。主に従いながら、今日、目の前に置かれた務めを果たす。主を信頼して、一歩ずつ歩む。▼後で振り返った時、「ここまで導いてくださったのは、私ではなく主でした」と言えるのではないでしょうか。
「主が家を建てるのでなければ、建てる者の働きはむなしい。」主が建ててくださる人生を、主のしもべとして歩んでいきましょう。
[1] 中村哲「天、共にあり」、中村哲、澤地久枝「人は愛するに足り、真心は信ずるに足る」、CGNTV「天、共に在り クリスチャン 中村哲兄とは」


