マタイ15:21-28「あなたが願う通りになれ」

2023年8月20日(日)聖霊降臨後第13主日礼拝メッセージ

聖書 マタイ15:21-28
説教 「あなたが願う通りになれ」
メッセージ 堀部 舜 牧師

【今週の聖書箇所】

「21さて、イエスはそこを出て、ツロとシドンとの地方へ行かれた。22すると、そこへ、その地方出のカナンの女が出てきて、「主よ、ダビデの子よ、わたしをあわれんでください。娘が悪霊にとりつかれて苦しんでいます」と言って叫びつづけた。23しかし、イエスはひと言もお答えにならなかった。そこで弟子たちがみもとにきて願って言った、「この女を追い払ってください。叫びながらついてきていますから」。24するとイエスは答えて言われた、「わたしは、イスラエルの家の失われた羊以外の者には、つかわされていない」。25しかし、女は近寄りイエスを拝して言った、「主よ、わたしをお助けください」。26イエスは答えて言われた、「子供たちのパンを取って小犬に投げてやるのは、よろしくない」27すると女は言った、「主よ、お言葉どおりです。でも、小犬もその主人の食卓から落ちるパンくずは、いただきます」。28そこでイエスは答えて言われた、「女よ、あなたの信仰は見あげたものである。あなたの願いどおりになるように」。その時に、娘はいやされた。」 

マタイ15:21-28
Harold Copping「主よ、私をあわれんでください」
Free Christ Imagesより[リンク]

【ジミー・カーター 元米国大統領】 アメリカの元大統領のジミー・カーター氏は、敬虔なクリスチャンとして知られています。最近、ホスピスに入られたというニュースがありましたが、以前、肝臓がんの診断を受けた時のエピソードです。

アメリカの大統領であったジミー・カーター氏は、医師から肝臓がんと診断され、がん細胞が脳にまで転移していると言われました。彼は、肝臓がんの手術を受ける前、記者たちに「私の未来は、私が礼拝する神様の御手にあります。私の心は平安で、どのようなことでも受け入れる準備ができています。私は心から永遠なる冒険を待ち望んでいます」と言いました。手術の痕、彼は自分が任されている教会学校の学生たちに毎週聖書を教えました。そして、それからしばらくして、彼が受けたがん治療はうまくいき、がんから完全に解放されたという知らせが届きました。この知らせは、彼を愛する人たちに大きな喜びを与えました。

リビングライフ 2021年2月20日

 カーター氏は、真実な神様が、全てのことの中で愛をもって導いて下さることを信じ、常識を超えて働かれる神の力に信頼し、どのような状況でも揺るがずに、勇気をもって堂々とした姿を見せることができました。[①]

聖書の背景

【背景】 今日の舞台は、ガリラヤから北に数十キロ離れた外国の町、ツロとシドンの地方に行かれます。▼「ツロやシドン」は、旧約聖書で繰り返しさばきの預言をされ、「カナン人」はイスラエルが征服を命じられた敵で、非常に悪いイメージが付きまとう地名です[②]。 ▼マタイ福音書では繰り返し、「宗教エリートの不信仰」と「社会的弱者の敬虔な信仰」が対比されています。ここでも、悪名高いあのツロとシドンの地方の出身の、あのカナン人の女性が、立派な信仰を表した、という逆説があります。

このような偉大な信仰を表した外国人女性が記録されて、今日の箇所の時点では、主イエスの働きの対象は基本的にイスラエル民族のみですが、やがてマタイ福音書の最後では、全ての民族に祝福がもたらされます。

【主イエスとの対話】 今日のエピソードで、主イエスは、女の娘を癒されただけでなく、女自身を顧みてくださいました。さらに、この出来事を通して、一緒にいた弟子たちも「救われるのは誰か?」「信仰とは何か?」、既成の考えに挑戦を突き付けられました。マタイ福音書の最初の読者たちにとっても、現代の私たちにとっても、繰り返し深く考えさせられるエピソードです。

ダビデの子よ、わたしをあわれんでください。」マタイ15:22

22すると、そこへ、その地方出のカナンの女が出てきて、「主よ、ダビデの子よ、わたしをあわれんでください。娘が悪霊にとりつかれて苦しんでいます」と言って叫びつづけた。

中東では、見知らぬ異性に声を掛けることはありませんでした。しかも、女は外国人でしたから、ユダヤ人男性である主イエスに話しかけることは、通常考えられないことでした。女は、人種と性別という2つの妨げを越えて、勇気をもって主イエスに話しかけました[③]。 ▼しかし、多くの弟子たちに囲まれていた主イエスに、簡単に近づくことはできません。女は遠くから大きな声で主イエスに叫ばなければなりませんでした。しかし、周囲にいる弟子たちから、とどめられても、女は叫び続けてやめませんでした。

