ローマ3:21-26「信じるすべての人に与えられる神の義」
2023年7月30日(日)聖霊降臨後第10主日礼拝メッセージ
聖書 ローマ人への手紙3章21-26節
説教 「信じるすべての人に与えられる神の義」
メッセージ 齊藤 良幸 役員
【今週の聖書箇所】
しかし今や、神の義が、律法とは別に、しかも律法と預言者とによってあかしされて、現された。 それは、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、すべて信じる人に与えられるものである。そこにはなんらの差別もない。すなわち、すべての人は罪を犯したため、神の栄光を受けられなくなっており、彼らは、価なしに、神の恵みにより、キリスト・イエスによるあがないによって義とされるのである。神はこのキリストを立てて、その血による、信仰をもって受くべきあがないの供え物とされた。それは神の義を示すためであった。すなわち、今までに犯された罪を、神は忍耐をもって見のがしておられたが、それは、今の時に、神の義を示すためであった。こうして、神みずからが義となり、さらに、イエスを信じる者を義とされるのである。
ローマ人への手紙 3:21-26
【1.生きること】
礼拝に参加されるYさんをお迎えに行く車中でいろいろお話をしてきました。Yさんは、寅さんのDVD全巻を持っておられ、私たちは第25作「寅次郎ハイビスカスの花」をお借りして鑑賞させていただきました。沖縄県那覇市がロケ地に選ばれていました。私の妻は、ロケで利用された病院やエキストラのおばあたちの方言を懐かしく感じていました。日本中をロケで回っていますが、第18作「寅次郎純情詩集」では、私のふるさと、長野県上田市の地元別所温泉が、ロケ地に選ばれて、そのようなこともあって故郷のゆえに親しみを感じる方が多いのかもしれません。
皆さんは、フーテンの寅さんの映画をご覧になったことがあるでしょうか。1969年、松竹映画で山田洋次監督によって映画化されることになった『男はつらいよ』で描かれている寅さんの価値観は、地位でも名誉でもお金でもなく、ただ、「ありがとう、寅さんのおかげで、私元気になれたわ」と言ってもらえることです。それが、寅さんの最大の生きがいであり、幸せであって、そう言ってもらえるのが喜びなのです。もちろん、その人が美しい女性であれば、寅さんにとっては申し分ないわけです。
監督の山田洋次さんが、映画作りの原点についてこんな話をされていました。山田監督は、家族と共に、戦後満州から宇部に引き揚げてきましたが、中学生だった彼は、父親に収入がなかったので、学費を稼ぐため、海岸の工場でちくわを仕入れて、売り歩きながら生活していました。ある時たくさん売れ残ってしまいました。西宇部駅近くに競馬場があって、そこで売れそうだと考えついて、行ってみました。屋台の店がたくさんあった中の一軒の屋台のおでん屋さんに入り、中年のおばさんとこんなやり取りをしました。
「おばさん、ちくわを、僕安くしておきますから、買ってくれませんか」、
「あんた、中学生かい?」、
「はい、そうです」、
「どうして働いてんだ?」
「いや、引き揚げ者で、おやじが収入ないもんですから、学費を稼ぐために働いてます」っていうと、
「あ、そう。みんな置いていきなさい」、
「みんな置いていいんですか」、
「いいよ、いいよ。明日から、もしあんた売れ残ったら、いつでもおいで。おばさんが引き取ってあげるよ」と言われたので、
「ありがとうございます」ってお礼を言って、帰り路、自転車で彼は涙がぽろぽろ出てきたそうです。
大げさにいえば、あのおばさんが言ってくれた言葉が、一人の少年に「ああ、生きててよかった」、「本当に生きていくのはそんなに悪いことじゃない」と思わせ、とても大きな喜びと幸福感と勇気を与えることばになったということでした。どんな映画をつくっても根っこのところに中学生の時に感じたそういう思いが、山田洋次監督にはあるのだそうです。
【2.神様の御計画】
今日のメッセージは、ローマ人への手紙3章21節から26節を読みましたが、神様は、私たちが神様に出会い、信仰によって、イエス・キリストの救いにあずかり、私たちが喜びにあふれるように、御計画を実行してくださいました。
紀元前700年代に、南ユダ王国の4人の王様、ウジヤ、ヨタム、アハズ、ヒゼキヤの時代にイザヤは、救い主の到来の預言をしました。罪を負われる方として、イザヤ書53章1-3節に、生い立ち、4-6節に身代わりとなること、7-9節に口を開かれない静寂、10-12節に死を乗り越えた勝利ととりなしについて預言しています。抜粋でお読みします。
