Ⅰコリント3:7、詩篇37:5「神の恵みの通り良き管として」
2024年1月7日(日)新年礼拝メッセージ
聖書 Ⅰコリント3:7、詩篇37:5
説教 「神の恵みの通り良き管として」
メッセージ 堀部 里子 牧師
【今週の聖書箇所】
だから、植える者も水をそそぐ者も、ともに取るに足りない。大事なのは、成長させて下さる神のみである。
Ⅰコリント3:7
あなたの道を主にゆだねよ。
詩編37:5
主に信頼せよ、主はそれをなしとげ、
おはようございます。遂に新年を迎え、早一週間が経ちました。元旦礼拝を終え、少しゆっくりしていたところに、能登半島で震度7の地震の情報が携帯に入りました。T夫妻がちょうど石川県のご実家に帰省している時でしたのですぐにLINEを送ると、しばらくしてご家族の無事を知らせる返信が来ました。またY君の新潟のご家族も無事でした。しかし死傷者が増えており、祈りを要します。また被災地支援へ向かおうとしていた海上保安庁とJAL航空機の飛行機事故も、想像を絶する出来事でした。新年の最初から災害の知らせに悲しい気持ちで一週間を過ごされた方もいらっしゃると思います。しかし、すぐに救援活動が開始され、日本全国から自衛隊の方々を始め、消防隊、救急車が能登半島に向かいました。そして「ヤマザキパン」のトラックもいち早く支援物資を届けています。痛み、苦しみが発生するところに人々の優しさ、思い、支援が寄せられ、祈りが積もっていきます。
【失望に終わらない】
困難に直面する時、神に信頼を置きたいと思います。良い御計画をお持ちの神を信頼する者には、困難や苦難を祝福に変えてくださるからです。1月2日の朝に読んだ聖書の言葉を紹介します。「このように、わたしたちは、信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストにより、神に対して平和を得ている。わたしたちは、さらに彼により、いま立っているこの恵みに信仰によって導き入れられ、そして、神の栄光にあずかる希望をもって喜んでいる。それだけではなく、患難をも喜んでいる。なぜなら、患難は忍耐を生み出し、忍耐は錬達を生み出し、錬達は希望を生み出すことを、知っているからである。そして、希望は失望に終ることはない。なぜなら、わたしたちに賜わっている聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからである。」(ローマ5:1-5)
苦難が生み出す忍耐が、最後には失望に終わることのない希望を生み出すのだと。その根本にあるのが「神の愛」だというのです。困難に遭遇する時、いろいろな支援や助けの手がありますが、最終的に揺るがない希望を見い出させるものが神の愛だと。ある人は自分の困難に対してこう命じるそうです。「神様が私をお造りになり、私は神様の力で何でも乗り越えることができる。だから困難よ、お前は私に対して無力だ」と。言い換えるなら、神に信頼を置く時、「神が私の味方であるなら、私は何が起こっても恐れない」ということではないでしょうか。
【いのちの水を持ち運ぶ管・使徒パウロ】
さて、今朝は2024年の教会の年間聖句から分かち合っていきたいと思います。今年のテーマは今日のメッセージの題でもある「神の恵みの通り良き管として」です。クリスチャンはよく「私たちを神様の通り良き管として用いてください」と祈ります。「管」はパイプのことです。血管は血液を運び、水道管は水を一つの場所から別の場所へと流しますが、私たちは神様の祝福を持ち運ぶ管・パイプになりたいと思います。去年の教会の年間テーマが「いのちの水を豊かに!」でした。エゼキエル47:12とヨハネ4:14から、いのちの水が流れる川のほとりに植えられた木は、あらゆる果樹が生長して、毎月新しい実をつけると。またイエス様が与えるいのちの水を飲む人はいつまでも決して渇くことがない、との御言葉が掲げられて歩みました。今年はこの「いのちの水」を持ち運び、流して行きたいと思います。
人間の生命活動には水が必須です。それは動物や植物も同じです。山で遭難した人や海で漂流して一週間以上生き延びた人に共通しているのは、飲み水の確保です。しかし、私たちの体は飲み水を飲んでもまた喉が渇く時が来ます。それは私たちの心と魂も同じです。私たちの心と魂も渇きます。イエス様は「わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠の命に至る水が、わきあがるであろう」(ヨハネ4:14)とおっしゃいました。
