ルカ2:29-40「主をほめたたえよ」

2023年12月31日(日)礼拝メッセージ

聖書 ルカ2:29-40, 詩篇148:1-6
説教 「主をほめたたえよ」
メッセージ 堀部 里子 牧師

anonymous: Presentation of Jesus in the Temple.(1493)
Wikimedia Commons, Public Domain.

【今週の聖書箇所】

29「主よ、今こそ、あなたはみ言葉のとおりに
  この僕を安らかに去らせてくださいます、
30 わたしの目が今あなたの救を見たのですから。
31 この救はあなたが万民のまえにお備えになったもので、
32 異邦人を照す啓示の光、み民イスラエルの栄光であります」。

ルカ2:29-32

1 主をほめたたえよ。
  もろもろの天から主をほめたたえよ。
もろもろの高き所で主をほめたたえよ。
2 その天使よ、みな主をほめたたえよ。
  その万軍よ、みな主をほめたたえよ。

詩篇148:1-2

おはようございます。今日は2023年最後の礼拝となりました。一年間、共に歩むことが許され、心から感謝をいたします。先週の祈祷会で舜牧師が、教会の一年の歩みを振り返って動画を作成し、祈祷会の参加者にご覧いただきました。バージョンアップして、教会総会の時に流そうと計画しております。お楽しみに。

【叶えられた望み】

12月17日のキッズクリスマス会の後に、CSに来ているN君が舜牧師にこう言いました。「舜先生、僕ね、学校が25日には終わるから、26日に一緒にドッチボールしよう」彼は地域の強豪ドッチボールクラブに入っていて、つい先日の大会で優勝しました。実は以前から「ドッチボールをしよう」と誘われていましたが、忙しくて実現しませんでした。今回はついに彼の望み通りにドッチボールをすることができました。私は終わる頃に顔を出しに行ったのですが、終わる様子はなく、二人は二時間ひたすらドッチボールでキャッチボールをしていました。本当に楽しんでいる様子で、「男同志の信頼関係」を積み上げているなぁと思ったことです。N君は舜先生とずっとドッチボールをしたいと願い、やっと実現して本当に嬉しそうでした。聖書に次のような言葉があります。

「望みを得ることが長びくときは、心を悩ます、願いがかなうときは、命の木を得たようだ。」(箴言13:12)

私たちはこの一年、様々な望みや期待を持って歩んで来たと思います。実現したこともあれば、まだお預け状態の案件もあるかもしれません。すべてのことが主に在って益となることを信じます(ローマ8:28)

【救い主・赤ちゃんイエス様と出会う】

今朝開かれた聖書の箇所には、人生をかけて待ち続けた二人の人が登場します。シメオンとアンナという別々の人物です。二人とも年を重ねていました。二人が人生の最後に待ち望んでいたことを通して、一年の最後に感謝を持って主をほめたたえたいと思います。

さてイエス様が生まれて八日経ち、割礼を施す日がきて、名前を正式にイエスとつけられました(21)「八日目にはその子の前の皮に割礼を施さなければならない。その女はなお、血の清めに三十三日を経なければならない。その清めの日の満ちるまでは、聖なる物に触れてはならない。…女は燔祭のために一歳の小羊、罪祭のために家ばとのひな、あるいは山ばとを、会見の幕屋の入口の、祭司のもとに、携えてこなければならない。祭司はこれを主の前にささげて、その女のために、あがないをしなければならない。こうして女はその出血の汚れが清まるであろう。これは男の子または女の子を産んだ女のためのおきてである。」(レビ12:3-4,6-7)

つまり、律法の慣習に従ってマリアとヨセフは長子であるイエス様と共に捧げものをするため、またマリアのきよめのために家族で神殿に昇って来ました(2:27)。神殿に入るや否や先ずシメオンがすぐさま駆け寄って来ました。

【聖霊が共にいる人・シメオン】

「…この人は正しい信仰深い人で、イスラエルの慰められるのを待ち望んでいた。また聖霊が彼に宿っていた。そして主のつかわす救主に会うまでは死ぬことはないと、聖霊の示しを受けていた。」(ルカ2:25-26)