6われわれはみな羊のように迷って、
おのおの自分の道に向かって行った。
主はわれわれすべての者の不義を、
彼の上におかれた。12bしかも彼は多くの人の罪を負い、
イザヤ書53:6, 12b
とがある者のためにとりなしをした。
ユダ王国がバビロンのネブカデネザル王によって滅ぼされ、70年ののちに、ペルシアのキュロス王によって解放され、538年に帰還したゼルバベルのもとで520年にはエルサレムの神殿を再建しました。更に458年にエズラが、また445年にネヘミヤが帰還して、エルサレムの城壁を再建しました。しかし、その後400年に預言者マラキに最後の預言があってから、神様からの預言は途絶えていました。イスラエルの民がカナンの地に入る前に荒野で過ごした40年の10倍の期間が、イエス・キリストの誕生のために必要でした。イスラエルは、周りの国々の属国とされ続けたので、民は国の独立、復興を祈り続け、待ち望んでいました。その救い主イエス・キリストが実際に誕生したのは、イザヤの預言から750年後のことでした。とても長い年月が経っていました。
【3. 信じるすべての人に】
時至り、ローマ帝国の支配下にあった時代に、イエス様が誕生され、地上におられたとき、ユダヤ人指導者たちはこの方を受け入れることはできませんでした。イエス様がナザレの町で育ち、そしてガリラヤ地方に移られていきましたが、何の変哲もない、一般のユダヤ人として育ち、行動されたのです。誰が見ても別に何とも思わない、ごくごく普通の人だったからです。
バプテスマのヨハネから水のバプテスマ・洗礼を受け、聖霊がイエス様の上に降られて、その後、宣教活動を始められましたが、やがて、ユダ人たちから嫌がられ、弟子たちからも裏切られ、のけ者にされたにもかかわらず、イエス様は病人を癒すことにより、病や痛みを共に担われたのでした。十字架での贖いを成就され、復活されたイエス様は、召天されましたが、パウロがダマスコに向かう途中でパウロに現れ、彼を異邦人伝道に遣わしました。パウロは、ローマ人をはじめ、すべての人が神の前に罪人であること、すべての人が神様のさばきを受けなければならないことを論証しました。
1章18節から、ここ3章20節に至るまで、私たちは神様の怒りを受けるべき存在であることを、パウロは示しました。神様は正しい方です。そして、神様は、私たちにもその正しさを要求します。しかし、神様は、ご自分を正しいとしながら、なおかつ私たち罪人を義と認める道を示されました。それが、イエス・キリストを自分の救い主として信じることなのです。このことを異邦人にも知らせるため、パウロはローマ人への手紙を書きました。
【4.本当に信じてよいのか】
私も最初、世界史の授業で学んでいたので、この地球上で、時代も違えば、場所も違う、イスラエルという国の歴史上の出来事に過ぎないのではないかと考えました。日曜日に礼拝を第一にすれば自分の楽しみが削られるし、周りの人たちとペースが合わなくなって、のけ者にされたりする。他にも宗教はたくさんあるし、自分の心のよりどころをしっかりすればいいのではないかと思っていました。友達もいれば楽しいけれど、自分の興味のないことに誘われるのもあまり好きではないし、面倒なことに巻き込まれるのもありがたくないし、そうであれば、無理して友達になってもらう必要はないとも思いました。なんとも身勝手だと思いますが、イエス・キリストを信じる必然性は、私には全くありませんでした。だれにも干渉されずに好きなように生きられればなんて幸せなんだろうと考えていました。
しかし、二十歳前の私にはどうしても解決できない2つの疑問がありました。1つ目は、私はなぜ私の両親から生まれてきたのだろうか、私を生んでくれた母も育ててくれた父も私の本当の心を理解してくれないのは、もしかしたら本当の親ではないからで、私の全てを理解してくれる私の本当の親はどこかにいるのではないか、ということでした。2つ目は、人はなぜ死ななければならないのかということです。この疑問に答えをくれたのが、聖書の言葉でした。
一つ目は、私たち、いえ私は神の作品で、キリスト・イエスにあって造られたとはっきり知らされたこと、2つ目の死は、最初の人間アダムとエバに原因があることを知らされたことで、「救い主」は私に大いに関係があると考えが変えられました。イエス・キリストを救い主として信じるだけで、本当にいいんですね。信じたら、救い主のあなたが私の人生の全責任を負ってくれるのですね。そのように祈って、私は、信じる決心をして21歳になる年に洗礼を受けました。たった20年の人生でしたが、長年のつかえがとれて、なんとも言えない心の安らぎを感じました。そして、ゴスペルフォークを友達と歌い、喜びに満たされました。
