2サムエル11:1-17「罪の連鎖と神の招き」

聖書 2サムエル11:1-17、ヤコブ1:13-15
説教 「罪の連鎖と神の招き」
メッセージ 堀部 里子 牧師

2さて、ある日の夕暮、ダビデは床から起き出て、王の家の屋上を歩いていたが、屋上から、ひとりの女がからだを洗っているのを見た。その女は非常に美しかった。3ダビデは人をつかわしてその女のことを探らせたが、ある人は言った、「これはエリアムの娘で、ヘテびとウリヤの妻バテシバではありませんか」。4そこでダビデは使者をつかわして、その女を連れてきた。女は彼の所にきて、彼はその女と寝た。(女は身の汚れを清めていたのである。)こうして女はその家に帰った。5女は妊娠したので、人をつかわしてダビデに告げて言った、「わたしは子をはらみました」。

2サムエル11:2-5

13だれでも誘惑に会う場合、「この誘惑は、神からきたものだ」と言ってはならない。神は悪の誘惑に陥るようなかたではなく、また自ら進んで人を誘惑することもなさらない。14人が誘惑に陥るのは、それぞれ、欲に引かれ、さそわれるからである。15欲がはらんで罪を生み、罪が熟して死を生み出す。

ヤコブ1:13-15

 失敗から学ぶ

おはようございます。甲子園が終わると、夏が終わったという感じがします。今年の長野県代表松商学園が長野大会で優勝したときの松宗勝監督のインタビューの言葉が話題になりました。

「スタンドにいる三年生。6月30日のメンバー発表の日に、いろいろ心が揺れ動いたと思います。でも、その時に『チームのために何でもやります』と言ってくれた、その言葉…。連覇の要因は君たちです。これからも豊かな心で、明るい未来になることを信じられますし、そういった人が輝ける社会であって欲しいと思います。」

松宗監督は、松商学園の卒業生で、野球部時代はベンチ入りを果たせなかったそうです。だからこそグラウンドで戦えない選手たちの気持ちが理解でき、感謝の言葉に気持ちがこもっていたのだろうと思います。監督の言葉から、選手たちとともに心を合わせて、試合に臨んでいる様子が伺えます。

「…今となっては逆にメンバー外でよかったと思っています。ケガも浪人も経験して、人生の9割はうまくいってないことだらけです。でも、今は失敗やうまくいかなかった経験を生徒たちに伝えられます。だから、よかったと思っています。」

私たちの人生は全てが上手くいくことばかりではありません。失敗からどのように学び、立ち直るかが大切です。同じように、罪を犯した後、どのように悔い改めと回復の道を辿るのかが大事ではないでしょうか。なぜなら、時として罪は連鎖するからです。

「罪の連鎖と神の招き」

今日、私たちと一緒に考えたいのは、「罪の連鎖と神の招き」ということです。

Ⅱサムエル記11章は、何度読んでも、心が重くなるような箇所です。特に、これまで神様に選ばれ、神様に守られ、神様とともに歩んできたダビデが、なぜここまでのことをしてしまったのだろう、と考えさせられます。ダビデは、私たちが知っているように、信仰の人でした。少年の頃から神様を信頼し、ゴリアテの前にも立ちました。サウル王に命を狙われても、自分で復讐することをせず、神様に委ねました。詩篇を読むと、神様を愛し、神様に祈り、神様を求めていたことがよく分かります。

そのダビデが、ここで大きく道を外してしまいます。だからこそ、この箇所は私たちにとって他人事ではありません。「ダビデほどの人でも、こんなことになるのか」と思うなら、私たちはなおさら、自分の心を神様の前に置いておかなければならないのではないでしょうか。

ダビデは戦場にいなかった

「春になって、王たちが戦いに出るに及んで、ダビデはヨアブおよび自分と共にいる家来たち、並びにイスラエルの全軍をつかわした。彼らはアンモンの人々を滅ぼし、ラバを包囲した。しかしダビデはエルサレムにとどまっていた。」(11:1)

聖書は、「ダビデがなぜ戦場に行かなかったのか」という理由を説明していないので、「ダビデは怠けていた」と断定することはできません。ただ聖書は、「本来なら王たちが戦いに出る時期だった。しかしダビデはエルサレムにいた」ということを強調しています。そして2節に続きます。