 シメオンはただの敬虔で礼儀正しいおじいちゃんではありませんでした。聖霊が彼の上におられた人でした。あまり詳しいことは書かれていませんが、今回心に留まった言葉は、シメオンは「イスラエルの慰められるのを待ち望んでいた」ということです。ユダヤ人はメシア到来を待ち望んでいましたが、多くの人の期待は、ローマの圧政からの解放でした。イスラエルが華々しく勝利することをイメージしていたのかもしれません。しかし、シメオンは解放や勝利ということより、メシアによってイスラエルが救いを得、罪からの赦しと解放によって、真の慰めが与えられることを望んでいたのです。本当の救いの意味を知っている人の期待だと思います。

シメオンが若い頃どんな仕事をしていたのか、どんな家族構成であったのか、どのような生き方をしてきたかなど何も書かれていません。しかし、ここで大切なことは、シメオンは人生の最終コーナーにおいて神の声を信じて生きていたということです。つまり、「キリスト(救い主)を見るまではあなたは死なないよ」という神の言葉をそのまま信じて毎日暮らしていたのです。「〇年〇月〇日に救い主が来ます」と告げられていたならどんなに良かったでしょうか。いつ実現するか分からない約束を信じ続けることは普通は、とてつもない忍耐を要します。シメオンがどのような人生を重ねて来たか聖書は記していません。ただシメオンが、人生の最後まで「神の約束を信じて生きる」ことに重きを置いていたことは真実です。

過去に私たちがどんな間違えをしたのか、罪を犯したのか、どんな有名な経歴を重ねて来たのかが重要ではありません。過去ではなく、最後の生き方が「神(聖霊)と共にあるか?」が大切なのではないでしょうか。

シメオンは神殿に来るいろいろな人を見ていたでしょう。彼の目は霊的に救い主を見分ける目を持つようになったのです。「光」を見分けることができました。その日、聖霊に導かれて宮に入り、赤ちゃんイエス様を目にした瞬間、聖霊の感動を覚えたと思います。「この子だ!救い主は」まさか赤ちゃんが救い主とは最初は思っていなかったでしょう。しかし、聖霊が共にいてシメオンに教えてくれたのです。彼はずっと救い主を待ち望んでいた忍耐強い人でした。そして、イエス様と出会ってシメオンは安らかな平和を経験したのだと思います。「主よ、今こそ、あなたはみ言葉のとおりに、この僕を安らかに去らせてくださいます、」(2:29)

 シメオンは赤ちゃんイエス様を腕に抱き、預言の言葉を語ります。イエス様の誕生の目的、将来の働きの内容、そしてマリアが親としてどのような苦しみを受けるのかなどをはっきりと告げました。「わたしの目が今あなたの救を見たのですから。この救はあなたが万民のまえにお備えになったもので異邦人を照す啓示の光、み民イスラエルの栄光であります。…この幼な子は、イスラエルの多くの人を倒れさせたり立ちあがらせたりするために、また反対を受けるしるしとして、定められています。――そして、あなた自身もつるぎで胸を刺し貫かれるでしょう。」(2:30-32、34-35)これは「ヌンク・デゥミティス」と後に呼ばれる賛歌で、シメオンの臨終の歌となりました。「この救はあなたが万民のまえにお備えになったもので、異邦人を照す啓示の光」と預言していますが、シメオンはキリストはユダヤ人だけの救い主でないこと、全ての人の救いであること、そのために苦しみを受けることを語りました。傍で聞いていたマリアとヨセフはびっくりしたでしょう。しかし、その日はこれで終わりではありませんでした。もう一人の女性が近づいてきました。

【女預言者アンナ】

「また、アセル族のパヌエルの娘で、アンナという女預言者がいた。彼女は非常に年をとっていた。むすめ時代にとついで、七年間だけ夫と共に住み、その後やもめぐらしをし、八十四歳になっていた。そして宮を離れずに夜も昼も断食と祈とをもって神に仕えていた。」(2:36-37)

