マタイ3:13-17「これはわたしの愛する子」

2025年1月19日(日)礼拝メッセージ

聖書 マタイ3:13-17
説教 「これはわたしの愛する子」
メッセージ 堀部 里子 牧師

イエスはバプテスマを受けるとすぐ、水から上がられた。すると、見よ、天が開け、神の御霊がはとのように自分の上に下ってくるのを、ごらんになった。

イエスはバプテスマを受けるとすぐ、水から上がられた。すると、見よ、天が開け、神の御霊がはとのように自分の上に下ってくるのを、ごらんになった。また天から声があって言った、「これはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である」。

マタイ3:16-17

サムエルは油の角をとって、その兄弟たちの中で、彼に油をそそいだ。この日からのち、主の霊は、はげしくダビデの上に臨んだ。そしてサムエルは立ってラマへ行った。

Ⅰサムエル16:13

神を愛し、神に愛される人生

先週、クリスチャンの友人のお見舞いに行って参りました。ずっと音信不通だったのですが、家族から連絡があり、駆けつけることが許されて心底嬉しく思いました。昔、彼女が「『神様、御言葉を与えてください!』」と必死に祈ったら与えられたよ。神様は生きておられて、こんな私の祈りも聞いてくださるんだ。」と話してくれた笑顔を真っ先に思い出しました。病室には入れませんでしたが、遠くから姿を確認でき、入口でお祈りできただけでも感謝でした。家族から話を伺う中で、神様に愛され、神様を愛した人生を歩んで来た彼女の姿勢は、ブレることなく歩んできたのだ、と思いました。

一通の手紙

お見舞いから家に戻ると、手紙が一通届いていました。年賀状の返信かなと思い、封を切りました。中には「…今後は一切キリストのことや、聖書の言葉を引用した葉書きや年賀状を一切送らないでください。」と書き綴られていました。相手にこのような強い思いがあったのかとびっくりしました。そこに曖昧さは一切なく、はっきり自分の立場を表明しています。そのことに敬意を払いたいと思いました。同時に、なぜこんなにキリストのこと、聖書の言葉を毛嫌いするのだろうかと思い、理由が知りたくなりました。祈りながら対話を続けたいと思っています。

同じ日に、キリストを信じる人生とキリストを拒絶する人生を見て、不思議な気持ちになりました。

【決断を迫るヨハネと主イエス】

マタイの福音書三章は、洗礼者ヨハネの「悔い改めよ、天国は近づいた」(マタイ3:2)の説教から始まります。ヨハネの働きをとおしてイエス様が、来られるべきメシアであることが証明されていますが、今日の箇所はイエス様の洗礼を通して、イエス様こそメシア・救い主であることが更に裏付けられる箇所です。

「悔い改め」と「罪の告白」

キリストを信じるか、信じないか、洗礼を受けるか、受けないかは人生の大きな決断です。その決断によってそれ以降の道が決まるのですが、洗礼を受けるのに必要なことの一つが「悔い改め」です。洗礼者ヨハネのメッセージは「悔改めにふさわしい実を結べ」(マタイ3:8)でした。エルサレム、ユダヤ全土、ヨルダン川周辺のすべての地域から多くの人々が、ヨハネに洗礼を授けてもらうためにやってきました。6節に「自分の罪を告白し、ヨルダン川でヨハネからバプテスマを受けた」(マタイ3:6)とある通り、「悔い改め」と「罪の告白」はセットで、自発的にするもので、強制されるものではありません。

神の前に罪の告白をする

私は中学一年生で洗礼を受けましたが、実は罪の告白がしたくありませんでした。教会によって罪の告白の仕方は異なりますが、私は当時、なぜ他人に直接自分の内側を話さないといけないのかと思い、かなり反発しました。先生の前で長い時間沈黙をしていたことを思い出します。先生も諦めずによく付き合ってくださり、「心の準備ができていなかったら次の機会でもいいですよ」と言ってくださったのですが、私は首を縦に振りませんでした。洗礼はどうしても受けたかったからです。自分が罪深いと思っていましたが、具体的に言いたくなかっただけでした。最終的には言いましたが、とても恥ずかしかったことを覚えています。

