ヨハネ11:17-27「その時が来る」
2023年3月26日(日)受難節第5主日礼拝 メッセージ
聖書 詩篇130:5-8, ヨハネ11:17-27
説教 「その時が来る」
メッセージ 堀部 里子 牧師
【今週の聖書箇所】
「イスラエルよ、主によって望みをいだけ。主には、いつくしみがあり、また豊かなあがないがあるからです。主はイスラエルをそのもろもろの不義からあがなわれます。」
詩篇130:7-8
「わたしはよみがえりであり、命である。わたしを信じる者は、たとい死んでも生きる。また、生きていて、わたしを信じる者は、いつまでも死なない。あなたはこれを信じるか。」
ヨハネ11:25 -26
先週はWBCで日本が優勝してチャンピオンになりましたね。私が通っている「Curves」での話ですが、運動マシーンをしながら、隣のおばちゃんとWBCの話になり、とても盛り上がりました。名前も知らないカーブスのおばちゃんと優勝の感動を分かち合えることは嬉しいことでした。
特に決勝戦当日に大谷翔平選手がメンバーへ発した言葉が印象的でした。「憧れるのを、やめましょう。今日、超えるために、トップになるために来たんで。今日一日だけは彼らへの憧れを捨てて、勝つことだけ考えていきましょう。」
野球の発祥地であるアメリカで、アメリカのチームとチャンピオン争いをすることは、目標としてきた選手たちと戦うことでした。皆がWBCに出場することはできませんが、多くの人の夢や希望、期待を背負って代表として戦ってくれた選手や関係者の方々に敬意を表したいと思います。
【チャンピオンの定義】
「チャンピオンはあなたにとって誰ですか、チャンピオンとは一体何ですか」と聞かれたらどのように答えますか。
3月3日に88歳でお召されになったノーベル文学賞受賞作家の大江健三郎さんは、「チャンピオン」ということばの定義を「代わりに戦ってくれる存在」とおっしゃいました。なぜそのような定義をされたのでしょうか。それは大江健三郎さんのお兄さんが癌の病床でご友人から「来世のこと、魂の救いについて、あなたはどう思うか」と問われた時、お兄さんが次のように答えたからだそうです。「東京に送り出した弟が代わりにやってくれる。来世のことを。魂の救いのことを。それは弟に聴いて欲しい。彼が私のチャンピオンだから」と。
また大江さんご自身が「歴史上の人物で会いたい人は誰ですか」と質問された時、「イエス・キリストです」と答えたそうです。
【イエス様がチャンピオン!】
クリスチャンにとって、目標・模範とすべきチャンピオンはイエス・キリストです。クリスチャンの信仰は、自分が「チャンピオン」になるのではなく、イエス・キリストを自分の「チャンピオン」と据えることです。そうすると、イエス様があなたの代わりに戦ってくれる存在となるのです。特に、人間がどうしても自分で解決できない「罪と死の問題」に対して、イエス様が代わりに戦い、勝利するチャンピオンであることを聖書のストーリーから学びたいと思います。
【ラザロの死】
ある三人姉弟がいました。名前はマルタ、マリア、ラザロと言いました。両親を早くに亡くしたようで、年長のマルタが母親的役割を果たしていたようです。イエス様はこの家族を心に留めて、愛しておられました(5)。イエス様は彼らの家を宿とし、そこで人を招いて教えを説いていました。
ある時、ラザロが重い病気になりました。マルタとマリアはヨルダンの東で宣教活動をしておられたイエス様に使者を送って助けを求めましたが、イエス様はラザロの病気の知らせを聞いても直ぐには向かわず、更に二日とどまりました。イエス様がラザロの病気を癒してくれるに違いないと信じていたマルタとマリアは、首を長くして待っていたでしょう。しかし、彼らの願いも空しくラザロは死んでしまいました。
「さて、イエスが行ってごらんになると、ラザロはすでに四日間も墓の中に置かれていた。…大ぜいのユダヤ人が、その兄弟のことで、マルタとマリヤとを慰めようとしてきていた。マルタはイエスがこられたと聞いて、出迎えに行ったが、マリヤは家ですわっていた。」(17,19-20)
兄弟ラザロが病死し、悲しんでいる姉妹を慰めようと大勢の人が集まっていたようです。私が中学生の時、同じ吹奏楽部の友人のお父さんが亡くなりました。その葬儀は、私が物心ついて初めて参列した葬儀でした。悲しみが家族を覆っており、同級生たちや私は、どのように哀悼の意を表したら良いのか分かりませんでした。後日、友人が学校に登校して来た時も、彼女にどのような言葉をかけたらよいのか戸惑ったことを思い出しました。誰かの死に対して私たちはどのような態度をとるでしょうか。
