マルコ9:2-9「日常に隠れた神の栄光」

2024年2月11日(日)礼拝メッセージ

聖書 マルコの福音書9章2-9節
説教 「日常に隠れた神の栄光」
メッセージ 堀部 舜 牧師

【今週の聖書箇所】

 2六日の後、イエスは、ただペテロ、ヤコブ、ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。ところが、彼らの目の前でイエスの姿が変り、3その衣は真白く輝き、どんな布さらしでも、それほどに白くすることはできないくらいになった。4すると、エリヤがモーセと共に彼らに現れて、イエスと語り合っていた。5ペテロはイエスにむかって言った、「先生、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。それで、わたしたちは小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのために、一つはモーセのために、一つはエリヤのために」。6そう言ったのは、みんなの者が非常に恐れていたので、ペテロは何を言ってよいか、わからなかったからである。7すると、雲がわき起って彼らをおおった。そして、その雲の中から声があった、「これはわたしの愛する子である。これに聞け」。8彼らは急いで見まわしたが、もはやだれも見えず、ただイエスだけが、自分たちと一緒におられた。

 9一同が山を下って来るとき、イエスは「人の子が死人の中からよみがえるまでは、いま見たことをだれにも話してはならない」と、彼らに命じられた。

マルコ9:2-9
ラファエロ:「キリストの変容」(部分)、パブリック・ドメイン、Wikimedia Commonsより

導入・例話

おはようございます。最近、新型コロナやインフルエンザなどの感染症も広がっているようです。皆様が守られるよう、お祈りしています。

【例話:霊の目が開かれる】 里子牧師が、以前奉仕していた教会で、求道者向けのクラスを教えていました。その中のお一人が、10年来、教会に通って求道していましたが、ある時、洗礼を受けられました。その方は哲学を学んでおられる中で聖書に関心を持ち、ずっと読み続けておられたそうです。▽ある時、突然、「光が差し込んだ」ように、聖書が理解できるようになり、主イエスを個人的な救い主として受け入れて、洗礼を受けた、と証ししておられました。▽その方は、里子牧師を「師匠」と呼んでいたそうです。とてもまじめで、忠実に礼拝を守っておられました。神様が、その方の霊の目を開いてくださったのでした。

今日の箇所は、主イエスの人としての肉体の内に秘められていた、神としての栄光が輝き出て、ペテロの目が開かれていった転機となる出来事でした。

聖書の文脈

【文脈】 今日の聖書の箇所は、福音書の折り返し地点で、「キリストの変貌」と呼ばれる一つのクライマックスとなる出来事です。

▼ペテロは、最晩年に筆記者によって書き送ったペテロの第2の手紙の中で、この出来事を回想しています。ペテロが、主イエスの神としての栄光を目の当たりにし、主イエスを証しする神ご自身の声を聞いた、特別な啓示の経験でした。▼そのペテロは私たちに、「さらに確かな」言葉として、聖書の預言に目を留めるように勧めています[①]。 ▼私たちの持つ聖書は、「神を見た」預言者と使徒たちの証言の本です。彼らの証言を、謙虚な真剣さと、敬虔な喜びをもって読んでまいりましょう。

前の8章では、ペテロの信仰告白に続いて、主イエスは初めてはっきりと受難と復活を予告します。▽当時の弟子たちは、このことが理解できませんでした。

十字架の使命を明らかにした主イエスは、弟子たちも「十字架を負って従う」ように招きました。今日の箇所に登場する3人の弟子は、やがて激しい迫害の中で主イエスを証しする人々でした。神様はその3人の弟子に、今日の出来事を通して、①主イエスの神としての栄光を見させ、②主イエスの十字架の使命を確証し、③主イエスに従って証しをする使命を弟子たちに与えられました。

■【1.主イエスの栄光の啓示】

【山の上】 主イエスは、受難と復活を予告した後で、3人の弟子を連れて、高い山に登ります[②]。 ▼聖書で、山はしばしば神がご自分を現された啓示の特別な舞台でした。▼後に教会の指導者となる3人に対して、主イエスが何者であるかを示すために、神様が選んだ舞台は山の上でした。

【変貌】 2節後半に「ところが、彼らの目の前でイエスの姿が変り…」とあります。▽教会の伝承によると、マルコ福音書はペテロの通訳をしたマルコが、ペテロの教えをもとに書いたとされます。ペテロ自身の「目の前で」主イエスの姿が変わり、ペテロはその目撃者となりました。

