ルカ24:13-35「心が内に燃えた」

2023年4月23日(日)復活後第2主日礼拝 メッセージ

聖書 ルカ福音書 24章13~35節
説教 「心が内に燃えた」
メッセージ 堀部 里子 牧師

【今週の聖書箇所】

一緒に食卓につかれたとき、パンを取り、祝福してさき、彼らに渡しておられるうちに、彼らの目が開けて、それがイエスであることがわかった。すると、み姿が見えなくなった。彼らは互に言った、『道々お話しになったとき、また聖書を説き明してくださったとき、お互の心が内に燃えたではないか』。そして、すぐに立ってエルサレムに帰って見ると、十一弟子とその仲間が集まっていて、『主は、ほんとうによみがえって、シモンに現れなさった』と言っていた。そこでふたりの者は、途中であったことや、パンをおさきになる様子でイエスだとわかったことなどを話した。

ルカ24:30 -35
Robert Zünd: Gang nach Emmaus, Wikimedia Commons

【復活の主に出会った人たちは…】

今日はイースターから数えて三回目の礼拝です。今日も復活されたイエス・キリストの箇所を共に学びたいと思います。一年半くらい前の話ですが、国際結婚した私の友人が、「二ヶ月後にドイツに移住するので、帰国前に会いましょう」と連絡がありました。皆さんももし今住んでいるところから〇〇日後に引越ししないといけないとしたら、会うべき人たちに会うのではないでしょうか。

イエス様も復活後、天に昇られるまでの40日間、イエス様を慕っていた人たちにご自分から会いに行かれました。主に弟子たち、イエス様の教えを近くで聞いていた女性たちなどです。彼らはイエス様と一緒に行動をしていた家族のような人たちでした。彼らは、死んだと思っていたイエス様が現れると、驚き恐れながらも喜びました。彼らがイエス様の「復活の証人」となりました。

もしイエス様が復活後に誰にも会わず、すぐに天に帰られていたら、「復活の証人」がいなかったかもしれません。この「復活の証人たち」が、後に「教会」という共同体を形成していきます。ですから、イエス様の復活なしに教会は起こっていませんでした。ですから、初代教会は「主は生きておられること」を宣べ伝える役割も担っていました。この役割は現代も変わっていません。主が共におられるなら、その場が教会です。今日はそれぞれが別々の場所で礼拝していますが、皆ひとつの「神の家族」として主の前に座っていることを感謝します。イエス様はおっしゃいました。「ふたりまたは三人が、わたしの名によって集まっている所には、わたしもその中にいるのである」(マタイ18:20)共におられるイエス様に感謝します!

さて今日はイエス様が復活された日のイエス様の言動と弟子たちの様子から、五つのポイントでお話いたします。

真実を知らずに語り合い論じ合う弟子たち

「この日(復活された日)、ふたりの弟子が、エルサレムから七マイル(約11キロ)ばかり離れたエマオという村へ行きながら、このいっさいの出来事について互に語り合っていた。」(13-14)

イエス様はその日、特定の二人の弟子たちに出会うために歩き始められました。十二弟子とは違う弟子です。思い出してください!弟子たちは、お墓を朝一番に見に行った女性たちから「イエス様とガリラヤで会える」と告げられていました。

「今から弟子たちとペテロとの所へ行って、こう伝えなさい。イエスはあなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて、あなたがたに言われたとおり、そこでお会いできるであろう、と」(マルコ16:7)

ですからガリラヤに行ったらイエス様と会えたはずです。しかし、彼らは「自分たちの道・エマオ」へと向かいました。信じていなかったからです。 

信仰を持っていても、「イエス様の十字架の死が私の救いのためであり、すべての罪を赦して、復活の栄光を与える」ということを確信していないクリスチャンがいます。私がそうでした。なぜでしょうか。神について、救い主について知識が少なく、よく知らなかったからです。

私がドイツに留学していた時、宗教の時間があったので、クラスメートの女子に「カトリックとプロテスタントの違いは何?」と質問したことがあります。こともあろうに彼女は「カトリック教徒は結婚する前に婚前交渉をしたら駄目だけど、プロテスタントはしてもいいの」と答えました。そんなことは聖書に書いてありません!目玉が飛び出るほどびっくりしましたが、聖書を知らないからそう答えただけで、正しく聖書を学び、正しい聖書の知識を持つならきちんと答えることができたと思います。

洗礼を受けただけのクリスチャンでなく、聖書を読み学び黙想し、生活に適用できるクリスチャンを目指したいと思います。また誰にどのような質問をされても間違った答えを示すことがないよう必要な聖書の知識を学び続けたいと思います。

