1サムエル24:1-6,17-22「神に委ねる勇気」
聖書 1サムエル24:1-6,17-22
説教 「神に委ねる勇気」
メッセージ 堀部 里子 牧師

via wikimedia commons CC BY 2.5
17サウルはまたダビデに言った、「あなたはわたしよりも正しい。わたしがあなたに悪を報いたのに、あなたはわたしに善を報いる。18きょう、あなたはいかに良くわたしをあつかったかを明らかにしました。すなわち主がわたしをあなたの手にわたされたのに、あなたはわたしを殺さなかったのです。19人は敵に会ったとき、敵を無事に去らせるでしょうか。あなたが、きょう、わたしにした事のゆえに、どうぞ主があなたに良い報いを与えられるように。20今わたしは、あなたがかならず王となることを知りました。またイスラエルの王国が、あなたの手によって堅く立つことを知りました。21それゆえ、あなたはわたしのあとに、わたしの子孫を断たず、またわたしの父の家から、わたしの名を滅ぼし去らないと、いま主をさして、わたしに誓ってください」。22そこでダビデはサウルに、そのように誓った。そしてサウルは家に帰り、ダビデとその従者たちは要害にのぼって行った。
Ⅰサムエル24:17-22
1 わたしは声を出して主に呼ばわり、
詩編142:1-3
声を出して主に願い求めます。
2 わたしはみ前にわが嘆きを注ぎ出し、
み前にわが悩みをあらわします。
3 わが霊のわがうちに消えうせようとする時も、
あなたはわが道を知られます。
彼らはわたしを捕えようとわたしの行く道にわなを隠しました。
従姉妹の結婚式に参加して
おはようございます。昨日、従姉妹の結婚式に、夫婦で参加しました。各出席者の席に、写真付きの新郎新婦からの手書きのカードがありました。カードの写真もメッセージも、その人のためだけに書かれ、丁寧に用意されたものでした。自分に宛てて書かれた個人的なメッセージだからこそ、特別嬉しいのですね!
聖書の言葉も、私に語られたメッセージだと個人的に受け取ることで、単なる文字でなく、喜びや励ましを与えるものであると知ることができます。
居場所を求めるダビデ
さて、先週はユダにもペリシテにも居場所がなくなったダビデがアドラムの洞穴に避難したとき、約400~600名(22:2、23:13)がダビデのところに集まって来て、一つの集団が形成された箇所でした。「神が私にどんなことをされるのか」とダビデが言った言葉が印象的です。サウル王はダビデが謀反を企てていると思い、ダビデを助けた祭司アヒメレクを含む85人を殺しました。ダビデは自分の周りの人たちの命が奪われていくことに、どんなにか心を痛めていたでしょうか。やりきれない思いを抱えながら「復讐」という言葉が脳裏に浮かばないことはなかったと思います。

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復讐心から自由になるために
今日の箇所から学びたいことは「復讐するな」ではなく、テーマは「神への信頼こそが、人を復讐から自由にする」ことです。今朝開かれた二つの聖書箇所の、Ⅰサムエル24章は「ダビデの行動」を描いており、もう一つの詩篇142篇は「ダビデの心」を描いています。この二つの箇所を合わせて読むと、「なぜダビデは復讐しなかったのか」がよく分かると思います。
私たちは傷つけられると、「相手に分からせたい」「謝らせたい」「仕返ししたい」という思いが生まれます。それは自然な感情です。ダビデにも復讐心がなかったわけではないでしょう。彼は命を狙われ、家を失い、仲間と共に逃亡生活を送りました。しかも、その相手は自分が忠実に仕えてきたサウル王です。ある日、神様はダビデに「復讐できる機会」を与えられました。
1サウルがペリシテびとを追うことをやめて帰ってきたとき、人々は彼に告げて言った、「ダビデはエンゲデの野にいます」。2そこでサウルは、全イスラエルから選んだ三千の人を率い、ダビデとその従者たちとを捜すため、「やぎの岩」の前へ出かけた。3途中、羊のおりの所にきたが、そこに、ほら穴があり、サウルは足をおおうために、その中にはいった。その時、ダビデとその従者たちは、ほら穴の奥にいた。4ダビデの従者たちは彼に言った、「主があなたに告げて、『わたしはあなたの敵をあなたの手に渡す。あなたは自分の良いと思うことを彼にすることができる』と言われた日がきたのです」。そこでダビデは立って、ひそかに、サウルの上着のすそを切った。(24:1-4)