▼主イエスの「」が輝いたとありますが、それは主イエスご自身の変容を表します。▽旧約聖書で、神の栄光がしばしば光の輝きとして現れたように、隠れていた神の子の栄光の輝きが表れました。

【モーセとエリヤ】 そこに、旧約聖書を代表する2人の預言者が登場します。▼ペテロは、主イエスをモーセやエリヤと並ぶ預言者と考えました。▽しかし、旧約の預言者が指し示していた神の到来こそ、イエス・キリストでした。

【雲】 彼らを包んだ雲は、目に見えない父なる神の臨在を、目に見える形で現します。ソロモンが神殿を奉献したときに、神殿を雲が覆い、神の栄光が神殿を満たしました[③]。▽同じように、弟子たちを栄光の雲が覆って、神の御声が主イエスを証しして「これはわたしの愛する子」と呼びました。

【霊的な視力】ペテロは偉大な信仰者で、他の弟子に先駆けて主イエスへの信仰を告白しました。しかし、信仰を告白した彼も、何者なのか、その神としての栄光と力には目が閉ざされていました。栄光を姿を見て、父なる神の証しの声を聞き、後に主イエスの十字架と復活を目撃するまで、理解することができませんでした。

【祈りのハイド】 祈りのハイドと呼ばれたジョン・ハイドは、祈りを通して人々の霊性を呼び起こし、彼に会った人々が祈る人に変えられたと言います。

 ウィンバー・チャップマンという著名な神学者が、慣れない伝道集会での説教を前に緊張していた時、そこにハイドが来ていることを知り、彼と会いました。チャップマン博士はひざまずいて、「ハイド先生、私はこれから説教をするのですが、とても緊張しています。私のために祈ってください」と言いました。ハイドは「それではともに祈りましょう」と言いました。ハイドはチャップマン博士の手を握りました。しかし、何の言葉も発しませんでした。1分、2分、5分が過ぎてもずっと沈黙のままでした。10分ほどが過ぎた時、ハイドの口から一言の祈りが出てきました。「主よ、私たちに神の栄光を見させてください。あなたの栄光を見せてください。」その瞬間、チャップマン博士は、突然その部屋が暖かくなるのを感じました。説明することのできない、きよい臨在を経験したのです。その後、チャップマン博士は書物を書く度にこの経験を語りました。「私はその日、祈りを教わりました。祈りは神の臨在の中に入っていくことです。そして神の栄光を見ることです。」[④]

目に見えない神の臨在は、いつも私たちと共にあります。私たちが祈る時、それが開かれていきます。▽私たちも、聖書の証言を通して、主イエスの人間性の内に秘められている神の栄光と力に心の目を向けたいと思います。

■【2.主イエスの使命の啓示】

7 …「これはわたしの愛する子である。これに聞け」

神の御声がペテロに語った言葉は、どういう意味なのでしょうか。学者たちは、この言葉を8章の出来事と結びつけています。今日の箇所の6日前、ペテロの信仰告白に続いて、主イエスは満を持してご自分の使命を告げ始めました。

8:31それから、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちに捨てられ、また殺され、そして三日の後によみがえるべきことを、彼らに教えはじめ、…

しかしペテロは理解できず、主イエスをいさめ始めます。しかし主イエスはご自分の使命からそらせようとする働きを読み取って、それを退けました。▼信仰を告白したペテロでしたが、彼の常識的な考えは、主イエスの十字架を理解できませんでした。それは聖書に記されていたのですが、神が目を開いてくださらなければ、理解することができなかったのでした。

キリストは、なぜ十字架につかなければならなかったのでしょうか? ここに、キリスト教の核心があります。▼「救い主が十字架で呪われた死を遂げた」とは、あってはならないことのように見えました。「永遠不変の神の子が死んでしまう」とは、理性と論理では理解のできない矛盾でした。▼キリスト教の複雑な教理は、「救い主が、呪われた十字架で死なれた」という単純な事実の意味を説明するためのものです。「キリストの受難」という衝撃に出会ったときに、聖書の読み方がひっくり返ってしまうのです。

【適用】 キリストは、なぜ、死ななければならなかったのでしょうか。なぜ苦しまなければならなかったのでしょうか? 誰の罪のために死ななければならなかったのでしょうか? キリストが私の罪のために死なれたのなら、キリストを死に至らしめた私の罪とは何なのでしょうか。