二人の弟子たちはエマオへ行く途中、限られた知識で話し合い、論じ合うという堂々巡りを繰り返していました。答えを知らないのに、出口のないトンネルに突っ込んでしまったような状態の二人にイエス様の方から近づいて歩調を合わせ、彼らと一緒に歩き始められました。「真実の張本人」である復活されたイエス様が会話の中に入って来られたのです。

「語り合い論じ合っていると、イエスご自身が近づいてきて、彼らと一緒に歩いて行かれた。しかし、彼らの目がさえぎられて、イエスを認めることができなかった。イエスは彼らに言われた、『歩きながら互に語り合っているその話は、なんのことなのか』。彼らは悲しそうな顔をして立ちどまった。」(15-17)

友となるため近づくイエス様

私たちは誰かと知り合い、仲良くなるまで段階があると思います。最初は自分に関係のない赤の他人だったでしょう。そしてただの知り合いから、徐々にお互いを知るようになり、友人になります。そして心を開いてお互いに様々なことを共有していく過程で相手の存在が更に大切だと確信するなら、二人は親友になります。「心友(心の友)」、「信友(信仰の友)」もいると思います。メイアンさんと私は出会う前は、最初はメールでのやり取りのみでしたので、メイアンさんは最初は「知り合い」でした。でも実際に教会でお会いして彼女の人柄など知りました。その後、個人的にお茶をしながら、お互いの歩んできた道、信仰、大切にしていることなどを分かち合い、共に涙を流して喜びました。すると彼女と時間を過ごしたことは私の心の深みに届いて行きました。短い時間でしたが「信友」になれたと勝手に思っています!

私たちのイエス様との関係も最初は、自分とは関係のない存在、もしくは遠い存在だったと思います。イエス様の名前を知っているだけだったかもしれません。でも礼拝出席し、また聖書を読み、祈りを重ねるたびに、イエス様の言葉に共感したり、はっと気づかされたり、慰められたりすることがあると思います。イエス様は「わたしはあなたがたを友と呼んだ。」(ヨハネ15:15)とおっしゃったように、友だちのように近い関係になってきます。友となってくださったイエス様の言葉が、心の深いところに届いてくるなら、これは正に聖書の言葉を通してイエス様を理解し、体験しているのです。「人がその友のために自分の命を捨てること、これよりも大きな愛はない。」(ヨハネ15:13)

目がさえぎられている弟子たち

二人の弟子たちの「心の友」になろうとイエス様は近づいて行かれました。しかし、二人の弟子はイエス様のことを「神とすべての民衆との前で、わざにも言葉にも力ある預言者」(19)、「イスラエルを救うのはこの人であろう」(21)と捉えていました。そして期待していたのに死んだと悲しんでいたのです。

「イエスは彼らに言われた、『歩きながら互に語り合っているその話は、なんのことなのか』。彼らは悲しそうな顔をして立ちどまった。」(17)

(目がさえぎられている理由

(1)先入観

目の前にイエス様がいるのに二人はイエス様だと分かりませんでした。とても不思議なことです。「彼らの目がさえぎられて、イエスを認めることができなかった。」(16)ここで記されている「目がさえぎられる」とは具体的にどういうことでしょうか。先ず二つの先入観でさえぎられていたと思います。一つ目は「イエス様がきてくださるはずない」という先入観です。そして二つ目は、「メシアが死んでよみがえるはずはない」という先入観があったことでしょう。彼らにとってのメシアはユダヤの社会を政治的・経済的に繁栄させ、ローマを撃退し、イスラエルを回復してくださると思っていたからです。

(2)イエス様の姿が変わっていた

また復活されたイエス様の姿が変貌していて分からなかったかもしれません。マグダラのマリアにイエス様が声を掛けたときも、マリアはお墓の番人だと勘違いしました。

(3)悲しみと失望

でも一番大きな理由は「悲しみと失望」だったのではないでしょうか。愛するイエス様が死んだという「悲しみと失望」から二人は「悲しそうな顔」(17)をしていました。

「目がさえぎられている」とは目が全く見えないわけではなく、見るべきものが認識できない状態です。期待通りに物事が運ばず、希望や喜びが失われると神様を見る目が閉ざされてしまうのです。誰もが経験したことがあると思います。神様が私たちの思いや期待をはるかに超えて道を開いてくださることにまだ気づかないでいることがどれほど多くあるでしょうか。目がさえぎられているからといって、未来までさえぎられているわけではありません。

