マタイ18:15-20「誰かが罪を犯したなら」

2023年9月17日(日)聖霊降臨後第17主日礼拝メッセージ

聖書 マタイ18:15-20
説教 「誰かが罪を犯したなら」
メッセージ 堀部 舜 牧師

【今週の聖書箇所】

「15もしあなたの兄弟が罪を犯すなら、行って、彼とふたりだけの所で忠告しなさい。もし聞いてくれたら、あなたの兄弟を得たことになる。16もし聞いてくれないなら、ほかにひとりふたりを、一緒に連れて行きなさい。それは、ふたりまたは三人の証人の口によって、すべてのことがらが確かめられるためである。17もし彼らの言うことを聞かないなら、教会に申し出なさい。もし教会の言うことも聞かないなら、その人を異邦人または取税人同様に扱いなさい。18よく言っておく。あなたがたが地上でつなぐことは、天でも皆つながれ、あなたがたが地上で解くことは、天でもみな解かれるであろう。19また、よく言っておく。もしあなたがたのうちのふたりが、どんな願い事についても地上で心を合わせるなら、天にいますわたしの父はそれをかなえて下さるであろう。20ふたりまたは三人が、わたしの名によって集まっている所には、わたしもその中にいるのである」。

マタイ18:15-20
シモン・チェホヴィッチ画: 「復活」 Wikimedia Commons

【報告】 先週、10/15に持たれるファミリーコンサートの案内がありました。多くの方の参加の申し出があり、それぞれ準備が進められていて、楽しみにしています。

また、私たち夫妻はJCE7日本伝道会議のために2年以上準備してきましたが、今週、本大会が開かれます。「『おわり』から『はじめる』宣教協力」というテーマで、①コロナ禍を越えて教会のあり方が根本から問い直されている時代、②個性の多様性が認められる中で、その聖書的なあり方を模索している時代、③AIも含めてデジタル化が急速に進行する時代、新しい時代の日本の宣教協力の今後を模索する日本伝道会議です。 ▼大会が良い一致と宣教協力の進展があるように。私たちも、今後につながる良い出会いや学びの時となるように、お祈り頂ければ幸いです。

【マザー・テレサ:人間関係の中での忍耐】

マザー・テレサが、スラムでの働きを始めた最初の頃のことです。所属していたロレット修道会に籍を置いたまま、新しい働きを始めたのですが、彼女が愛していたロレット修道会との間に、すれ違いが起こっていったようです。

 マザー・テレサが、ロレット修道会の空いている建物に住ませてもらいたいと願いました。しかし、マザーの新しい働きは、失敗するリスクもあり、修道会の人々のつまずきとなることを懸念したロレット修道会から、建物の提供を断られます。▼スラムでの苦闘の中で、マザーの働きが成果を上げると、ロレット修道会のシスターの中から、マザーの働きに加わろうとする人が増えます。すると、シスターたちが流れていくことを懸念したロレット修道会は、シスターたちがマザーと接触することを禁じ、援助も断ち切られてしまいました。しかし、マザーは公明正大な、愛に満ちた態度に留まります。▼しかし、まもなく、ロレット修道会のシスターたちの数人から、マザーへの非難やうわさが広がっていきます。一部のシスターたちが、「マザーを悪魔に、新しい修道会を悪魔の業に」比較しました。主ご自身からの召命を確信していたテレサは、自身の召命の源である主ご自身に対する攻撃として、深く打ちのめされます。この時のテレサの対応が、忍耐強い謙遜な愛に満ちていると感じました。テレサは、個人的な怒りや悲しみをぶつけるのではなく、神から与えられた自身の修道会の働きを守るために、「純粋に自分たちの修道会に対する義務から」、ロレット修道会に手紙を書きます。ロレット会のリーダーは直ちに自分たちの会のシスターたちの非を認めて、対応をしました。この後、双方の間に理解が生まれ、やがて良い協力関係が発展していったそうです。[1]