パウロは、言葉の知恵によって福音を伝えたのではなく、「十字架につけられたキリスト」を伝えました。言葉ではなく、キリストに力があります。人間の知恵ではなく、神により頼む者を救いに定められたことに、神の知恵があります。

9:7 …「これはわたしの愛する子である。これに聞け」

――ここに、権威があります。この御言葉に耳を傾け、キリストに聞き・従っていく時に、時にかなって主が私たちの目を開いてくださいます。

【神の啓示】 使徒たちにキリストの栄光を示したのは、キリストご自身の栄光の輝きであり、天から聞こえた神の御声でした。ペテロの人間的な理解を越えた事柄を、神ご自身が示されました[⑤]。▼私たちも同じです。人間の理性や知恵では理解できないことを、聖霊が教えてくださいます。エペソ書で、聖霊は「知恵と啓示との霊」と呼ばれています(1:17)。

ヨハネ16:13a けれども真理の御霊が来る時には、あなたがたをあらゆる真理に導いてくれるであろう。

1ヨハネ2:27ab「あなたがたのうちには、キリストからいただいた油がとどまっているので、だれにも教えてもらう必要はない。この油が、すべてのことをあなたがたに教える。」

【適用】 神について教えてくださるのは、聖霊ご自身です。だから私たちは、理解することができるように祈ります。 ▼また、主は「これに聞け」と言われます。聞いた御言葉に従って歩むとき、主は私たちの心を見て、主を知る知識を下さいます。かたくなさを選ぶなら、そのままに歩ませられるでしょう。謙遜を求めて祈るなら、主はかたくなな心をも、柔らかくしてくださいます。

■【3.主イエスに従う使命の啓示】

8章で主イエスはペテロを叱責した後、言われました。8:34b「だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい」。

これに聞け」とは、キリストの「受難と復活の使命」に耳を傾ける、とともに、私たちが「自分の十字架を負って、キリストに従う使命」に聞き従いなさい、ということです。▼9節で主イエスは彼らを口止めしましたが、それは主イエスの復活の時までです。それからは主イエスを証しする使命が待っています。そこには苦難と十字架が待っています。

【イエスだけ】 神の御声を聞いたペテロたちが、急いであたりを見回すと、主イエスのほかは、モーセもエリヤも見えませんでした。▽モーセもエリヤも、私たちが聞き従う対象そのものではなく、神を指し示す仲介者です。クリスチャンは、ただ主イエスお一人を見上げて歩みます。

【日常の姿の下に】 ▼弟子たちが周りを見回すと、そこにはモーセもエリヤもおらず、雲も消え、御声も止まりました。主イエスの輝きも、普段の普通の姿に戻っています。▼「夢か現か」と思うかもしれません。しかし、どちらも現実なのです。▽何の変哲もない日常生活の根底に、聖なる神の臨在が隠されているのです。イエス・キリストの人間性の根底に、神の栄光が隠されています。▼弟子たちが山から下りる時、このことを心に留めました。復活の時まで、それを深く悟ることはできませんでしたが、神に触れた出来事は、彼らの心に刻まれました。

【適用】 現代の私たちも同じです。▽神の栄光は、平凡な日常生活の外見に覆われ、隠されていますが、確かにそこにおられます。私たちは、何の変哲もない日常生活が、神の御手の中にあることを、心に刻みながら生きるのです。▽共におられる主イエスの内に、見えない神の栄光と力があります。 ▼「神の臨在や力が感じられない時」、「神が働いておられるのか分からない時」、「神様を信じているのに、苦難や病いに襲われる時」、「祈っても思い通りにならず、御心を求めて苦しむ時」。▼聖書を通して、使徒たちの証しによって示された神の栄光と臨在に心を留めたいと思います。そして、神が私たちをどれほど愛しておられるか、どれほど信頼しておられるか、心に留めましょう。

私たちは、キリストと共に苦しむように召されていると聖書は教えます。

ピリピ 1:29  あなたがたはキリストのために、ただ彼を信じることだけではなく、彼のために苦しむことをも賜わっている。

ローマ8:17b「…キリストと栄光を共にするために苦難をも共にしている以上、キリストと共同の相続人なのである。」

自分が犯した罪のために受ける苦しみではなく、外から降りかかってくる苦しみを、キリストのために耐え忍ぶとき、そこには神の摂理が隠されています。

【例話】 日本聖書協会の聖書エッセイ・コンテストの証しを紹介します。

私が小学四年生のとき、母が病に倒れた。父は早くに天に召され、母は女手ひとつで私たち兄妹4人を育てていた。「母子家庭だから」と後ろ指を指されたくない、そう思って無理を重ねていたのだろう。母の顔は日に日に土気色になっていく。やっと医者に診てもらった時には、一刻も早く胆のう摘出手術をしなければ命の危険さえあると言われた。身寄りの少なかった私たちはそれぞれ、親戚や篤信なクリスチャンの友人に別々に預けられることになった。

