イザヤ11:1-9「主を知ること」

2022年12月4日(日) 礼拝メッセージ

聖書 イザヤ11章1~9節
説教 「主を知ること」
メッセージ 堀部 舜 牧師

【今週の聖書箇所】

「1エッサイの株から一つの芽が出、その根から一つの若枝が生えて実を結び、2その上に主の霊がとどまる。これは知恵と悟りの霊、深慮と才能の霊、主を知る知識と主を恐れる霊である。3彼は主を恐れることを楽しみとし、その目の見るところによって、さばきをなさず、その耳の聞くところによって、定めをなさず、4正義をもって貧しい者をさばき、公平をもって国のうちの柔和な者のために定めをなし、その口のむちをもって国を撃ち、そのくちびるの息をもって悪しき者を殺す。5正義はその腰の帯となり、忠信はその身の帯となる。
 6おおかみは小羊と共にやどり、ひょうは子やぎと共に伏し、子牛、若じし、肥えたる家畜は共にいて、小さいわらべに導かれ、7雌牛と熊とは食い物を共にし、牛の子と熊の子と共に伏し、ししは牛のようにわらを食い、8乳のみ子は毒蛇のほらに戯れ、乳離れの子は手をまむしの穴に入れる。9彼らはわが聖なる山のどこにおいても、そこなうことなく、やぶることがない。水が海をおおっているように、主を知る知識が地に満ちるからである。」(イザヤ11:1-9)

今日は午後には久しぶりに子どもクリスマス会が持たれます。すでに会堂でもオンラインでも、数名のお友だち参加してくれる予定で、とても楽しみにしています。

【歴史】今日の箇所は、クリスマスによく読まれるイザヤ書のキリスト預言です。紀元前722年にアッシリア帝国によって北イスラエル王国が滅ぼされます。そこに至る諸国の駆け引きが、イザヤ書7章に記されています。▼当時、アッシリア帝国が周辺諸国に税を課していましたが、アラムと北イスラエル王国が同盟をして、これに背きます。そして、南ユダ王国が同盟に加わることを拒むと、同盟軍がユダに攻め込み、大損害を与えます。その時、預言者イザヤはユダの王アハズに、神様だけを信頼するように戒めます。しかし、アハズはアッシリアに貢物を贈って助けを求め、アッシリアの軍隊がアラムと北イスラエルの同盟軍を打ち破ります。ユダは生き残りますが、アッシリアから莫大な貢物を求められ、苦しめられるようになります。主だけに信頼せよというイザヤのメッセージに反して、アハズは神殿に外国の神々を取り入れ、町々に多くの異教の祭壇を築きました[1]。▼このように、北イスラエルはまもなく滅亡し、南ユダも弱体化して宗教的にも軍事的にも滅亡の道を進む中で、イザヤは神ご自身が開かれる新しい救いの御業を預言しました。

【救い主の預言】これ以前の預言書でもイザヤ書でも、救い主である王がダビデ王家から出ることが預言されていました。今日の11:1では、ダビデの父エッサイの名前が出てきます。

1 エッサイの株から一つの芽が出、その根から一つの若枝が生えて実を結び、…

エッサイは異邦人女性ルツの孫で、田舎のベツレヘムに住む目立たない人でした。神様はそこからダビデ王家を起こされましたが、国は分裂して衰退し、信仰の火も消えかかっていました。ダビデ王家は、かつては豊かな森のように生い繁りましたが、弱り衰え、やがてさばきの日に切り倒されて根株だけが残ります。しかし、神は、片田舎のエッサイの家から偉大な王朝を起こされたように、回復の望みも見えないダビデ王家の切り株から、新しい王・救い主を起こされます。それは、神ご自身の主権的な働きです。

今日は、前半の2-5節から「救い主がどんな方であるか」、後半の6節以下から「救い主の支配/神の国がどのようなものであるか」見ていきます。

【1.救い主はどのような方か】

まず、救い主がどのような方であるか、見ていきます。

◇【① 主の霊】

2節でメシアについて言われています。

2 その上に主の霊がとどまる。これは知恵と悟りの霊、深慮と才能の霊、主を知る知識と主を恐れる霊である。

救い主の特徴の第一は「主の霊がとどま」っていることです。旧約聖書で、神様が救いの働きのために立てた人々は、神の霊によって働きました。人間の力を越えた「神の力」によって救いをもたらしました。▼ユダのアハブ王は、大国アッシリアと、アラムと北イスラエルの同盟の狭間で揺れ動き、軍事力により頼み、外国の神々に頼りました。

しかし、まことの救い主として来られた主イエスは、聖霊で満たされていることが第一の特徴でした。主の洗礼の時に、聖霊が主の上に降り、御霊を限りなく受けられました[2]。主イエスは主を恐れ、主を愛して絶えず主と共に歩み、父を知っておられました。「主を知る知識」とは、神を恐れ、神と共に歩み、主の霊によって生きることです。主イエスが人としてそのように生きられたので、私たちも聖霊によって生きる道が開かれました。

