ヨハネ8:1-12「光の中を歩む」

2023年4月30日(日)復活後第3主日礼拝 メッセージ

聖書 ヨハネ福音書 8章1~12節
説教 「光の中を歩む」
メッセージ 齊藤良幸 役員

【今週の聖書箇所】

12イエスは、また人々に語ってこう言われた、「わたしは世の光である。わたしに従って来る者は、やみのうちを歩くことがなく、命の光をもつであろう」。

ヨハネ8:12
Antoon Van Dyck: Pharisees bring a woman accused of adultery before Christ (John 8:2-11), Wikimedia Commons

1.【今日、人の目に見える光】

【朝日】私たち夫婦は、朝起きるとまず、窓のカーテンを開けて、東側の空を見ます。見事に晴れ渡って、朝日が見えるときは最高の気分です。どんより曇っている時や、雨の時にはちょっとがっかりしますが、植物にとっては恵みの雨、花粉症やインフルエンザの感染抑制や黄沙・PM2.5等を洗い流してくれる雨の効果も必要不可欠と気を取り直して、朝の準備に取り掛かります。

先週は、思いもよらず急なYouTube対応での礼拝のため、開始時間が遅れてしまいましたが、皆さんの協力で無事に乗り切れたことを感謝いたします。これからも、どんな状況にも対応できるように、みんなで知恵を出し合って、一人ひとりが果たすべき役割を果たし、助け合っていきたいと思います。

【光】さて、もしこの世に光がなかったら、と考えると光の重要性はよく分かります。突然、夜に全ての光がなくなったら、多くの人は身動きが取れずパニック状態になるでしょう。それくらい人間にとって、暗闇というのは恐怖なのです。闇というのは、人の心に絶望を与えるものを意味することもありますね。

戦争

今実際に起こっている、ロシアとウクライナの戦争では、多くの戦死者が出ています。かつて、日本も第二次世界大戦を経験しました。

【M姉のご主人の救い】教会員のM姉をご自宅までお送りする車中で、亡くなった御主人のこと話す機会がありました。実は、御主人のM兄は、私の父と同じ昭和5年、1930年1月のお生まれであると知りました。M姉に確認したところ、ご主人は北区滝野川でお育ちになり、戦時中は学徒動員で、成増の駐屯地で訓練を受けられていましたが、戦後長野県の飯山市に疎開されて、飯山の高等学校に通われ柔道に励み、不思議なことに、キリスト教信仰をその時に持たれたそうです。1945年8月の敗戦がずれていれば、私の父も10月には15歳を迎え、M兄も父も学徒動員で戦争に駆り出されていたはずで、生死もどうなっていたか分かりませんでした。M兄が、どのように信仰を持たれたのか詳しくお聞きする機会はなかったのですが、いずれにしてもM兄が礼拝出席を続けられた結果、付き添いで一緒にこられていたM姉が洗礼を受けられて、今礼拝に喜んで出席されている姿を見て、私たちは大変励まされています。

【俳優 宇野重吉】戦争の関連ですが、俳優の宇野重吉さんの話です。1941年に、太平洋戦争が始まりますが、その時宇野さんは、「もう死のうと思った」というのです。「芝居は一切できなくなっちゃったし、劇団は解散させられたし、まもなくきっと俺は兵隊にとられるだろう、そしてどっか戦地で死んじゃうんだろう」と非常に絶望的になったからでした。でも死ぬ前に映画一本見ようかなと思って、渋谷の街に出て、ふと見たら、「スミス都へ行く」というフランク・キャプラ監督の映画をやっていて、それは日本で上映された戦前最後のアメリカ映画で、実際、その年の12月に戦争が始まり、アメリカ映画は上映禁止になりました。「アメリカ映画、これ最後だな」と思って、中に入ってあの映画を見たんだそうです。純粋無垢な青年が、アメリカの腐敗した政治勢力と真っ向から戦うという、アメリカにとっては自虐的な内容ですが、青年が全力で戦う姿を表現していました。とてもいい映画で、見終わったら、「死ぬのやめよう」と思いなおし、「もうちょっと生きていよう」と考えなおしたそうでした。

