マルコ1:29-39「主イエスの働きと祈り」

2024年2月4日(日)礼拝メッセージ

聖書 マルコ1:29-39、イザヤ40:21-31
説教 「主イエスの働きと祈り」
メッセージ 堀部 里子 牧師

オリーブ山のキリスト(聖書箇所とは異なる場面です)Josef August Untersberger作 Public Domain, from wikimedia commons

【今週の聖書箇所】

34イエスは、さまざまの病をわずらっている多くの人々をいやし、また多くの悪霊を追い出された。また、悪霊どもに、物言うことをお許しにならなかった。彼らがイエスを知っていたからである。

35朝はやく、夜の明けるよほど前に、イエスは起きて寂しい所へ出て行き、そこで祈っておられた。

マルコ1:34-35

30年若い者も弱り、かつ疲れ、
壮年の者も疲れはてて倒れる。
31しかし主を待ち望む者は新たなる力を得、
わしのように翼をはって、のぼることができる。
走っても疲れることなく、
歩いても弱ることはない。

イザヤ40:30-31

おはようございます。能登半島地震から一ヶ月が過ぎました。皆さまからの献金を感謝いたします。更に祈っていきたいと思います。

【他者を必要とする存在として】

今年に入って、大学時代の友人二人と別々に会う機会がありました。一人がこう言いました。「やっぱり顔と顔を合わせてリアルで会うことは大切だね」と。電話やメールと違い、時間を割いて友人に会いに行くことはお互いの関係性を密にしていき、信頼度が増すと感じます。私たちは他者を必要としている存在です。なぜなら、神様が人間を他者を必要として生きるように創ってくださったからです。神様は、私たちが他の人と関わりを持ちながら、共に神の目的に生きるように計画されました。礼拝も神様とお会いするために私たちは時間を聖別して礼拝の場へと出て行きます。今日も共に礼拝できる恵みを心から感謝いたします。

何年も前の話ですが、奥様を病で亡くしたご主人が、未就学児の子どもたちを抱え、教会へいらしていました。その方がこうおっしゃっていました。「妻が召されて、仕事と育児で忙しくしていますが、子どもたちが寝て一人になると、寂しさが襲ってくるんです。一人で子どもを育てる自信がありません。子どもたちを教会に頑張って連れてきますので、どうぞ彼らが悪いことをしたら遠慮なく叱ってください。家族のように接してください」と。一年経って、このご主人と改めて話す機会がありました。「先生、ノンストップで駆け抜けて来ました。寂しさはあまり変わりませんが、『喜ぶ者と共に喜び、泣く者と共に泣きなさい。』(ローマ12:15)の聖書の言葉が大好きになりました。ともに喜び、ともに泣いてくださる方々に助けられています。今年は神様がどんな良い御計画を僕の家族に持っておられるのか楽しみです」とおっしゃっていました。

一人で子どもを育てる自信がないと、御自分の限界と無力さを表に出し、誰かとともに歩んで欲しいと願うご主人の切なる願いに神様が豊かに応えてくださったのだと思いました。他者を必要としている私たちは、「ともに泣き、ともに喜ぶ」の「ともに」がキーワードではないでしょうか。

【ともに歩まれる主イエス】

イエス様も誰かと、「ともに」歩まれることを大切にされ、弟子たちを召し出しました。今年に入ってマルコの福音書が礼拝で取り上げられていますが、マルコの福音書全体のテーマは「福音とは、神の子であるイエス・キリストが苦難のしもべとしてこの世の中に来られた」です。

またマルコの福音書には大きく三本柱があります。①イエス・キリストは一体何者なのか、②イエス・キリストはどのような働きをしたのか、また③キリストの使命が私たちにとってどんな関係と意味があるのかということです。今日は②のキリストがどのような働きをしたのかを見ていきたいと思います。

前半は「イエス様の癒し」、後半は「イエス様の祈り」です。

【主イエスの癒し】

「それから会堂を出るとすぐ、ヤコブとヨハネとを連れて、シモンとアンデレとの家にはいって行かれた。」(29)

宣教を始めたイエス様と弟子たちは、カペナウムのユダヤ教の会堂を出て、シモンとアンデレの兄弟の家に行きました。シモンとアンデレは漁師で、イエス様が一番最初に弟子になるように声をかけた二人です。その時二人とも、お父さんのゼベダイを置いて、イエス様について来ました。シモンとアンデレは家族からも離れる覚悟を持ってイエス様について行ったので、まさかイエス様が自分たちの家に寄ってくださるとは思いもしなかったのではないでしょうか。もしくはシモンがイエス様を個人的に家にお連れしたのでしょうか。