◇【② 主を恐れること】――正しいさばき

救い主の特徴の2番目は、正しいさばきです。

3彼は主を恐れることを楽しみとし、その目の見るところによって、さばきをなさず、その耳の聞くところによって、定めをなさず、4正義をもって貧しい者をさばき、公平をもって国のうちの柔和な者のために定めをなし、その口のむちをもって国を撃ち、そのくちびるの息をもって悪しき者を殺す。

当時は、裁判で正しいさばきをすることが良い王の条件でした。▼しかし、現実には、人間の知識には限界があって、心が正しくても、目で見ていないことを正しく判断することには限界があります。むしろ、地上の王たちは、貧しい者を虐げ、私利私欲でさばきを歪め、賄賂や不正が横行しました。

しかし、まことの救い主である主イエスは、目で見ず、聞いたこともない事柄を理解し、正しく裁かれました[3]。「さばく」とは、罰に定めるだけではなく、弁護することを含みます。▽私たちが誠実な心で主を信じて聖霊に従って歩んでいるなら、主イエスが私たちを知っていてくださることは、大きな慰めです。主は人の目に隠れた私たちの努力や苦しみを知っておられます。私たちの隠れた祈りや奉仕を見ておられます。人から評価され、認められなくても、主ご自身が報いて下さいます。

【H兄の証し】先日の週報にH兄の写真が掲載されましたが、賞状を持っている写真でした。奥様が病気で苦しんでおられた時に、職場で同じ日に別々の2つの表彰状とギフトカタログが届いたそうです。奥様の看病で職場に行くこともままならなかった状況で、2つの表彰は神様からのプレゼントだと感じられたそうです。「神様が頑張りなさいと後押ししてくださっている感じが強くして嬉しく感謝でした」とメールをくださいました。その人にしか分からない、神様からの励ましがあります。

私たちが天国で栄冠を受けるまで、この地上で使命を最後まで全うするようにと、主が私たちのすべての歩みを見守り、弁護し、励ましていてくださいます。主の正しいさばきを心に留め、その慰めを心に思い起こして、主を恐れ畏みながら歩んで参りましょう。

◇【③ 正義と真実】

救い主の第3の特徴は「正義」と「真実」です。

5 正義はその腰の帯となり、忠信はその身の帯となる。

正義」とは、人や神との関係(契約)に関わる言葉で、約束に忠実であることを指します。「忠信」とは、信頼できること、変わらないことを意味します。 ▼アハブ王は政治情勢によって揺れ動きましたが、主イエスは栄光の時も十字架の上でも常に神の栄光を求めて、神の御心に従い通されました。

【帯】」とは、全ての衣服を束ねて、仕事をするために締めるものです。また、この言葉は、最も素肌近くに着る下着も意味する言葉だそうです。そのように、「正義」と「忠信」は、救い主の最も基本的な、また、すべての特徴をまとめる最も大切な特徴として、イザヤは取り上げています。

【前半まとめ】 前半で救い主の特徴を見てきました。救い主メシアは、①主の霊によって治め、②全てを見通す神の知恵によって正しくさばき、③契約を守る「正義」と変わることのない「真実」を土台としています。 ▼人間の知恵と力がはるかに及ばない時にも、神のキリストは真実であられ、正しく報いて下さいます。このキリストを主としている私たちは、主のさばきが完全に現れる再臨の日を待ち望みながら、真実で正しい主のお取り扱いに、日々信頼して、御業に励んでまいりましょう。

「水が海をおおっているように、主を知る知識が地に満ちる」イザヤ11:9

【2.救い主の支配――神の国】

後半の6節以降には、救い主が支配する「神の国」が描かれています。

6 おおかみは小羊と共にやどり、ひょうは子やぎと共に伏し、子牛、若じし、肥えたる家畜は共にいて、小さいわらべに導かれ、7雌牛と熊とは食い物を共にし、牛の子と熊の子と共に伏し、ししは牛のようにわらを食い、8乳のみ子は毒蛇のほらに戯れ、乳離れの子は手をまむしの穴に入れる。

」「」「獅子」「コブラ」「まむし」は、ユダを脅かしていたアッシリアなどの敵を象徴するとも言われます。この箇所は、いろいろな解釈がされてきました。▼①主イエスの再臨後に来る新しい世界で、回復された楽園を描いている、という文字通りの解釈があります。また、②狼や子羊は人間の性質を表し、互いに傷つけ合う罪深い性質が変えられて、平和が回復された神の国を表す、という霊的な解釈があります。②の解釈では、この変化はキリストの到来によってすでに始まっていて、再臨の時に完成することになります。

救い主は「平和の君」と呼ばれるように、新しい世界に争いはなく、「平和」があります。▼最も鮮やかな対照は、乳飲み子がコブラの穴の上で戯れる姿です。イザヤ書7章や9章では、大国との戦争に翻弄されていた神の民に対して、救い主が幼子として与えられることが約束されます。軍事力ではなく、人間の知恵でもなく、神の力によって救いがもたらされます。そのように、幼子として来られた主イエスは、神への全き信頼を教えられました。

