ルカ6:20-30「あなたの敵を愛しなさい」

2022年11月6日(日) 礼拝メッセージ

聖書 ルカの福音書6章20~30節
説教 「あなたの敵を愛しなさい」
メッセージ 堀部 舜 牧師

【今週の聖書箇所】
20 そのとき、イエスは目をあげ、弟子たちを見て言われた、
「あなたがた貧しい人たちは、さいわいだ。神の国はあなたがたのものである。21 あなたがたいま飢えている人たちは、さいわいだ。飽き足りるようになるからである。あなたがたいま泣いている人たちは、さいわいだ。笑うようになるからである。22 人々があなたがたを憎むとき、また人の子のためにあなたがたを排斥し、ののしり、汚名を着せるときは、あなたがたはさいわいだ。23 その日には喜びおどれ。見よ、天においてあなたがたの受ける報いは大きいのだから。彼らの祖先も、預言者たちに対して同じことをしたのである。

 24 しかしあなたがた富んでいる人たちは、わざわいだ。慰めを受けてしまっているからである。25 あなたがた今満腹している人たちは、わざわいだ。飢えるようになるからである。あなたがた今笑っている人たちは、わざわいだ。悲しみ泣くようになるからである。26 人が皆あなたがたをほめるときは、あなたがたはわざわいだ。彼らの祖先も、にせ預言者たちに対して同じことをしたのである。

 27 しかし、聞いているあなたがたに言う。敵を愛し、憎む者に親切にせよ。28 のろう者を祝福し、はずかしめる者のために祈れ。29 あなたの頬を打つ者にはほかの頬をも向けてやり、あなたの上着を奪い取る者には下着をも拒むな。30 あなたに求める者には与えてやり、あなたの持ち物を奪う者からは取りもどそうとするな。」 (ルカ6:20-30、口語訳)

【アフリカでの緊急食糧援助】 国際NGOの理事を務めておられる牧師から聞いた話です。内戦で食糧危機に陥っていたアフリカの国に、緊急食糧援助に同行されたそうです。内戦下で非常に危険な中で、防弾チョッキを着て、物資を届けるとすぐに戻ってきました。人々は飢餓状態でしたが、クリスチャンで、祈りながら一行を待っていたそうです。その牧師を含む一行は、食糧を届けに行きましたが、むしろ霊的な祝福を受けて帰って来たと、感慨深く話しておられました。 ▽飢餓状態の中で、人々はひたすら神により頼んでいました。今日の聖句の「貧しい人たちは幸いです」という言葉でも、旧約聖書の伝統から「貧しさ」と「ひたすら神により頼む信頼」が一つになっています。[①]

【背景】 今日の箇所はマタイ5章の並行記事です。マタイ5章が山上の説教と呼ばれるのに対して、ルカ6章は「平らな所」で話されたので、平地の説教とも呼ばれます。

■【1.幸いと哀れ】

前半の20-26節では、4つの幸いと4つの哀れが対比されています。この世の価値観とは正反対の、神から見た幸いが教えられています。

【貧しい人たちは幸い】

20b「あなたがた貧しい人たちは、さいわいだ。神の国はあなたがたのものである。」

「貧しい」という言葉は、苦しくても何とか自力で生活できる庶民ではなく、文字通り無一文で、人からの施しに頼らなければ生きていけない人々を指します。[②] ▽ルカ福音書では、金持ちの家の前に寝かされていた体の不自由なラザロや、神殿でわずかな所持金のすべての2レプタをささげたやもめが、「貧しい」と呼ばれています[③]。いずれも神に信頼して恵みを頂いた人として描かれています。

このような無一文の貧しさは、つつましい庶民からも憐れまれた極貧状態です。しかし、主イエスはその人が「幸い」だと言われます。 ▽有名な神学者の北森嘉造は、宗教には「どんでん返し」があると言いました。ここに、「どんでん返し」があります。「幸いだ、乞食たち、神の王国はそのあなたたちのものだ」(岩波訳)[④]

