マタイ16:21-28「キリストに従う」

2023年9月3日(日)聖霊降臨後第15主日礼拝メッセージ

聖書 マタイ16:21-28
説教 「キリストに従う」
メッセージ 堀部 舜 牧師

小泉恵一氏作(彫刻)。「だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい。

【今週の聖書箇所】

21この時から、イエス・キリストは、自分が必ずエルサレムに行き、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受け、殺され、そして三日目によみがえるべきことを、弟子たちに示しはじめられた。22すると、ペテロはイエスをわきへ引き寄せて、いさめはじめ、「主よ、とんでもないことです。そんなことがあるはずはございません」と言った。23イエスは振り向いて、ペテロに言われた、「サタンよ、引きさがれ。わたしの邪魔をする者だ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている」。24それからイエスは弟子たちに言われた、「だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい。25自分の命を救おうと思う者はそれを失い、わたしのために自分の命を失う者は、それを見いだすであろう。26たとい人が全世界をもうけても、自分の命を損したら、なんの得になろうか。また、人はどんな代価を払って、その命を買いもどすことができようか。27人の子は父の栄光のうちに、御使たちを従えて来るが、その時には、実際のおこないに応じて、それぞれに報いるであろう。28よく聞いておくがよい、人の子が御国の力をもって来るのを見るまでは、死を味わわない者が、ここに立っている者の中にいる」。

マタイ16:21-28

【報告】先週は、昼食会に12人の方が参加され、Bさんも初参加されました。豊かな食事と交わりで、とても良い時を持つことができました。

マザー・テレサの献身

マザー・テレサは1910年、現在の北マケドニアで生まれました。27歳で生涯を修道院で過ごす誓願を立てた時、手紙にこう記しています。

わたくしは、…ほんとうに、全くイエスのものになりたいのです。…相変わらず、以前と同じ傲慢…です。たった一つ違うことは、イエスに対するわたくしの愛――イエスのためなら、命さえもささげます。それはすばらしく聞こえますが、現実にはそれほど易しくありません。易しくないからこそ、それを望むのです。[①]

彼女は1942年、31歳の時に、個人的な誓願を立てます。「神が求められるすべてをささげるという、『神に何一つ拒まない』誓願」でした。テレサは「イエスに、本当に美しいことをささげたかった、何一つ残さないで」と言っています。

なぜ、神に完全に自分をささげなければならないのでしょうか。神が来自身を与えてくださったからです。わたくしたちに何の義務も負っておられない神が、ご自身さえも与えようとされるなら、わたくしたちの一部をおささげするなんて、考えられますか?自分を完全に神にささげることが、神ご自身をいただく方法です。わたくしは神のため、神はわたくしのため。わたくしは神のために生きて自分自身をささげ、それによって神が、わたくしのために生きてくださるように招きます。ですから、神を所有するために、神に自分の魂を所有していただかなければなりません。[②]

テレサの働きや誓願は、彼女だけのものですが、その背後にある献身の精神は、すべての人が召されたキリストへの献身の、非常に純粋な形だと言えます。

【聖書の背景】

今日の箇所は、先週のペテロの信仰告白から続いています。21節冒頭に、「この時から」とあります。ペテロが主イエスを救い主だと告白した言葉を受けて、主イエスは受難と復活を予告されます[③]。この時から、主イエスはエルサレムでの死と復活・昇天に向かって、まっすぐに進んで行かれます。その転機となるのが今日の箇所です。

この箇所をさっと読むと、「受難と死」という暗い印象を受けます。しかし、この箇所でも「受難と死」は常に「復活と栄光」とセットになっています。▽21節では「3日目の復活」、27節では栄光の再臨、28節では主の到来が述べられ、17章には主イエスが栄光の姿に変わる出来事が続きます。▼「十字架を負うて、わたしに従ってきなさい」という招きは、「復活した栄光のキリストの招き」として読む時に、初めて徹底的に従うことができます。

