詩篇112:1-10「光は闇の中に輝く」

2022年9月25日(日) 礼拝メッセージ

聖書 詩篇112篇1~10節
説教 「光は闇の中に輝く」
メッセージ 堀部 里子 牧師

【今週の聖書箇所】

「主をほめたたえよ。
主をおそれて、そのもろもろの戒めを 
大いに喜ぶ人はさいわいである。
その子孫は地において強くなり、
正しい者のやからは祝福を得る。
繁栄と富とはその家にあり、
その義はとこしえに、うせることはない。
光は正しい者のために暗黒の中にもあらわれる。
主は恵み深く、あわれみに満ち、
正しくいらせられる。」

ルカ15章4~10節

闇の中の光

9月に入って涼しくなり、台風の後はすっかり秋めいてきました。段階的に涼しさから寒さに変わって行くことでしょう。季節は確かに移り変わって行きます。そして暗いニュースもひっきりなしに聞こえてきます。しかし、情報や変化に右往左往せず、変わらない神の言葉に心をとめ、揺るがない確信を今朝も聖書から共に頂きたいと思います。

今朝は詩篇が開かれました。詩篇は人の心が如実に表れている故に詩篇は大好きですという方も多いと思います。確かに心にあるものを外に出すことによってすっきりしますし、解決が与えられることもあります。詩篇の作者たちはどろどろとした人間関係や逆境、苦難の只中で叫びますが、叫ぶ相手は神であり、そこには神を常に認めている姿があります。そしてすべてを神が統べ治めておられ、神の方法で助けてくださるのだという思想が流れています。そして神から与えられる祝福を受け継ぐ者としての使命を新たにしていくのです。私たちは起こっている現象に目が留まりやすいですが、全てを治められ、全てをご存じの神に心を留めたいと思います。

さて、今朝は詩篇112篇を共に味わいたいと思います。

【112篇について】

詩篇112篇は111篇と対になっている姉妹詩篇と呼ばれています。元々は一つの詩篇で同じ作者が書いたという説もあります。各行が22個のヘブル語のアルファベットで始まる「アルファベットの歌」となっていて、日本語で言うなら「いろは歌」形式です。最初は「ハレルヤ」という賛美の言葉で始まっています。「ハレルヤ」とは「神をほめたたえます」という意味で、感謝と喜びの感嘆詞のようにも使用されます。

私が中学生の頃の話ですが、学校帰りに教会の方にバッタリお会いしました。その方は私を見るなり、「ハレルヤ!里子姉妹!」と声をかけたのです。私は急に声をかけられた恥ずかしさと、慣れない教会用語にびっくりしてしまい、挨拶もせずにその方の前を素通りしてしまったことを思い出しました。その方の喜びに溢れた挨拶に応えられなかったことが今では残念です。日本人には「ハレルヤ」という言葉は馴染みがあまりないかもしれません。今なら「ハレルヤ!」と挨拶されたら私も「ハレルヤ!」と笑顔で返したいと思います。

ユダヤ人が主に感謝と喜びをささげる時、ただ主観的な感謝や喜びでなく、神様の救済の歴史に根拠があります。「私たちの先祖はエジプトの奴隷時代を経て神によって出エジプトしたのだ、荒野でもマナが与えられ生かされて、約束の地へと向かったのだ」と。あなたはどのような時に感謝と喜びの叫びをあげるでしょうか。その根拠は何でしょうか。

詩篇には「ハレルヤ詩篇」と呼ばれる詩篇がいくつもあります。ラテン語ウルガタ訳聖書の表題には「ハガイとゼカリヤの帰国に際して」とあるそうで、第二神殿時代の初期に作られた詩ではないかとも言われています[①]

111篇は「神と神の御業」に焦点が置かれているのに対し、112篇は「神の人」について述べられています。また神を信じる者がするべきことに焦点が当てられています。112篇1節~8節の前半部分は、「どのような人が幸いで祝福されるのか」を、また9節~10節の後半部分は「与えられた祝福を分かち合う人生・隣人と分かち合う祝福」について述べられています。

1節に「幸いなことよ」、5節に「幸せなことよ」とありますが、一体どんな人が幸いなのでしょうか。

【どのような人が幸いなのか】

「主をほめたたえよ。主をおそれて、そのもろもろの戒めを大いに喜ぶ人はさいわいである。その子孫は地において強くなり、正しい者のやからは祝福を得る。繁栄と富とはその家にあり、その義はとこしえに、うせることはない。」(112:1-3) 