これに対比されるのは、24節の金持ちです。

24 しかしあなたがた富んでいる人たちは、わざわいだ。慰めを受けてしまっているからである。

ルカ福音書では、金持ちと貧しい人の対比が何度か出てきますが、単なるお金の問題だけでなく、そこに結びついた、神や人に対する傲慢/信頼と関係しています。▼宗教改革者マルティン・ルターの最期の言葉は「私たちは(神の)乞食である。これはまことだ」と伝えられています。私たちは全てのものを神から頂いて生きるのだと教えています。[⑤]

人の目には苦しくみじめに見える状況でも、ひたすら神に信頼する人に、神は共におられ、神が支配しておられ、神の正しいさばきが守ってくださると教えています。神の国は、今「そのあなたたちのもの」なのだ、と。[⑥]

【適用】

  • 私たちは、神の前に貧しい者でしょうか?――そうであるなら、それを悲しむ必要はありません。主イエスは「幸いなのは、そのあなたがた」だと言われます。自分の目にはそう見えず、この世から見下されていても、主イエスは「さいわいだ」と言われます。主にひたすらよりすがるしかない貧しい人にこそ、主は共におられます。このどんでん返しの主イエスの御言葉を、心に深く覚えましょう。
  • 苦しく、みじめに見える境遇で、神によりすがって生きる人に、神の国は今、その人の内にあります。「神の国は(現に)あなたがたのもの」です。▽それは、からし種のように小さく、目にも留まらないかもしれません。しかし、その中に命があり、確実に成長し、安らぎをもたらします。▽少量の酵母がパンを膨らませるように、小さく見える神の国は、私たちの生活を大きく変える力があります。共におられる主が、現実に違いをもたらされることを信じて、祈って参りましょう。

【飢えている人・泣いている人の幸い】

二つ目の幸いは「今飢えている人たち」です。

21a あなたがたいま飢えている人たちは、さいわいだ。

飽き足りるようになるからである。

肉体的な飢え渇きと同様に、主を求める霊的な飢え渇きがあります。私たちは主の恵みに飢え渇いているでしょうか。「飽き足りるようになる」とは、「やがてそうなる」という未来の約束です。 ▽クリスチャンは、すでに良い物を頂き始めていますが、本当に満たされる天国を待ち望み、地上でその前味を経験するリバイバルを待ち望んでいます。すでに頂いた保証に固く立ち、飢え渇いて待ち望むのが、クリスチャンの生涯です。

三つ目の幸いは、「今泣いている人たち」です。

21b あなたがたいま泣いている人たちは、さいわいだ。

笑うようになるからである。

「今」泣いていても、「やがて」笑いに満たされるという約束です。「今は」恵まれない境遇に涙し、忍耐し、隣人の理解のない態度に悲しんでいても、「やがて」涙が拭われて、喜びと笑いで満たされる時が来ます。

「(飢え渇きが)満たされる」「笑いに満たされる」は、原語では受け身形で、「神の受動態」と呼ばれます。神がなされる働きですが、神の御名をみだりに唱えないために、主語の「神」を省略して、受け身で表現します。▽私たちの飢え渇きを満たして下さるのは、神ご自身です。神だけが満たすことができます。涙を笑いに代えてくださるのは、神ご自身です。私たちの涙を黙って見ておられずに、必ず介入し、喜びと笑いを与えてくださいます。

【適用】 私たちは、神様の恵みに飢え渇き、慕い求めているでしょうか? 霊的に鈍感になり、祈りの重荷を忘れていることはないでしょうか? 悲観的になって、渇き求めることをあきらめてしまったことはないでしょうか。私自身、気忙しくなる中で、もう一度祈りと御言葉に励みたいと願っています。

【迫害を受ける人の幸い】

4つ目の幸いは、迫害を受ける人たちです。

22 人々があなたがたを憎むとき、また人の子のためにあなたがたを排斥し、ののしり、汚名を着せるときは、あなたがたはさいわいだ。

人の子のために」とありますので、「イエス・キリストを信じているため」に受ける迫害です。パウロやルカの時代、クリスチャンはユダヤ人に迫害され、会堂から追放され、交わりを絶たれ、信仰のために非難されました。現代の日本は迫害は少ないですが、それでも、ビジネスの世界では宗教の話は避けられますし、盲目的だと嘲られたり、外国の宗教と言われたりします。