「さて、ある日の夕暮、ダビデは床から起き出て、王の家の屋上を歩いていたが、

ヨアブをはじめとする部下たちが戦場で命を懸けて戦っているとき、王であるダビデは王宮にいます。そして夕暮れに起きて、屋上を歩いている。私はつい、「部下たちが命を懸けて戦っているのに、王は昼寝をしているのか」と思ってしまいます。休むことが悪いのではありません。問題は「昼寝をしたこと」ではなく、神様から与えられている使命から心が離れていくとき、人は自分自身の欲望に心を奪われやすくなるということです。

ダビデは、これまで多くの戦いを経験してきて、同時に神様に守られてきました。だからこそ、もしかすると、「自分は大丈夫だ」というところがあったのかもしれません。信仰生活の中で、実はここが怖いところです。「私はもう大丈夫」「私はこんな誘惑には負けない」「これまで神様と歩んできたから大丈夫」そう思った瞬間に、私たちは自分の弱さを忘れてしまうことがあります。聖書は、「自分は大丈夫」と言うことよりも、「主よ、私を守ってください」と祈ることを教えています。

罪は「見る」ことから始まる、ことがある

2 屋上から、ひとりの女がからだを洗っているのを見た。その女は非常に美しかった。3ダビデは人をつかわしてその女のことを探らせたが、ある人は言った、「これはエリアムの娘で、ヘテびとウリヤの妻バテシバではありませんか」。(11:2b-3)

ダビデは屋上から、一人の女性が水浴びをしているのを見ました。当時、屋上は家の生活空間でもあったので、「バテ・シェバがダビデに見せるために水浴びをしていたのではないと思われます。見えてしまうことは仕方のないことだとしても、ダビデはわざわざ使者を遣わして、その女性について調べさせました。明らかにその女性に興味があるように感じます。

ダビデは「あれはヒッタイト人ウリヤの妻で、エリアムの娘バテ・シェバです。」と調査の報告を受け、女性の夫は部下ウリヤであることを知りました。ここで踏みとどまっておけばよかったのに、ダビデは次のステップへと進みました。「そこでダビデは使者をつかわして、その女を連れてきた。女は彼の所にきて、彼はその女と寝た。」ダビデが躊躇したとは書かれていません。ダビデは彼女を召し寄せました。そして体の関係を持ちました。ここに、罪の恐ろしさがあります。最初は「見た」だけだったかもしれません。しかし、その後、「誰だろう」と尋ね、調べ、呼び寄せ、行動に移してしまいました。

ヤコブ1章14~15節には、「人が誘惑に陥るのは、それぞれ、欲に引かれ、さそわれるからである。欲がはらんで罪を生み、罪が熟して死を生み出す。」と書いてあります。誘惑そのものと、罪は同じではありません。私たちは生きている限り、いろいろな誘惑に遭います。意図せず目に入ってくるものがあります。耳から入ってくるものがあります。インターネットやスマートフォンを通して入ってくるものもあります。人から言われた一言によって、怒りが湧いてくることもあります。寂しさから、誰かに認めてもらいたくなることもあります。「誘惑に遭うこと=罪」ではありません。しかし、その誘惑を素通りせず、自分の中に受け入れ、心で育て始めるときがあります。「もう少し見てみよう。もう少し調べてみよう。これくらいなら大丈夫。誰にも分からない。」そこから、罪は確実に大きくなっていきます。私たちはどうしたらよいのでしょうか。「誘惑に負けない強い人になりたい」と思うだけでなく、「私は弱いからこそ、主から離れない」ということです。

罪は、罪を隠すために、さらに罪を生む

11:5-6 5女は妊娠したので、人をつかわしてダビデに告げて言った、「わたしは子をはらみました」。6そこでダビデはヨアブに、「ヘテびとウリヤをわたしの所につかわせ」と言ってやったので、ヨアブはウリヤをダビデの所につかわした。

ところが、ここで終わりません。バテ・シェバが妊娠してしまいます。ダビデは、自分の罪が明らかになることを恐れました。だから、ウリヤを戦場から呼び寄せました。ウリヤと会ったとき、ダビデはどのような気持ちだったのでしょうか。「ヨアブは無事でいるか、また兵たちは無事か、さらに戦いはうまくいっているかと尋ねていますが、心は穏やかではなかったでしょう。