【今日の聖書箇所の背景:文脈と構造】

マタイ福音書18章は、教会内の人間関係に関するいくつかの教えがまとまっています。 ▽18:1で弟子が「(弟子の中で)だれが一番偉いのですか」と質問します。すると主イエスは、「神様が一人一人の魂を大切にされること」、だから「誰をも見下してはならず、子どものように身を低くするべきこと」を教えられました。▼しかし、教会の実際の人間関係では、社会的にも問題になるような現実的な罪を犯すことが起きることがあります。そのような兄弟姉妹にどのように接するべきかを教えています。▽今日の箇所では、罪を犯した兄弟を、できる限り悔い改めに導くことが教えられます。▽そして18章の最後(21-35節)では、「兄弟が罪を悔い改めるなら、何度でも赦すべきこと」を教えています。

 今日の箇所を読む時、①「神は一人一人の魂を愛しておられるので、誰も見下してはならないこと」、②「私たち自身も罪を赦された者であること」を覚えていなければなりません。

 ギリシャ語原文では、15-17節は単数形の「あなた」、18-20節は複数形の「あなたがた」と、はっきりと使い分けられています。15-17節は「個々人のクリスチャンの責任」を示し、18-20節は「教会としての判断の背後にある権威と約束」を示しています。

■【1.罪を犯した兄弟への対処】18:15-17

15もしあなたの兄弟が罪を犯すなら、行って、彼とふたりだけの所で忠告しなさい。もし聞いてくれたら、あなたの兄弟を得たことになる。

【罪を放置しない】 18章は「誰が一番偉いか」という弟子たちの質問に対して、主イエスが弟子たちに「誰も見下さず、子どものように身を低くする」ことを教えています。しかし、もし教会の誰かが具体的に罪を犯した時、私たちはどのように対応すれば良いのでしょうか?「兄弟姉妹を見下さない」という姿勢は、相手が具体的に過ちにおちいった時に、どのように対応すれば良いのでしょうか?主イエスが示しているのは、相手の尊厳を守り、相手が罪を認めて立ち返る余地を残しながら、共同体を守る方法です。

【罪】ここでいう「罪」とは、対応の手続きが踏まれていることから、客観的な・実質的な問題が考えられています。たとえば、お金のトラブルとか、誰かに怪我を負わせてしまったとか、物を盗んだとか、異性関係の問題とか、ハラスメントとか、あるいは、教会内で異端的な教えを広めているとか、そういった具体的な事柄が考えられると思います。 ▽たとえば、「あの人は私に冷たい」とか、「愛がない」とか、「言葉遣いが多少乱暴」とかいった個人的な・主観的な問題ではないと思います。 ▽より判断が難しいのは、様々な形の差別や偏見があげられるかもしれません。外国人に対する差別、経済的な差別、障がい者に対する差別などは、より気づきにくい、より身近な罪であるかもしれません。

【自立したクリスチャン】15節では、被害を受けたクリスチャン自身が、相手に問題を指摘することを求めています。 ▼前提として、一人一人の信徒が、互いにきちんと意見を述べることができるくらいに、社会的に自立していることが必要です。 ▼そのうえで、教会員一人一人が対等であることが大切です。教会は本来、三位一体の神の間に優劣がないように、クリスチャン相互の間に優劣があってはなりません。「互いに人を自分よりすぐれた者と思い」、「先頭に立ちたいと思う者が、皆のしもべにならなければなりません」[2]。▽しかし、12弟子の間に「誰が一番偉いか」という議論があったように、初代教会でも、例えばコリント教会に派閥と分裂があり、「互いの言葉に耳を貸さない」「罪を指摘されても居直る」ということが、新約聖書の中にもあります。