迫害のただ中にあったルカ福音書の読者に、主イエスは言われます。

23その日には喜びおどれ。見よ、天においてあなたがたの受ける報いは大きいのだから。彼らの祖先も、預言者たちに対して同じことをしたのである。

迫害は現実で厳しいものですが、そのただ中にある人々に「喜びおどれ」と言われます。「天において…受ける報い」とは、「神からの報い/神と共にある報い」という意味です。現在の人生の中でも、永遠の御国でも、大きな報いを頂きます。今の苦しみを償って余りある、大きな報いを頂く確信と希望は、苦しみを乗り越える大きな支えです。

主イエスは、これと対比して26節で、群れの外にいる偽預言者たちのような過ちに陥らないように戒めます。[⑦]

26 人が皆あなたがたをほめるときは、あなたがたはわざわいだ。彼らの祖先も、にせ預言者たちに対して同じことをしたのである。

真理ではなく、人からの評判を求めるならば、その時代には喜ばれても、神からの栄誉を受けることはできません。しかし、神からの栄誉を求めるより、人からの栄誉を求める人がなんと多いでしょうか。

【適用】私たちは、ひたすら神に喜ばれることを求めているでしょうか。人から賞賛されることを願う思いが、どこかで混ざりこんでいないでしょうか。

主に喜ばれることだけを願う人は、世俗的な人から嫌われます。そのために侮辱や悪口を受けるなら、大いに喜びなさい、主を誇りなさいと言われます。私たちは主の旗印を掲げて、主のために受ける非難を誇りとするでしょうか。

「あなたがた貧しい人たちは、さいわいだ。神の国はあなたがたのものである。」

ルカ6:20b

カール・ブロッホ画「山上の説教」 Wikimedia Commons

■【2.敵を愛しなさい】

27節以下で、主イエスは「敵を愛し(なさい)」と言われ、その具体的な形を教えます。当時のユダヤ人は、敵といえばローマ人を思い浮かべて、敵を憎むことを正当化する人々もありました。主イエスの「敵を愛し(なさい)」という教えは、旧約聖書を推し進めた、主イエス独自の強い表現でした。[⑧]

敵を愛する4つの行動

27 …敵を愛し、憎む者に親切にせよ。
28 のろう者を祝福し、はずかしめる者のために祈れ。

神に愛された者として、敵であった時に神と和解させて頂いた者として、私たちも敵を愛するように召されています 。

27-28節には、4つの命令があります。「愛し(なさい)」「親切に(しなさい)」「祝福し(なさい)」「祈(りなさい)」です。愛の具体的な行動が求められています。 ▽愛が感情であるならば、コントロールすることはできません。しかし、ここで求められているのは、具体的な行動です。 ▽メディカルカフェ(がん哲学外来)で、「歯を食いしばって、相手を褒めなさい」という言葉を聞きました。そのように、歯を食いしばって相手のために祈りの格闘をし、悪に悪を返さず、笑顔で親切にふるまい、祝福を祈ることができます。

【適用】 親しい人や、無害な人のために祈るのは難しくありません。しかし、敵のために祈り、まして祝福を求めるのは、強い抵抗を感じます。そのときこそ、クリスチャンとしての生き方が問われます。祈りと悔い改めをもって、内なる敵意と戦わなければなりません。▼私も、この人のためには祈りたくないと感じたことが何度かありました。怒りや不満がどうしようもなくなり、主の前にひれ伏して自分の心が変えられるように祈り続けました。その時に、それまで分からなかった相手の傷・弱さ・恐れが不思議と見えてきて、嫌だった相手の態度が理解できるようになり、同情心が湧いてきました。祈りを通して、神様が相手の心を理解させてくださったと信じています。

敵を愛する4つの実例

29a あなたの頬を打つ者にはほかの頬をも向けてやり…

頬を打つとは、ユダヤ会堂で宗教的に相手を拒絶して侮辱した行為のようです[⑨]。柔和に勇敢に受けることを教えています。

29b あなたの上着を奪い取る者には下着をも拒むな。

この言葉は、強盗に襲われた時のことを指すようです。弟子たちが宣教に行き、迫害を受けても、悪を悪で返さず、福音を伝え続けるべきです。

30 あなたに求める者には与えてやり、
 あなたの持ち物を奪う者からは取りもどそうとするな。

この言葉は、犠牲を払って自分の物を惜しみなく与えることを教えています。▽旧約聖書では、貧しい人に施すことが教えられていました。しかし、ルカが福音書を書いた外国のギリシャ世界では、物を与える時には「見返り」を求めたそうです。裕福な人が貧しい人に物を施す場合は、パトロンと呼ばれ、名誉と支持と権力を受けました。この聖句では、そうした社会文化を背景にして、見返りを求めずに、貧しい人に与えることを教えているようです。[⑩]

