マタイ21:1-11「王として来られた主イエス」

2023年4月2日(日)受難節第6主日礼拝 メッセージ

聖書 マタイの福音書 21章1~11節
説教 「王として来られた主イエス」
メッセージ 堀部 舜 牧師

【今週の聖書箇所】

 1さて、彼らがエルサレムに近づき、オリブ山沿いのベテパゲに着いたとき、イエスはふたりの弟子をつかわして言われた、2「向こうの村へ行きなさい。するとすぐ、ろばがつながれていて、子ろばがそばにいるのを見るであろう。それを解いてわたしのところに引いてきなさい。3もしだれかが、あなたがたに何か言ったなら、主がお入り用なのです、と言いなさい。そう言えば、すぐ渡してくれるであろう」。4こうしたのは、預言者によって言われたことが、成就するためである。5すなわち、

「シオンの娘に告げよ、
 見よ、あなたの王がおいでになる、
 柔和なおかたで、ろばに乗って、
 くびきを負うろばの子に乗って」。

 6弟子たちは出て行って、イエスがお命じになったとおりにし、7ろばと子ろばとを引いてきた。そしてその上に自分たちの上着をかけると、イエスはそれにお乗りになった。8群衆のうち多くの者は自分たちの上着を道に敷き、また、ほかの者たちは木の枝を切ってきて道に敷いた。9そして群衆は、前に行く者も、あとに従う者も、共に叫びつづけた、

「ダビデの子に、ホサナ。
 主の御名によってきたる者に、祝福あれ。
 いと高き所に、ホサナ」。

 10イエスがエルサレムにはいって行かれたとき、町中がこぞって騒ぎ立ち、「これは、いったい、どなただろう」と言った。11そこで群衆は、「この人はガリラヤのナザレから出た預言者イエスである」と言った。

マタイ21:1-11

アンソニー・ヴァン・ダイク「キリストのエルサレム入城」Wikimedia Commons

4月になり、王子は本当に桜がきれいです。私の親族でも4人の甥・姪がこの3月に学校・幼稚園を卒業しました。門出の季節ですね。

【受難週】 教会暦では今日から受難週です。今日は、主イエスがエルサレムに入城された日です。群衆が敷いた木の枝がナツメヤシ(しゅろ)だったことから「しゅろの主日」と呼ばれます(ヨハネ12:13)。カトリック教会では、形の似たソテツの枝を持って礼拝をするそうです。▼主イエスは、この時以前は、ご自分がキリストであることを、ごく一部の弟子を除いて、間接的にしか示されませんでした。しかしこの時以降、言葉でも行動でも、ご自分がキリストであることを公に主張され、指導者との対立が一気に激しくなり、十字架へ向かいます。▼主はまことの王として、ご自分を表されました。

■【1.エルサレムの熱気】

当時の歴史的な背景から説明します。

【ローマからの解放】 当時のユダヤは、宗教心や愛国心から、ローマからの解放を求めて、キリスト到来の期待が高まっていました。特に、軍事的な指導者としての王が期待され、しばしば反乱が起きた、不安定な時代でした。

【過越祭】 折しも、主イエスがエルサレムに入られたのは、ユダヤ教の過越祭の直前でした。過越祭は元々、エジプトで奴隷として苦しめられていたイスラエルの民を神様が救われた出来事を記念する祭りです。外国の支配からの解放を記憶する過越祭の時期には、ローマからの解放の期待も高まりました。▼さらに、過越祭の期間には、世界各地に離散したユダヤ人もエルサレム神殿に集まります。エルサレムの人口は、祭りの期間には何倍にも膨れ上がり、宗教的情熱と愛国心で沸き返ったようです。

