ルカ15:1-10「悔い改めを喜ぶ神」
2022年9月18日(日) 礼拝メッセージ
聖書 ルカによる福音書15章1~10節
説教 「悔い改めを喜ぶ神」
メッセージ 堀部 舜 牧師
【今週の聖書箇所】
「あなたがたのうちに、百匹の羊を持っている者がいたとする。その一匹がいなくなったら、九十九匹を野原に残しておいて、いなくなった一匹を見つけるまでは捜し歩かないであろうか。そして見つけたら、喜んでそれを自分の肩に乗せ、家に帰ってきて友人や隣り人を呼び集め、『わたしと一緒に喜んでください。いなくなった羊を見つけましたから』と言うであろう。よく聞きなさい。それと同じように、罪人がひとりでも悔い改めるなら、悔改めを必要としない九十九人の正しい人のためにもまさる大きいよろこびが、天にあるであろう。
また、ある女が銀貨十枚を持っていて、もしその一枚をなくしたとすれば、彼女はあかりをつけて家中を掃き、それを見つけるまでは注意深く捜さないであろうか。そして、見つけたなら、女友だちや近所の女たちを呼び集めて、『わたしと一緒に喜んでください。なくした銀貨が見つかりましたから』と言うであろう。よく聞きなさい。それと同じように、罪人がひとりでも悔い改めるなら、神の御使たちの前でよろこびがあるであろう」。
(ルカ15章4~10節)
【聖書の背景】
ルカ15章で主イエスは3つのたとえを話されます。「いなくなった羊」「なくした銀貨」「放蕩息子」のたとえです。 ▼これは、宗教指導者たちの不満に対する答えでした。宗教指導者たちは、主イエスが罪人たちを受け入れて、一緒に食事をしていることを咎めました。「罪人」とは、単に「品性が悪い人」ではなく、「律法に反する生き方のためにユダヤ会堂から追放された人」を指します。 ▽主イエスはこうした人々を受け入れていました。取税人レビが回心した時には、主イエスを盛大にもてなして、仲間の取税人たちを大勢招きました[①]。取税人のかしらザアカイも、主イエスを大切な客としてもてなしました[②]。
当時のユダヤやローマ帝国の支配下にありました。宗教指導者たちは、ローマから解放されるために、神に立ち帰り、モーセの律法を徹底的に守ることが重要だと考えました。彼らは、モーセ律法を守らない人々とのかかわりを絶ち、商売をせず、客にもならず、「罪人が…抹殺されるなら、天に喜びがある」とまで言ったそうです。そのような当時のユダヤ教の極端な教えの中で、主イエスの教えは驚くべきものでした。
今日の箇所で、主イエスは神様の2つのイメージを話されました。第一は「羊を探し歩く羊飼い」のような神。第二は「大切な銀貨を必死に探す女性」のような神です。今日はこの2つのイメージを心に刻みたいと思います。
■【1.いなくなった羊】
ユダヤの羊飼い
ユダヤの地域では牧草地は狭くて、数km行くとすぐに崖や砂漠になってしまうそうです。柵のない野原ですから、羊はしばしば迷い出たそうです。夜にはハイエナの遠吠えがする中で、羊飼いは眠ることなく、闇の中に目を光らせます。日中の暑さと夜の寒さに耐えながら、杖に寄りかかりながら、羊の一匹一匹に心を留めながら、羊を見守ります。
羊の群れは、ふつうは個人の財産ではなく、村全体の共同の財産で、2-3人の羊飼が、一緒に群れを管理したそうです。彼らは羊に対して責任があって、羊が迷子になって死ぬと、なぜ死んだのかを説明しなければなりませんでした。羊が迷い子になると、羊飼いは足跡を頼りに何kmも追いかけました。その過程で、おそらく崖から落ちたり、獣に襲われたりすることもあったのでしょう、羊飼いが命を落とすこともあったそうです。