【敵を赦す:コリー・テンブーム】

第二次世界大戦中のオランダでユダヤ人をかくまってナチスの収容所に送られ、生還して宣教師になったコリー・テンブームという人がいます。お父さんとお姉さんは収容所で亡くなり、ご自分も多くの苦しみを受けました。

ある時、コリーがドイツの教会で罪の赦しのメッセージをした時、一人の男が近寄ってきました。その男は、コリーのいた収容所で最も残酷な看守の一人で、彼女も彼から屈辱を味わい、お姉さんもそこで亡くなりました。男は「わたしはその後クリスチャンになりました。神が罪を赦してくださることは有難いですが、あなたの口からも聞きたいのです。赦してくれますか?」と言い、手を差し伸べました。

赦しを教え続けてきたコリーですが、凍りついてしまいます。怒りと復讐心が渦巻き、自分の罪深さを痛感しました。キリストはこの人のためにも死なれたのに、あなたは主イエスよりも高い壁を作るのか?と自分を責めます。

コリーは手を差し出そうと必死に努力しましたが、できず、心の中で叫びました。「主イエスよ、わたしはこの人を赦せないのです。主の赦しを与えてください。」

そしてコリーは、ぎこちなく、ただ機械的にその男性の手を握りました。すると、奇跡が起こりました。肩から電流が流れ出たように、主イエスから来る赦しの愛が腕を伝わって走り、握手した手に溢れたといいます。彼女は涙を流しながら言いました。「兄弟よ、あなたを赦します、心から赦します。」

コリーは述べています。「それは決してわたしの愛でではないことを悟った。確かに努力はしたが、わたしには力がなかった。」主イエスの赦し、主イエスの優しさが与えられたのだと。[⑪]

【まとめ】

敵を赦すこと、愛することは、神から来ます。それは、自分の内に何も持たない一文無しの貧しい者に与えられる無償の恵みです。信仰とは、一文無しの貧しい者が、神から受け取るために差し出す手です。主イエスを信じる貧しい私たちに、今与えられている神の国の恵みの中で、今週も生かされてまいりましょう。

「あなたがた貧しい人たちは、さいわいだ。神の国はあなたがたのものである。」

ルカ6:20b

「敵を愛し、憎む者に親切にせよ。」

ルカ27b

[①] 詩篇40:17、86:1ほか多数。

[②] リチャード・ボウカム「イエス入門」p80-84 (差別用語ともされますが、「物乞い」という意味の言葉です。)

[③] 金持ちとラザロ:ルカ16:19-31、貧しいやもめ:ルカ21:1-4

[④] ギリシャ語原文では「あなたたち」が前に置かれて強調されている。

[⑤] 徳善義和「マルチン・ルター 生涯と信仰」p299-302

[⑥] 「神の国はあなたがたのもの…です」は、未来形ではなく現在形。

[⑦] 26節は「彼らの先祖」と3人称になっており、外部の人間を指している。Darrel Bock, Luke, Baker Exegetical Commentary on the New Testament, 6:26

[⑧] Darrel Bock, 前掲書 6:27

[⑨] Darrel Bock, 前掲書 6:29

[⑩]「求める者には(だれにでも)与え」ることを文字通りに実行すると、時には相手のためにならない場合があり、自分自身がやっていけない場合があるだろう。そのような意味で、多くの注解者は、「求める者には、だれにでも与えなさい」という言葉には、誇張があると考える。見返りを求める文化に反対して、見返りを求めず、犠牲を惜しまずに、真実と行いをもって愛を表すことを、この聖句は勧めている。(2テサロニケでパウロが「働かざる者食うべからず」と言ったように、求められるがままに何もかも与えることを命じた言葉ではない。)

[⑪] https://www.churchofjesuschrist.org/study/general-conference/2013/10/wilt-thou-be-made-whole?lang=jpn