【適用】この熱心さ・粘り強さに、女の信仰が現れています。私たちは、困難に遭う時、主に叫び求めるでしょうか。主に求める前に、あきらめてしまうことがないでしょうか。女は、外国人女性という不利な立場にも、主イエスを取り囲む男性たちにもひるむことなく、人目をはばかることなく主イエスに叫び求め続けました。

【主よ、あわれんでください】 女は「主よ、ダビデの子よ、わたしをあわれんでください」と叫びます。▼「ダビデの子」とは、救い主キリストを指す呼称です。「主よ、ダビデの子よ」と二つがセットで出てくると、主イエスをはっきりと救い主と認めて、信仰を表明していると読み取ることができます。

▼「あわれんでください」(Ἐλέησόν / 動詞原形ἐλεέω / 名詞形ἔλεος)という言葉は、ヘブライ語のヘセド=「神の契約の愛」の訳語として使われている言葉です[④]。「わたしをあわれんでください」とは、「あなたの契約に従って、私に慈しみをください」という意味です。 ▽イスラエルの契約の外にいる外国人の女性が、イスラエル人のように大胆に「救い主」に呼びかけて、契約の慈しみを表して下さることを求めました。

【私をあわれんでください】女は、娘の解放と癒しを願いましたが、「私の娘をあわれんでください」とは言わないで、「私をあわれんでください」と言いました。娘の苦しみは、彼女自身の苦しみでした。娘の苦しみを心に抱いて、女自身が主イエスを訪ね、主イエスに向き合い・叫び求めました[⑤]。▽具体的な願いの内容は娘に関することでしたが、主イエスとの関係は、女自身と主イエスの間の事柄でした。

【適用】 私たちが信仰によって主イエスに向き合う時、主イエスと私の間に入るものは何もありません。私たちも、しばしば誰かのために祈ります。しかし、主は私たち自身に心を留めてくださいます[⑥]。▽主は、娘を癒してくださっただけでなく、女自身を取り扱い、信仰を引き出し、歴史に残る賞賛を与えて下さいました。▽主は私たちの心にある課題に答えてくださいますが、それ以上に、私たち自身に心を寄せ、向き合ってくださいます。

23aしかし、イエスはひと言もお答えにならなかった。

主イエスが一言も答えないのは、珍しい場面です。▽中東では、見知らぬ異性と公の場で会話をすることはなかったそうですが、主イエスは、助けを必要とする相手には、しばしば社会常識を超えて行動されました。(たとえば、普通のユダヤ人は話しかけないサマリア人の女に、ご自分から話しかけたこともありました。)▼必死に叫び続ける女に対して、一言もお答えにならない主イエスに、弟子たちはしびれを切らします。

23bそこで弟子たちがみもとにきて願って言った、「この女を追い払ってください。叫びながらついてきていますから」。

弟子たちの言葉は曖昧で、「女の願いをかなえてやってください」とも「すぐに追い払ってください」ともとれます[⑦]。弟子たちは、女と主イエスの板挟みになって、主イエスに「何とかしてください」と訴えました。▼すると主イエスは、ご自分が神様から与えられた使命を説明します。

24するとイエスは答えて言われた、「わたしは、イスラエルの家の失われた羊以外の者には、つかわされていない」。

この言葉は、マタイ10:5-6で弟子に教えられた、主イエスの働きの原則です。▼「わたしが神から命じられているのは、外国人を助けに行くことではない。神から離れてしまったイスラエル民族の所に行くようにと、命じられているのだ」と。

主イエスは、(例外的に)外国人のために病気を癒された事例が福音書にも記されています[⑧]。▼しかし、悪名高い「ツロとシドンの地方」出身の「カナン人」の女が、「わたしをあわれんでください」と、イスラエル民族に与えられた神の契約に基づいて、神の恵みを求めて来た時に、主イエスは神の契約という原則に立ち返らなければならなかったのではないかと思います[⑨]

「主よ、わたしをお助けください」マタイ15:25

しかし、カナン人の女は、主イエスに拒まれても、戸惑う弟子たちの間を進んで、主イエスの足もとにひれ伏します。

25しかし、女は近寄りイエスを拝して言った、「主よ、わたしをお助けください」。

ひれ伏す」とは、必死の懇願と共に、礼拝をも表す言葉です。

女はここでも「主よ、わたしをお助けください」と言って、娘の癒しを願いながら、自分自身が主イエスと一対一で向き合って、助けを願います。▼その状況を変えることのできる唯一の方、病を支配し・癒すことのできる力を持つ方だけを見つめて、必死に求めています。ここに、真の信仰の姿を見ることができます。

