「主イエスに従う人」 ルカ14章25~33節 2022年9月4日

2022年9月4日(日) 礼拝メッセージ

聖書 ルカによる福音書14章25~33節
説教 「主イエスに従う人」
メッセージ 堀部 舜 牧師

【今週の聖書箇所】

 だれでも、父、母、妻、子、兄弟、姉妹、さらに自分の命までも捨てて、わたしのもとに来るのでなければ、わたしの弟子となることはできない。
 自分の十字架を負うてわたしについて来るものでなければ、わたしの弟子となることはできない。
 (ルカ福音書14章26~27節

【インドのある女性の証し】

迫害下のクリスチャンを支援する団体が、インドでクリスチャンになったある女性の証しを紹介していました。その方はヒンズー教徒でしたが、2012年に主イエスを信じました。ご主人には内緒にしていましたが、ある時、ご主人が彼女の祈りに気づきました。彼は聖書を見つけると、怒って破り裂き、この家にいるならば信仰を捨てるようにと迫りました。彼女がそれを拒むと、夫は彼女を打ち叩き、最終的に彼女を家から追い出し、3人の幼い子どもたちにも会えないようにされてしまいました。

彼女は家を失い、夫に追われ、子どもからも引き離されました。それは、彼女が主イエスに従った代価でした。彼女は親戚の家に住み、家族のために祈り続けました。近所の教会も彼女を助けてくれて、支援団体から新しい聖書を受け取った時、彼女は喜びの涙にあふれたそうです。

その後、祈りは聞かれて状況は次第に改善し、ご主人の態度は柔らかくなりました。主を信じてはいませんが、教会にも何度か来られたそうです。

写真には、ばらばらになった聖書を大切に持っている姉妹の姿が映っていました。姉妹は言っています。「私の聖書は、私のすべてです。聖書は、神の生きた言葉です。聖書なしに、私は生きられません」[③]

代価を払ってキリストに従うことを学んだ、現代の弟子の姿です。

【聖書箇所の背景】

今日の聖書箇所で、主イエスは十字架の待つエルサレムへ向かって旅を続け、群衆に「自分の十字架を負って」従うように教えます。

ルカ福音書で「弟子となる」とは、「救われる」「永遠の命を受ける」「神の国に入る」のと同じ事柄です[①]。 主イエスは、すべての人がご自身に従われるように願い、招いておられます。

■【1.弟子になる代価】

主イエスは「(〇〇でなければ)わたしの弟子となることはできない」と3度繰り返して強調し、「弟子になる代価」を話されます[②]。 26節では「主イエスを第一にする」こと、27節では「十字架を負って主イエスに従う」こと、33節では「財産から自由である」ことが述べられます。最近の礼拝で、「財産から自由であること」について何度か取り上げましたので、初めの2つに集中してお話しします。

◇主イエスを第一にする

弟子の代価の1つ目は、「主イエスを第一とすること」(26節)です。

26 だれでも、父、母、妻、子、兄弟、姉妹、さらに自分の命までも捨てて、わたしのもとに来るのでなければ、わたしの弟子となることはできない。

私がお世話になったご夫妻がいます。私の両親と同じ世代のご夫妻です。お二人が結婚してまもなく、奥様が信仰を持たれました。当時、ご主人は新婚の奥様が熱心に教会に行かれるのが気に入らなかったようです。 ▽ある時、「神を取るか、俺を取るか、どっちや」と迫ったそうです。姉妹は毅然として「神を取ります」と答えました。 姉妹はご主人の救いのために祈り続けながら、ご主人の留守のご自宅で家庭集会をしたり、新聞配達のアルバイトをして開拓教会の会堂献金を捧げたり、献身的に奉仕をされました。 ▽30-40年後、ご主人に大きな病気と試練が重なり、ご主人は神様に「降参」して、主イエスを信じました。やがてご主人は神学校に入学され、今は牧師として奉仕をされています。

姉妹は、昔を振り返って、「神を取るか、俺を取るか、どっちや?」と聞かれた時に、今思えば、「神も、あなたも、捨てられません」と答えれば良かったと思う、と言っておられました。姉妹は、神を第一にしましたが、同時に、ご主人のために祈り続けました。26節の御言葉は、神を第一にすることを命じていますが、家族を愛することと矛盾するものではありません。

主イエスの言葉は厳かです。家族に反対されたから主に従うのを止めるとか、究極的には、地上のいのちを守るために信仰を捨てるなら、主の弟子にはふさわしくない、と言われます[④]