聖書から説き明かされるイエス様

イエス様は二人の弟子たちの話と失望した原因など(19-24)をさえぎらずに静かに聞いてくださいました。どのくらいの時間でしょうか。その間ずっと共に歩いてくださっていたのです。すべて聞いた後、こうおっしゃいました。「ああ、愚かで心のにぶいため、預言者たちが説いたすべての事を信じられない者たちよ。キリストは必ず、これらの苦難を受けて、その栄光に入るはずではなかったのか。」(25-26)と。イエス様はかなりはっきりとものをおっしゃいる方ですね。でもこれで終わりではありませんでした。私なら、「ほら、私がイエスだよ。覚えてるでしょ。思い出して。十字架にもかかったよ。ほらこの傷を見て。生き返ったんだよ。信じてくれ」と訴えるかもしれません。でもイエス様は、丁寧に旧約聖書から的確にご自分のことを説明されました。「こう言って、モーセやすべての預言者からはじめて、聖書全体にわたり、ご自身についてしるしてある事どもを、説きあかされた。」(27)

私たちも分からなかったことが説明されて、物事が明らかにされると「ああ、そうだったのか」とはっきりと意味を理解でき胸にストンと落ちる経験をすると思います。イエス様はご自分のことを御言葉を通して説き明かして行きました。ポイントは「御言葉を通して」ということです。

私の恩師であるM先生はメッセージを語る時、聖書を聖書で説明をする先生です。初めて聖書のメッセージを聞く人は話がちんぷんかんぷんかもしれませんが、不思議と霊の目が開かれてくると救われる人たちが多く起こされてくるのです。

共に歩き交わりを持つイエス様

「それから、彼らは行こうとしていた村に近づいたが、イエスがなお先へ進み行かれる様子であった。そこで、しいて引き止めて言った、「わたしたちと一緒にお泊まり下さい。もう夕暮になっており、日もはや傾いています」。イエスは、彼らと共に泊まるために、家にはいられた。一緒に食卓につかれたとき、パンを取り、祝福してさき、彼らに渡しておられるうちに、」(28-30)

人の一般的な歩く速度は、時速4キロ~6キロと言われているので、目的の村近くまで来た三人がエルサレムからエマオまで一緒に歩いたとするなら、二時間以上は一緒に歩いていたと思われます。共に歩いてくださったイエス様は次は二人と交わりを持たれました。しかしイエス様からおっしゃったのでなく、二人の方からイエス様に強くお願いをして交わりを求めました。この時点でかなりイエス様の話に食いついているのが分かります。

御言葉の説き明かしと食事の交わりを通して、ついに目が開かれる瞬間が来ました。「彼らの目が開けて、それがイエスであることがわかった。すると、み姿が見えなくなった。彼らは互に言った、『道々お話しになったとき、また聖書を説き明してくださったとき、お互の心が内に燃えたではないか。』」(32)

御言葉を読んで、本当に理解するとき、誰の心が燃える経験をします。燃えるというと炎が赤々と燃えるイメージかもしれませんが、心が温かくなったり、嬉しくなったり、今までとは違う良い変化が生まれるというイメージです。私は勉強は昔からあまり好きではなかったので、「聖書を勉強する」という表現よりも、「聖書と共に時間を過ごす」ようにしています。コロナになった数日間はさすがに聖書を読めなかったので、枕元に置いて聖書と時間を過ごしました。

ある牧師先生は「聖書は難しいけれど、少しわかるような気がするということでいいのです。やがて、心が燃えるようになり、心が熱くなり、愛に満たされ、いのちと希望に満ちてきます」とおっしゃいました。聖書通読をしていると、例えば民数記は名前や数字ばかりが出て来る箇所が多いので、心が燃えないかもしれません。でも、民数記は、正確な数字の中に神様の性質としての誠実さ、聖さが現れているのだと分かったときに感動を覚えたことを思い出します。聖書の歴史的背景や、神様の思いや意図、御計画が明らかにされ、それらすべてが現代を生きる私たちにも生きて働く言葉であることを覚えたいと思います。

イエス様は現代に生きる私たち一人ひとりにも人生の伴走者として、共に歩き交わりを持ち、自ら聖書を説き明かしてくださる方です。「我、ここに立つ!」とマルティン・ルターは言いました。何か起こったときに、自分はどこに立つかがはっきりしているなら幸いです。私は共に歩き、友となってくださったイエス様の横に立ちたいと思います。エマオへの道を辿っていた弟子たちは、一緒に歩いてくださっている方がイエス様だと分かると、すぐに方向転換をしました。

「そして、すぐに立ってエルサレムに帰って見ると、十一弟子とその仲間が集まっていて、『主は、ほんとうによみがえって、シモンに現れなさった』と言っていた。そこでふたりの者は、途中であったことや、パンをおさきになる様子でイエスだとわかったことなどを話した。」(33-35)

正に「復活の証人」となった二人の弟子たちのように、私たちも心燃やされて主が生きておられることを証し続けようではありませんか。