神学生時代に、「グリーフケア(深い悲しみへのケア)」の専門家より特別講義を受けたことがありますが、日本でも「グリーフケア」が浸透してきていると聞きました。[①]日本グリーフケア協会会長の宮林先生によると、亡くなった人が親の場合は3年、配偶者ならば4年半〜5年、子どもならば5年ぐらい回復に時間がかかるそうです。感情も回復して立ち上がるまでそれぞれにプロセスがあり、様々なところを通ると言います。身近な人を失った精神的ショック、悲しみ、喪失感があり、現実を受け入れられない「否認」の気持ちが出たり、パニックになったり、怒りや恨みを周りの人にぶつけてしまったり、後悔をして自責の念にかられたりすることもあるでしょう。
【希望のある死とは】
マルタはイエス様にこう言っています。
「主よ、もしあなたがここにいて下さったなら、わたしの兄弟は死ななかったでしょう。」(21)と。イエス様ならきっとラザロの病気を癒してくれるだろうと期待して待っていたマルタは、彼女の開口一番の言葉にイエス様を非難している気持ちも読み取れます。でもその直後に「しかし、あなたがどんなことをお願いになっても、神はかなえて下さることを、わたしは今でも存じています。」(22)と言って神様はイエス様が願うことを聞いてくださるのだという信仰者としての思いも垣間見えます。
コイノニアの教会にも身近な家族を天へ送った方々がおられます。教会の葬儀に参加された方からよく言われることの一つに「教会の葬儀は明るいですね」という言葉があります。おそらく葬儀で歌う「慈しみ深き」や「Amazing Grace」の讃美歌も明るい雰囲気を醸し出していると思います。結婚式は何式で挙げても喜びに溢れていると思いますが、キリスト教式の葬儀は、悲しみと未来に向かう希望が溢れていると思います。それはクリスチャンにとって死は人生の終着点でなく、天国で再会するという希望があるからです。肉体は死んでも、地上の体とは異なる「栄光の体」に変えられ、魂も永遠に生き続けるという考え方です。
【死の向こうにある命】
「イエスはマルタに言われた、『あなたの兄弟はよみがえるであろう。』」(23)
耳を疑う言葉をイエス様は発されました。普通、人は息を引き取った直後から死後硬直が始まり、腐敗も進みます。遺体に何の処理も施していないなら、確実に臭ってくるはずです。誰もがイエス様の言葉をすぐには信じることができなかったと思います。お医者さんが「ご臨終です」と死亡宣告後に、葬儀中や葬儀の間際で蘇生した話はニュースになり、私もそのようなネット記事を読んだことがあります。
しかし、ラザロの場合は完全に死んでお墓に葬られていました。マルタがイエス様に、「終りの日のよみがえりの時よみがえることは、存じています。」(24)と答えたことから、ラザロがすぐに生き返ることは考えてもいなかったでしょう。
ここにイエス様がどうしてラザロの病気の知らせを聞いた時にすぐにラザロのところに駆けつけなかったかの意味が込められています。イエス様はその時、こうおっしゃいました。
「この病気は死ぬほどのものではない。それは神の栄光のため、また、神の子がそれによって栄光を受けるためのものである。」(4)そして25-26節では、「わたしはよみがえりであり、命である。わたしを信じる者は、たとい死んでも生きる。また、生きていて、わたしを信じる者は、いつまでも死なない。あなたはこれを信じるか。」とはっきり言い切っています。
イエス様は、すでに自分は十字架に架かって死ぬことを知っており、その後に復活することを示唆されたのです。なぜなら「十字架の死と復活」がイエス様の地上での使命だったからです。
【使命は、命の使い道】
星野富弘さんという詩と絵を口で筆を持って描くクリスチャン作家がいます。星野さんの作品に次のような言葉があります。
「いのちが一番大切だと思っていたころ 生きるのが苦しかった。いのちより大切なものがあると知った日 生きているのが嬉しかった」
星野さんにとっての「いのちより大切なもの」とは何でしょうか。また私たちにとって一番大切なものは何でしょうか。お金、財産、地位、名誉なども大切ですが、天国に持って行けないものばかりです。星野さんは元体育教師でしたが、マット上で宙返りをして頭から落ちてしまいました。その時に脊髄を損傷してしまい、24歳で首から下が動かなくなってしまいました。死にたいと思っても手足は自由にならず、生きる希望を失う中で、お見舞いに駆けつけてくださった大学時代の先輩で牧師になった方から差し入れられた聖書を読むようになり、イエス・キリストの存在を意識するようになったそうです。イエス様が生きる希望を失っているこんな私のために、代わりに死んで復活してくださった、その命を僕はもらったのだと信じるようになりました。そこから星野さんの創作活動が始まりました。自分に与えられた人生の十字架を背負って歩こうと決心したのです。