 アンナは七年間の結婚生活の後はずっと未亡人であり、毎日神殿にいたことが分かります。昼も夜も神に仕え、礼拝することに専念していたのでしょう。今でいう修道女のような生活をしていたのだと思います。アンナもイエス様を見て自ら近寄って行き、神に感謝をささげました(38)。このような女性がエルサレムにいたことは、イエス様がこれから成長されて働きをされるにあたって大切な霊的道しるべとなったと思います。アンナは町の人に救い主・幼子イエス様と出会った喜びを知らせます。アンナが救い主について伝えたことは、初めて公に救い主が知らされた出来事となりました(38)。アンナはシメオンのように「主のつかわす救主に会うまでは死ぬことはない」と告げられていたわけではなかったようですが、これで預言者としての使命を果たさせたので、悔いも心残りもなく、いつ主の御許へ召されても良いと思ったのではないでしょうか。自分の目で確かに救い主を見て礼拝したことは、84歳のアンナにとってはかけがえのない霊的財産となったことでしょう。

マリアとヨセフが神殿へと上って行ったその日こそ、神様が定めた特別な日でした。彼らが神殿で捧げ物をするだけでなく、神はシメオンとアンナに救い主イエス様を出会わせました。

【シメオンとアンナの共通点】

 シメオンとアンナに共通点は、①二人とも年を取っていたこと。②老年になるまで救い主を心から待望していたこと。③忍耐強く待ち続け、生き続けて来たこと。④救い主を見分ける霊的な目を持っていたこと、つまり本当に大切なことを見極めることができる霊的分別力に長けた人たちであったこと。また、⑤何よりもキリストと出会うことを「喜び」としていたことです。シメオンもアンナもエルサレムの贖いを待ち望んでいましたが、「救い主と出会うこと」を「人生最後の使命」として据えることができた人たちでした。大勢の人が神殿に集っていたと思いますが、シメオンとアンナ以外はイエス様が救い主であることを見分けることができる人はいませんでした。シメオンとアンナは晩年に救い主と出会うことができました。イエス様は、大人になり、公生涯に入られてからはご自分が神の子であることを大胆に語り、癒しの業や奇跡もなさったので、多くの人々が注目しましたが、赤ちゃんイエス様が救い主であることを知ることができた人はごく限られた人たちでした。神の御心に適った二人は両親であるマリアとヨセフと、羊飼いたち、博士たちに次いで、良き知らせ(福音)を受け取り、主を心からほめたたえました。本当に大切な出来事に気づける人は幸いです。私たちは本当に大切なことを見逃さないためにはどうしたらよいのでしょうか。

 使徒パウロは次のような祈りをしています。

「わたしはこう祈る。あなたがたの愛が、深い知識において、するどい感覚において、いよいよ増し加わり、それによって、あなたがたが、何が重要であるかを判別することができ、キリストの日に備えて、純真で責められるところのないものとなり、イエス・キリストによる義の実に満たされて、神の栄光とほまれとをあらわすに至るように。」(ピリピ1:9-11)

 私たちは主が地上に再臨される「キリストの日」を、見逃したくないはずです。パウロの祈りを私たちの祈りをさせていただきましょう。

【主をほめたたえること】

今日のCSのゲームの話をして終わりたいと思います。先生が何を言っても「車椅子(くるまいす)」と答えるゲームをしました。

〈先生〉「おじいちゃんの!」
〈子どもたち〉「くるまいす!」
〈先生〉「新しい!」
〈子どもたち〉「くるまいす!」
〈先生〉「病院の!」
〈子どもたち〉「くるまいす!」
〈先生〉「メリー!」
〈子どもたち〉「くりすます!

今日は大晦日ですが、一年の終わりにあたり、2023年間を振り返って、いろいろなことがあったと思いますが、何があったとしても「主をほめたたえること」で一年を締めくくりたいと思います。

私たち一人ひとりに出会ってくださった主をほめたたえましょう。

「主をほめたたえよ。
 もろもろの天から主をほめたたえよ。
 もろもろの高き所で主をほめたたえよ。
 その天使よ、みな主をほめたたえよ。
 その万軍よ、みな主をほめたたえよ。
 日よ、月よ、主をほめたたえよ。
 輝く星よ、みな主をほめたたえよ。
 いと高き天よ、天の上にある水よ、
 主をほめたたえよ。
 これらのものに主のみ名をほめたたえさせよ、
 これらは主が命じられると造られたからである。
 主はこれらをとこしえに堅く定め、
 越えることのできないその境を定められた。」

詩篇148:1-6