【山田洋次 監督私も「スミス都へ行く」のDVDを購入しました。宇野重吉さんは、戦後再び役者や映画監督をされるようになって、山田洋次監督に、こう話したそうです。「山田くんね、映画っていうのはね、死のうと思った人間を生き返らせる力を持ってんだよ。だから、真剣につくんなきゃいけないよ」。そういわれて、山田洋次監督は、「そういう映画をつくれればいいな」と思い、「生きていることはいいことなんだ」と観客に感じてもらえるような、上質なものをつくっていきたいと思わされたそうです。そんなことがあって、後に、寅さんシリーズが生まれるわけです。死のうと思っていた青年を180度方向転換させたことを思いつつ、今日の聖書で語られている女性の物語から、180度の逆転無罪の判決を受けた状況を見ていきたいと思います。

2.【イエスを試す人たち 1-9節】

聖書の中に死刑から逆転無罪になった人がいて、その人は、生かされてよかったと感じたに違いありません。

「1イエスはオリブ山に行かれた。2朝早くまた宮にはいられると、人々が皆みもとに集まってきたので、イエスはすわって彼らを教えておられた。3すると、律法学者たちやパリサイ人たちが、姦淫をしている時につかまえられた女をひっぱってきて、中に立たせた上、イエスに言った、4「先生、この女は姦淫の場でつかまえられました。5モーセは律法の中で、こういう女を石で打ち殺せと命じましたが、あなたはどう思いますか」。6彼らがそう言ったのは、イエスをためして、訴える口実を得るためであった。しかし、イエスは身をかがめて、指で地面に何か書いておられた。7彼らが問い続けるので、イエスは身を起して彼らに言われた、「あなたがたの中で罪のない者が、まずこの女に石を投げつけるがよい」。8そしてまた身をかがめて、地面に物を書きつづけられた。9これを聞くと、彼らは年寄から始めて、ひとりびとり出て行き、ついに、イエスだけになり、女は中にいたまま残された。」

イエス様は宮に入られて、民衆に教えられました。その時、姦淫の罪を犯した女が、その現場で捕らえられ、イエスのところに引きずり込まれてきました。そして、「モーセは石打ちにすべきと言っているが、あなたはどうするのか」とイエス様にたずねました。モーセは神の預言者であるから、もしイエス様がモーセと違ったことをいうのであれば、イエス様は偽預言者、偽メシヤということにしようとしました。

こうして彼らは、イエス様を試しました。イエス様に敵対する彼らでさえ、イエス様が恵みとまことに満ちておられることを知っていました。ですから、彼らはイエス様が罪人を受け入れ、弱った者を助け、汚れた者にふれられたように、必ずこの女も受け入れるに違いない、そうすればモーセの律法にしたがって、律法を守らないものとして、イエス様を捕らえることができると思ったのです。イエス様は、最初、彼らを無視しておられたようです。しかし、彼らが問い続けるので、イエス様は身を起こして「あなたがたの中で罪のない者が、まずこの人に石を投げなさい。」と言われました。

罪のない者とは、どんな些細なルールや決め事や過失をも犯したことがなく、完全だと自信をもって言い切れる人ということです。もし、神以外に完全であると言うとするなら、それこそ自分を偽りものとすることになったことでしょう。イエス様はここで、この女が石打ちの刑になるべきであることを否定されていません。むしろ、「彼女に石を投げなさい。」と命じておられます。そうです、彼女は死に値する罪を犯したのです。けれどもイエス様は同時に、あなたたちも罪を犯しているなら、石打ちの刑を受けなければいけませんね、と暗に示されています。罪を犯せば、モーセの律法に従い死刑が宣告され、彼らも殺されなければならなかったのです。

ある人は、「イエス様はおそらく、彼らの罪を一つ一つ、地面に書いておられただろう」と言いました。そうかもしれませんね。女はそのままそこにいました。年長者からその場を離れていったのが興味深いです。長く生きればそれだけ、自分の犯した罪が大きいことを強く感じていたのでしょう。

