「新しい人として」 ミカ書6章1~8節 2022年8月28日

2022年8月8日(日) 礼拝メッセージ

聖書 ミカ書6章1~8節
説教 「新しい人として」
メッセージ 堀部 里子 牧師

【今週の聖書箇所】

6 「わたしは何をもって主のみ前に行き、高き神を拝すべきか。
 燔祭および当歳の子牛をもって そのみ前に行くべきか。
7 主は数千の雄羊、万流の油を喜ばれるだろうか。
 わがとがのためにわが長子をささぐべきか。
 わが魂の罪のためにわが身の子をささぐべきか」。
 (ミカ書6章6~7節

【一通のメールを通して】

「先生、お祈りを感謝します!就職が決まりました!来年の四月から〇〇病院で看護師として働きます。」

 先日、嬉しい報告をメールで受けました。このメールの送り主を私は彼女が生まれた時から知っています。彼女のご両親は宣教師で彼女は海外で育ちましたが、様々な試練に遭遇して日本に帰国を決断した時、私が以前勤めていた教会で共同生活をした仲でした。当時、生きる気力を失い人生のドン底を経験した彼女を近くで見て知っているからこそ、日本で漢字と格闘しながらも大学に入り直し、新しい出発をした時にも涙と共に送り出しました。彼女と共に過ごした恵みの数々が走馬灯のように思い出され、彼女の上に臨んだ神の癒しと回復が、周りの者たちにも豊かな祝福となったことで御名を崇めました。

 神様は私たちを内側から新しく造り変えることができるお方です。皆さんにとって人生のターニングポイントで神様はどのように働かれましたか。

【新しい出発をするために】

 さて今週から9月に入り、学校では新しく二学期が始まり、会社などは下半期が始まります。新しい出発をするために必要なことは何でしょうか。目標・ゴールを確認し、今までの道を振り返り、軌道修正をして歩むことではないかと思います。今朝は、神様が私たち一人ひとりに新しく出発するようにと求めておられることを今日も御言葉を通して見て行きたいと思います。今日の中心聖句であるミカ書6:8をお読みします。

「主はあなたに告げられた。人よ、何が良いことなのか、主があなたに何を求めておられるのかを。それは、ただ公正を行い、誠実を愛し、へりくだって、あなたの神とともに歩むことではないか。」(8)

【ジミー・カーター氏 大統領就任式にて】

 このミカ書6:8は、今から45年前の1977年1月20日、第39代アメリカ合衆国大統領に就任したジミー・カーター氏が就任式で読んだた聖書箇所です。アメリカの大統領が就任する時は、聖書を持って宣誓をするのが慣例です。カーター氏は今も存命(97歳)で熱心なクリスチャンとして知られています。

 数ある聖書の言葉の中からなぜミカ書が選ばれたのでしょうか。カーター氏は就任式で続けてこう述べました。「…この就任式は、新たな始まりを、政府の新たな献身を、そして我々全員の新たな精神を示しています。…」カーター氏の言葉の中に「新たな」という言葉が使われていますが、この言葉が一つのキーワードではないかと思います。新しく大統領に選ばれ、心新たに新しい出発を国民全体でするのだという意気込みが感じられます。神を信じる大統領として何を大切にしようとしているのかが表れているのではないでしょうか。 6:8を読む限り、神が私たちに求めておられることは「物」ではないことがはっきりしています。献金などささげ物をどれだけ多くするのか、何を神様の前に持って来るのかではないのです。神様は私たちの「真実な心」を求めておられます。先ず、当時の時代背景を共に見て参りましょう。

【預言者ミカが生きた時代背景】

 預言者ミカが神様の心をイスラエルの民に伝えた時代は、ダビデ王によって統一された王国は分断され、北イスラエル王国と南ユダ王国という二つの国になっていました。両国ともに国の内部は腐敗し切っており、滅ぼされるしかないところまで堕落した状態で、神の裁きを受ける以外に方法はありませんでした。神の民として選ばれながらも、もはや「神の民」と呼ばれるに値しないほどの堕落、偶像礼拝が蔓延し、道徳的にも腐敗し、悪質な指導者たちのお金目当ての欺きや虐げの行為も絶えませんでした。

 結果的に北王国は紀元前722年、アッシリヤに首都サマリヤを陥落され、滅ぼされました。また南ユダ王国の首都エルサレムは、バビロンによって破壊され、民は捕囚となり移されて行き、紀元前586年にユダ王国は終焉を迎えました。

 南王国ユダのモレシェテ・ガテ出身のミカは預言者として、神の心を代弁して民に警告をしました。ミカには、誰のお世辞も脅迫も賄賂も通用しません。単刀直入に悪事を暴き、「神のさばきの原因はお前たち自身なのだ」と叫びました。権力者たちにとってミカは不都合な人間であったでしょう。正しいことを曲げ、貧しい者、弱い者を犠牲にした繁栄や富を手にした地主、お金持ち、支配者たちはびっくりしたと思います。ミカはまた国の司法、行政の重要な地位を乱用している為政者たちの、神を恐れない悪事をも堂々と非難しました。