サウルは王なので、兵隊に囲まれ、一人になるチャンスはそんなにありません。「用を足す」と訳されたヘブライ語は直訳すると「彼の両足を覆う」なのですが、これは「大便をする」ことを表しています。ダビデの部下たちは「神様がこの状況を与えてくださったチャンスだから」と、サウル王の命を取ることを勧めますが、ダビデはサウル王の上着の裾を少し切っただけで、手を下しませんでした。用を足すために上着を脱いで置いていたのかもしれません。サウル王は無防備な状態でしたので、ダビデがサウル王の命を取ることは簡単でした。しかし、なぜダビデは復讐のチャンスを生かさなかったのでしょうか。
① 神に心を注ぎ出した人は、人に怒りをぶつけなくなる(詩篇142)
詩篇142篇は「ダビデがほら穴にいた時によんだマスキールの歌、祈」です。これはアドラムの洞窟か、エン・ゲディの洞窟の頃と考えられています。そこに声をあげて叫んで祈るダビデの姿があります。
4 わたしは右の方に目を注いで見回したが、
わたしに心をとめる者はひとりもありません。
わたしには避け所がなく、
わたしをかえりみる人はありません。
6 どうか、わが叫びにみこころをとめてください。
わたしは、はなはだしく低くされています。
わたしを責める者から助け出してください。
彼らはわたしにまさって強いのです。(詩編142:4、6)
ダビデは「心をとめる者はひとりもありません」「避け所がなく」と叫びます。ここには立派な堂々とした信仰者の姿はありません。孤独で、不安で、苦しみもがき、自分ではどうしようもなく、叫んでいる姿だけです。ダビデは、自分の苦しみをサウル王へ向けず、神へ向けました。
2 わたしはみ前にわが嘆きを注ぎ出し、
み前にわが悩みをあらわします。(詩編142:2)
「注ぎ出す」という言葉は、器の中身を全部空けるような表現です。ダビデは神様の前では我慢しませんでした。怒りそのものが罪ではなく、怒りの行き先が問題です。神に流すか、人に流すかで結果が違ってきます。ダビデは神へ流しました。だから人へ復讐しませんでした。

② 神を信頼する人は、自分で相手を裁かない(24:1-7)
サウルは3000人もの兵士を率いてダビデを追う途中、一人で洞窟へ入ります。ダビデの部下たちは言いました。「今日こそ神が敵を渡された」と。一見、とても信仰的な言葉のように聞こえます。しかし、神の約束を人間の都合で解釈していました。ダビデは良心の呵責を覚えながらも、部下たちの言葉に押し出されて行動を起こします。
4 ダビデの従者たちは彼に言った、「主があなたに告げて、『わたしはあなたの敵をあなたの手に渡す。あなたは自分の良いと思うことを彼にすることができる』と言われた日がきたのです」。そこでダビデは立って、ひそかに、サウルの上着のすそを切った。5 しかし後になって、ダビデはサウルの上着のすそを切ったことに、心の責めを感じた。(24:4-5)
でも切り取った後で、ダビデはすぐに後悔して心を痛めました。他の訳では「ダビデの心は責められた。」です。「責められた」は、良心が激しく痛んだという意味です。上着は王権の象徴でもありました。その裾を切っただけでも、神が立てられた王への敬意を欠いたと感じたのです。そして部下たちに言います。
6ダビデは従者たちに言った、「主が油を注がれたわが君に、わたしがこの事をするのを主は禁じられる。彼は主が油を注がれた者であるから、彼に敵して、わたしの手をのべるのは良くない」。(24:6)
ダビデはサウルを正しいと言っているのではなく、裁く権利は神にあるのだと言っているのです。ダビデは裁くことは、自分の領域ではなく神様の領域だとはっきり認識していました。
神様に状況を委ねるということは、自分が何もしないことではありません。神様の仕事を奪わないことです。私たちは傷つくと、相手を裁き、変え、罰したくなります。しかし最後の裁きは神のものであることを心に刻みたいと思います。
③ 神に委ねる人は、境界線を引くことができる(24:8〜22)
ダビデは、洞窟から出て歩いていくサウルに「王よ」と声をかけて深々と頭を下げます。そして切った裾を見せます。これは「殺そうと思えばできました。」という証拠です。しかしダビデは「どうぞ主がわたしとあなたの間をさばかれますように。また主がわたしのために、あなたに報いられますように。しかし、わたしはあなたに手をくだすことをしないでしょう」(24:12)と言います。ダビデはサウロ王に、自分が衣の裾を切り取ったことを明かして、後は神様に委ねました。