エデンの園で蛇は人をそそのかして死をもたらしました。しかしここでは、死のとげは取り去られています。主イエスは、平和をもたらし、死に打ち勝ち、神への全き信頼によって多くの人を主に連れ戻す救い主です。

◇やがて来る、新しい世界

黙示録21:3b-4「見よ、神の幕屋が人と共にあり、神が人と共に住み、人は神の民となり、神自ら人と共にいまして、4人の目から涙を全くぬぐいとって下さる。もはや、死もなく、悲しみも、叫びも、痛みもない。先のものが、すでに過ぎ去ったからである」。

やがて来る天国(新天新地)の約束です。

この世界が全く新しく造り変えられるのは、主イエスの再臨の後です。しかし、神の国・神の支配はすでに来始めています。

◇すでに到来しつつある、神の支配

【ルターの神への信頼】 マルティン・ルターによる宗教改革は1517年に始まると、ルターの書物はたちまちヨーロッパ中に広まりました。ローマ教皇はルターに自説の撤回を要求しますが、ルターは拒否し、破門されます。神聖ローマ皇帝は、教皇と手を結ぶため、1521年にヴォルムスの帝国議会にルターの出頭を命じます。敵地に飛び込むことになるため、ルターの友人たちは、行かないように勧めますが、ルターは答えます。「たとえ悪魔の数がヴォルムスの屋根の瓦より多くても私は行く」。ヴォルムスの議会で自説の撤回を求められたルターは、聖書に明らかな証拠がある場合以外は自説を撤回しないとして、言いました。「私はここに立つ、神、我を助けたまえ」。

その後、厳しい身の危険にあったルターは、ヴァルトブルク城に密かにかくまわれ、新約聖書のドイツ語訳を完成させます。その城を出る時、ルターは彼をかくまったフリードリヒ選帝侯に手紙を書いています。「この手紙を選帝侯殿下に差し上げるのは、私が、選帝侯よりはるかに高い庇護のもとにヴィッテンベルクに向かってきたことを殿下に知っていただきたいからです。また、私は、選帝侯殿下の庇護をお願いしたいとは考えておりません。いや、選帝侯殿下が私をお守りくださるより多く、私の方が殿下をお守りいたしたく思っております。……この事柄においては、剣は何の忠告も助力もできず、またすべきでなく、神のみがあらゆる人の思い煩いと関与を超えて働かれるに違いありません。それゆえ、ここでは最もかたく信じる人が、最も強く守られます。選帝侯殿下はまだ信仰においてはお弱いと私は拝察しておりますので、殿下が私を守り救うことがおできになる方とお見受けすることはできません。もし、殿下が信じられるなら、神の栄光をご覧になるでしょう。しかし、信じておられないので、まだご覧にならないのであります。」[4]

主イエスは、一羽の雀さえも、「あなたがたの父の許しがなければ、その一羽も地に落ちることはない」と言われました[5]。すべてを知り、支配しておられる私たちの父なる神に信頼したいと思います。

9 彼らはわが聖なる山のどこにおいても、そこなうことなく、やぶることがない。水が海をおおっているように、主を知る知識が地に満ちるからである。

◇主の平和は、主を知ることから来る

完全な平和、悪のない世界は、主イエスの再臨の後に来ます。しかし、悪に満ちたこの世界においても、父なる神の許しなしには、私たちに害を与えるものは何一つありません。私たちが善を行い、主を恐れて、公平にさばき、正義と真実を帯としているならば、私たちは主のご配慮の中にあります。たとえ死のただ中にあっても、何も恐れる必要はありません。

主を知る」とは、情報として知っていることではありません。神が全知全能・永遠・不変であると、頭で理解すること(だけ)ではありません。神ご自身を個人的に経験し、経験を通して人格的に知ることです。

主を知る知識が地に満ちる」――それが完全に成就するのは、再臨の主と、顔と顔を合わせて会う日です。しかし、主イエスは既に来られて、私たちに父を示されました。聖霊は私たちに来られて、神の国は到来しつつあります。私たちは、主イエスキリストを通して、神を知ることを求めましょう。

■【まとめ】

 主の霊に満たされて、主を恐れて、主の正しいさばきに信頼しましょう。

 主の御国は、聖霊と共に、すでに到来し始めています。私たちは主に知られ、主の許しなしには、どのような害を受けることもありません。

 私たちは、イザヤが教え、主イエスが教えられたように、幼子のように単純に主を信頼して歩みましょう。主を恐れ、主を知ることを求めましょう。 9 彼らはわが聖なる山のどこにおいても、そこなうことなく、やぶることがない。水が海をおおっているように、主を知る知識が地に満ちるからである。


[1] 列王下16章、歴代下28章、イザヤ7章

[2] マタイ3:16、ヨハネ3:34

[3] ヨハネ2:24-25、5:30

[4] http://www3.kct.ne.jp/~atonoyota/kindai/11-kaikaku1.html、徳善義和監修「慰めと励ましの言葉」マルティン・ルターによる一日一章 11月1日

[5] マタイ10:29