迷い出た羊が夕方になっても見つからない場合は、羊飼い仲間は群れを連れて村に帰り、一人の羊飼いが迷い出た羊を捜し続けました。知らせを受けた村人たちが遠くの方に目を凝らしながら、もう一人の羊飼いの帰りを待ち続けます。やがて、遠くの方に、迷子の羊を肩に担いだ羊飼いが見えると、村全体が安堵と喜びに湧き上がるのだといいます。[③]
「羊を探す羊飼い」のような神
4「あなたがたのうちに、百匹の羊を持っている者がいたとする。その一匹がいなくなったら、九十九匹を野原に残しておいて、いなくなった一匹を見つけるまでは捜し歩かないであろうか。
神様は、100匹のうちの一匹も見捨てません。私たちが取るに足りない者でも、神の配慮から漏れることはありません。▽また、主は悔い改めて立ち帰る人を受け入れるだけではなく、ご自分から出て行って捜し歩かれます。しかも「見つけるまで」、忍耐強く熱心に探されます。
5そして見つけたら、喜んでそれを自分の肩に乗せ、家に帰ってきて友人や隣り人を呼び集め、『わたしと一緒に喜んでください。いなくなった羊を見つけましたから』と言うであろう。
羊飼いは、弱って歩けない羊をいたわり、汚れも重荷もいとわず「羊を肩に担ぎ」ます。同様に神様は、私たちの汚い罪も難しい問題も受け止め、ご自分の肩に担って下さいます。 ▽人々を「呼び集める」とは、祝宴を開いたという意味のようです。労苦にまさる、喜びが覆っています。
7よく聞きなさい。それと同じように、罪人がひとりでも悔い改めるなら、悔改めを必要としない九十九人の正しい人のためにもまさる大きいよろこびが、天にあるであろう。
主イエスと出会った罪人が「悔い改め」て罪の生活を捨てたことは、彼らが新しく生まれたことの証明になりました。それは、神様の大きな喜びです。神様は罪人が滅びることを喜ばず、罪人が立ち帰ることを喜ばれます[④]。 ▽神の喜びと、宗教指導者たちの冷たい態度は対照的でした。私たちは、罪人の悔い改めを神と共に喜ぶか、不平を言うか、自分の態度を問われています。
■【2.なくなった銀貨】
もう一つの譬えは、なくした銀貨を探す女性の譬えです。
ちなみに、ルカ福音書では男性と女性がセットで出てくる箇所がかなりあります。今日の箇所も、羊飼いの男性と銀貨を探す女性が登場します。男性も女性も分け隔てなく神の民とされることを表しています[⑤]。
ユダヤの女性と銀貨
この時代の労働者の一日の賃金が1ドラクマでした。日本で言えば弥生時代の竪穴住居の時代です。ユダヤの貧しい家には、小さな窓が1つあるだけで、とても暗かったそうです。床は土の上に乾いた草を敷いたもので、なくした硬貨を探すのは大変でした。小さな明かりを灯して、藁をひっくり返して何とか見つかるまで探そうとしました。
女が一生懸命探した理由には、二つの説があります。▽第一に、1世紀の貧しい家庭で、1日分の収入は非常に貴重で、それがなければ家族が食べることができませんでした。▽第二の説で、ユダヤの結婚した女性は、銀の鎖に10枚の銀貨を付けた髪飾りを持っていたそうです。10枚の銀貨のうちの1枚というのは、この髪飾りの一部ではないか、というのがこの説です。この髪飾りは、現代の結婚指輪と同じ意味があり、たとえ借金を返済のためでも、この髪飾りを女性から奪うことは許されなかったそうです。[⑥](私も、家の中で結婚指輪をなくした時は、冷蔵庫やタンスの隙間を探し、カーペットをめくり、家中をくまなく探し回りました。どれだけ必死に探し回るか、よく分かります!)
