1テサロニケ4:13-18「やがて天にて」

2022年11月13日(日) 召天者記念礼拝メッセージ

聖書 Ⅰテサロニケ書4章13~18節
説教 「やがて天にて」
メッセージ 堀部 里子 牧師

【今週の聖書箇所】
13兄弟たちよ。眠っている人々については、無知でいてもらいたくない。望みを持たない外の人々のように、あなたがたが悲しむことのないためである。14わたしたちが信じているように、イエスが死んで復活されたからには、同様に神はイエスにあって眠っている人々をも、イエスと一緒に導き出して下さるであろう。15わたしたちは主の言葉によって言うが、生きながらえて主の来臨の時まで残るわたしたちが、眠った人々より先になることは、決してないであろう。16すなわち、主ご自身が天使のかしらの声と神のラッパの鳴り響くうちに、合図の声で、天から下ってこられる。その時、キリストにあって死んだ人々が、まず最初によみがえり、17それから生き残っているわたしたちが、彼らと共に雲に包まれて引き上げられ、空中で主に会い、こうして、いつも主と共にいるであろう。18だから、あなたがたは、これらの言葉をもって互に慰め合いなさい。 (1テサロニケ4:13-18、口語訳)

先週、友人夫妻が上京した折に訪ねて来て三年ぶりに会いました。お互いの近況を報告し、最後に一緒に祈って「また会おうね」と約束しました。「さようなら」ではなく「また会おうね」という約束が次に会うまで希望で満たしてくれます。そして再会の約束が実現することは喜びです。

イエス様ももう一度地上に来ると約束をしてくださいました。「思いがけない時に人の子が来るからである。」(マタイ24:44)「その日、その時は、だれも知らない。天の御使たちも、また子も知らない、ただ父だけが知っておられる。」(マタイ24:36)その再会の約束がいつ果たされるのか誰も分かりません。イエス様の再臨の時、イエス様と再会する喜びだけでなく、もう一つの喜ばしいことが起こります。それは先に亡くなったクリスチャンの方々の復活劇です。今日は、クリスチャンの復活とキリストの再臨についてテサロニケの人への手紙から共に見て行きたいと思います。

【テサロニケの手紙について】

テサロニケ人への手紙は、使徒パウロがテサロニケ(現在のギリシャ)の教会に宛てて書いたものです。パウロは自分が宣教をして開拓した教会の歩みを常に気にかけ、祈り見守っていました。ですから教会に問題が発生すると手紙でアドバイスや思いを伝えていました。

当時のテサロニケの教会の信徒たちの中には、「イエス様の再臨まで自分たちは生き残っているだろう」という期待感が少なくともあったようです。それに加えて、復活と永遠の命についての理解が不足しており、彼らは死を恐れていました。そして実際には死ぬ人たちがでて来たとき、残されたクリスチャンたちが悲しみ続け、動揺が起こりました。そこでパウロは、「死んだ人々に対して悲しまないようにしてください。主イエスの再臨の時、皆復活して会えますよ。」という手紙を書いたのが今日の箇所です。本文を見てみましょう。

【クリスチャンの復活の希望】

「兄弟たちよ。については、無知でいてもらいたくない。望みを持たない外の人々のように、あなたがたが悲しむことのないためである。」(13)

13節の「眠っている人々」、14節の「イエスにあって眠っている人々」とは、イエス様を信じて天に召された人たちのことです。聖書で度々「死」のことを「眠っている」と表現します。眠っているなら目覚める時が来るはずです。目覚める時、それはイエス様が再び来られる時です。その時、すでに召されたクリスチャンは皆よみがえることになっています。なぜでしょうか。イエス様が最初に復活し「初穂」になったからです(Ⅰコリント15:20)。初穂ということはそこに続く実り(クリスチャンの復活)があります。だからクリスチャンは死を迎えても、イエス様と一緒に復活できるという望みがあるのです。つまり、必ずしも肉体の死が終着点にはなりません。復活するということはまた会えるということです。もちろん地上で会えない悲しみはありますが、悲しみが薄らぐというより、復活と再会の希望に包まれていきます。皆様はこのことを本気で信じていますか?

「すなわち、わたしたちは、その死にあずかるバプテスマによって、彼と共に葬られたのである。それは、キリストが父の栄光によって、死人の中からよみがえらされたように、わたしたちもまた、新しいいのちに生きるためである。もしわたしたちが、彼に結びついてその死の様にひとしくなるなら、さらに、彼の復活の様にもひとしくなるであろう。」(ローマ6:4-5)

Photo by Alex-David Baldi, ‘He is Risen’: The Entrance of the Garden Tomb, Jerusalem, Israel, flickr.com

「わたしたちが信じているように、イエスが死んで復活されたからには、同様に神はイエスにあって眠っている人々をも、イエスと一緒に導き出して下さるであろう。わたしたちは主の言葉によって言うが、生きながらえて主の来臨の時まで残るわたしたちが、眠った人々より先になることは、決してないであろう。」(14-15)

クリスチャンの特権の一つは、死の問題に対して解決を知っているということです。それは、キリストの復活によって希望と勝利があるということなのです。

【主イエスの再臨と復活の時】

「すなわち、主ご自身が天使のかしらの声と神のラッパの鳴り響くうちに、合図の声で、天から下ってこられる。その時、キリストにあって死んだ人々が、まず最初によみがえり、それから生き残っているわたしたちが、彼らと共に雲に包まれて引き上げられ、空中で主に会い、こうして、いつも主と共にいるであろう。」(16-17)