使徒パウロはイエス様と劇的な出会いをする前は、家柄も血筋も良く、ユダヤ教の最高の教育を受けたエリートで熱心なクリスチャンの迫害者でしたが、ある時を境に、熱心なキリストの教え・福音の伝達者となりました。パウロは旅をして、各地で「いのちの水」を持ち運び教会を建て上げて行きました。多くの苦労があったと思います。そしてパウロは紀元55年頃にコリントを訪れました。コリントは当時、とても栄えていたギリシャの港町で、貿易も盛んでしたから物も人も流通する町で活気がありました。コリントの町の人々にも福音を伝え教会を建てました。そして教会の土台と基礎を据えると、コリントの教会を同労者のアポロに託して、パウロ自身は次の町へと伝道旅行を続けました。教会を一つ開拓することはとても大変なことですが、教会開拓の賜物がある人は教会を次々と建てて、ある程度教会が大きくなると教会を次の人に託す牧師が実際にいます。アポロはパウロが開拓した教会の土台の上に、教会を一つの組織として整えていきました。しかし、コリントの教会の中にいろいろな問題や対立が起こり、そのことがパウロの耳にも入りました。パウロは分派が起こっていることを聞いて嘆き、コリントの教会へ手紙を書き送りました。
「すなわち、ある人は「わたしはパウロに」と言い、ほかの人は「わたしはアポロに」と言っているようでは、あなたがたは普通の人間ではないか。アポロは、いったい、何者か。また、パウロは何者か。あなたがたを信仰に導いた人にすぎない。しかもそれぞれ、主から与えられた分に応じて仕えているのである。わたしは植え、アポロは水をそそいだ。しかし成長させて下さるのは、神である。」(3:4-6)
パウロは自分もアポロも「神のために働く同労者」であり、一つとなって働く者であると認識しています。
【働き続ける神】
「コイノニア・クリスチャン・チャーチ」は今年の5月で教会創立44周年を迎えます。王子の地に松下先生が教会を開拓され、働きを続けて来られました。2020年に私が転任してきて、明子先生が主任牧師になられ、その後私へとバトンタッチがなされました。「コイノニア・クリスチャン・チャーチ」という名前は、やがて二つ目の教会が開拓されたら、その名前は教団のような役割をするのだと松下先生はおっしゃってきました。そして実際に新たに「福音チャペル・道草~いこいのみぎわ~」を開拓されました。その時以来、週報の表紙に括弧書きで書かれている(王子福音キリスト教会)の名前が存在感を増してきました。幸い、コイノニアではコリントの教会のような対立、分派ということはありませんが、これから歩んでいく中で悪しき事柄に足を引っ張られないように気を付けなければいけないと思います。
去年は、教会の中に変化がありました。教会学校が再開したことはその一つです。子どもたちの成長には目を見張るものがあります。顔つきもしゃべり方も随分と変わってきました。なぜ教会学校が再開できたのか、それは土台が据えられていたからです。全く新しく始めるのでなく、以前に始められていた教会学校の歩みがあったからこそ、その土台の上に再出発することができました。祈りが積まれていました。パウロはこう言っています。
「わたしは植え、アポロは水をそそいだ。しかし成長させて下さるのは、神である。だから、植える者も水をそそぐ者も、ともに取るに足りない。大事なのは、成長させて下さる神のみである。植える者と水をそそぐ者とは一つであって、それぞれその働きに応じて報酬を得るであろう。わたしたちは神の同労者である。あなたがたは神の畑であり、神の建物である。」(6-9)
原文のギリシャ語で、「植える」と「水を注ぐ」の動詞はすでに過去に完了したことを表す時制(アオリスト)になっています。でも「成長させた」という言葉は未完了時制で、継続性があります。ここから分かることは、植える、水を注ぐことは人が担わないといけない事柄で、いつか終わりが来ますが、教会を変化させ成長へと導く神は終わりなく働かれるのだということです。その時代、時代に植える者、水を注ぐ者と役割を担う者がありますが、それぞれ働きの終わりがあります。しかし、神は働き続け、神様の御計画を推し進めてくださる方なのです。良い時も良くない時もいろいろな時期がありますが、人間は人間の役割を成し、神様が事を運んでくださるのです。私たちは「神様の恵みを流す通り良き管」となるために、管が詰まらないようによく手入れや掃除をし、罪を赦しきよめていただき続けたいと思います。