■【1.御心に従うキリスト】

21節の「その時から」とは、福音書の転機を示しています。主イエスは、ペテロの信仰告白を受けて、ついにご自分の使命をあからさまに話されます。

21この時から、イエス・キリストは、自分が必ずエルサレムに行き、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受け、殺され、そして三日目によみがえるべきことを、弟子たちに示しはじめられた。

よみがえるべきこと」とは、原語では「(神によって)よみがえらされる」という受動態です。主イエスは、ご自分の力を越えた神の力に信頼して従われ、「多くの苦しみ」に向かわれました。[④]

▼主イエスの言葉には、「神の御心は必ず実現する」「私はどこまでも御心に従う」という強い決意が表れています。▽「3日目の復活」という栄光に与るためには、「多くの苦しみ」を受けなければなりません。主イエスは、その全てを受け取られました。信じる全ての者を救うために、ご自分の生命を犠牲にして神の御心に従った従順のために、キリストは神の栄光を受けられました[⑤]

【適用】 私たちはどうでしょうか?私たちは、神から与えられた使命から逃げることなく、受け止めているでしょうか?それこそ計り知れない祝福であり、人々に祝福をもたらす通路です。▼「多くの苦しみ」を恐れて、神の御心に従うことをひるんでいたことはないでしょうか?▽主に全く従うのを避ける時、神様の祝福は止まり、私たちの魂も渇いていきます。やがては、その渇きにすら気づかないほどに霊的な感覚が鈍くなってしまいます。

ティツィアーノ・ヴェチェッリオ「十字架を負うキリスト」, Wikimedia Commons

◆妨げ―世俗的な考え

神の御心に従う決意を表された主イエスに、最初の妨げとなったのは、最も親しい弟子のペテロでした。

22 すると、ペテロはイエスをわきへ引き寄せて、いさめはじめ、「主よ、とんでもないことです。そんなことがあるはずはございません」と言った。23 イエスは振り向いて、ペテロに言われた、「サタンよ、引きさがれ。わたしの邪魔をする者だ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている」。

ペテロのみならず、当時の弟子たちやユダヤの人々にとって、「キリストが苦しんで死ぬ」ということは想像もしていませんでした。

しかし、主イエスはペテロをサタン(悪魔)と呼んで咎めます。▽主イエスが荒野で誘惑を受けた時、悪魔は「私を礼拝すれば、世界の王国とその繁栄を与える」と言いました。十字架なしに神の国を手に入れ、栄華を受けるように、誘惑したのです。▽ペテロが言った言葉も、主イエスに十字架のない道を勧めることで、救いの働きを台無しにしてしまう、サタンの役割を演じてしまったのでした。

▼「あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている」とは、鋭く本質を突く言葉です。ペテロは、主イエスに与えられた使命を考慮せず、苦しみが少なく快適な歩みを短絡的に提案しました。その結果、本来主イエスを通して備えておられた、人間の救いの働きを台無しにしかねない、ペテロの介入でした。

あなたは、わたしをつまずかせるものだ」――「つまずかせるもの」「罠」とはギリシャ語でスカンダロスといい、スキャンダルの語源となった言葉です。「十字架なしの王座」こそ、悪魔がキリストを巻き込もうとした「スキャンダル」でした。▼しかし、多くの人々の目には、むしろ「救い主が苦しめられ、十字架で殺される」ことが、「スキャンダル」のように見えました。「キリストは強くなければならない。外国の軍隊を打ち負かし、敵を支配しなければならない。救い主が敵に殺されるなんて、イスラエルの恥と敗北だ」と。

【適用】 現代の私たちも、「苦しみを避け・弱さを恥とする」点で、ペテロと大きな違いはありません。▽「苦しみが少ないことが神の恵みを受けることだ」。神の働きをする時に、人々から認められ・評価されることを期待します。神の働きをするのでも、大変なことは避けて通ろうとします。▼結局、「私たちの考えは神のご計画とは異なり、神様の道は、私たちの道よりはるかに高い」のです。