主を恐れその仰せを大いに喜ぶ人が幸いなのだと聖書は言っています。

「主を恐れることは知恵のはじめである」(詩篇111:10)、「主を恐れることは知識のはじめである…」(箴言1:7)。

主を恐れることは、主を礼拝する心です。これこそが知恵・知識の初めなのだというのです。また主の仰せ・御言葉を大いに喜ぶ人が幸いな人だと112篇の作者は定義づけています。何を人生の喜びとするかでその結果が違ってくるでしょう。その人だけでなく子孫も祝福され繁栄と富がその家にあるというのです。

5節以降の幸せなこととして、「恵みを施し、貸すことをなし、その事を正しく行う人」とあります。神を恐れ神の言葉を喜ぶ人は、自分だけでなく隣人との関わりにおいてもその正しさが波及していくのです。

「正しい人は決して動かされることなく、とこしえに覚えられる。彼は悪いおとずれを恐れず、その心は主に信頼してゆるがない。その心は落ち着いて恐れることなく、ついにそのあだについての願いを見る。」(6-8)

【祝福を分かち合うこと】

「彼は惜しげなく施し、貧しい者に与えた。その義はとこしえに、うせることはない。その角は誉を得てあげられる。」(9)

この箇所をパウロはコリント書でエルサレムの信徒のために献金を促す際に引用しています。

「『彼は貧しい人たちに散らして与えた。その義は永遠に続くであろう』と書いてあるとおりである。」(Ⅱコリント9:9)「…主は富んでおられたのに、あなたがたのために貧しくなられた。それは、あなたがたが、彼の貧しさによって富む者になるためである。」(Ⅱコリント8:9)

惜しみなく分け与えると、自分の分がなくなるじゃないかと思うかもしれません。その限度は自分自身が決めるのです。祈りの中で示された分を惜しむ心でなく、喜んで差し出すことが大切なのです。この愛の循環が次の祝福を生み出して行きます。イエス・キリストが十字架にご自分の命を差し出して、私たちに命を分け与えてくださったこと、それに勝るものはありません。私たちも自分に与えられているものを喜んで分かち合う者とならせていただきたいと思います。

祝福された人は、受けた祝福を隣人と喜んで分かち合うことができるようになります。ここでは貧しい人を助ける人生が挙げられていますが、分かち合うことは物質的なことだけではありません。分かち合う人生こそ神の性質を現わします。分かち合う時、すべてのものは神の恵みによって与えられたということを覚えたいと思います。

【光としてこの世に来られたキリスト】

イエス様が神の人として、祝福を分かち合う人生を歩まれましたが、その働きは光そのもので、闇の中に光を持ち運ぶ存在でした。

「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は初めに神と共にあった。すべてのものは、これによってできた。できたもののうち、一つとしてこれによらないものはなかった。この言に命があった。そしてこの命は人の光であった。光はやみの中に輝いている。そして、やみはこれに勝たなかった。」(ヨハネ1:1-5)

 

前回のメッセージで、来月挙式予定の二人と結婚カウンセリングの時を持ったと話しましたが、その続きですが実際にリハーサルをホテルの教会で行いました。ホテル側の前もって準備されたプログラムの中に、印象に残る演出がありました。新婦が入場する前までは暗い母の胎内を表すために会場は照明が落とされています。しかし一歩礼拝堂の中に足を踏み入れると照明が途端に明るくなり、正面に掲げられた十字架に向かって歩いて行くのです。またキャンドル三本が講壇横に立てられており、両側の二本は新郎と新婦の家族が火をつけるキャンドルで、それを新郎新婦が二人で真ん中のキャンドルに火を一緒に灯すのです。その作業が終わると、両端のキャンドルの光を消します。そして最後には、二人が未来に向かって歩み出し、光の中を送り出されて行くのです。

私たちの人生にキリストの光が一度灯されたら、もはや私たちは過去に生きるのでなく、新しい光であるキリストと共に歩み出して行くのです。

【メシヤ(救い主)預言の実現】

光は正しい者のために暗黒の中にもあらわれる。主は恵み深く、あわれみに満ち、正しくいらせられる。」(詩篇112:4)

主をおそれる直ぐな人たちは、闇の中にあっても神が照らす一筋の光を待ち望みます。苦しみの中にあっても神が彼らを救い、いのちと喜びを回復してくださると、主に信頼しているのでたとえ闇に土台が揺るがされても主の内に留まります。