 主イエスは、地位を求める弟子たちに「仕える者となる」ことを教え、パウロはピリピ人への手紙に「へりくだって他人を自分より優れた者と思う」ことを教えました。分裂のあったコリント教会は、より優れた道として「愛を追い求める」ことを教えました。▼へりくだった愛こそ、互いの間のわだかまりをいやし、高ぶりからくるかたくなさを柔らかくします。

【健徳的な言葉】もし聞いてくれたら、あなたの兄弟を得たことになる」。――もし私たちが本当に相手のことを思うならば、相手のいない所で相手の罪を並べ立てることはしないと思います。面と向かって言えないことを、陰で話すことは、しないはずです。 ▼もし私たちが、相手が立ち返ることを期待して、愛をもって話すならば、客観的な事実を越えて辛辣な言葉遣いや、嫌味を使わずに話すことができます。

 私がまだクリスチャンになって間もない頃、私が生意気なことを言っても、私の過ちを分かっていても、鋭い批判もせず、笑顔をもって、愛をもって黙って見守ってくれた、成熟した先輩たちがいました。▽主イエスもパウロもペテロも、主の働きが妨げられない限り、自分の損害を甘んじて受け止めることを教え、模範を示されました。私たちも、そのような存在になりたいと思います。 ▼同時に、主が指摘されるような実質的な被害があるならば、謙遜な愛をもって、率直に罪を指摘できるようになりたいと思います。

 相手が指摘を受け入れるかどうかは、「指摘が妥当かどうか」「愛をもって語るかどうか」だけでなく、「聞く側の心の状態」にもよります。客観的に事実に基づいて、愛をもって適切な形で相手に伝えても、相手が心をかたくなにして落ち度を認めないことがあります。

互いに戒めること

レビ19:17「あなたは心に兄弟を憎んではならない。あなたの隣人をねんごろにいさめて、彼のゆえに罪を身に負ってはならない。」

 他人の罪に巻き込まれず、自分の内には憎しみを抱き続けないことは、私たち自身が主の祝福に留まり続けるためです。

16もし聞いてくれないなら、ほかにひとりふたりを、一緒に連れて行きなさい。それは、ふたりまたは三人の証人の口によって、すべてのことがらが確かめられるためである。

申命記19:15には、「どんな不正であれ、どんなとがであれ、すべて人の犯す罪は、ただひとりの証人によって定めてはならない。ふたりの証人の証言により、または三人の証人の証言によって、その事を定めなければならない」とあります。▼私たちは、しばしば思い込みで判断してしまったり、偏っていたりすることがあります。2-3人の証言ということは、より客観的に証拠を集める、ということです。これによって、より公平に判断をすることができます。

懲戒

17もし彼らの言うことを聞かないなら、教会に申し出なさい。もし教会の言うことも聞かないなら、その人を異邦人または取税人同様に扱いなさい。

 「異邦人または取税人同様に扱う」とは、公の場での教会の交わりに参加させないことを意味します。 ▽古代社会では、宗教が社会の基礎になっていて、会堂からの追放は社会的に非常に厳しい処分でした。

 パウロは、この厳しい措置を、信徒を悔い改めさせるために用いたようです。

2テサロニケ3:14-15「14もしこの手紙にしるしたわたしたちの言葉に聞き従わない人があれば、そのような人には注意をして、交際しないがよい。彼が自ら恥じるようになるためである。15しかし、彼を敵のように思わないで、兄弟として訓戒しなさい。」

 コリント人への手紙では、はなはだしい性的不品行を行った信徒を、教会の交わりから取り除かせ、悔い改めた後には、彼を愛をもって受け入れるように勧めたようです。[3]

【適用】 教会からの追放というのは、非常に重い処分です。新聞沙汰になるような事件を起こした上で、悔い改めをかたくなに拒むというようなことでもなければ、通常、そのような処罰になることはあまりありません。 ▼ただし、教会には最終的にはそのような対応をしなければならない場面もあることを、覚えておかなければならないと思います。▽たとえば、教会に異端が入り込んできた時、あるいは、性的不品行が教会を混乱させる時、この御言葉は、教会が罪に対して、時には、断固とした対応を取る必要があることを、はっきりと教えています。