この銀貨が家族の生活費だったのか、髪飾りだったのかは、分かりません。いずれにせよ、女性は必死になって、目を皿のようにして、家中をひっくり返して探し回りました。
「なくした銀貨を探す女」のような神
8また、ある女が銀貨十枚を持っていて、もしその一枚をなくしたとすれば、彼女はあかりをつけて家中を掃き、それを見つけるまでは注意深く捜さないであろうか。
神にとって私たちは、結婚指輪のようにかけがえのない宝です[⑦]。一部が欠けたとしても、主は「見つけるまで」熱心に探し続けられます。
9そして、見つけたなら、女友だちや近所の女たちを呼び集めて、『わたしと一緒に喜んでください。なくした銀貨が見つかりましたから』と言うであろう。
ここでも「呼び集める」とは、祝いの宴会を意味します。見つけた銀貨以上のお金を使って、共に喜びを分かち合ったのではないでしょうか。
10よく聞きなさい。それと同じように、罪人がひとりでも悔い改めるなら、神の御使たちの前でよろこびがあるであろう」。
ここでも、真実な悔い改めと喜びが結びついています。神に立ち帰ることは、ひと時の戦いはあっても、喜びと平安をもたらします。▽主イエスの話を聞いていた宗教指導者たちは、神の喜びを共に喜ぶのか、冷たく拒むのか、問われています。
■【3.兄弟が罪を犯したなら】
ここまで、神様が「一匹の羊を探す羊飼い」のように、「大切な銀貨を必死で探す女性」のように、罪人を探し求められることを見ました。
クリスチャンは、自分もこのようにして神様に見出されたことを知っています。私たちが主を求める以上に、主ご自身が私たちを探し求めておられます。主に信頼して、御言葉に従いながら、主を待ち望みましょう。
主を信じる私たちは、今日の譬えから、主イエスにどのように応答すればよいでしょうか?――今日の「いなくなった羊」の譬えは、マタイ18:12にも出てきます。この箇所で、主イエスは「兄弟をつまずかせないこと」、「罪を犯した兄弟に対する態度」を教えます。▼今日は、御言葉への応答として、マタイ18章で主イエスが教えられた、罪を犯した兄弟に対する3つの態度を見ていきます。
◇1.忠告すること
第一に、罪を犯した兄弟を戒めることです。
マタイ18:15-16「15もしあなたの兄弟が罪を犯すなら、行って、彼とふたりだけの所で忠告しなさい。もし聞いてくれたら、あなたの兄弟を得たことになる。16もし聞いてくれないなら、ほかにひとりふたりを、一緒に連れて行きなさい。それは、ふたりまたは三人の証人の口によって、すべてのことがらが確かめられるためである。」
罪を犯した相手を戒めることは、愛と労力を必要とします。相手の罪であっても、きちんと対処しなければ、関係性が破壊されてしまいます。日本人は、波風を立てないようにと何も言わずに一人で抱え込んでしまう場合もあります。しかし聖書は、知恵をもって相手に配慮しつつ、率直に指摘して解決するように勧めています。言葉では簡単ですが、実際には信仰と愛の成熟と、多くの祈りが必要です。愛と真理をもって兄弟と向き合う勇気と人間性を持つ者になりたいと願います。
◇2.共に祈ること
第二に、罪を犯した兄弟のために、心を合わせて共に祈ることです。
マタイ18:18-20「18よく言っておく。あなたがたが地上でつなぐことは、天でも皆つながれ、あなたがたが地上で解くことは、天でもみな解かれるであろう。19また、よく言っておく。もしあなたがたのうちのふたりが、どんな願い事についても地上で心を合わせるなら、天にいますわたしの父はそれをかなえて下さるであろう。20ふたりまたは三人が、わたしの名によって集まっている所には、わたしもその中にいるのである」。
これは、どんな祈りの場面にも当てはまる御言葉ですが、文脈的には「罪を犯した兄弟のために祈る」ことを言っています。罪人の悔い改めを喜ぶ神様のために、罪人の滅びではなく、立ち帰って癒されることを求めて、共に祈る者でありたいと願います。
◇3.罪を赦し合うこと
第三に、兄弟の罪を赦すことです。
ペテロが「兄弟が私に罪を犯した時、何回赦せばよいでしょうか」と尋ねると、主イエスは「7回の70倍(つまり、何度でも)赦しなさい」と言われました。 ▽私たち自身、神様が探し出して下さった「迷子の羊」「なくした銀貨」のようなものでした。同じように兄弟が立ち帰ろうとするとき、何度でも赦してあげるようにと、主イエスは命じられます。