◇十字架を負って主イエスに従う

弟子の代価の二番目は、「自分の十字架を負って主に従うこと」です(27節)。

27 自分の十字架を負うてわたしについて来るものでなければ、わたしの弟子となることはできない。

【主イエスに従う】 27節の中心は「主イエスについて行く/従う」ということです。人は誰でも自分の信念や知恵や、何かの基準に従って生きています。そのような人間に、主イエスは「わたしについて来なさい」と言われます。自分の意志ではなく、主イエスに従うことが、弟子の道です。主イエスご自身が永遠のいのちなので、主イエスに従うことそれ自体が、恵みです。

【十字架を負う】 主イエスに従うためには、自分の思い・願いに従うことをあきらめなければなりません。それが、自分に死ぬこと、「自分の十字架を負う」ことです。

私たちは、自分の知恵や願いを置いて、主イエスに従っているでしょうか? 主イエスに従うことに伴う苦しみを避けることはないでしょうか。

  • クリスチャンの少ない日本で、人の目を気にして、公に信仰を告白し、主に従うことをためらうことはないでしょうか。
  • 慣れ親しんだ悪い習慣や仲間、罪への誘惑となる時や場所から離れなければならない代価を惜しんでいることはないでしょうか。
  • クリスチャンが外側の罪には打ち勝っていても、心の中でも、欲を自制し、情欲をむさぼらず、恨みや憤りに身を任せず、むしろいつも喜びながら、絶えず祈り、主に感謝して歩んでいるでしょうか。絶えず祈りと讃美と御言葉によって主と交わり、愛の業に励んでいるでしょうか。

ジョン・ウェスレーは、もし私たちが、聖霊の御声を聞くことができず、聖書を読んでも感動がなく、主の臨在の平安を失っているとしたら、それは「十字架を負って主に従う」ことが足りないのだ、と言います[⑤]

【高価な恵み】

20世紀ドイツの神学者ディートリヒ・ボンヘッファーは、主イエスに従うことの必要性を強調したことで知られています。ボンヘッファーは、ナチス政権による教会への干渉と戦った教会闘争の指導者の一人でした。ナチスへの抵抗運動に関与して逮捕され、39歳の若さでナチスに処刑されて殉教しました。

ボンヘッファーは、主イエスの恵みは、全面的な服従へと招く「高価な恵み」だと教えました。「高価な恵み」という言葉は、教派を越えて広く知られています。「安価な恵み」とは、悔い改めのない赦しであり、服従に導かない恵みの教理です。それに対して、「高価な恵み」とは、私たちが全てを投げ出して慕い求める主イエスご自身の恵み、主イエスご自身へと招き、全面的な服従へ招く恵みです。

ボンヘッファーは教えます。「信じる者だけが、主イエスに従う」のだが、同時に「主に従う者だけが、信じることができる」と。 私たちが御言葉に従わないでいると、自分が不従順であることすら、次第に分からなくなってしまいます。ある人が次のように言うとします。「私はもう信じることができません。御言葉を聞いても私には何も語り掛けないし、心に響いてきません」。そのような人を、次のように戒めるべきだとボンヘッファーは言います。「あなたは主に従っていない。御声に従おうとしないから、信じられないのだ。罪を捨てて、主イエスに従いなさい」と。 ▼招いておられる主を見上げて、応答の一歩を踏み出すなら、(罪人のわざに過ぎない)その一歩の中で、私たちは主を信じることができるようになるのです。[⑥]

従順という「行い」が主との関係を回復させるのではありません。従順のうちで、「信仰」が働くのです。「信仰も行いが伴わないなら、それだけでは死んだものです」[⑦]

救いの条件は、信仰のみです。しかし、信仰に立つためには、悔い改めが必要です。主への服従は、悔い改めの実です。悔い改めと服従のないところに信仰はありません。[⑧]

私たちは自分を捨て、自分の十字架を負って、主に従っているでしょうか。

27自分の十字架を負うてわたしについて来るものでなければ、わたしの弟子となることはできない。

 以上、弟子の払う代価について、①「主イエスを第一にする」ことと、②「十字架を負って主イエスに従う」ことを見ました。

「信じる者だけが、従順であり
  従順な者だけが、信じる。」

ディートリヒ・ボンヘッファー「キリストに従う」

■【2.代価を計算する】

主イエスは弟子の代価を述べた後、28-32節で、2つのたとえを通して、代価を計算するようにと教えておられます。

28あなたがたのうちで、だれかが邸宅を建てようと思うなら、それを仕上げるのに足りるだけの金を持っているかどうかを見るため、まず、すわってその費用を計算しないだろうか。29そうしないと、土台をすえただけで完成することができず、見ているみんなの人が、30『あの人は建てかけたが、仕上げができなかった』と言ってあざ笑うようになろう。

土台を据えただけで完成できないというのは、非常に大きな建物です。最近、中国で多くのマンションの建設が途中で中止された様子が報道されています。中途半端な状態で、大損害を出しています。