■【2.十字架を負ってキリストに従う】

主イエスは、ご自分の道をはっきりと示された後、弟子たちを招かれます。

24 それからイエスは弟子たちに言われた、「だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい。

だれでもわたしについてきたいと思うなら」――この言葉は、12弟子だけでもなく、すべての人に向けられています[⑥]

【自分を捨てる】自分を捨てて」という言葉は、「否定する」という意味です。神様が何かをするように命じられるなら、自分がしたくないと感じても、その思いを横に置いて、神様に従っていくことです。▼私たちは、しばしばペテロのように、神の力を知らず、神の計画を理解できず、自分の考えによって神様を教え、道を指示しようとします。だからこそ、まず「自分を捨てて」「自分の考えや計画を否定して」「神様の計画に耳を傾け・従う」ことが必要です。これが「自己否定」です。 ▼それは、自分の力で何かをなそうとすることではありません。「自分を捨て…わたしに従ってきなさい」と言われる主の招きに応えることです。「主」であるキリストに答え続けようとするなら、「自分の考えを横に置く」ということを避けて通ることはできません。[⑦]

【十字架を負う】 自分を否定して、神の御心に従う。それは、命に至る道ですが、その途中には、十字架があります。▼当時の人々は、死刑囚が、自分がかけられる十字架を背負わされて、処刑場に向かう姿を見たことがありました。現に主イエスは十字架にかけられましたし、12弟子の中の数名も十字架で殉教したと伝えられています。初期の教会の人々にとって、「十字架を負う」とは、キリストに従うことがもたらしうる現実の危険でした。

【適用】 今の日本のクリスチャンは、文字通りの殉教の危険にさらされることはほとんどありません。しかし、私たちの人としての本能が避けようとする苦しみを、あえてキリストのために受け止めることが、「十字架を負う」ことだと言えるかもしれません。▼キリストが嘲りを受けたように、私たちが神様の使命に答える時、人から理解されず、批判され、理不尽な仕打ちを受けることがあります。それを主イエスのために耐え忍ぶなら、それが十字架を負うことです。▽自己実現を求める現代社会にあって、自分の願いの実現や、社会的成功を求めるのではなく、ひたすら神が求めることだけを求めることです。 ▽主がお求めになるなら、犠牲を払って神の働きに時間と労力をお捧げすることが十字架を負うことであり、主がとどめられるなら、批判を受けても、働きから身を引くことです。▽家庭や職場や地域で、人知れず負担を担い、人々のために仕えるのが「十字架を負う」ことであり、 誰もやりたくない仕事を担い、一言言いたい時に誰かのことを思って言葉を飲み込み、自分の心が重くても神のために言うべきことをきちんと言う、それが「自分を捨てる」ことです。

【健全な自己否定】 それは、何も主張せずに成り行きに任せたり、自滅的な道を選択するということではありません。健全な信仰は、心と身体の健康を保ち、知恵をもって柔和に謙遜に、互いの関係性に気を配るものです。▼しかし、自分のことよりも神のことを第一にする優先順位を崩すことはありません。▽社会的な成功を求めて、神とのより深い関係を犠牲にすることはありません。富に仕えて、神にも仕えるということはできません。

【自尊心】 「自分を否定する」ということは、「自分はダメな人間だ」と思うことではありません。そうではなく、神様の御心をより深く理解して、従っていくことです。神様が私たちを配慮して、必要を満たし、最も良いものを備えていてくださることを経験するときに、神様との関係の中に心の安らぎを見つけ、自分は認められている・愛されているという自尊心を頂くことができます。

【成長しない時】 18世紀英国の信仰の指導者ジョン・ウェスレーは、クリスチャンがキリストの弟子として成長していない時、①「御言葉を聞き、祈る『恵みの手段』を正しく用いていないか」、あるいは②「自分の思いではなく神の思いに従う『自己否定』が欠けているか」、そのどちらかだ、と述べています。①「神の御心を知る」のが祈りや聖書などの「恵みの手段」で、②「知った御心に従う」のに必要なのが「自己否定」です。私たちがキリストに従うことから離れてしまう時、どちらかが欠けていることが原因だというのです。[⑧]