イエス様は「すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう。」(マタイ11:28)と私たち一人ひとりに招いています。本当の意味での心と魂の安息・休息は命を与える神様のもとに行かないと得られないのです。
「わたしは道であり、真理であり、命である。だれでもわたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない。」(ヨハネ14:6)
イエス様の生涯は十字架と殉教でした。イエス様の十字架を覚える時、平安や安息だけをもらうだけでなく、「共に十字架を背負う」という覚悟も必要です。
【十字架を背負う】
トマス・ア・ケンピスという15世紀に活躍したドイツの修道士がいますが、彼が書いたとされる「キリストにならいて」の著書で次のように記しています。
「今やイエスの天国をしたう者は多い。しかしその十字架をになう者は少ない。イエスから慰めを望む者は多い。しかし苦難を望む者は少ない。イエスの食卓につく者は多い。しかし彼と断食を共にする者は少ない。すべての人はキリストと共に喜ぶことを願う。しかし彼のためにどんなことでも忍ぼうと思う者は少ない。パンをさくまでキリストに従う者は多い。しかし彼の受難の杯を飲むまで従う者は少ない。彼の奇跡を敬う者は多い。しかし彼の十字架の恥に従う者は少ない。多くの者は難儀が少しも起こらぬうちはイエスを愛する。多くの者は彼から何らかの慰めを受けるうちは彼をたたえ彼をあがめる。しかしもしイエスが姿をかくして、しばらくの間彼らを離れるならば、彼らは不平を言うか或いは大いに落胆するのである。」[②]
【死を恐れない】
先日、大江健三郎と息子・光(ひかり)の30年を描いた「響きあう父と子」(94年夏の放送)の映像を観ました。脳に障害を持って生まれた息子さんは、手術後に知的障害が残ってしまいました。大江さんは、息子・光さんにどうしても伝えたいことがあるとおっしゃり、それは「死を恐れるな」ということでした。障害を持つ息子に死について教えることは、親として大きい問題であると大江さんは捉え、ウイリアム・ブレイク[③]が描いたキリストが貼りつけになっている版画[④]を持って来られました。キリストが人間に向かって「恐れるな、アルビオンよ。私が死ななければあなたがたの生はない。しかし私がよみがえる時には、あなたたちと共にある」と言う場面の絵だと大江さんは説明をしました。その言葉こそ大江さんの支えになっている言葉でした。自分は死んでいく父親で、子どもアルビオン・光に、「死を恐れるな」ということを言いたいのだと。「死ぬことによって新しい人間が生きていくんだ。自分がよみがえる、新しくよみがえることがあるかもしれない。その時は君(光)と一緒に歩きたい。」と言葉を続けられました。大江さんがその後、どのように光さんにその言葉を伝えたのかは分かりませんが、「魂は本当に救われるのか、人生の意味は何か」を問い続けてきた作家の祈りを私は見た気がしました。
【その時を待ち望みつつ】
詩篇130篇には、「待ち望む・待つ」という言葉が何度も繰り返されています。何を待つのでしょうか。「贖い」を待つのです。「贖い」は「代価を支払って買い取る」という意味があります。人は死ぬという仕事を人生の最後にしないといけないのですが、死という代価を代わりに支払って、身代わりとなってくださったのがイエス様です。それは死が死で終わらず、その先にある「救い」を指し示すためでした。
今日の箇所の最後でイエス様は「あなたはこれ(イエス様の復活があなたの命となること)を信じるか」(26)と質問していますが、この質問は私たち全員のための質問です。いかがでしょうか。死を克服する道、これは「わたしはよみがえりであり、命である。わたしを信じる者は、たとい死んでも生きる。」とおっしゃった方を信じることです。すでに道は備えられています。その道を一歩一歩共に進んで行きたいと思います。
[①] https://www.grief-care.org/index.html
[②] (「キリストにならいて」91頁)
[③] William Blake,イギリスの詩人、画家、銅版画職人(1757年11月28日‐1827年8月12日)
[④] Jerusalem The Emanation Of The Giant Albion, 1804, W.Blake