【ガリラヤ人とユダヤ人】 もう一つの重要な背景は、ガリラヤ人とユダヤ人の区別です。ガリラヤ人とユダヤ人は、1000年近くさかのぼれば同じルーツですが、近年の研究では、1世紀には「外国」といえるほど、多くの面で異なるグループとなっていたようです。▼妻の里子牧師は沖縄に行くと、観光客と住民は見た目ですぐに分かるそうです。同じように、エルサレムの人は、ユダヤ人とガリラヤ人をすぐに見分けることができたそうです。▼8-9節で、主イエスと共にエルサレムに上り、主イエスを王として迎えた「群衆」にはガリラヤ人が多かったと考えられています。一方で、10節のエルサレムの人々はユダヤ人なので、群衆とは大きな温度差があります。主イエスの裁判で、主イエスを十字架につけろと叫んだ群衆は、ガリラヤ人ではなくユダヤ人だと考えられます。[①]

■【2.王として来た主イエス】

今日の記事は「勝利の入城」と呼ばれます。この出来事が、それまでの主イエスの働きとどのように違い、どんな意味があるのか、見ていきます。

【ロバ】 主イエスが「ロバ」に乗られたことは、どんな意味があるのでしょうか。▼ダビデの子で、イスラエルの偉大な王であるソロモン王が即位した時、彼は雌ロバに乗ってエルサレムに入りました(列王記上1:36)。旧約聖書の複数のキリスト預言にも、ロバが出てきます(ゼカリヤ9:9、創世記49:10-11)。▽1世紀のユダヤ人にとって、「オリーブ山」から「ロバ」に乗って「エルサレム」に入ることは、キリストであることのしるしでした。▼主イエスは、長い距離を歩いて宣教されましたが、この出来事以外では馬やロバに乗った記事はないようです。主イエスがロバに乗られたのは、「ご自分が何者であるか」を示すためでした。

【人々の反応】 それに対して人々は、かつてイスラエルの将軍が王になった時のように、自分の外套を道に敷きました(列王記下 9:13)。人々が道に枝を敷いたナツメヤシの木は、1世紀にユダヤで鋳造された硬貨にも描かれていて、イスラエルを象徴する植物だったようです。▼9節で群衆は「ダビデの子に」と叫び、主イエスをダビデの子孫であるキリストとみなしています(詩篇118)。主イエスご自身もこの祝福を認めます(参照:ルカ19:37-40)。

主イエスはご自分を「来るべき王」として現され、ガリラヤから来た群衆は主イエスを王と認め、エルサレムの住民は驚き、宗教指導者たちは恐れました。▼しかし、この時点では、誰もが「キリストがどんな方であるか」「何のために来られたか」を本当に理解することはできませんでした。

◆【1.平和で支配する王】

キリストはどんな方であるか。第一は「軍事力ではなく、平和によって支配する王」です。

ろばは、平和な時代に用いられる動物です。ろばに乗って即位した王ソロモンの名前は「平和」という言葉に由来し、平和な時代に神殿を築いた王でした。▼5節で引用されたゼカリヤ書9章も、平和について述べています。

9シオンの娘よ、大いに喜べ、
 エルサレムの娘よ、呼ばわれ。
 見よ、あなたの王はあなたの所に来る。
 彼は義なる者であって勝利を得、
 柔和であって、ろばに乗る。
 すなわち、ろばの子である子馬に乗る。
10わたしはエフライムから戦車を断ち、
 エルサレムから軍馬を断つ。
 また、いくさ弓も断たれる。
 彼は国々の民に平和を告げ、
 その政治は海から海に及び、
 大川から地の果にまで及ぶ。
(ゼカリヤ9:9-10)

軍馬ではなく、荷物を運ぶろばに乗ってエルサレムに入られた姿に、平和の王としてのキリストの姿が見られます。▼誰もが軍事的な指導者の登場に注目していた時代に、主イエスは「平和の王」としてご自分を示されました。

◆【2.神の意志で立てられた王】

キリストがどのような方であったか。第2のポイントは、主イエスは「人の意志によってではなく、神の意志によって立てられた王」です。

今日の箇所の前半には、二人の弟子がロバを連れて来る場面が描かれています。起こる出来事を主イエスが予告されて、そのとおりになります。「主がお入り用なのです」という言葉に、神の主権と摂理が表れています[②]。主イエスのご受難と復活は、ただ神の主権のもとに起こったことでした。

当時は主イエスの弟子たちでさえ、これが神の摂理によって旧約聖書が実現した出来事だったことが分かりませんでした(ヨハネ12:16)。▽神の働きは、人の自然な知恵が理解できないところで、静かに、しかし確実に働かれます。