小泉恵一氏作・十字架を負うキリスト

■【3.キリストに従う理由】

続く25,26,27節は、原文では、冒頭に翻訳されていない「なぜなら」という言葉があります。自分を否定し、十字架を負って命までも犠牲にする理由を述べています。

〇(1)なぜ、この世の命を失ってもキリストに従うべきなのでしょうか?なぜなら…

25 自分の命を救おうと思う者はそれを失い、わたしのために自分の命を失う者は、それを見いだすであろう。

肉体の命を守り、この世を楽しむためにキリストを捨てる人は、永遠の命の源を失ってしまいます。▽しかし、「このわたし」[⑨]イエス・キリストこそ永遠の命である。「このわたしのために命を失う者には、わたしの命を彼に与える」と言われます。

〇(2)なぜ、「十字架を負って」肉体の命の代価を払ってでも、キリストに従うべきなのでしょうか?なぜなら…

26 たとい人が全世界をもうけても、自分の命を損したら、なんの得になろうか。また、人はどんな代価を払って、その命を買いもどすことができようか。

荒野で悪魔が主イエスを誘惑したように、たとえ全世界を与えられるとしても、自分が命を失ったら、何の得にもなりません。▽イエス・キリストのほかに、永遠の世界で、高価な魂の代価を支払って下さる方はありません。キリストの身代わりの命だけが、私たちの永遠の命を買い戻すことができます。

〇(3)なぜ、「十字架を負って」まで、キリストに従うべきなのでしょうか?なぜなら…

27 人の子は父の栄光のうちに、御使たちを従えて来るが、その時には、実際のおこないに応じて、それぞれに報いるであろう。

キリストはやがて神の栄光をもって再臨されて、裁きの座に着かれる。「この世の権力者のさばきより、キリストの力とさばきを恐れるべきだ」「からだを殺しても、たましいを殺せない者たち」ではなく、「たましいもからだも…滅ぼす」権威を委ねられた者を恐れなさい、と言われます。

もし私たちが、地上の命のことだけを考えているならば、「十字架を負って、キリストに従う」理由はありません。「十字架を負って、キリストに従う」理由は、永遠の世界にあります。

28節には、その神の御国が、この弟子たちの時代に到来し始めることを預言しています。

28 よく聞いておくがよい、人の子が御国の力をもって来るのを見るまでは、死を味わわない者が、ここに立っている者の中にいる」。

これが何を指すのかは、学者によって解釈は様々です。この直後の17章の山でキリストの栄光が現れたことに始まり、主イエスの十字架と復活・昇天によって、主イエスが神の権威ある座に着かれ、ペンテコステ以降、神の御国の力ある働きがなされていったことを指しているのかもしれません[⑩]。▼いずれにせよ、主イエスの力がこの地上で現実に現れ始めることを述べています。

◆【マザー・テレサ】

マザー・テレサは、1946年、キリストと神秘的に出会い、その後約1年間、主イエスの明瞭な内なる御声を聞きます。貧しい人々の中で最も貧しい人の内におられるキリストに仕えるために、すべてを捧げて、スラムで、主に従う呼びかけを聞いたと言います。彼女に語りかけた主イエスの「声」です。

小さき者よ、来て、来て、貧しい人びとのあばら家に、わたしを連れていきなさい。来て、わたしの光になりなさい。わたしは一人では行かれない――彼らはわたしのことを知らないから、わたしを望まない。あなたが行って、彼らの間に入り、わたしを連れていってほしい。…あなたがささげる犠牲、わたしに対する愛の中に、彼らはわたしを見、わたしを知り、わたしを望むだろう。