「30ところが、シモンのしゅうとめが熱病で床についていたので、人々はさっそく、そのことをイエスに知らせた。31イエスは近寄り、その手をとって起されると、熱が引き、女は彼らをもてなした。」(30-31)いずれにせよ、イエス様は、シモンペテロの家の困っていた状況を素通りされず、家の中に入って姑の手を取って癒しを授けました。会堂では力と権威を持って100人~200人の人々に教えられ、汚れた霊につかれた人を大々的に癒されたイエス様が、個人の家を訪問して熱を出していたシモンペテロの姑の熱を癒したのです。

ルカ4:39には「イエスはそのまくらもとに立って、熱が引くように命じられると、熱は引き」と書かれています。お医者さんでも熱に叱りつけるという方は聞いたことがありません。イエス様はその人を苦しめているそのものに直接命令し、従わせることができる方です。雨や風もイエス様に叱りつけられて静まったことがありました。この記事から分かることは、イエス様は一人ひとりに関心を持っておられ、愛を持って近づいて来てくださりその人の必要に応えてくださる方だということです。なぜでしょうか。それは一人ひとりに救いを届けるために他なりません。イエス様が訪れるユダヤ教の会堂に行けず、家で寝ていたシモンの姑のためにも一行を伴って訪れてくださる方です。

元気になった姑は、さっそく人々をもてなしました。救いを受け、元気になるなら本来自分がしていた家事の仕事に戻ることができたのです。

この朝、誰にも言えない悩みや心の傷を持って礼拝の場へ出て来られた方がいらっしゃるなら、もしくは皆さまの家族や友人にそのような方がいらっしゃるなら、イエス様がお一人ひとりに関心を持ってくださり、問題を解決して救いを届けたいと願っておられることを信じませんか。

【一人ひとりのための手当て】

「32夕暮になり日が沈むと、人々は病人や悪霊につかれた者をみな、イエスのところに連れてきた。33こうして、町中の者が戸口に集まった。」(32-33)

イエス様は、安息日を会堂とシモンの家で過ごされました。日が暮れて、弟子たちは「これで一日の仕事が終わった、やっとゆっくり休めるかな」と思ったかもしれません。しかし、イエス様の噂はどんどんと広まり、町中の人が病人や悪霊につかれた人を皆、イエス様に癒してもらおうと集まって来たのです。

先日、舜先生は薬をもらおうとかかりつけのクリニックに行きましたが、入口に「今日の診察は終了しました」と札がかかっていて翌日に出直しました。イエス様は、今日はもうおしまいだから、帰ってくださいと言ったでしょうか。

「イエスは、さまざまの病をわずらっている多くの人々をいやし、また多くの悪霊を追い出された。また、悪霊どもに、物言うことをお許しにならなかった。彼らがイエスを知っていたからである。」(34)

ルカ4:40には、(イエスは)そのひとりびとりに手を置いて、おいやしになった」と書かれています。頭が痛い人はこちらへ、手足を怪我で悩んでいる人はこちら、など言われませんでした。同じような病気の人をまとめてでなく、一人ひとりに手を置いて時間を取って向き合われたのでした。

先週転入会をされたS姉のお父様・Nさんが末期の癌で病院で苦しんでおられた時のことを思い出します。病が見つかってからどんどん癌が進行したので、私は時間の許す限り、病院へ行きました。病院のエレベーターを降りると痛みで呻くNさんの声が聞こえました。私は当時、駆け出しの伝道師でした。苦しんでいるNさんを前に、恩師であるM先生に電話をかけ助けを求めました。するとM先生は「Nさんの耳元に携帯電話をあてて、スピーカーにしてください」とおっしゃいました。「Nさん、今一番痛いところに手を当ててください。イエス様が手を重ねて当ててくださっていると信じてイエス様の御名で一緒に祈りましょう」とM先生は優しくNさんに話しかけました。苦しみ呻いていたNさんは、祈りが終わると涙を目に浮かべて「イエス様が手を置いて祈ってくださっているようで安心しました。」と静かになり、寝息をたてて眠られました。夜中も呻いていたそうで奥様も喜んでおられました。