 人間関係で大切なことは「互いが相手に対して真実であること」です。約束を破ったり、嘘や偽りを繰り返すなら、信頼は損なわれ、関係が破壊されてしまいます。神との関係も同じではないでしょうか。聖書の神は別名「ねたむ神」とも言われます。神様との約束・契約を破り、神様にささげられるべき礼拝を偶像にささげる者を、厳しく指導される方です。「愛の神」でありますが、同時に「義の神、聖なる神」です。神の義と愛は表裏一体で、神の義が分からないなら、神の愛も本当には分からないと言えます。神が義でなければ、イエス様が十字架上で私たちの贖いとなられることもありませんでした。イエス・キリストが十字架に架かったのは、父なる神の愛と義の故だったのです。

【選ばれた者には責任がある】

 私が小学校四年生に進級した時、新しく担任となった先生がクラス全員に質問をしました。「この中にクリスチャンはいますか?」と。私はおどおどしながらも手を挙げました。当時はまだ洗礼を受けていませんでしたが、手を挙げない選択もできたのに手を挙げた自分に内心びっくりしました。なぜ先生がこのような質問を子どもたちにしたのか分からないのですが、覚えていることは先生は、私が何かクリスチャンらしからぬことをしでかすと必ず「里子さんはクリスチャンなのにこんなこともするの?」と目を見ておっしゃるのでした。この言葉は叱られるよりも効果がありました。私は学級長に選ばれながらも、担任の先生の目には自覚と責任が足りなかったと思います。「私はクリスチャンなのだ」という看板を背負っているような自覚が芽生えたのもこの頃です。「先生や神様を悲しませることはしてはいけない」と何度も思ったことでした。

 選ばれた者には責任が伴います。イスラエルの民も神に選ばれた民として真実を持って神に仕え、果たすべき使命がありました。

【正しく聞き、正しく理解すること】

「ですから、信仰は聞くことから始まります。聞くことは、キリストについてのことばを通して実現するのです」(ローマ10:17)

ミカ書6章は冒頭に「さあ、主の言われることを聞け」(1)とミカは言っています。最初に罪を犯したアダムとエバは、神の言葉を正しく聞き理解していなかったために、蛇に質問された時、間違って蛇に答え、罪に陥ってしまいました。ミカは続けて言います。

「・・・立ち上がれ。山々に訴えよ。もろもろの丘にあなたの声を聞かせよ。山々よ、聞け。主の訴えを。変わることのない地の基よ。主がご自分の民を訴え、イスラエルと論争される」(1-2)

山々や丘などが比喩的に証人として、法廷に引き出されている場面のようです。しかし、主の訴えは一方的に民を糾弾し困らせるものでは全くありませんでした。神様はさばく前に論じ合うため、対話を始められます。

「わたしの民よ、わたしがあなたに何をしたというのか。どのようにしてあなたを煩わせたというのか。わたしに答えよ」(3)

【神のしてくださった恵みを思い起こそう】

 続けて神は4節と5節で、出エジプトしたことなどを振り返り、どのように民を救い出して来たのかを挙げられます。

「わたしはあなたをエジプトの地から上らせ、奴隷の家からあなたを贖い出し、あなたの前にモーセと、アロンと、ミリアムを送った。わたしの民よ、思い起こせ。モアブの王バラクが何を企んだか。ベオルの子バラムが彼に何と答えたか。シティムからギルガルまで何があったか。それは、あなたが主の正しいわざを知るためであった」(4-5) 

 神は今までイスラエルに行た救いの「正しいわざ」を語り、「わたしの民よ、思い起こせ」と呼びかけています。私たちも人生のターニングポイントに立つ時、また新しい出発をする時、神が私と私の家族を今までどのように導き、恵みを与えてくださったかを思い起こしたいと思います。人生を振り返り、神様はあなたにとってどのような方だと告白できるでしょうか。また、神の言葉を心に握って信仰の一歩を踏み出したことはどれだけあったでしょうか。神の導きと守りがなされた目的は、私たちが主の正しいわざを知るためだったのです。 

 イスラエルの民は、北イスラエルと南ユダという二つの国に分断され、痛みを経験しました。それぞれに王様が立てられ、良い王様もいましたが民を迷わせる悪事を行った王もたくさんいました。たとえ恩を仇で返すようなことを民がしても、神は選民イスラエルのことを決して諦めませんでした。イスラエルの歴史上、神が介入されなかったことはなかったのです。

【イスラエルの民の応答】

 「わたしに答えよ」という神の問いかけに対して、イスラエルは自分たちの心がどれほど神様の心を理解していないのかを露呈してしまいます。

「何をもって、私は主の前に進み行き、いと高き神の前にひれ伏そうか。全焼のささげ物、一歳の子牛をもって御前に進み行くべきだろうか。主は幾千の雄羊、幾万の油を喜ばれるだろうか。私の背きのために、私の長子を、私のたましいの罪のために、胎の実を献げるべきだろうか」(6-7)