先生は「里子さんは私に罪の告白をしたのでなく、神様に罪の告白をしましたよ。お祈りしましょう。」とおっしゃって私を責めもせず、勇気を出してしたことを共に喜んでくださいました。先生は忍耐をもって私を待ってくださいましたが、神様はそれ以上に私が心を差し出すのをずっと待ってくださっていたのです。

私の受洗後の歩みは、紆余曲折ありました。教会に行かなかった時期もあります。しかし、振り返ると「洗礼が私を守った」と言えるのです。洗礼を受けたという事実が私の魂に刻まれ、恵みによって、私のクリスチャンとしてのアイデンティティが徐々に形成されてきたと思います。もしあの時、罪の告白をしないまま、受洗をしていなかったら今の私はありません。

悔い改めの必要性を考える

なぜ「悔い改め」が必要なのでしょうか。悔い改めの行為は、自分が悪かったと認め、謝り、同じ間違いをしません、と180度向きを変えて歩むために大切なことです。人間関係でも、仲違いをしたり、お互いにもやもやを抱えて歩んだりするより、「あの時は悪かったね、ごめんなさい。赦してください」と相手に伝えるなら、スムーズな人間関係を築くことができます。

ましてや、神との関係で、悔い改めることは神様と和解をすることになります。神を知らずに歩んでいた者は、神と共に歩むことになります。神様に従って歩もうという意志がそこにあります。「悔い改め」は神の国へ入るために避けては通れないものなのです。

ヘロデ王はイエス様の教えに興味を持ちましたが、悔い改めず、ヨハネの首をはねて殺してしまいました。結局、自分を罪に定め、他人の命を奪って自ら滅びの道を辿ったのです。私たちは様々な決断をしながら人生の岐路を進んでいきますが、自分の決断に責任を持ち、刈り取りもしなければならないことを心に覚えたいと思います。

すると、見よ、天が開け、神の御霊がはとのように自分の上に下ってくるのを、ごらんになった。また天から声があって言った、「これはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である」。

【主イエスの洗礼の意味】

さて、イエス様は悔い改める罪がないのにも関わらず、洗礼を受けることを決断されました。なぜでしょうか。洗礼者ヨハネはイエス様が、他の人たちと同じように洗礼を受けるためにヨハネの前に来たれたことをびっくりしたでしょう。

ところがヨハネは、それを思いとどまらせようとして言った、「わたしこそあなたからバプテスマを受けるはずですのに、あなたがわたしのところにおいでになるのですか」。(マタイ3:14)

イエス様はご自分が洗礼を受けられることを「正しいこと」とおっしゃいました。「今は受けさせてもらいたい。このように、すべての正しいことを成就するのは、われわれにふさわしいことである」。(マタイ3:15)

イエス様がおっしゃった「正しいことをすべて実現すること」の洗礼の意味を共に考えたいと思います。

①「完成」のため

ヨハネが授けていた洗礼は水による洗礼で、罪の赦しを与える力はありませんでした。ヨハネ自身がこう言っています。

「わたしは悔改めのために、水でおまえたちにバプテスマを授けている。しかし、わたしのあとから来る人はわたしよりも力のあるかたで、わたしはそのくつをぬがせてあげる値うちもない。このかたは、聖霊と火とによっておまえたちにバプテスマをお授けになるであろう。」(マタイ3:11)

ヨハネの水のバプテスマは罪を告白させ新しい人生を約束しましたが、それだけでは不十分でした。ちょうどマイナスがゼロになるようなものです。ヨハネの水のバプテスマは、イエス様が与える聖霊と火のバプテスマを通して完成されます。イエス様は、罪赦されて終わりでなく、その後の人生において豊かな実を結ぶことを願われているのです。マイナスがゼロになり、プラスになるプロセスを歩むようにと押し出してくださるのです。