「手当て」という言葉がありますが、イエス様は手を当てて一人ひとりを癒されました。私たちは大きな病を患っていないとしても、日によって一喜一憂すると思います。心配事や気にかかること一つひとつに手を置いて、共に祈ってくださるイエス様に全てを委ねたいと思います。

【主イエスの祈り】

「朝はやく、夜の明けるよほど前に、イエスは起きて寂しい所へ出て行き、そこで祈っておられた。」(35)

人々の病を癒し、悪霊を追い出した次の日の朝早く、イエス様は祈るために「寂しいところ」へ行かれました。「寂しいところ」とは原語のギリシャ語では「荒野」という意味です。イスラエルの荒野は岩がゴロゴロしていて、不毛の土地です。モーセがイスラエルの民を率いて出エジプトをした時も、荒野の旅でした。聖書で荒野が出てくると、試練や困難の中で新しく神様と出会う場所です。もがき苦しみながらも、御心を求めて祈る場所です。イエス様が洗礼を受けてすぐの時も、聖霊はイエス様を荒野に追いやりました。荒野は神様からのテストの場所とも言えます。イエス様は忙しい時ほど、祈られました。朝早く起きて一人早天祈祷会をされていたのです。

私が神学院に入学してから毎日朝6:30~早天祈祷会がありました。寮から歩いて5分もしない教会で早天祈祷会が行われていましたが、いつも時間に遅れそうだった私は短い距離を自転車で行っていました。ある時、舎監の先生に「この距離を自転車で来ているのですか。もっと早起きして歩いて来たらどうでしょう。」と言われたことを思い出します。私は祈るためというより、遅刻しないように、先生に怒られないようにということに気持ちを集中していたことに気付かされました。この先生がおっしゃっていた別の言葉も思い出します。「多くの人は問題が起こると早天祈祷会に来て祈りますが、問題が解決されるとピタリと来なくなります。問題があってもなくても祈りを捧げる人になりましょう」と。

イエス様は忙しさや人々が自分の病などを抱えて、押し寄せてくる前に、一人静かに父なる神様の前で祈り、心を整えておられました。「神の子であるイエス様は祈らなくても大丈夫」ではなかったのです。働きをする前に祈りをもって備えておられたのです。イエス様が癒しても癒しても悩める人々はイエス様のところに来たでしょう。実際にイエス様が祈っておられると弟子たちがイエス様を呼びに来ました。「みんなが、あなたを捜しています」(37)と。イエス様は「ほかの、附近の町々にみんなで行って、そこでも教を宣べ伝えよう。わたしはこのために出てきたのだから」(38)と働きの場所をガリラヤ全域にわたって拡げて行かれました。

クリスチャンでない人も祈りをささげると思います。人によっていろいろな祈りの内容があると思いますが、私たちの祈りはどのような祈りでしょうか。私は「〇〇してください」という祈りが自分の祈りで一番多くなりがちです。そのような時は、自分が主導権を握ってしまっていないだろうかと自分に問います。「神様、私はこう願っていますが、いかがでしょうか。神様の願う通りになさってください。神様が導く通りに従います。」といつも神様の心を中心に祈ることができたらと願います。

場所はどこでも、荒野・寂しいところに行かれたイエス様のように、自らの意志で一人神様の前に出ること、これが信仰であり、祈りです。イエス様は祈りながら御自分の働きをされました。言い換えるなら、祈ることなしにイエス様は働きをされませんでした。イエス様は私たち一人ひとりを漏れなく愛し、私たちの心の言葉にならないような祈りを聞き、受け止めてくださいます。

「しかし、わたしはあなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈った。それで、あなたが立ち直ったときには、兄弟たちを力づけてやりなさい」。」(ルカ22:32)

イエス様は私たちの信仰がなくならないように、立ち直るまで背後で祈って励ましてくださる方です。シモンの姑の熱が引いて起き上がりもてなしたように、起き上がる時があります。癒される時があります。すべての時を支配され、導いておられる主イエス様に委ねながら、今週も進んで参りましょう。

「30年若い者も弱り、かつ疲れ、壮年の者も疲れはてて倒れる。31しかし主を待ち望む者は新たなる力を得、わしのように翼をはって、のぼることができる。走っても疲れることなく、歩いても弱ることはない。」(イザヤ40:30-31)