「何をもって、私は主の前に出るべきか」この自問自答から、イスラエルの民は焼き尽くされたささげ物から自分の子どもに至るまで、何かささげる物を念頭に置いていることが分かります。どれだけたくさんの高価で大切な物を人がささげるかで、罪が赦されるのでしょうか。神様は私たちのささげ物がなければ困るのでしょうか。6-7節は、神が何を喜ばれるのかを本当に理解していない答えです。ささげ物の種類と価値に思いが集中しているのが分かります。自分の子どもを最終的にいけにえとしてささげるなら罪が赦されるのではと考えるのは愚かなことです。本当に主が望んでおられることは何でしょうか。以下の箇所が明確に神が望まれることです。

「主はあなたに告げられた。人よ、何が良いことなのか、主があなたに何を求めておられるのかを。それは、ただ公正を行い、誠実を愛し、へりくだって、あなたの神と共に歩むことではないか」(8)

【神が望んでおられること】

 神が望んでおられることは「公正・誠実・謙遜」でした。公正とは神の秩序を立てることです。すべての人、特に弱さや力のない人に対して公平に働くことを意味します。誠実とは忠誠を誓うほどの強い意味を持った愛を意味します。謙遜とは自分の基準でなく神の基準に従うことです。歩むことは生活することを意味します。クリスチャン生活も慣れてくると平凡な日々に思えてくるかもしれません。かつて持っていた情熱を失うこともあるでしょう。しかし、神様が今まで導かれた過程を思い出し、適切な人との出会い、神が開いた扉の数々が偶然でないことを確信したいとおもいます。神の恵みは当然でも偶然でもなく、私たちの努力によるものでもありません。塩気をキリスト者が失わないようにしたいものです。神に従うか従わないか、キリストを本気で信じるか信じないか、一人一人が応答を迫られているのではないでしょうか。私たちクリスチャンは現代の預言者の役割があります。また、教会も現代の預言者の役割を担う共同体であるべきです。信仰生活の中で神様が喜ばれないと考えられることを卒業し、新しい人として神に仕えて生きる道をへりくだって主と共に歩み続けようではありませんか。

【献身表明後にみた夢】

 前回、私が献身へと導かれた話を少ししましたが、御言葉を頂いて主の前に涙を流して進む決心をしたのに、実際の私の生活には変化もなく、徐々に迷いが私を襲ってきました。そんなある夜、夢をみました。私は険しい山を一生懸命に登っていました。ふと見ると先に山小屋が見えました。そこで休憩をしようと山小屋に近づき、窓から中を覗いてみたらびっくり仰天。母教会の牧師が前に立ってメッセージをしるではありませんか。話を聞いている会衆は皆、身体のどこかが欠けていました。手がない人、足がない人、目がない人など。私が窓から覗いていることに牧師が気付くと、手招きをしてこう言うのです。「里子さん、早く中に入って来て、助けてくれませんか。一緒に働きましょう」と。会衆も私を見て手招きをしています。一瞬にして恐怖を覚えた私は窓から離れます。そして来た道を戻ろうとふと空を仰ぐと、さっきまで曇っていた空が青空となっていました。青空に白い雲で空に次の御言葉が書かれていました。

「ですから、だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました」(Ⅱコリント5:17)

 空に記された御言葉を読んだ瞬間、目が覚めました。次の日、教会に行き夢の話を報告しようと牧師先生夫妻を訪ねました。すると、牧師夫人の方が「私もあなたに会いたかったのよ。あなたの夢を見たのよ。」とおっしゃるではありませんか。牧師夫人が見た私の夢とは、「里子さんがね、ふらふらと赤ちょうちんがぶら下がった居酒屋に入って行く夢だったんだけど、実際はどうなの?」ということでした。私も自分が見た夢を先生ご夫妻にお話をしました。

 先生方と話をする中で、私の生活が変わらないのは私自身の問題が迷いとなっていることに気付かされました。私は献身をしたけれど、神学校に行くお金もなければ、仕事を辞める勇気もない、夜遊びをする友人関係も整理できずにもやもやしていたのです。そしてこんな私がきよく正しく生きるなんでやはり無理だと決めつけていました。

 私は神様にささげる物など何もない、取るに足りない者だからと自分自身を卑下し、何も出来ない自分を罪に定めていたのです。しかし、空に記された御言葉を見て、「私は新しくされたのだ。自分が何ができるか、ささげる物がどれだけあるのか、ないのかではないのだ。信じてまず一歩前に進もう。」と思ったのです。先生夫妻にお祈りをしてもらい、具体的にどうしたら良いかをアドバイスをいただき、また断食して導きを祈り求めることにしたのです。こうして、今の私がいます。

 私が願う以上に、主御自身が共に歩んでくださり、たくさんの恵みと祝福を今も頂いています。すでに世に勝っているイエス・キリストの血潮の力がこれからも私たちを励まし、押し出し、聖霊によって「新しい人」として導いてくださることを信じて今週も前進いたしましょう。


注: 使用聖書について:当教会の礼拝では、新改訳聖書2017を使用しています。本サイト上では、著作権に配慮して、口語訳聖書(1954/1955年版)を中心に使用しています。