【適用】 私たちも、祈りの場で、わき目もふらず、周囲に気を散らすことなく、ひたすらに主イエスの前にひれ伏す祈りをしているでしょうか? 試練の中で、キリストの前に出て行かせるのは、真の信仰です。主イエスの力を知っているからこそ、危機の時に神の前に出て、ひたすら主により頼み、主だけに目を注ぐようになります。主は慈しみ深い方です。主の前に出て、1対1で向き合うなら、主の答えは、もうすぐそこです。

主イエスはたとえによって答えられます。

26イエスは答えて言われた、「子供たちのパンを取って小犬に投げてやるのは、よろしくない」。

神の国は、しばしば豊かな食卓に譬えられます。ここでは「パン」は神の祝福を指し、「子ども」はイスラエル民族を、「小犬」は外国人を指します。▼「小犬」とは、周辺の外国人の道徳的な退廃のために、ユダヤ人が外国人を汚れた「犬」に譬えた軽蔑表現です。▼しかし、マルコ福音書では「まず子供たちに十分食べさすべきである」とあります(7:27)。外国人を全く拒んでいるのではなく、イスラエル人に次ぐ順序の問題と言えそうです。

食卓から落ちるパンくずはいただきます」マタイ15:27

女は、主イエスの厳しい指摘を拒まず、すべてを受け止めます。

27すると女は言った、「主よ、お言葉どおりです。でも、小犬もその主人の食卓から落ちるパンくずは、いただきます」。

主よ、お言葉どおりです」――女は神の祝福を受ける資格がないことを認めます。▼主イエスが外国人を「小犬」に譬えた言葉を逆手に取り、そんな小犬でも、天国の祝福の残りのおこぼれには与るのだと言います。ここに、自分の無価値さを認めて、惜しみない神の愛に信頼する深い信仰が表れています。▼主が私たちの罪や誤りを指摘される時に、それを隠したり、ごまかそうとしてはなりません。女のように「主よ、お言葉どおりです」とへりくだって認めることが大切です。

▼当時のユダヤ人たちは、「外国人は天国の祝宴そのものには与れないけれど、そこからあふれ出る祝福の一部には与ることができる」と考えていたそうです[⑩]。女はそのように、「自分は神のあふれ出た恵みのほんの一滴に与ることができれば、それで良い。それが大きな幸いなのだ」と告白したのです。

このような謙遜こそ、神に信頼して、その恵みを受け取り続ける秘訣です。しかし、これが一番難しいところでもあります。▼私たちは、人からの侮辱に耐えることができず、互いに比べあい、人より劣っていることを恥じ、人より優れていることを誇り、過ちを認めることが難しいものです。▼もし私たちが、自分だけを見て自分の価値を考えるならば、他人と比べて誇ったり卑屈になったりすることは、いつまでも続きます。 ▼しかし、私たちは神との関係の中で生きるものです。神のあふれ出る恵みが私たちを十分に満たしてくださることを知り、神が誰にでも惜しみなく、分け隔てなく与えてくださることを知れば、自分が弱くても、劣っていても、そんな者でも「主人の食卓から落ちるパンくずは、いただきます」と満足できます。▽弱さや欠点を通して神の惜しみない愛を経験します。▽私たちを、劣等感や優越感や妬みから自由にするのは、神の惜しみない愛です。

主よ、お言葉どおりです。でも、小犬もその主人の食卓から落ちるパンくずは、いただきます」――「あなたの溢れる愛は、罪深い私にも届きます。私はその恵みの一滴を頂いて、満ち足りるのです」。

【信仰とは】「クリスチャンになる」とは、「誰にも恥じることのない生き方をする」ことではありません。主イエスを信じるということは、むしろ、「自分が神から離れていて、人として多くの落ち度があること」に気づき、それを受け止め、「そんな私をも受け入れ、愛し、その欠けを満たすほどに、 神の恵みの豊かさは、罪深い私の罪を覆って余りあること」「恵み深い神様は、罪深い私にも、無条件で惜しみなく与えてくださること」を信じることです。クリスチャンは、自分の弱さを認めて、神の恵みにより頼む者です。

私たちは今日の女性のように答えます。「主よ、お言葉どおりです」〔私は罪深く・神の前に弱く無価値な者です。〕「でも、小犬もその主人の食卓から落ちるパンくずは、いただきます」〔こんな私にも、あなたは惜しみなく祝福を分け与えて下さる。そのこぼれ出た祝福は、私に十分なのです〕と。