【例話:コーリー・テン・ブーム】 私が主イエスを信じて間もない頃、大学の図書館で、学術書ではない一般向けの信仰書を1冊だけ見つけました。ナチスの強制収容所から生還して宣教師になったオランダのコーリー・テン・ブーム(Corrie Ten Boom,1892-1983)のエッセイでした。彼女の自伝のある出来事が印象に残りました。

コーリー・テン・ブームが若い頃、オランダがナチス・ドイツに占領され、ある夜、イギリスの爆撃機とドイツ軍の空中戦があったそうです。なかなか寝付けなかったコーリーは、姉のベツィーが紅茶をいれる物音を聞いて、台所で話をします。その間にもどこかで爆発がありました。しばらくして爆音が止んだので、コーリーが寝室に戻り、暗闇の中でベッドを触ると、枕の上に固く鋭いものがあり、握った手から血が流れるのを感じたそうです。光の下で見ると、25cmほどの鋭い爆弾の破片が、さっきまでコーリーが寝ていたベッドの枕の上にあり、危機一髪で死を免れたことを知ったのでした。コーリーは震えながら食堂に戻って、姉のベツィーに手に包帯を巻いてもらいながら、言いました。「ベツィー、もしわたしが、台所であなたが動く音を聞いていなかったら…」――ベツィーはコーリーの言葉を遮ります。「コーリー、それを言ってはいけません。神様の世界に、『もし』ということばは、ないはずよ。そして、〔『ここにいれば安全だ』なんていう場所なんて〕ないのよ。神のみこころの中心だけが、私たちにとって、ただ一つの安全な場所なんだから、コーリー、私たちがいつもこのことを知ることができるように、さあ、お祈りしましょうね」。[③]

テン・ブーム家の家は迫害下にあった多くのユダヤ人をかくまって、彼らの「隠れ場」となりました。彼女の自伝は「わたしの隠れ場」My hiding placeというタイトルですが、テン・ブーム家がユダヤ人の隠れ場となった以上に、ナチスの強制収容所や家族の死という耐え難い試練に遭う中で、主ご自身が隠れ場であったという証しが込められています。

「神様の世界に、『もし』という言葉は、ないはずよ。……神の御心の中心だけが、私たちにとって、ただ一つの安全な場所なんだから。」

コーリー・テン・ブーム「わたしの隠れ場」

――私たちの生涯のすべてを、神が支配しておられるという信仰は、深く神を知る生活の第一歩と言われます。試練の中で信じ続けるのは決して容易ではありません。しかし、試練を通して、神を深く信頼し、御心を深く悟り、深く神を愛する者へと変えられていきます。

3もしだれかが、あなたがたに何か言ったなら、主がお入り用なのです、と言いなさい。そう言えば、すぐ渡してくれるであろう」。4こうしたのは、預言者によって言われたことが、成就するためである。

キリストは、群衆の支持によって立てられたのではなく、神ご自身によって摂理のうちに立てた王でした。

◆【3.神に服従した王】

キリストはどのような方であったか。第1は、「軍事力ではなく、平和によって支配する王」でした。第2は、「人ではなく、神の意志で立てられた王」でした。第3は、「人を屈服させるのでなく、神に服従した王」です。

5 …見よ、あなたの王がおいでになる、柔和なおかたで、ろばに乗って、くびきを負うろばの子に乗って」。

「柔和」とは、ギリシャ語旧約聖書では「神との関係で自分がしもべであると感じて、抵抗せずに静かに神を従う者」として用いられているそうです[④]。厳しい運命に対して、抵抗せず・不平も言わず・激しい怒りもなく、静かで忍耐強く・希望と期待に満ちた態度でいるという敬虔な姿でした[⑤]

主イエスはただ神に従い、摂理の中でエルサレムに入城し、王として迎えられます。そこでは激しい迫害と十字架が待ち構えていることを、主イエスは知っていました。しかし、そこから逃れようとはせず、混乱したり、自己憐憫におちいったりすることもなく、ひたすら主に従って行かれました。十字架の死にまで至る、主イエスの謙遜と服従がここに表れています。