■【2.罪の赦しを宣言する教会の働き】18:18-20

 ここまで15-17節では、一人一人のクリスチャンがどのように対応するべきかを教えました。続く18-20節では、教会に委ねられた権威と約束述べています。[4]

18よく言っておく。あなたがたが地上でつなぐことは、天でも皆つながれ、あなたがたが地上で解くことは、天でもみな解かれるであろう。

 これは、ペテロに委ねられた天国の鍵、12弟子が復活の主イエスから委ねられた罪を赦す権威が、教会に委ねられたことを示しています。

ヨハネ20:23「あなたがたがゆるす罪は、だれの罪でもゆるされ、あなたがたがゆるさずにおく罪は、そのまま残るであろう」。

 そのように、この箇所でも、「つなぐ」「解く」という表現は、「罪の赦しの宣言すること」あるいは「しないこと」を指すと思います[5]

 主イエスは、ペテロに天の御国の鍵を委ねました。①使徒の働き2章のペンテコステの出来事では彼が罪の赦しの福音を宣言した時、ユダヤ人たちに神の国の扉が開かれました。②ピリポを通して主イエスを信じたサマリア人のために、ペテロが祈った時に彼らに聖霊が降りました(使徒8章)。そして、③ローマ人コルネリウスの救いによって、ペテロを通して異邦人にも神の国の扉が開かれました。

 このような、ペテロに委ねられた罪の赦しを宣言して、神の国の到来の使者となることが、ペテロだけでなく12弟子に、そして教会に委ねられました。

 それは、主イエスご自身が共におられ、神ご自身がこの権威を委ねておられるからです。教会は、地上にあって、天上の世界の代理人・管理者として働いています。神の御心に従って、「赦しを宣言し」、あるいは、「宣言しない」のです。

19また、よく言っておく。もしあなたがたのうちのふたりが、どんな願い事についても地上で心を合わせるなら、天にいますわたしの父はそれをかなえて下さるであろう。

 「どんなことでも」というギリシャ語は、「どんな事案でも」というような、法律や裁判で良く用いられた言葉だそうです。「トラブルになっているどのような事案であっても」ということです。 ▼「二人が心を一つにする」とは、法廷で裁判官を務める3人のうちの2人が一致した判断を下すことを指したのかもしれません。[6]

 主イエスは「また、よく言っておく」と、重々しい権威ある言葉で、約束を強調しています。「また」(もう一度)とあるように、18節と19節は、同じことを指しています。▼教会内で起こる、どのような罪によるトラブルでも、教会の代表者たちが心を一つにして知恵と導きを求めるならば、天の父なる神ご自身が、その祈りに答えてくださいます。 ▽教会は、神の御心の代務者として、この地上で罪の赦しを宣言し、あるいはそのままにするという重大な務めを委ねられているのですが、教会の代表者が誠実に心を合わせて判断を下す時に、その背後に神ご自身がおられ、導き、その救いの内実を実現させてくださることを約束しています。

20節の冒頭には、訳されていない「なぜなら」という言葉がついていて、神の導きの根拠が示されています。

20ふたりまたは三人が、わたしの名によって集まっている所には、わたしもその中にいるのである」。

 「主イエスの名において集まる」とは、主イエスの代理として、主イエスを代表する弟子として集まっていることを意味します。罪の問題に対処するために、教会が厳かに招集した裁判官たちとともに、主ご自身が共におられることを約束しています。主イエスご自身が共におられるので、罪の赦しを宣言する教会の決定は、使徒の働きの中で起こったように、「天国の扉を開き、あるいは閉ざす」という内実を持つのだ、と言われます。