「闇」は聖書で象徴的に使われていることが多いです。罪と死を表したり、神を知らない状態を表すこともあります。また闇は苦痛、混乱、無秩序をも表します。神が世界を創造する前、この世界は闇に覆われ茫漠としていました(創世記1:2)。神は初めに光を創造され、四日目に二つの大きな光る物(太陽と月)を創造されました。

イザヤ書9:1~にメシヤ預言が書かれています。暗黒のような時代に住んでいた当時のイスラエルの民にとって、救い主誕生の預言はどんなにか励ましとなり慰めとなったでしょうか。

「しかし、苦しみにあった地にも、やみがなくなる。…暗やみの中に歩んでいた民は大いなる光を見た。暗黒の地に住んでいた人々の上に光が照った。…ひとりのみどりごがわれわれのために生れた、ひとりの男の子がわれわれに与えられた。」(イザヤ9:1,2,6)

その預言はイエス・キリストの誕生によって実現しました。「ひとりの男の子」とはイエス・キリストです。闇が光に勝ったのです。「…主はとこしえにあなたの光となり、あなたの神はあなたの栄えとなられる。…主がとこしえにあなたの光となり、あなたの悲しみの日が終るからである。」(イザヤ60:19-20)。

【主イエスの視点・どのような人が幸いか】

イエス様は、どのような人が幸いかをこう宣べています。

こころの貧しい人たちは、さいわいである、天国は彼らのものである。悲しんでいる人たちは、さいわいである、彼らは慰められるであろう。柔和な人たちは、さいわいである、彼らは地を受けつぐであろう。義に飢えかわいている人たちは、さいわいである、彼らは飽き足りるようになるであろう。あわれみ深い人たちは、さいわいである、彼らはあわれみを受けるであろう。心の清い人たちは、さいわいである、彼らは神を見るであろう。平和をつくり出す人たちは、さいわいである、彼らは神の子と呼ばれるであろう。義のために迫害されてきた人たちは、さいわいである、天国は彼らのものである。わたしのために人々があなたがたをののしり、また迫害し、あなたがたに対し偽って様々の悪口を言う時には、あなたがたは、さいわいである。喜び、よろこべ、天においてあなたがたの受ける報いは大きい。」(マタイ5:3-12)

【主イエスの招き】

イエス・キリストはすでに「世の光」として来られました。私たちも「世の光」の存在となるよう招かれています。イエス様の招きの言葉を読みます。あなたがたは、世の光である。山の上にある町は隠れることができない。…あなたがたの光を人々の前に輝かし、そして、人々があなたがたのよいおこないを見て、天にいますあなたがたの父をあがめるようにしなさい。」(マタイ5:14,16)

2011年1月にイスラエルに行った時、ガリラヤ湖畔で宿泊をした時のことです。昼間は気付かなかったのですが、夜になり辺りが暗くなると、ガリラヤ湖横にある山の斜面に光が点在していることに気が付きました。その時に上記の聖書の言葉を思い出したのです。「山の上にある町は隠れることができない」。山の斜面の光は、そこに住む人々の家の光でした。外が明るい時は気付かれませんでしたが、暗くなると光が灯され家の存在が明らかになったのです。キリストを信じる者の光を、周りの人に気付いてもらうのは、闇がある場所ではないでしょうか。闇が深ければ深いほど、光の存在意義が発揮されるのです。イエス様はおっしゃいます。「あなたがたの光を人々の前に輝か」せなさいと。

【祝福を受け継ぐ者として】

どんな人が幸いかを共に見て参りました。幸い・祝福とは一体何を指すのでしょうか。旧約時代は神の祝福を豊かな富と子孫の繁栄、土地の取得などで表現されます。しかし、一番大きな祝福は「神が共におられるという幸い」ではないでしょうか。「…見よ、わたしは世の終りまで、いつもあなたがたと共にいるのである」(マタイ28:20)。

あなたの人生を振り返って神が与えてくださった祝福は何でしょうか。アブラハムに約束された祝福は、息子イサク、孫ヤコブへと受け継がれていきました。祝福をあなたは誰に受け継ぎたいと願いますか。「あなたがたは、以前はやみであったが、今は主にあって光となっている。光の子らしく歩きなさい。」(エペソ5:8)


[①] ローマ・カトリック教会の標準ラテン語訳聖書で、4世紀末~5世紀初頭にヒエロニムスが校訂・翻訳した。