私は同じ教会に通う教会員のご家庭に預けられた。歳の近い子どもたちが住んでいたこともあり、最初の数日こそ楽しく過ごしたが、しょせんは肩身の狭い居候生活である。他人の善意に甘えていることは幼心にも理解していたので、やがて全てに遠慮がちになった。ひと月、ふた月が過ぎても母は退院する気配がない。このまま家族が離れ離れになるのではないかという漠然とした不安が、重く心を覆っていった。

そんな私を見かねてか、ある時おばさんが自分の好きな聖書の箇所を教えてくれた。「私はまことのぶどうの木、あなたがたはその枝である。」「私につながっていなさい。」「その人は実を豊かに結ぶようになる。」

現実は家族がバラバラになり、明日どうなるかもわからない境遇だった。そんな自分に「私につながっていなさい」と語りかけるその言葉。心地よい旋律のような響きは私の脳裏に刻み付けられた。しかし、それが聖書のどこに書いてあるのか、その時はおばさんに遠慮してついに聞くことが出来なかった。

それから程なくして母は退院し、幸いなことに私たち家族はまた一緒に暮らすことができるようになった。血色の戻った美しい母の頬っぺが嬉しかったのを覚えている。

わが家に帰った私は、学習机に立て掛けてあった自分の聖書を、ほとんど初めて自分の意思で開いた。あの言葉はどこに書いてあるのか。パラパラ漫画の落書きが端に描いてある聖書のページを、漫画には目もくれずにめくっていった。

学校帰りの午後、数日を要したと思う。族長アブラハムの物語が終わり、私と同じ名前の預言者エリヤの物語も過ぎた。イザヤ書の預言の言葉がなんとなく似ていて、読み落としたかともう一度読み返したがあの言葉は書いていなかった。

そしてついにイエス様の物語である「ヨハネによる福音書」の中に、その言葉を見つけた。小声で声に出してその箇所を読み、それから声を押し殺して泣いた。その言葉を言ったのは…十字架刑で殺される直前のイエス様だったのだ。「私につながっていなさい」。この聖なる御言葉はその時私の一部になった。

あれから時を経て、言葉の力を信じる者になった私は本屋のオヤジになった。それも聖書を売っている特別な本屋だ。私は今日もお客様を心からお迎えしている。あの時の可哀想だった自分を救ってくれた「聖書」の言葉を、今は手渡す人になっているのだから。[⑥]

第1回 聖書エッセイコンテスト 準大賞「私につながっていなさい」吉國 選也

■【まとめ】

①キリストの神性が人間性の内に隠れていたように、
②キリストの受難の使命が、実り豊かな働きの陰に隠れていたように、
③私たちの人生に与えられた、キリストのために苦しむという恵みも、日常の生活の背後に隠れています。

(1)神の御心や計画が見えない時、聖書の教えに心を留めて、それに聞き従っていく時に、神が私たちの目を開き、耳を開き、御霊の光を与えて下さいます。

(2)キリストの十字架の意味が見えない時、キリストの十字架の力を知りながらも知らないかのように生きている自分に気づくとき、神は「(主イエスこそ)わたしの愛する子。これに聞け」と、十字架のキリストに私たちを招いてくださいます。

(3)そして、私たち自身が、「十字架を負ってキリストに従う」ように招かれます。普段と変わらない日常生活の中で、その苦しみの中で、キリストと共に苦しむように招かれていることを知り、キリストと共に栄光を受ける希望を見出す者となりましょう。

9:7「これはわたしの愛する子である。これに聞け」。


[①] 2ペテロ1:16-21

[②] 「6日目」という日数は、出エジプト24:16でモーセが山で神に会う準備期間を想起させる。

[③] 1列王8:10-11、2歴代誌5:13-14

[④] リビングライフ2009年1月28日

[⑤] 参照:マタイ16:17

[⑥] 準大賞「私につながっていなさい」吉國 選也https://www.bible.or.jp/bible_essay_contest/award-1st