3.【命の光を持つ 10-12節】

10そこでイエスは身を起して女に言われた、「女よ、みんなはどこにいるか。あなたを罰する者はなかったのか」。11女は言った、「主よ、だれもございません」。イエスは言われた、「わたしもあなたを罰しない。お帰りなさい。今後はもう罪を犯さないように」。〕
12イエスは、また人々に語ってこう言われた、「わたしは世の光である。わたしに従って来る者は、やみのうちを歩くことがなく、命の光をもつであろう」。

女を連れて来た者たちはだれもいなくなりましたが、イエス様だけはそこにおられました。イエス様は、「罪のない者は石を投げなさい。」と言われましたが、イエス様は、この女に石を投げる権利を持っておられました。けれども、唯一、石を投げる権利をもっておられる方が、この権利を放棄しました。なぜなら、イエス様は世をさばくために来られたのではなく、世を救うために来られたからです。女の態度はこの時点で急変したでしょう。イエス様の問いに「主よ、だれもございません」と彼女は言いました。そして、イエス様は、「わたしもあなたを罰しない。お帰りなさい。今後はもう罪を犯さないように」と言われました。このあわれみと恵みにふれたとき、私たちも初めて、悔い改めて、主を恐れ、罪を憎む歩みを始めることができるのです。

【100分で名著】 先月、NHKの「100分で名著」という番組で、新約聖書の福音書が取り上げられて、第3回でこの場面が取り上げられていました。ご覧になった方々もいらっしゃると思いますが、「赦し」が中心で、番組では12節には触れられていなくて、私は、個人的にはちょっと残念でした。赦しは確かにすばらしい体験ですが、イエス様は、ご自分に従うようにとも勧めておられます。

【世の光】 姦淫の女に石を投げなかったイエス様は、世の光でした。女は、隠れてだれにも気づかれずに犯していた罪が、今、みなの前にあらわにされました。そして、イエス様は、この女だけではなく、すべての人が罪に定められ、死ななければいけないことを、光として明らかに個人個人に示されました。

イエス様は、暗やみのわざを明らかにされる光であり、そして同時に、神様の恵みとまことを完全に示す光でもあり、その罪が赦される恵みを現わす神の御子でした。イエス様は、12節で「わたしに従って来る者は、やみのうちを歩くことがなく、命の光をもつであろう」と言われましたが、この女は、死刑を求刑され、刑を執行される立場から、逆転無罪にしていただき、本当にいのちの光を持ってイエス様に従った例です。

4.【私たちの生き方】

話は変わりますが、私自身も初めて教会に行った時から、聖書の言葉に信頼し、信じる決心をした結果、この私にも光を与えていただき、本当にイエス様の許しと復活と聖霊の助けをいただき、イエス様に心から感謝しています。

私が、人には見せられないようなことをしたときも、他人から批判されて失望するときも、人を恐れる弱さがあるときも、他人の才能への妬みがあるときも、自己中心になってしまう欠点があるゆえに、自分で自分に嫌気がさして、無気力になってしまうときも、イエス様にありのままに祈った時、そこにイエス様は光を当てて下さり、「あなたの弱さはすべて知っているよ、あなたがそれを私に話、助けを求めたからこそ、あなたの全てを知ったうえでなお、私はあなたを受け入れ愛しているんだよ」と、教えてくださいました。

ですから、私がイエス様を信じることは、教えや宗教ではなく、イエス様との個人的な関係が築かれることだと教えられており、イエス様のことを他の人に紹介することで、まだ信じておられない方にもイエス様との関係を築いて欲しいと思うのです。それは、イエス様を求める人が、直接イエス様と関りを持つことにより、イエス様に従った結果がどんなにすばらしいかを体験できるからです。そしてそれは、だれも奪い去ることのできないその人だけの貴重な体験となるからです。そのためには、イエス様を救い主として信じ受けいれますという決断をしていただき、その決断を受け入れることをイエス様の名前によって祈っていただくだけでいいのです。