クリスチャンとなることは、全生涯をかけた一大事業です。全人格をかけたコミットメントを求める、代価の高い投資です。流れと勢いに任せて乗り込むのではなく、腰を据えて費用を計算して、代価を承知したうえで、固い決意をもって取り掛かるべきです。中途半端な態度で臨むなら、喜びも自由も味わえず、なすべき掟だけがのしかかる、みじめな立場になりかねません。しかし、固く主に信頼し、忍耐強く従い続けるなら、困難があり、時間がかかっても、主は必ず完成まで守り導いてくださいます。

第一のたとえは自分から塔を建てる話ですが、第二のたとえは王が攻めて来るたとえです。

31また、どんな王でも、ほかの王と戦いを交えるために出て行く場合には、まず座して、こちらの一万人をもって、二万人を率いて向かって来る敵に対抗できるかどうか、考えて見ないだろうか。32もし自分の力にあまれば、敵がまだ遠くにいるうちに、使者を送って、和を求めるであろう。

先ほどのたとえでは、「私たちが代価を払うことができるかどうか」をよく考えるように言われました。このたとえでは、「私たちが、強力な王、すなわち主イエスの命令を拒むことができるかどうか」をよく考えるようにと言われているようです[⑨]。まことの王である主イエスが、大軍を率いて来られる時、抵抗することはできるでしょうか。勝利の見込みがないなら、主と平和条約を結ぶのが知恵である、と主は教えられます。

主イエスは、腰を据えてじっくりと計算するように促します。代価は大きいのですが、心をくじこうとしてはおられません。むしろ、心を定めて主に従うように、「わたしに従いなさい」と招いておられます。

■【3.約束の言葉】

最後に、主イエスに従う者に約束されている祝福の御言葉を覚えたいと思います。

一つ目の約束は、マタイ11:28-30です。

「28すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう。29わたしは柔和で心のへりくだった者であるから、わたしのくびきを負うて、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたの魂に休みが与えられるであろう。30わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからである」。

主に従い、そのくびきを負うことは、決して安楽なものではありませんが、そこに主の平安があります。自分の欲を満たし、自分の計画を行うのではなく、主の御心に従います。主のくびきを負って、主と共に歩む中で、主イエスを臨在のうちに、御声を聞き、御顔を仰ぐときに、主の喜びと平安を頂きます。何者からも自由に主を愛し、人々を愛することができのが弟子の特権です。

もう一つの約束は、マルコ10:29-30です。

29イエスは言われた、「よく聞いておくがよい。だれでもわたしのために、また福音のために、家、兄弟、姉妹、母、父、子、もしくは畑を捨てた者は、 30必ずその百倍を受ける。すなわち、今この時代では家、兄弟、姉妹、母、子および畑を迫害と共に受け、また、きたるべき世では永遠の生命を受ける。」

主ご自身のために、財産、家族、生活の基盤を失った者は、この地上で、主ご自身が必要を満たし、神の大きな家族に加えてくださり、主ご自身の富の豊かさで満たして下さいます。 やがて来る世界では、永遠のいのち――すなわち、身体の復活と、主ご自身を知る知識(=主に似た者に変えられ、主ご自身を所有する者となること)を頂きます。

主ご自身こそ、私たちが追い求める方、あらゆる代価で求める高価な真珠です。主イエスに従い、主イエスと共に歩むことこそ、私たちの頂く最高の祝福、あらゆる代価を払って求める高価な恵みです。 主にある堅固な歩みを目指して、主に従って参りましょう。

27自分の十字架を負うてわたしについて来るものでなければ、わたしの弟子となることはできない。


[①] 「救われる」(7:50)、「永遠の命」(18:18,29-30)、「神の国に入る」(18:24)

Darrell L. Bock, Luke 9:51-24:53, Baker Exegetical Commentary on the New Testament

[②] 14:26,27,33

[③] The Voice of Martyrs

https://etools.vomusa.org/a/vombm/viewasweb/vom_bulk_email_201804_04_web.html

[④] マタイ10:37

[⑤] ジョン・ウェスレー説教53(下)、説教48「自己否定」二・1~7

[⑥] ボンヘッファー「キリストに従う」 第一部 恵みと服従 p13-95

[⑦] ヤコブ2:17

[⑧] ジョン・ウェスレー説教53(下) 説教43「聖書における救いの道」三・2

[⑨] Darrell L. Bock, 前掲書

Leon Morris, An Introduction and Commentary, Tyndale Commentaries


注: 使用聖書について:当教会の礼拝では、新改訳聖書2017を使用しています。本サイト上では、著作権に配慮して、口語訳聖書(1954/1955年版)を中心に使用しています。