あなたは恐れている。…恐れてはいけない。わたしのために、これをしてほしいと頼んでいるのはわたしだ。恐れることはない。たとえ全世界があなたに反対し、あなたを笑い、仲間や長上たちがあなたを軽蔑しても、恐れてはいけない。あなたのうちに、あなたと共に、あなたのために在るのはわたしだ。

あなたは苦しむ、非常に苦しむことになる。しかし、わたしがあなたと共にいることを忘れないで。たとえ全世界があなたを拒んだとしても、あなたはわたしのものであり、わたしがあなたのものであることを忘れないで。恐れないで、わたしである。ただ従いなさい。朗らかに、素早く、何も質問しないで、ただ従いなさい。あなたが従うならば、わたしは決してあなたを離れない。

マザー・テレサ「来て、わたしの光になりなさい!」 p166-167
マザー・テレサ © 1986 Túrelio (via Wikimedia-Commons), 1986 / Lizenz: Creative Commons CC-BY-SA-2.0 de

マザー・テレサがこの御声に従った時、当初の歩みは順調には見えませんでした。上長の許可にも時間がかかり、働きの中でも極度の貧しさと困難があり、不安定さや周囲の無理解などに苦しめられました。しかし、テレサは、それらの苦しみが神ご自身から来たことを認めました。そして、その苦しみを、「主イエスご自身の苦しみにあずかる」こととして受け止めました。そして、滅びゆく魂を求める「十字架の主イエスの渇き」を癒すために、テレサは仕えました。慰めが感じられない霊的な暗闇の中で、彼女は自らを全く捧げ、全てのことを主のために、主を喜ばせるために行いました。

私たちも、主の導きに従って歩みだす時、順調にはいかず、むしろ苦しみ・誤解されることもしばしばです。しかし、そのように苦しみながら主に従うことこそ、苦難のキリストに従うことです。主はそのような私たちの愛の従順を喜んで下さり、苦難の中で、より深くキリストと一致して歩んでいくことができます。そのようにキリストと共に苦しむ私たちを、主イエスはやがてご自分の栄光の御国に招き入れてくださいます。

■【まとめ】

21 この時から、イエス・キリストは、自分が必ずエルサレムに行き、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受け、殺され、そして三日目によみがえるべきことを、弟子たちに示しはじめられた。

キリストは私たちのために苦しみを受け、十字架の死に至るまでご自分をお捧げになりました。

28 よく聞いておくがよい、人の子が御国の力をもって来るのを見るまでは、死を味わわない者が、ここに立っている者の中にいる」。

主は今復活されて、栄光を帯びて天の父なる神の右の座におられ、教会を通して神の国の働きを今も地上でなしておられます。

24 それからイエスは弟子たちに言われた、「だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい。

主は私たちに、自分の思いを置いて「わたしに従って来なさい」と招いておられます。キリストのために犠牲を払い、キリストのために苦しみを耐え忍び、キリストの苦しみに与り、より深くキリストを知り、キリストを愛する者とさせて頂きましょう。


[①] マザー・テレサ「来て、わたしの光になりなさい!」 p49-50

[②] マザー・テレサ 前掲書、p56-57

[③] マタイ16:21、17:22-23、20:18-19

[④] 主イエスがご自分の受難と関連して引用した箇所には、詩篇22, 69, 118篇、イザヤ53章、ゼカリヤ9-14章などがある。

[⑤] ピリピ2:9

[⑥] マタイ28:19-20、使徒11:26、ヨハネ10:1-5、

[⑦] ジョン・ウェスレー説教53(下) 説教48「自己否定」

[⑧] ジョン・ウェスレー説教53(下) 説教48「自己否定」

[⑨] ギリシャ語強調形

[⑩] Osborne, G. R., Matthew, Zondervan Exegetical Commentary On The New Testament. 16:28、Hagner, D. A. , Matthew 14-28, Word Biblical Commentary. 16:28、France, R. T., The Gospel of Matthew , The New International Commentary On The New Testament. 16:28