【5.イエス・キリストの贖い 21-26節】
21しかし今や、神の義が、律法とは別に、しかも律法と預言者とによってあかしされて、現された。
22それは、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、すべて信じる人に与えられるものである。そこにはなんらの差別もない。
23すなわち、すべての人は罪を犯したため、神の栄光を受けられなくなっており、
24彼らは、価なしに、神の恵みにより、キリスト・イエスによるあがないによって義とされるのである。
25神はこのキリストを立てて、その血による、信仰をもって受くべきあがないの供え物とされた。それは神の義を示すためであった。すなわち、今までに犯された罪を、神は忍耐をもって見のがしておられたが、
26それは、今の時に、神の義を示すためであった。こうして、神みずからが義となり、さらに、イエスを信じる者を義とされるのである。
ローマ人への手紙 3:21-26
神様の義は、律法によって示されていました。律法によらなければ、私たちは神様がいかに正しい方なのか、聖なる方であるのかを知ることはできません。また、律法によって、神はご自分が正しいだけではなく、人間にもその正しさを要求しています。つまり、神様の基準に達しない者は、罰として死ななければいけないのです。
しかし、今や、律法とは別のかたちで、神様ご自身が、その義を私たちのためにすべて用意された、と言うことです。神様は、その義の要求であるさばきも、ご自分の中で行なってくださいました。すべてを行なってくださり、それを贈り物として受け入れるようにしてくださったのです。つまり、私たちが、神様ご自身の義を、ご自分でさばきを受けてくださったことを信じることによって、神様が私たちを義とみなしてくださるのです。神様が私たちを義と認めてくださるのは、神様の恵みであり、「イエス・キリストの贖い」によって、神様が一方的に義と認めてくださいました。神の怒りが完全なかたちで現れたのが、イエス様の十字架刑でした。誰もが目をそむけたくなるような、苦しく、恐ろしい処刑でした。そこまでなさって、私たちを救うことが、イエス様にとって、大きな喜びだったのです。
私も喜びに満たされたと言いましたが、その喜びが私の人生の原点になったと思います。私にとって知ることのできない、死を含めた未来への不安は、「やがてイエス様にお会いできる」という信仰によって希望に変えられました。また、今を生きる中で、たとえ目には見えなくても、聖霊が実在され、聖書に語られている言葉に信頼して祈ることで、私を慰め、励まし、勇気を与え続けて下さっています。
信仰とは、聖書の御言葉を読み、信じる対象が信頼に値すると知って、信頼する対象、すなわち神様に、私たちが応答することです。この出会いによって人生は、喜びに満ちたものに変えられるのです。イエス様は苦しまれたのは、私たちがイエス様を信じて喜ぶことを、イエス様の喜びとされているからです。イエス様を信じて生きてれば、「ああ、生きててよかった」と思う瞬間が必ず訪れ、それが幸福ということだと思い、また感じます。「ああ、今、とってもいいな。」「わー、うれしい」という、それはとても短い瞬間かもしれませんが、その喜びを味わうことが、人生の幸せ、またイエス様に出会った証し、人生の原点に立つことなのだと、私は思います。
イエス様は、私たちが神様に近づけるように、新しく生きるために道を開いて下さいました。さらに、私たちが動揺せずに、この希望を告白し続けられるように、教会に集まり励まし合う事を勧めて下さいました。何に信頼して生きているかは、必ず行動に現れてきます。
信じるか、信じないか、この決断は大変大事です。まだ信じておられない方は、ぜひ今日、今、「救い主イエス様を信じます」と神様に応答する決心をしてください。必ず、神様は、「信じるすべての人に与えられる神の義」を、あなたにも与えて下さいます。
21しかし今や、神の義が、律法とは別に、しかも律法と預言者とによってあかしされて、現された。
22それは、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、すべて信じる人に与えられるものである。そこにはなんらの差別もない。
ローマ人への手紙3:21-22