マタイ13:24-30, 36-43「収穫のときには」

2023年7月23日(日)聖霊降臨後第9主日礼拝メッセージ

聖書 マタイの福音書13章24-30, 36-43節
説教 「収穫のときには」
メッセージ 堀部 里子 牧師

【今週の聖書箇所】

『…収穫まで、両方とも育つままにしておけ。収穫の時になったら、刈る者に、まず毒麦を集めて束にして焼き、麦の方は集めて倉に入れてくれ、と言いつけよう』

…そのとき、義人たちは彼らの父の御国で、太陽のように輝きわたるであろう。耳のある者は聞くがよい。

マタイ13:30,43
「一粒の麦が地に落ちて死ななければ、それはただ一粒のままである。しかし、もし死んだなら、豊かに実を結ぶようになる。」ヨハネ12:24

【一粒の麦として】

おはようございます。今日は午後にSさんのご葬儀があります。そのためご家族の方々と葬儀社のスタッフの方々が礼拝から参加してくださっています。ありがとうございます。ようこそいらっしゃってくださいました。心から歓迎いたします。

Sさんが約一年前からコイノニアの祈祷会や礼拝に出席されるようになりました。「妻が退院したら、自宅から近い教会に車椅子で一緒に通いたい」という希望をお持ちでした。退院されて、Sさんにはご自宅で三回程お会いすることができました。Sさんのことをいつもお祈りしていたので、初めてお会いしても、不思議と親しさと懐かしさを感じました。初めてお会いしたの日は、寒い日だったのですが、帰る前にさようならの握手をしようとSさんの手に触れたら、今まで静かにされていたSさんが、とても大きな声で「冷たい!」とびっくり仰天されました。私は反対に「温かい!」と心の中で思いました。

去る木曜日の朝にご主人のNさんよりお電話があり、「妻が召されました」と伺いました。すぐに教会がお世話になっている葬儀社に連絡をすると、スタッフの方が駆けつけてくださいました。Nさんが午前3時半頃に目覚めると、Sさんがすでに冷たくなっておられたそうです。お医者さんの死亡確認は、午前〇時〇分でした。Sさんの手のぬくもりはもう感じられませんが、お話を伺う中で、お元気な頃のSさんは穏やかで優しく、自分のことよりも他人のことを優先される心温かい方であると知りました。コイノニアの礼拝に参加されることを願っていましたが、今日がSさんにとって初めてのコイノニアでの礼拝となります。天国へ出発されましたが、今日ここにお集いの私たちがまだ経験していない天国への道を一足先に進まれた人生の先輩として、今日は天と地上が一つとなる気持ちで、共に「神の家族」として礼拝に臨みたいと思います。

聖書に次のようなイエス・キリストの言葉があります。

「よくよくあなたがたに言っておく。一粒の麦が地に落ちて死ななければ、それはただ一粒のままである。しかし、もし死んだなら、豊かに実を結ぶようになる。」

ヨハネ12:24

ここで「一粒の麦」とは、イエス・キリストを表しています。イエス様が十字架にかかる前に、自分の死をどのように捉えておられるかが分かる言葉だと思います。「一粒の麦」が豊かな実を結ぶためには、穂や茎を離れて、地に落ちること・死ぬことが必須でした。イエス様を信じて洗礼を受けられたSさんも、イエス様のように「一粒の麦」として、死が終わりでなく、生前に蒔かれた多くの良い種が実を結んでいくのだろうと信じています。Sさんの存在によって励まされたこと、慰められたこと、教えられたり気付かされたことなど、一つひとつが目に見えない宝物として、お一人おひとりの中で結実していくことでしょう。今日、礼拝からわざわざ参加してくださっているご遺族お一人おひとりの上に、神様の豊かな慰めと平安をお祈りいたします。

 さて、マタイ福音書を順番にメッセージしていますが、今朝は麦は麦でも、毒麦のたとえ話です。27節から読みます。

【毒麦が蒔かれる】

「僕たちがきて、家の主人に言った、『ご主人様、畑におまきになったのは、良い種ではありませんでしたか。どうして毒麦がはえてきたのですか。』主人は言った、『それは敵のしわざだ。』すると僕たちが言った『では行って、それを抜き集めましょうか。』彼は言った、『いや、毒麦を集めようとして、麦も一緒に抜くかも知れない。収穫まで、両方とも育つままにしておけ。収穫の時になったら、刈る者に、まず毒麦を集めて束にして焼き、麦の方は集めて倉に入れてくれ、と言いつけよう。』」

マタイ13:27-30

イエス様は物事を説明される時に、「たとえ話」をよくされました。ある人が畑に良い麦の種を蒔いたのに、眠っている間に敵が毒麦の種を蒔いて立ち去って行きました。麦が実ると、毒麦も現れたわけです。

ここで言う毒麦とは、「ホソムギ」ではないかと考えられています。「ホソムギ」とは、調べるとイネ科ドクムギ属の多年草で、小麦によく混入して生える雑草だそうです。葉が小麦と似ているだけでなく、粒の大きさも模様も似ており、素人では区別がつかないようです。毒の原因は、麦角菌(バッカクキン)とよばれる菌・カビだそうで、とても苦いそうです。間違って食べた場合は、手足の痺れ、幻覚症状、嘔吐、下痢、めまい等を引き起こして、死に至ることもあるようです。現在は、家畜の牧草とか芝生として利用されているようですが、イエス様の時代は使い道があまりなく、火を焚くのに使われるくらいだったようです。

【なぜ毒麦が生えるのか】

 しもべたちは「どうして毒麦が生えてきたのですか」(27)と主人に聞きました。物事には始まりがあり、起こっている現象にも原因があります。人間には自分を苦しめる悪の根源を完全に説明することはできません。それでも、ほとんどの人は、何か困ったことや問題が起こった時、「なぜこのような状況になったのか」と原因を突き止め、これ以上状況が悪化しないように、原因を取り除く努力をすると思います。しかし、このたとえ話の中の主人は、「収穫まで、両方とも育つままにしておけ」(30)と言いました。場合によっては、原因を取り除かず「その時が来るまでそのままにしておく」という選択肢もあるのです。なぜ主人はそう言ったのでしょうか。それは、良い麦と毒麦の見分けが難しいからです。同様ように、善と悪も似ているように見えることがあります。最初は気付かなくても、時期が来ると、曖昧な事柄がはっきりし、問題が浮き彫りになり、ピンポイントで処理ができるというのです。

【収穫まで育つままにしておく】

畑の主人は、毒麦の仕業は「それは敵のしわざだ」(28)とはっきり分かっていました。畑の主人とは、神様のことです。神様は毒麦の出所・つまり悪の始まりをご存じなのです。そして、「収穫まで、両方とも育つままにしておけ」(30)と言いました。なぜなら、小麦よりも根が強い毒麦を抜こうとして、小麦までも抜いてしまわないためです。そして、収穫の時になると見分けることが容易になるからでした。見分け方は、小麦は実ると穂先が垂れますが、ホソムギは穂先が垂れないということです。ですから、収穫の時には穂先が真っすぐなものだけを切って集め焼いたようです。

神様は毒麦という人間の悪への罰を遅らせることもあります。神に逆らったサウル王は40年間、そしてマナセ王は55年も王として君臨しました。しかし最終的にどちらとも残念な最期を迎えてしまいます。

【私のおできの話】

私は1歳の頃、頭全体におできが出来てしまう皮膚病になってしまいました。小さなおできはつぶして膿を出すことは難しいので、両親はあえて膿が溜まるまでそのままにしておいたようです。おできが膿むまで待ち、一気に病院で膿を除去しました。1歳でしたが、手術の日をはっきりと覚えています。えんじ色の自動車に両親と乗り込んだこと、病院の坂道をゆっくり上がったこと、そして病院の手術室は銀色の台でした。複数の大人が私の手足を掴み、頭のおできをつぶしていました。そして私は泣き叫びました。手術日まで、両親は夜は、私の頭がどこにも触れないように交代で抱っこして寝たそうです。

神様は人間の小さな悪さえも喜ばれない方ですが、小さなおできが膿むまでの過程を通るように、悪に熟成させる時間を与え、あえて露呈させ取り除くこともあります。

【毒麦のたとえの意味】

イエス様の弟子たちは「毒麦のたとえ」が何を意味しているのか、分からなかったようです。「畑の毒麦の譬を説明してください」(36)とイエス様に聞いています。

イエス様は弟子たちに、たとえ話だけでなく意味も説き明かされました。

「…良い種をまく者は、人の子である」(37)人の子とは、イエス様のことです。

「畑は世界である。良い種と言うのは御国の子たちで、毒麦は悪い者の子たちである。それをまいた敵は悪魔である。収穫とは世の終りのことで、刈る者は御使たちである。」(38-39)

つまりイエス様は毒麦のたとえを通し、弟子たちに対して、「人生の『最後の審判』の時が来ますよ、悪魔に支配される毒麦でなく、中途半端な弟子でなく、しっかりと良い麦の弟子であり続けるように」と警告をされたのです。私は牧師としてよく「宗教を信仰している人たちが、どうして戦争をしたりするのですか?」と聞かれます。私はそのような時は、「人間が神のように完璧でなく、罪人だからです。自己中心という心の悪が露呈して、喧嘩になり、最終的には国家間の戦争も引き起こしてしまうのです」と答えています。私たちは完璧ではありません。どんなに反省しても、同じ間違いをしてしまったり、理想とは遠くかけ離れていることが多いのではないでしょうか。

【なーんちゃってクリスチャン】

クリスチャンはクリスチャンでも「なーんちゃってクリスチャン」がいます。最近、知り合った方に「お仕事は何をしているの?」と聞かれて、「キリスト教の牧師です」と答えるとびっくりされました。「家がクリスチャンの家系なの?」等いろいろと質問をされ、「私昔はなーんちゃってクリスチャンだったんですよ」と言ったら、「え、何それ?」と目を真ん丸にされました。「洗礼を受けてクリスチャンになったけれども、信仰心も特になく、全く成長しないクリスチャンのことです。」と説明をしました。

私は小さい頃から教会に通い、大学進学のために上京してからは、コイノニアの礼拝に通っていました。月曜日から土曜日までは神様のことを忘れ、好き勝手に生き、友人たちとハメを外してどんちゃん騒ぎをし、日曜日になるとシレっと礼拝に参加し、適当に良い子ぶって帰るという繰り返しをしていました。でも就職活動の時期を迎えた時、私はこのまま適当に生きて、自分自身を偽って死ぬのか、何が生きる目的なのかとふと考えました。何をやっても長続きせず、適当に生きるダラダラ人生に嫌気がさしてきたのです。このままでは人生の終わりを迎えても、神様の前に申し開きができないと本気で思いました。私は地獄に行くかもと思いました。自分を変えたいと思いました。自分の置かれている環境のせいにしたり、自分自身の能力のなさを責めたり、過度の期待が裏切られたりすると一喜一憂していました。教会には行っていましたが、クリスチャンとしては失格でした。正に毒麦状態だったのです。信じてはいても心と行動が伴わず、周りに悪影響を与えていた私でした。

【収穫(最後の審判)のときに】

当時、イエス様がこのたとえを話した背景には、イエス様の神の国の教えと存在を明らかに否定し、拒絶する一定の人々がいました。なぜなら熱心なユダヤ教徒ほど、イエス様の教えは神を冒涜していると思えたからです。

この世の中には、良い者も悪い者も混じって存在しており、神が放置しているように感じる時があるかもしれません。しかし、聖書によると収穫の時が来たならすべてが神の審判にかけられ、裁かれるのだということを心に刻みたいと思います。ですから、このたとえ話は、それぞれの人生の歩みに応じて「最後の審判」があるのだという警告でもあります。

「だから、毒麦が集められて火で焼かれるように、世の終りにもそのとおりになるであろう。人の子はその使たちをつかわし、つまずきとなるものと不法を行う者とを、ことごとく御国からとり集めて、 炉の火に投げ入れさせるであろう。そこでは泣き叫んだり、歯がみをしたりするであろう。そのとき、義人たちは彼らの父の御国で、太陽のように輝きわたるであろう。耳のある者は聞くがよい。」(40―43)

厳しい質問かもしれませんが、あえて伺います。あなたは毒麦でしょうか。それとも完璧な良い麦でしょうか。神様の「最後の審判の時・収穫の時」に申し開きができるでしょうか。私たち一人ひとりは小さな麦です。人間の成すこと、作り出すものなどには限界がありますが、神様は私たちの創造を超えた無限の愛を持っておられる方です。その愛の現れが「イエス・キリスト」なのです。

「キリストは、神のかたちであられたが、神と等しくあることを固守すべき事とは思わず、かえって、おのれをむなしうして僕のかたちをとり、人間の姿になられた。その有様は人と異ならず、おのれを低くして、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順であられた。それゆえに、神は彼を高く引き上げ、すべての名にまさる名を彼に賜わった。」

ピリピ2:6-9

 私たちは完璧でなく、弱い時も強い時も、泣く時も、悲しむ時も、いろいろな人生の時期を通らされます。しかし、すべては初めであり終わりである神様の御計画が一人ひとりにあります。「良い一粒の麦」として最期まで主の栄光を現すものでありたいと思います。