【マンゴー農家の父とのやり取りから】
私の父は沖縄でマンゴー農家をしていて、大部分の仕事を父が担い、母は父を献身的にサポートしています。ある年は2~3つの台風が立て続けに沖縄を通過した時があり、ほとんどのマンゴーが強風と豪雨で地面に落ちてしまったそうです。父を励まそうと電話をすると、「うん、マンゴーは壊滅的だよ。わったー(私たち)だけでなくて、沖縄の農家はみんな大変さー。でも仕方ないさー、台風には勝てないからね。また来年頑張るよー。お母さんの方がショック受けて、落ちたマンゴーをどうにか食べられないか県庁に電話したりしてるよ」とのことでした。父の声は、来年を見据えた前向きな声で安心しました。
毎年天候によって、マンゴーの出荷量が変化するのですが、父は自分ができることは精一杯して、後は天にお任せする、そのようなスタンスで頑張っていることが分かりました。父はマンゴーの苗を植え、水を注ぎ、肥料をやり、育てた作物の収穫を心待ちにします。母は父のお弁当を作って運び、雑草を抜きます。両親は力を合わせて働きますが、実際にマンゴーの命を育み、成長させてくださる方は神様です。父はクリスチャンではないですが、自分の力が及ばない次元があり、それは神の領域であることを理解しているようです。私たちは時が良くても悪くても、自分の役割を担い、自然界も支配する神様に全てを委ねる生き方を続けて行きたいと思います。
【主に信頼する】
パウロとアポロはそれぞれ異なる役割を果たしながら、同じ働きをしたのであって競争をしたわけではありませんでした。ゆだねられた働きは違っていても、神の教会を建て上げるために必要なことを成し、共に恵みに与ったのです。大切なことは中心をどこに置くのかではないでしょうか。パウロはキリストに中心を置き、常に「キリストの十字架と復活」を語りました。今年の元旦礼拝で舜牧師より語られたことは、主を信頼して、祈って進む信仰の大切さでした。誰かが次のように言いました。「何を新しく始めるかよりも、だれと一緒に新しく始めるのかが重要です」と。今年の教会のもう一つの年間聖句を読みます。
「あなたの道を主にゆだねよ。主に信頼せよ、主はそれをなしとげ、…」詩篇37:5)
様々な働きがありますが、主に信頼し、主が最善を成し遂げてくださることを感謝して待ち望みたいと思います。
【先生、できません】
私が小学校低学年の時の話です。私はクラスの「ヘチマの観察係」に任命されました。観察係の役割は、ヘチマの成長を観察し、スケッチをして、先生に報告することでした。みんながそれぞれグループでヘチマの種を蒔き、水を注ぎました。そして私は定期的にスケッチをして担任の先生に報告をしました。ヘチマはどんどん成長して、スケッチブックの一枚のページに絵が収まらなくなってきました。どうにか工夫して絵を描いていましたが、ある時、私は「もう絵が描けない!」と苦しくなり、先生に言いに行きました。「先生、私はもう観察係はできません。ヘチマがどんどん成長して、大きくなりすぎてもうヘチマの絵が一つのページに収まりません。観察係を辞めたいです。どうしたらいいですか」と。私は泣きそうになりながら先生に訴えました。すると先生は私の目を見てこうおっしゃったのです。「里子さん、先生はね、あなたがこう言ってくるのを待っていたんです。正直にできないって言ってくれるのを。そういう時が来ると思っていました。」私は担任の先生を信頼して、何でも正直に相談していいのだと嬉しくなったのを覚えています。先生は「ヘチマの途中は省略して描いて良い」と許可を与えてくれました。私は自分の役割が全うできないと思い、悩んでいたのですが、先生はそれを私から言うのを待っていたのです。
私たちと神様の関係も同じではないでしょうか。私たちの植えるという役割、水を注ぐという役割を遂行できなくなる時があります。しかし、神様に正直に「神様、できません」と申し上げていいのです。「通り良き管」とはそのような正直さ・純粋さ、そして神を信頼する心ではないでしょうか。イエス様は私たち一人ひとりと共に歩むために来られました。また私たちの弱さや罪を担うために十字架に架かってくださった方です。この豊かな恵みを持ち運ぶ管でありたいと思います。祝福がお一人ひとりの上に豊かにありますように。