28そこでイエスは答えて言われた、「女よ、あなたの信仰は見あげたものである。あなたの願いどおりになるように」。その時に、娘はいやされた。

主イエスに堅く信頼して求めた女に対して、主イエスは最高の賞賛をされました。信仰が「見あげたもの」という言葉は、「大きい」「偉大だ」という意味です。神の恵みの豊かさを信じ、どんな罪深い者にも与えられることを信じて、願い求めて揺らがなかったことに、彼女の信仰が現れました。

主イエスが「あなたが願いどおりになるように」と言われた時、娘はすぐに癒されました。

ここでも主イエスは「あなたの信仰は見あげたものです」「あなたの願いどおりになるように」と、女自身に答えてくださいました。▼主イエスの前にひれ伏した女自身に一対一で答えてくださり、最高の賞賛を与えて下さいました。「あなたは神に受け入れられている」「あなたは神の祝福にあずかっている」と。そればかりか、歴史に深く刻まれる賞賛を与えてくださいました。

K姉のための祈り

【K姉】 私がかつてお世話になった先輩クリスチャンのお母様が、2年前にガンの宣告を受けました。とりなしの祈りを頼まれて、祈祷会でもお祈りを頂きました。信仰深いご家族ですが、難しいタイプのガンとのことで、厳しい試みを受けました。先輩クリスチャンは、当時、コロナ禍でお仕事も試みを受けていた中で、お母さまが厳しい抗がん剤治療を受けることになり、メールは涙・涙・涙でした。しかし、その先輩の祈りは、お母さまの回復を切に祈りつつ、結果は神様におゆだねして、「ただ神様の栄光が現わされるように」「神様をほめたたえる者として用いられるように」と祈っていました。その後、厳しい抗がん剤治療を経て、ガンが寛解し、主の御名をほめたたえました。

それから、まもなく2年が経とうとした先月7月、お母さまの体調が良くないとのことで、祈りの要請がありました。お母さまのガンは難しいタイプで、他の患者はすでに全員亡くなってしまい、医師からは「今生きていることだけで奇跡だ」と言われ、傷ついておられました。2度の組織検査の結果、「ガンが見つからなかった」との報告がありました。難しいガンからここまで命が守られ、ご家族と共に歩むことができ、主をほめたたえて来られた、その主の御業を心から感謝しました。3年間は再発が多いので、残り1年、特に注意するように言われた、とのことでした。

先輩は、文字通り必死で、主の前にひれ伏して祈りました。そのような祈りは、内容的にはお母さまの癒しのための祈りですが、祈りの関係は私と神様との一対一の関係です。先輩の祈りは、癒しの奇跡を求めつつ、その結果を御手にゆだねて、「主を崇め、主をほめたたえる者となります」という献身の祈りでした。私たちがそのように主の前に出て、主にひれ伏して誰かのために祈る時、主は誰かのためだけではなく、私たち自身に出会ってくださり、私たち自身を導き・取り扱ってくださいます。

私たちは今でも弱く・欠け多く、罪深い者ですが、主は私たちを心に留めて、私たちに必要な恵みをもって報いて下さいます。

【まとめ】

27…「主よ、お言葉どおりです。でも、小犬もその主人の食卓から落ちるパンくずは、いただきます」 

主の恵みは、主に固く信頼して求める者に、惜しみなく・分け隔てなく与えられます。その恵みは、食卓から落ちるパンくずでも、私たちを十分に満たす豊かな力あるものです。主をほめたたえ、主を信頼して、主によりすがって共に歩んでまいりましょう。


[①] リビングライフ2021年2月20日

[②] マタイ11:21-22参照

[③] ケネス・E・ベイリー「中東文化の目で見たイエス」第16章p326-341

[④] https://biblehub.com/greek/1656.htm  HELPS Word-studies

[⑤] ケネス・E・ベイリー、前掲書。第16章p326-341

[⑥] ケネス・E・ベイリー、前掲書。第16章p326-341

[⑦] Blomberg, C. L., Matthew, The New American commentary. 15:23-24

[⑧] マタイ8:5-13(ローマの百人隊長)、8:28-34(ガダラ人の男)など

[⑨] この言葉の意図について、解釈は多様である。参考:Carson, D. A., Matthew, The Expositor's Bible Commentary. 15:23-24、Hagner, D. A. , Matthew 14-28, Word Biblical Commentary. 15:24、Osborne, G. R., Matthew, Zondervan Exegetical Commentary On The New Testament. 15:24、France, R. T., The Gospel of Matthew , The New International Commentary On The New Testament. 15:24

[⑩] Hagner, D. A. 前掲書15:26-27。「主人の食卓」の「主人」は複数形。キリストの尊厳を表す複数形ともとれるが、「主人たち」はイスラエル人を指すと考えるのが自然だろう。女はイスラエル民族の優越を認めている。

[リンク] Free Christ Imagesよりhttps://freechristimages.com/bible-stories/gentile-womans-faith.html