イエス様は本来は洗礼を受けなくてもよい方ですが、人として生まれ、神の救いの完成のために、「今は受けさせてもらいたい」と洗礼を受けられたのです。「すべての正しいこと」とは完全な救いを現わしています。イエス様は、ご自分が水の洗礼を受けることで、神の完全性を証明してくださったのです。

②同じ立場となるため

 イエス様はご自分が洗礼を受けることを「ふさわしいこと」であるとおっしゃいました。世の中のすべての罪を負う神の子羊となるために、人間と同じ立場になられたのです。洗礼を受けるためには、ヨルダン川の中に降って行きます。そしてヨハネより自分の身を低くしないといけなかったはずです。神の子が地上に降って来られただけでなく、私たちと同じように洗礼を受ける立場に遜る姿を私たちはそこに見ます。謙遜の極みです。

イエス様にとって、洗礼は人と同じ立場となったという世の中に対する「宣言」です。人は自分の苦しみを分かち合いたいと願うとき、先に同じような立場を経験した人に相談をしたり、自分のことをよく知っている人に話すと思います。「どうせ私の苦しみなんか分からないくせに」と言ってしまう時は、相手は同じ立場にいないことを嘆いているのです。

イエス様は、罪を犯しませんでしたが、他人の問題を自分のこととする態度を取られました。人間の恥を、苦悩を、病を、重荷を、悔い改めを自分のものとされたのです。それは罪人と同じ位置にご自分の身を置いたからに他なりません。

「キリストは、神のかたちであられたが、神と等しくあることを固守すべき事とは思わず、かえって、おのれをむなしうして僕のかたちをとり、人間の姿になられた。その有様は人と異ならず、おのれを低くして、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順であられた。」(ピリピ2:6-8)

 イエス様がヨハネから洗礼受けられたのは、同じ立場になり、人間と同じように死の裁きを経験するためでした。

③新しい始まりのため

 「イエスはバプテスマを受けるとすぐ、水から上がられた。すると、見よ、天が開け、神の御霊がはとのように自分の上に下ってくるのを、ごらんになった。また天から声があって言った、「これはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である」。」(マタイ3:16-17)

 イエス様の洗礼直後、超自然的なことが起こりました。天が開き、聖霊がイエス様の上に降りました。「神の御霊がはとのように」とあるますが、天地創造の前、地に何もないときに、水の面を動いていたのは神の御霊でした。またノアの洪水の後に舟から放された鳩が、オリーブの若葉をくわえて戻って来たとき、命が再び息づいていることをノアは確認しました。洪水の時代が終わり、舟での生活から、新しい生活が始まることを覚悟したでしょう。

「これはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である」。そして父なる神様の喜びが言葉で表されました。「今、洗礼を受けたこの者こそ、神の子なのだよ」と天から宣言されたのです。イエス様は洗礼を受けた直後に、荒野でサタンの試みにあいますが、父なる神様の言葉を、何度も思い出して励まされたのではないかと思います。

【まとめ】

イエス様は人間の秩序、順序を大切にされました。だからこそ、洗礼を受けられました。私たちは自分のために洗礼を受けますが、イエス様はご自分のためでなく、全人類の救いのために洗礼を受けられたのです。人間として地上で生まれ育ち、大工の仕事をし、時間をかけて人と対話をし、神の子であることを示し続けてくださいました。イエス様が踏まれたこの順序は、イエス様が神の子・メシアであることを更にはっきりされました。

神の子どもとされた私たち一人ひとりにも、神様は「これはわたしの愛する子。わたしはこれを喜ぶ」と宣言してくださる方です。この言葉を今朝は心に留めたいと思います。そして、神様に対する応答として私たちは、逆の宣言をしようではありませんか。「主よ、あなたこそ私の神です。私もあなたを喜んでいます」と、子とされた喜びを告白しましょう。ヨハネとイエス様はそれぞれに与えられた使命を知り、ふさわしく歩みました。私たちも神の国が近づいている中、神を喜ばせる歩みを今年もしたいと思います。