ダビデはウリヤに言いました。「あなたの家に行って、足を洗いなさい」。つまり、「妻のところへ帰りなさい」ということですダビデは、自分のしたことを隠そうとしたのです。家に帰れば妻と寝るでしょう、するとダビデの子だと分からなくなることを目論んだのです。しかし、ウリヤは家に帰らず家来たちと一緒に王宮の門のあたりで夜を明かしました。

11:11ウリヤはダビデに言った、「神の箱も、イスラエルも、ユダも、小屋の中に住み、わたしの主人ヨアブと、わが主君の家来たちが野のおもてに陣を取っているのに、わたしはどうして家に帰って食い飲みし、妻と寝ることができましょう。あなたは生きておられます。あなたの魂は生きています。わたしはこの事をいたしません」。

なんという忠実なしもべの言葉でしょうか。この言葉には、非常に大きな皮肉があります。王であるダビデが、王としての責任を忘れているのに、部下であるウリヤが、自分の責任を忠実に果たしているのです。

ダビデは、自分の欲望を満たすために、部下を利用しますが、ウリヤは仲間を裏切ることができません。私は、このウリヤの忠実な姿に心を打たれます。しかもウリヤは、イスラエル人ではないのです。それなのに、彼は仲間を思い、戦場にいる兵士たちを思い、自分だけ家に帰ることを拒みます。ところがダビデは、彼の忠実さを利用します。そしてダビデは、ウリヤをお酒に酔わせます。それでもウリヤは家に帰りません。そしてついにダビデは、ヨアブに手紙を書きました。

11:15彼はその手紙に、「あなたがたはウリヤを激しい戦いの最前線に出し、彼の後から退いて、彼を討死させよ」と書いた。

恐ろしい言葉です。しかも、その手紙を持って行ったのはウリヤ自身でした。自分を殺す命令を、自分で持って行ったのです。こうして、最初は「見る」という小さなところから始まったことが、最後には一人の人間の命を奪うところまで行ってしまいました。

これが、罪の連鎖です。欲望→隠蔽→嘘→操作→そして殺人。ヤコブが言っている通り、「欲がはらんで罪を生み、罪が熟して死を生み出す。」罪は、一つで終わらないことがあります。罪を隠そうとすると、さらに罪が必要になる。そして、いつの間にか、「自分はこんなことをする人間ではなかった」と思うようなところまで行ってしまうのです。

罪の恐ろしさは、「人が見えなくなる」こと

私は、この箇所を読みき、もう一つ恐ろしいことを感じます。ダビデは、自分の部下ウリヤが勇敢な兵士であることを知っていたはずです。そしてバテ・シェバが、ウリヤの妻だということも知っています。ところが罪が深くなるにつれて、ウリヤが「一人の人間」に見えなくなっていきました。ダビデはウリヤを自分の罪を隠すために取り除かなければならない「障害」のように見えてしまったのです。これが罪の恐ろしさではないでしょうか。

罪は、神様との関係を壊すだけではありません。人間を、人間として見えなくしてしまうことがあります。怒っているとき、相手が「神様に愛されている一人の人」ではなく、「自分を困らせる人」に見えてしまうことがないでしょうか。妬んでいるとき、その人が「神様から与えられた賜物を持つ人」ではなく、「自分より恵まれている嫌な人」に見えてしまうこともないでしょうか。欲望に支配されるとき、相手が一人の人格ではなく、「自分の欲望を満たすための対象」に見えてしまうことが無きにしも非ずだと思います。だからこそ、私たちは祈る必要があるのではないでしょうか。「主よ、罪によって人を人として見ることができなくならないように弱い私を助け、憐れんでください」と。

なぜウリヤが死ななければならなかったのか

私は「どうしてウリヤが死ななければならなかったのだろう」と思ってしまいます。しかし聖書には、「ウリヤが死ななければならなかった理由」はありません。

聖書を読むとき、他にもなぜだろうと思うことが多くあり、普通に考えると答えに到達しないことも多くあります。ウリヤは殺されるべき人ではありませんでした。むしろ、罪を犯したのはダビデです。この世界には、罪によって、罪を犯していない人が傷つけられることがあり、理不尽なことが少なくありません。しかし聖書は、その現実を覆い隠していないのです。むしろ、その痛みを感じる心を神様の前にそのまま持っていけばいいのです。