イスラエル旅行に行った時、キリストのお墓と言われる場所に行きました。石の洞穴でした。中に入ると暗いのですが「He is not here, but is risen. そのかたは、ここにはおられない。よみがえられたのだ(ルカ24:6)」と書かれている木の板が見えました。その時、不思議と「主の再臨」に私の心は向けられました。今まで聖書を読んでイエス様はよみがえったと知っていましたが、「また私たちを迎えに来られるのだ」と「主の再臨」に思いが直結したのです。「死~復活~昇天~再臨」とイエス様による救いの働きは今も続いていて、再臨を通して成される神の計画がこれから起こるのだと思うとワクワクしました。

イエス様の再臨の時にはしるしと順番があります。①号令があり、②御使いの声聞こえ、③ラッパが響きわたります。すると、①キリストが天から降りて来られ、②眠った者たちはよみがえり、③生きている者たちは引き上げられて再会します。想像するとまるで映画のワンシーンのようですが、本当に聖書に書いてある通りのことが実現するかどうかは後に判明するでしょう。私たちには、そのことを信じて生きるか否かの道が前にあるだけです。皆さんは信じますか。

【山田彰先生のこと】

私の神学校の先輩が先日、ある聖会でお父様のことを話していました。許可を得ていますのでご紹介します。

お父様の名前は「山田彰」という元東宝映画俳優で波乱万丈の人生を送り、死のうと思った日に教会に導かれ、後に牧師になった方です。現在ご存命でしたら90歳です。

2003年2月、ケズィックの集会からの帰り道のことです。彰先生は、教会の信徒を家に送り届け教会に戻る途中に、事故で天に召されました。傷が無数についた彰先生のご遺体を前に息子の証一先生は、どんなことを思ったか。十字架で傷だらけになったイエス様を思い出したそうです。そして「傷だらけで土気色で死んだ人間が復活する、それを聖書は突きつけているのだ」と思い出したそうです。しかし、お父様の体を触るとすでに冷たく、動くはずがありません。

普通に考えたら復活するはずないのです。それなのにイエス様は「私は命であり復活する、私を信じる者は死んでも生きる」とおっしゃる。「キリスト教ってなんてすごいのだろう。死んで息もしていない人間がよみがえる。また会えるんだ。僕はこれから牧師として、その事実を本気で語るのだ。キリストの復活の力、そこに命がある、どんなに人生のドン底でも死に陥ってもイエス様は天に引き上げてくださる。主は何て素晴らしいのだろう」と心の底からそう思えたそうです。

もしクリスチャンの方が亡くなり、あなたがその亡骸・もしくはお墓の前に立って、そこに福音の力を強く感じることができるなら幸いです。死んでも死の力に勝利したイエス様が復活されたように復活するからです。一時的な別れは悲しく希望がないように見えるかもしれませんが、未来にまた会えるという確かな希望を自分のものとしたいと思います。

【私たちの終活】

死ぬと人の体は土に帰りますが魂は永遠に生きます。どこで永遠に生きるかが問題です。私たちはいくら健康に気をつけて運動したり、体に良いものを食べても死を避けることは誰もできません。

私は週に三回筋トレをするために「〇ー〇〇」に通っています。でも私がどんなに「筋肉貯金」をしたとしても、肉体の死の限界を超えることはできません。

また宗教学や哲学を深く研究しても死の問題は完全に解決できません。でも死に打ち勝って復活されたキリストを信じることで新しい希望を持つことが誰でもできます。イエス・キリストを信じて死んだ人は一時的に眠っており、イエス様の再臨の時に目を覚まし、肉体を持つ者として復活します。その肉体は病気になったり死んだりすることのない「栄光の体」の状態になります。

主の再臨は一度しか起こりません。あなたはその日が来るまでどのような姿勢で自分の死を準備しますか。「終活」をどのようにしていますか。死を直視しなければ死を超えた反対側の世界の人生に備えることはできません。「永遠」という世界に入る前に、備えて行きたいと思います。信じる者とって死は通過する門です。一人で備えるのでなく、お互いに復活への望みを分かち合いながら、励まし合うことができたら素晴らしいと思います。使徒パウロはこう言います。

「だから、あなたがたは、これらの言葉をもって互に慰め合いなさい。」(18)

他の箇所でもパウロはこのように述べています。

「…すなわち、あなたがたの眠りからさめるべき時が、すでにきている。なぜなら今は、わたしたちの救が、初め信じた時よりも、もっと近づいているからである。夜はふけ、日が近づいている。それだから、わたしたちは、やみのわざを捨てて、光の武具を着けようではないか。」(ローマ13:11-12)

愛する家族や友人との死別により悲しむ人を慰めると同時に、復活の真理を悟らせる者になることを神様は望んでおられます。そして今日も主の再臨に備えられますように。また人生が苦しいと思う人にとって主の再臨が確かな希望となりますように。そして死が終わりでなく新しい始まりとして、やがて天にて再会を待ち望みたいと思います。皆様の上に主の平安が豊かにありますように。シャローム!