しかしサウルの宮殿へ戻りませんでした。サウル王を赦しましたが、また裏切られるかもしれないと思ったのかもしれません。完全に信頼するわけでもなく、安全な距離を保ち続けます。これは弱さではなく知恵だと私は思います。
クリスチャンは何でも全てただ我慢する人ではありません。この事柄は神のなさること、これは私が自分の責任だと境界線を引くことができるようになるのが成熟したクリスチャンの姿だと思います。境界線を引くことは、愛がないことではありません。相手を神に委ねながら、必要な距離を保つことも信仰から出た行動です。
サウルは最初から悪人ではありませんでした。ではサウルはなぜおかしくなっていったのでしょうか。サウルは神を見ることをやめ、人を見るようになりました。人の目を気にして自分の顔を立てて欲しいと懇願しました。町の女性たちが勝利を祝う声を聞いて激しく怒ったのです。「サウルは千を撃ち殺し、ダビデは万を撃ち殺した」(18:7)この比較が恐れとなり、嫉妬となり、怒りとなり、暴力に変化して行きました。罪は比較から大きくなることがあります。私たちも、誰かの成功を見るたびに心が苦しくなるなら、サウルのような心が入り込んでくる可能性があることを覚えたいと思います。
ミッショントリップでの出来事
もう何年も前の話ですが、教会関係の旅行で、海外へミッショントリップへ出かけたことがありました。現地の教会を訪問して、さまざまな学びの機会を得る貴重な体験でした。旅行期間中は、二人組で一緒に行動するということになりました。私のパートナーになった人は、私よりも若くお元気に見えましたが、鬱病を抱えていました。私は彼女が少しでも旅を楽しめるようにと、自ら進んでお世話をし、話に耳を傾け、優しく接しました。今思えば、私がしたことは彼女の意に沿わないこともあったことでしょう。時間と共に私は疲れてしまい、彼女に優しく接することができなくなってきました。まるで自分の中に敵がいるかのように思えました。旅が早く終わることを願ってしまう自分も許せませんでした。引率してくださっている牧師先生に祈ってもらおうと、先生に自分の心を打ち明けました。すると先生は「あなたが祈って、彼女のために精一杯をささげたなら、それで良いのですよ。しかし、自分の心も守りましょう。相手のすべてをあなたがお世話しないでもいいのです。あなたの本当のパートナーとなってくださっているイエス様を見上げましょう」と、励まし祈ってくださいました。義務感から、相手のお世話することは愛なのだと思っていた私でしたが、適切な境界線が必要なことを学び、こんな足りない私でも愛してくださっている神様の愛を学んだミッショントリップでした。

失敗後が大切
一方で、ダビデも完全な人ではありません。この後も何度も失敗してしまいます。しかし、ダビデの姿は、何度も失敗して自分の罪に押しつぶされそうになる私たちを救い出す「イエス・キリスト」を指し示しています。イエス様は不当な裁きを受けました。罵られ、傷つけられ、十字架につけられました。それでも「父よ、彼らをお赦しください。」と祈られた神の子です。Ⅰペテロ2:23には「正しいさばきをするかたに、いっさいをゆだねておられた」とあります。ダビデが目指した「神に委ねる生き方」は、イエス様によって完全に成就されました。
「神に委ねる勇気」とは、泣かないことでも、我慢することでも、泣き寝入りすることでもありません。それは、自分の怒りも悲しみも神の前に注ぎ出し、神様の立場を奪わず、最後の裁きを神様にお任せすることです。
ダビデはサウルが自分に行った行為のためにサウルを殺さないのでなく、サウルに対して「神がされた油注ぎ」のために、サウルを殺しませんでした。今この機会を逃せば、また命が狙われることを知りながらも、自分の命とサウルの命の両方を神様にお任せしたのです。そのような意味でダビデは、「復讐の鎖」から解放された人でした。そして、必要な境界線を保ちながらも、憎しみに支配されない自由を与えられた人だと言えます。ダビデはサウル王を赦しました。しかしサウルの支配下には戻りませんでした。これこそが、聖書が示す成熟した愛であり、「神に委ねる勇気」の具体的な姿だと言えるのではないでしょうか。17しかし、もしある枝が切り去られて、野生のオリブであるあなたがそれにつがれ、オリブの根の豊かな養分にあずかっているとすれば、18あなたはその枝に対して誇ってはならない。たとえ誇るとしても、あなたが根をささえているのではなく、根があなたをささえているのである。19すると、あなたは、「枝が切り去られたのは、わたしがつがれるためであった」と言うであろう。(ローマ11:17-19)