【契約の血】5節で引用されたゼカリヤ9:9の直後にこうあります。

11あなたについてはまた、
 あなたとの契約の血のゆえに、
 わたしはかの水のない穴から、
 あなたの捕われ人を解き放す。

――この言葉は、旧約時代のいけにえの血を表すとともに、新しい契約のために流される主イエスの血を示していると理解できます。柔和な王が、神の御心に従う中で、十字架にかけられ、その血によってすべての人を罪と死から解放するという、苦難のしもべとしての主イエスの姿が表れています。

【家を建てる者たちが捨てた石】 9節で群衆が歌った詩篇118篇は、後の時代には過越祭で歌われており、主イエスの時代にも歌われていたかもしれません。そして、キリスト預言の詩篇として知られています。

22家造りらの捨てた石は 隅のかしら石となった。
23これは主のなされた事で われらの目には驚くべき事である。
26主のみ名によってはいる者はさいわいである。
 われらは主の家からあなたをたたえます。(詩篇118:22-23, 26)

詩篇のキリスト預言のように、主イエスはイスラエルの指導者たちから捨てられましたが、その主イエスを土台として神の教会が立てられました。

主イエスは、群衆が期待し、当局者たちが恐れたような軍事的な指導者ではありませんでした。むしろ、死に至るまで神に忠実で、敵を殺すのでなく、むしろ自らを死に明け渡して、敵のためにも自らを与えた柔和な王です。

【マザー・テレサ】 マザー・テレサは、「悲しげな人を見ると、この人はイエスに何かを拒んでいる、といつも思うのです」と言ったそうです。マザー自身が、過酷な働きの中で喜びに満ちていた人でした。喜びは、人々に仕えるあらゆる奉仕の中で、自分を忘れて神を喜ばせようとする人の特徴だと言います。「なぜ、神に完全に自分を捧げなければならないのでしょうか。神がご自身を与えて下さったからです。わたくしたちに何の義務も負っておられない神が、ご自身さえも与えようとされるなら、わたくしたちの一部をおささげするなんて、考えられますか?自分を完全に神に捧げることが、神ご自身をいただく方法です。……神を所有するために、神に自分の魂を所有して頂かなければなりません。」[⑥]

王である主イエスが、私たちのためにご自分の命を注ぎ出されたのですから、私たちも日々のすべての働きの中で、主を愛し、主を喜ばせるように、自らを捧げて主に従って参りましょう。

■【まとめ】

キリストは私たち一人一人の罪のために、十字架にかかられました。キリストが死ななければならなかった私たちの背きの罪とは何でしょうか。キリストはなぜ死ななければならなかったのでしょうか。

私たちは、群衆のように、十字架のない勝利と支配を求めていないでしょうか。王としての賞賛と、敵の迫害の中で、黙々と死に至るまで神の御心に忠実に従った、主イエスの柔和さに倣いたいと思います。

主イエスのように神を愛する心を与えてください。
主イエスのように自らを省みないほどに、神を愛し従う者としてください。
主イエスの血によって、保身と自己中心から解放してください。
敵を愛し、迫害者のために祈るように、主イエスの血によって心をきよめてください。
自分に与えられた負うべき十字架を悟り、心から従う者としてください。
主イエスを死者の中から復活させられた神の愛と力に信頼して、希望と喜びをもって十字架を負って歩む者にしてください。


[①] R. T. France, The Gospel of Matthew, The New International Commentary on the New Testament, 21:1–11; Introduction II. Galilee and Jerusalem

[②] この箇所以降、旧約聖書の引用が増え、主イエスによって預言が成就したことが示されていきます。

[③] コーリー・テン・ブーム「私の隠れ場」p97-118

[④] 民数記12:3、詩篇37:11、ゼカリヤ2:3など

[⑤] Gerhard Kittel編, Theological Dictionary of the New Testament, “πραΰς”

[⑥] ブライアン・コロディエチュック編集・解説「マザー・テレサ 来て、わたしの光になりなさい!」2「イエスのために、何か美しいことを」