◇例話:兄弟との和解
私が神学生だった時に、ある修養会に行きました。そこで、別の神学生や青年たちと同じ部屋になりました。ある時、年上の神学生が、教会に来て日の浅い青年たちと談笑しているうちに、下品な話になりました。私は、これは良くないと感じて、聖書を引用して、思わず大きな声で「下品な冗談を言ってはならない」と言い、その場は解散になりました。後日、先輩伝道師と話していた時に、その神学生の話題になり、その出来事をお話ししました。
そのことがいくつかの経緯があって、相手の神学校の校長先生の耳に入りました。そして、校長先生の指示で、当の神学生本人が、私のところに謝罪に来ることになりました。私は先輩伝道師と一緒にびっくりして、いったいどんな会話になるのかと、緊張していました。例の神学生は、年下の神学生の私を遠方から訪ねて来られ、下品な言葉を使ったことを心から謝罪してくれました。そして、校長先生が指定した御言葉を読んでくれました。私が彼に言ったエペソ5:4の少し前の箇所を引用されました。
エペソ4:25-32「25こういうわけだから、あなたがたは偽りを捨てて、おのおの隣り人に対して、真実を語りなさい。…26怒ることがあっても、罪を犯してはならない。憤ったままで、日が暮れるようであってはならない。…29悪い言葉をいっさい、あなたがたの口から出してはいけない。必要があれば、人の徳を高めるのに役立つような言葉を語って、聞いている者の益になるようにしなさい。…31すべての無慈悲、憤り、怒り、騒ぎ、そしり、また、いっさいの悪意を捨て去りなさい。32互に情深く、あわれみ深い者となり、神がキリストにあってあなたがたをゆるして下さったように、あなたがたも互にゆるし合いなさい。」
彼は謝罪の中で、私が正しかったことを認めてくれました。同時に、校長先生がくださった御言葉は、彼に憤りを抱いていた私に対して、愛をもって柔和に相手の徳を高めるように話すべきことを、優しく諭していました。
校長先生は、よくよく祈って熟慮のうえで、彼を送り出されたと思います。その神学生も、心を開いてご自分のことを打ち明けてくれました。私も先輩伝道師も心を溶かされ、心から彼と和解して、彼に親しみを覚えるようになりました。若い神学生の間にあったわだかまりを放置せず、すぐに神学生を謝罪に遣わして、御言葉をもって和解に導いた校長先生の牧会が、なんと知恵に満ちていたか、こんな牧会者になりたいと思った出来事でした。
主は「一匹の羊を探し求める羊飼い」のように、「大切な銀貨を探し求める女性」のように、一人の罪人の悔い改めを喜ばれます。主に見出された私たちは、互いに心にあるわだかまりを放置せず、愛と配慮のある言葉と態度で戒め合い、互いに赦し、とりなし、心を開いて共に歩むことを、主は願っておられます。
■【まとめ】
私たちの罪を赦し、探し求めてくださる神を知っているならば、私たちも、罪を犯している兄弟たちを立ち帰らせるために、①忍耐強く戒め、②彼らのために祈り合い、③互いに罪を赦し合うべきです。そのような愛と赦しに満ちた共同体として、真実な悔い改めの実がさらに豊かに結ばれていくように、祈りましょう。
「7よく聞きなさい。…罪人がひとりでも悔い改めるなら、悔改めを必要としない九十九人の正しい人のためにもまさる大きいよろこびが、天にあるであろう。」
[①] ルカ5:27-32
[②] ルカ19:1-10
[③] ウィリアム・バークレー「ルカ福音書」聖書註解シリーズ4、p222-224
[④] エゼキエル33:11
[⑤] Robert H. Stein, Luke, The New American Commentary, Vol. 24, 15:8, 13:19など
[⑥] ウィリアム・バークレー、前掲書、p225-226
[⑦] 申命記7:6、14:2、出エジプト19:5、詩篇135:4
注: 使用聖書について:当教会の礼拝では、新改訳聖書2017を使用しています。本サイト上では、著作権に配慮して、口語訳聖書(1954/1955年版)を中心に使用しています。