 この箇所は、しばしば一般的な祈りの約束として引用され、私もそう用いてきましたが、正確には、このような教会内の罪の問題に対する懲戒処分の判断という文脈の教えです。

「20ふたりまたは三人が、わたしの名によって集まっている所には、わたしもその中にいるのである」

主イエスが「私たちと共にいる」とは、マタイ福音書の約束の中心にあるメッセージです。マタイ1:23で主イエスは「インマヌエル」(神が私たちとともにおられる)という名で呼ばれています。またマタイ福音書の最後では、「わたしは世の終りまで、いつもあなたがたと共にいる…」と言われました。ここでは、教会内での罪への対処という、現実の戦いの中で、主イエスご自身が共におられ、教会を導き、「罪の赦しを宣言し、あるいは宣言しない」という「天国の鍵」を預かる任務をなさしめておられることを約束しておられます。

【マザー・テレサ:神の主権を認める信仰】

すべてのことの背後に、神の臨在と導きを認める信仰について、もう一度、マザー・テレサのエピソードをご紹介します。

マザー・テレサは、1946年にダージリンへ行く汽車の中で、主イエスに出会い、働きの召命を受けた後、上長たちに相談しますが、事はマザーが願うようにスムーズには進みませんでした。▼マザーが最初に相談したヴァン・エグザム神父との関係を誤解されて、別の町に転任になりました。しかし、マザーは、起こる事柄に神の御手を認めて、不平を言わずに受け入れました。▼マザーの新しい働きに許可を出すことができる、大司教に召命と計画を伝えますが、大司教は非常に慎重に、祈りと吟味に時間を掛けます。すぐに道が開かれることを期待していたマザーには、大きな試練でした。その間も、マザーは、「わたしを拒むのか」という主イエスの御声を聞き続けます。▼それに加えて、マザーの召命の真実性を確かめようとしたエグザム神父から、「この召命について、今後一切考えないように」と命じられます。上長からの命令を神の導きとして受け止めていたマザーは、この命令に必死で従う努力をしますが、彼女にとって非常に厳しい試みとなりました。そのような厳しい吟味の時を経て、マザーの人格も召命の真実さも認められ、新しい働きの必要性が認められて、新しい働きの許可がおり、大司教やエグザム神父の協力を得て、進められていきました。[7]

【まとめ】

マザー・テレサは、新しい修道会の設立という明確な御心に従って歩み出しても、すぐには周囲の協力が得られず、御心のとおりに進んでいないように見える葛藤の中で、すべての出来事の背後にある主イエスの臨在に信頼し続けました。追い風には見えない人々の反応も、究極的には神の許しの下にあることを覚えて、信頼しました。▼私たちも、神の御心に従って歩む時、逆境や試練があっても、主イエスの臨在と神の導きに信頼して、おゆだねして従ってまいりましょう。


[1] マザーテレサ「来て、私の光になりなさい」P210-212、225、

[2] ピリピ2:3、マタイ20:26-28、23:11

[3] 1コリント5:1-5、2コリント2:5-11

[4] 前述のように、15-17節では単数形の「あなた」(=一人一人のクリスチャン)に対して、18-20節では複数形の「あなたがた」(=教会)に対して、言われている。

[5] 「つなぐ」「解く」という表現は、マタイ16:19のペテロにゆだねられた王国の鍵の権威や、ヨハネ20:23で復活の主イエスが弟子たちに与えた権威でも用いられている。①「罪の赦しを宣言する/しない」、②「何が正しく、何が正しくないかを判断する」こと、などと解釈される。マタイ18:18の意味は、ヨハネ20:23に近いと考えられる。

[6] Hagner, D. A. , Matthew 14-28, Word Biblical Commentary. 18:19、Osborne, G. R., Matthew, Zondervan Exegetical Commentary On The New Testament. 18:19、(参照:Carson, D. A., Matthew, The Expositor's Bible Commentary. 18:19-20)

[7] マザーテレサ「来て、私の光になりなさい」