その決断をするなら、あなたが疑問に思っている事や願っていることに対しても、必ずイエス様は答えをくださり、その答えは、誰かの言葉による励ましや、夢や書物や周りの出来事の変化であったりしますが、イエス様からのものだと、信じた方にははっきりわかるのです。

イエス様を信じる人は、毎日イエス様に祈りを通して話しかけている人です。信じる者、信仰者として生き、イエス様を知るために不可欠なのが聖書です。聖書には、イエス様がどのような方かが詳しく書かれています。聖書の言葉通りに生きたいと願うと、たとえどんな困難な状況にあっても、人の助けや聖書の言葉による力によって、「生きていける」という希望が与えられます。信仰者として生きていく生き方を、パウロはピリピ人への手紙で示してくれました。

すべてのことを、つぶやかず疑わないでしなさい。それは、あなたがたが責められるところのない純真な者となり、曲った邪悪な時代のただ中にあって、傷のない神の子となるためである。あなたがたは、いのちの言葉を堅く持って、彼らの間で星のようにこの世に輝いている。このようにして、キリストの日に、わたしは自分の走ったことがむだでなく、労したこともむだではなかったと誇ることができる。」(ピリピ2:1416

世の光として輝く秘訣をもう少し砕けた形で言えば、たとえばもし、とんでもなく接客の良い店員がいたら、その店員が所属しているお店の評価も上がりますよね?私たちの場合もすべてのことを、つぶやかず、疑わずに行なうなら、「この人って本当に素晴らしい人だなあ。他の人とは何か違う。教会に通っていて神様を信じているらしい。ということは、この人が信じている神様も素晴らしい存在なのかも?」となって欲しいのです。私たちが「ああ、生きててよかった」、「本当に生きていくのはそんなに悪いことじゃない」と感じられたとき、私たちは生き生きと希望をもって生き始めます。それを見た周りの人が、不思議に感じることになるのではないでしょうか。その時に、「私たちは、自分の力で変わったのではなくて、私たち光であるイエス・キリストがそのようにしてくださったのです。」と証しできるのです。

もう一度繰り返しますが、実際にキリスト教は教えではなく、イエス様との人格的なつながりなのです。人に従うことではなく、イエス様と直接かかわること、つまりイエス様と出会うことから始まります。イエス様と関わった結果、喜びを感じ、希望が与えられ、勇気が与えられ、そのようにして神様から与えられたものを体験として、人々に伝えます。それによって、栄光は、私たちにではなく、神様に帰されるのです。私たちも死刑を宣告される立場から、逆転無罪を与えられたものです。それを「救い」と表現しているのです。

私たちの人生を通して、天の父なる神様が崇められるように、イエス様は、ペンテコステの日に聖霊を送ってくださり、主の聖名によって祈る祈りに答えてくださる約束を与えて下さいました。私たちはその約束を信じ、再びイエス様に出会う希望を持って生きているのです。

「そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かし、そして、人々があなたがたのよいおこないを見て、天にいますあなたがたの父をあがめるようにしなさい。」(マタイ5:16)

私たちの良い行いを見て、人々が神様をあがめるように生きようではありませんか。神様は、これからも私たちに生きること、人生のすばらしさをもっともっとたくさん経験させてくださるに違いないからです。私たちが求めるなら、世界中どこにいても、イエス・キリストとお会いできますし、良い行いをできるように祈るなら、たとえ祈りの言葉がどんなにつたいとしても、聖霊が助けてくださり、私たちの願いをイエス様に正しく伝えて下さり、祈りが実現し、人々が天の父なる神様をあがめるようにしてくださいます。

私たちは、死刑判決の絶体絶命の状況にあったとしても、イエス様に従うときに、救いと助けと祝福を受けられるのです。私たちが日常生活で、感情的に動揺して、イエス様を信じる信仰が揺らいだとしても、イエス様が与えて下さった救いの事実は決して揺らぐことはありません。その事実こそが福音であり、私たちが生きる力の源です。

「イエスは、また人々に語ってこう言われた、『わたしは世の光である。わたしに従って来る者は、やみのうちを歩くことがなく、命の光をもつであろう』。」(ヨハネ8:12)