それでも、神様はダビデを放っておかなかった

Ⅱサムエル記11章だけ読むと、ダビデは罪を犯し、ウリヤを殺し、終わったように見えますが、これで終わりではありません。神様は、ダビデの罪を見逃されませんでした。しかし、ダビデを見捨てもいませんでした。神様は預言者ナタンをダビデのもとに遣わされました。そしてダビデの犯した罪をはっきり示したのです。なぜでしょうか。ダビデを辱めるためだけではありません。ダビデを死に追いやるためでもありません。ダビデを真実の中へ連れ戻すためです。ダビデが、「わたしは主に罪をおかしました」(12:13)と言うところへ導くためです。そして、この悔い改めの中から、詩篇51篇の祈りが生まれていきます。「神よ、わたしのために清い心をつくり、わたしのうちに新しい、正しい霊を与えてください。(詩篇51:10)」私たちは、自分の力で自分の罪を払拭することはできませんでした。だから神様に、「私のうちに新しい心を造ってください」と願うのです。

私たちは「ダビデではない」と言えるか

「ダビデはひどい」と思うかもしれません。もちろん、ダビデがしたことは本当にひどいことです。しかし、今日、私たちが問われているのは、「私の中にも、罪の連鎖はないだろうか」ということです。小さな怒りを、そのまま心の中で育てていないでしょうか。誰にも言えない欲望を、心の中で育てていないでしょうか。「これくらいなら」と、自分を正当化していないでしょうか。罪を隠すために、別の嘘をついていないでしょうか。人に知られたくない自分を抱えて、一人で苦しんでいないでしょうか。

私たちは、クリスチャンになったから、もう誘惑されないわけではありません。クリスチャンだから、欲望がなくなるわけでもありません。むしろ、「私は大丈夫」と思わず、「主よ、私は弱い者です。私を守ってください」と祈ることが大切なのです。

早い段階で主に立ち返る

岩手県へ被災地ボランティアに行ったとき、山道や峠を車で走ることが多くありました。細い道は対向車がいつくるだろうかとハラハラドキドキしたものです。道路の端にガードレールがあります。もしガードレールがなかったら、崖が怖くて運転できなかったと思います。ガードレールは、車が崖から落ちそうになった最後の瞬間だけに必要なのではありません。「ここから先には行かないでください」と教えてくれるものです。誘惑に対しても同じではないでしょうか。「どこまでなら大丈夫だろう」と考えるのではなく、「ここから先は危ない。ここで離れよう」とすることが大事です。

「もう少し」の前に、立ち止まること、そして、「主よ、助けてください」と祈ることを心に刻みたいと思います。もし、すでに罪のガードレールを越えてしまったなら、それでも終わりではありません。神様はダビデに預言者ナタンを遣わされたように、私たちをも御自身のもとへ呼び戻してくださいます。「こんな自分を神様は赦してくださるだろうか」と思うときにも、神様の招きは必ずあります。罪は隠すためではなく、告白して赦される必要があります。また罪は、自分を正当化するためではなく、神様の赦しを受け取る必要もあるのです。

結び

今日のダビデとバテ・シェバの記事は、私たちに確かに厳しい警告を与えています。罪を小さく考えず、欲望を心の中で育てないこと、「自分は大丈夫」と思わないこと、そして、罪を隠そうとして、罪を重ねないことを覚えたいと思います。ダビデのような人でも倒れました。私たちも、自分の弱さを認め、主に近づきましょう。そして、もしすでに罪の連鎖の中にいるなら、「もう自分では抜け出せない」と思わないでください。神様は、罪を見逃されませんが、罪人を決して見捨てるお方ではありません。神様は、「私のところに帰ってきなさい」と今日も私たちを招いておられます。罪の連鎖を断ち切るのは、私たちの意志の強さだけではありません。私たちを罪の中から呼び戻してくださる、神様の恵みです。その恵みに、今日、もう一度立ち返りたいと思います。

祈り

「主よ、私(たち)は弱い者です。私(たち)の心を守ってください。私(たち)のうちにきよい心を造ってください。誘惑の中で、あなたから離れないようにしてください。もし道を外れてしまったなら、あなたのもとへ帰らせてください。イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン」