詩篇1篇「流れのほとりに植えられた木」
2022年11月23日(水)祈祷会メッセージ
聖書 詩篇1篇
説教 「流れのほとりに植えられた木」
メッセージ 堀部 舜 牧師
1 悪しき者のはかりごとに歩まず、
詩篇1:1-6
罪びとの道に立たず、
あざける者の座にすわらぬ人はさいわいである。
2 このような人は主のおきてをよろこび、
昼も夜もそのおきてを思う。
3 このような人は流れのほとりに植えられた木の
時が来ると実を結び、
その葉もしぼまないように、
そのなすところは皆栄える。
4 悪しき者はそうでない、
風の吹き去るもみがらのようだ。
5 それゆえ、悪しき者はさばきに耐えない。
罪びとは正しい者のつどいに立つことができない。
6 主は正しい者の道を知られる。
しかし、悪しき者の道は滅びる。
詩篇全体への導入
ある人が「詩篇1篇を読む上で最も重要なのは、詩篇全体への導入としての役割を理解することだ」と述べていました。1篇の教えに従って、詩篇全体をどのように読むか、ということです。
2節に「主のおきてをよろこび」とありますが、「おきて」とは「トーラー」という言葉です。この言葉は、創世記から申命記までの五書を指すこともありますが、一般的に「指示・命令・教え」という意味があります。詩篇をこのような「おしえ」として読むことは、単に心のこもった祈りや讃美の言葉として読むだけではなく、詩篇の言葉を通して、主がご自分の御心を啓示されて、私たち一人一人に「指示」し、「導き」を与え、語りかけ、「教え」られる、そのような言葉として詩篇を読むことを意味します。
詩篇を黙想することが、私たちの祈りを導くだけでなく、神の個人的な語りかけを聞く通路となり、恵みが私たちの生き方を変革する通路となることだと言えます。
悪者のライフスタイル
1 悪しき者のはかりごとに歩まず、
罪びとの道に立たず、
あざける者の座にすわらぬ人はさいわいである。
詩編1編の冒頭はヘブライ語では「幸いなるかな」で始まります。この言葉が、詩編1編と、続く150の詩編全体のキーワードです。[1]
「悪しき者」「罪びと」「嘲る者」という表現は、似たような表現を繰り返して強調しています。悪にどっぷりとつかったライフスタイルを表しています。そして、「歩く」「立つ」「座る」という表現で、次第に深く踏み込んでいく様子が描かれています。 ▼主イエスは罪人の招き、受け入れられました。私たちは罪人を受け入れますが、その罪深い生き方や考え方に同調することはできません。メソジストの創始者ジョン・ウェスレーは、集会(ソサイエティ)の規則として、「悪を避けること」「あらゆる種類の善を行うこと」「敬虔の業に励むこと」をあげています。悪を避けることによって神に近づこうとするのではなく、神の恵みによって悔い改めたことの結果として、悪を避けるようになります。
1節では「~しない」という消極的な面が述べられましたが、2節では積極的な面が述べられます。
主イエスは山上の説教の最後のたとえで、岩の上に家を建てた人と、砂の上に家を建てた人を対比しました。教えを聞いて、行うか、行わないか。それが重要です。詩篇1篇も同様で、「聞いて、行うように」、主のおしえを喜びとし、それを絶えず心に思い巡らし、そのように生きることを教えています。
御言葉を思い巡らす
2 このような人は主のおきてをよろこび、
昼も夜もそのおきてを思う。
「おきてを思う」と訳されているハーガーという言葉は、「口ずさむ」「黙想する」という意味で、低い声で御言葉をつぶやく音に由来する擬音語です。御言葉を思い巡らしながら、神に祈り尋ねている姿を描いています。
御言葉を愛し、そこに絶えず沈潜していくことが、聖なるライフスタイルを形作るために不可欠であることを示しています。
「昼も夜も」とあります。一日中、絶えず神様の臨在の中に留まることが、キリスト教の霊性の中で、繰り返し教えられてきました。
中世の修道士ブラザー・ローレンスは、身分の低い奉仕であった台所の仕事をしながら、神様の臨在の内に留まり続け、感謝して奉仕しました。
明治時代にカトリックの宣教師ドロ神父という人が長崎に来て、隠れキリシタンが教会に戻って来て、修道院を建て、貧しい人々の生活を助けるための施設を作りました。私は10年ほど前にその施設を訪ねました。家族を亡くした貧しい女性の自立のための工場があったのですが、振り子時計があって、1時間ごとに時計がなると、皆が手を止めて、お祈りをしたそうです。
南アフリカでリバイバル運動を導いたアンドリュー・マーレー牧師は、クリスチャンが一日中、神様の臨在の中を歩むために、朝の祈りの時間が最も大切であることを強調しました。[2]
マルティン・ルターは、詩編119編の講解で、聖書を読むときに、①聖霊の導きを祈り求め、②聖書を注意深く読み、熱心に学び、③聖書を理解するだけでなく、体験することを教えました。
ジョン・ストットは、「聖書について細かい知識を積み重ねていけば、神との正しい関係に入れる」とか、「聖書そのものが永遠のいのちを与える」という考えは、おかしな考えだ、と言います。「聖書はいのちを与える方であるキリストを指し示し、キリストのところに行っていのちを得るようにと読者に働きかける」のだ、とストットは言います。▼彼は、分かりやすい例えをあげています。聖書を読んでキリストのもとに行かないで、聖書自身の中に命を見つけようとするのは、医者に処方箋を書いてもらって、そこに書かれた薬を飲むのではなく、処方箋を飲み込んでしまうようなことだ、と述べています。▼ルターの表現で言えば、聖書は、東方の博士たちを導いた星のようなもので、星に興味を奪われて、星が指し示すイエス様を見つけそこなってはならない、と言います。▼また、聖書はイエス様の肖像画のようで、イエス様がどのような方かを説明しているが、聖書を読んでいるうちに奇跡が起こり、聖書という肖像画の中からイエス様ご自身が出てこられ、私たちにご自身のことを教えてくださるのだ、とストットは例えを用いて述べています[3]。
19世紀の英国の牧師チャールズ・スポルジョンは、「主の教えを喜ぶ」ことについて述べています。「(聖書を)瞑想することを喜ぶ。昼はそれを読み、夜は読んだことについて考えるのを喜びとする。聖書を手に取り、一日中持ち歩く。寝付かれない夜は、瞼が閉じるまで神の言葉を思い巡らすのを楽しみとする。順境の日には聖書の詩を口ずさみ、逆境の日には聖書の約束の言葉で自らを慰める。」また、「ベレヤの人たちのように熱心に聖書を調べなければなりません。……聖書を研究していますか。」と述べています。
信仰によって孤児院を経営したジョージ・ミュラーは、わたしが毎日求めるべきなのは、「わたしの魂が主を喜ぶことだ」と言いました。どれだけ主に仕えたかではなく、どれだけ証しをし、困っている人々を助けたかではなく、「今、どれだけ私のたましいが恵まれているか」だと教えました。彼は、短く導きを求めてから、祈りつつ聖書を黙想したそうです。すると、黙想を始めて2-3分後には罪の告白や感謝や祈りに導かれたといいます。そして、御言葉の次の節に進んで、御言葉に導かれるままに、祈りになっていきます。かつては心が恵みを感じるまでに15分、30分、1時間とかかっていたけれど、ただ自分の魂の糧を求めて黙想する時、そのように恵みを頂くことができる、と証ししています。
流れのほとりに植えられた木
3 このような人は流れのほとりに植えられた木の
時が来ると実を結び、
その葉もしぼまないように、
そのなすところは皆栄える。
原語では3節が詩篇1篇の構造上の中心であり、修辞学的な中心となっています。
水の絶えない流れのほとりに植えられた木は、干ばつの時でも枯れることがありません。そとからは見えない土の中で、聖霊の命の水の供給を受けています。
「植えられた」とは、偶然種が飛んできて生えてきたのではなく、意図的にその場所に植えられたということです。主が守り導いてくださる人の幸いです。
「栄える」という言葉を、世俗的だと嫌う方がたまにおられます。確かにこの世のものを愛し・追い求める貪欲には注意しなければなりません。しかし、主ご自身を追い求めるものには、現実に力が与えられ、善い業をなし、成功するという具体的な祝福も、聖書が約束しています。主が与えて下さる繁栄の中で、主をほめたたえ、主を喜び誇る者でありたいと思います。
人生の原則
4 悪しき者はそうでない、
風の吹き去るもみがらのようだ。
5 それゆえ、悪しき者はさばきに耐えない。
罪びとは正しい者のつどいに立つことができない。
ここで「主の教え」を持たない生活の虚しさとその行きつくところが述べられています。 ▼「もみがら」は価値がなく、いのちもなく、役に立たず、実質もなく、簡単に動かされるものです。黒木安信牧師は次のように述べます。「表面はどんなに立派に見え、人から羨ましがられても、実態が伴わない生活はむなしい。人の目はごまかせても、神の審きには、到底、堪えられない。これは、やがての時にというだけでなく、今、ここでの日々の生活の中に明らかにされていくことで、厳かなことである。」 ▼風で吹き分けられたもみがらは、火の中に投げ込まれてしまいます。そのように、必ず来る火のさばきに、悪者は耐えることができません。▼「罪びとは正しい者のつどいに立つことができない」とあります。天国に入れないばかりか、黒木先生は、彼らは「交わりを絶たれた、孤立した存在」になってしまうと述べています。
6 主は正しい者の道を知られる。
しかし、悪しき者の道は滅びる。
「主は正しい者の道を知られる」――主に知られているということの内に、安心して主を喜びたいと思います。「知る」とは、「愛する」「体験的に知る」という意味です。特に主イエスのご生涯において、主は人として苦しみ、貧しさを知り、嘲られ、死に至るまで全き従順を貫かれました。主イエスは、正しい者の道を自ら知っておられます。 信仰者として受けるどのような悩みも、苦しみも、主が知っておられ、見ておられ、神のご配慮の中に守っておられることを覚えたいと思います。
1 悪しき者のはかりごとに歩まず、
罪びとの道に立たず、
あざける者の座にすわらぬ人はさいわいである。
2 このような人は主のおきてをよろこび、
昼も夜もそのおきてを思う。
3 このような人は流れのほとりに植えられた木の
時が来ると実を結び、
その葉もしぼまないように、
そのなすところは皆栄える。
[1] もう一つ、面白い構造上の特徴があります。1節の冒頭の「幸いなるかな(アシュレー)」という言葉は、ヘブライ語のアルファベットの最初のアレフという文字で始まります。そして、1篇の最後の単語は、ヘブライ語のアルファベットの最後の文字のトーヴで始まります。アレフで始まって、トーヴで終わる。こういう詩編がいくつかあるそうです。英語なら「AからZまで」、ギリシャ語なら「アルファからオメガまで」という表現がありますが、この詩篇がすべてを含んでいるということを暗示していると見ることもできるかもしれません。人生の全ての局面をふまえた上で、悪い者は滅ぼされ、正しい者は幸いである、と述べられています。詩篇1篇が詩篇全体の冒頭にあることを踏まえれば、これが詩編全体を貫く法則と言うことができます。
[2] アンドリュー・マーレー「内なる生活」
[3] ジョン・ストット「今日における聖書の語りかけ」