1列王記19:9-15「主は静かに語られる」

聖書 1列王記19:9-15
説教 「主は静かに語られる」
メッセージ 堀部 里子 牧師

シナイ山 Photo by Abdulrhman Salem, CC BY-SA 4.0 , via Wikimedia Commons

9その所で彼はほら穴にはいって、そこに宿ったが、主の言葉が彼に臨んで、彼に言われた、「エリヤよ、あなたはここで何をしているのか」。10彼は言った、「わたしは万軍の神、主のために非常に熱心でありました。イスラエルの人々はあなたの契約を捨て、あなたの祭壇をこわし、刀をもってあなたの預言者たちを殺したのです。ただわたしだけ残りましたが、彼らはわたしの命を取ろうとしています」。11主は言われた、「出て、山の上で主の前に、立ちなさい」。その時主は通り過ぎられ、主の前に大きな強い風が吹き、山を裂き、岩を砕いた。しかし主は風の中におられなかった。風の後に地震があったが、地震の中にも主はおられなかった。12地震の後に火があったが、火の中にも主はおられなかった。火の後に静かな細い声が聞えた。

Ⅰ列王記19:9-12

26しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってつかわされる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、またわたしが話しておいたことを、ことごとく思い起させるであろう。27わたしは平安をあなたがたに残して行く。わたしの平安をあなたがたに与える。わたしが与えるのは、世が与えるようなものとは異なる。あなたがたは心を騒がせるな、またおじけるな。

ヨハネ14:26-27

エリヤの登場

おはようございます。今朝は預言者エリヤを通して学びたいと思います。エリヤにはモーセやエレミヤのように召命の記事がありません。エリヤはⅠ列王記17:1で初登場します。「ギレアデのテシベに住むテシベびとエリヤはアハブに言った」。

家系も生い立ちの説明もなく突然聖書に登場するのです。エリヤが活動したのは北王国イスラエルの王アハブの時代です。アハブ王といえば、北イスラエル王国では歴代の王様の中でも特に悪名高い王様で、異邦人の奥さんのイゼベルと結婚して、バアル礼拝を国に浸透させました。「オムリの子アハブは彼よりも先にいたすべての者にまさって、主の目の前に悪を行った。」(16:30)

つまり、エリヤが活躍した時代は、イスラエルの信仰が崩壊しつつあり、神を神としなくなる霊的に暗闇の時代でした。エリヤという名前は「主はわが神」という意味があります。そのような時代に神様は、エリヤを立てられたのです。

エリヤの働きとエリヤに臨んだ神の働き

エリヤは「わたしの言葉のないうちは、数年雨も露もないでしょう」(17:1)という預言を一番最初にします。バアル神が「嵐や雨の神」と考えられていた時代に、神様は干ばつを通して雨を支配しているのはバアルではなく主であることを示されました。

エリヤはケリテ川で神が遣わした烏によって養われます。また神様は、エリヤを通して、異邦人のやもめの家の壺の粉と油を尽きさせず、やもめの息子を生き返らせる奇跡を行いました。

そして、18章でエリヤはカルメル山において、バアルの預言者450人と対決をします。「祭壇に火を降らせる神こそが、真の神である」と宣言し、対決に圧倒的な勝利します。しかし、その大勝利の直後、エリヤは燃え尽きてしまいます。引き金となったのは、アハブ王の妻イゼベルの言葉でした。「私が、明日の今ごろまでに、おまえのいのちを取る」と宣言したので、エリヤは南のベエル・シェバまで逃亡したのです。私は、エリヤは信仰を失ったのではないと思います。弱さを覚えたかもしれませんが、それ以上に恐れと孤独の中で疲れ果ててしまったのだと思います。

「主よ、もはや、じゅうぶんです。今わたしの命を取ってください」(19:4)。エリヤはイゼベルの宣戦布告を受けたとき、もうこれ以上、戦う力が残っていなかったのでしょう。本当に死にたいというより、「もう一人で頑張れません」という魂の叫びをあげたのだと思います。長期間に亘ってアハブ王と対立し、バアルの預言者450人との戦いがありました。もしかするとこの勝利の後に、エリヤはアハブ王が悔い改めて「霊的なリバイバルが起こるのでは」との淡い期待があったのかもしれません。または、イスラエルの国自体が良い方向へ向かうのではという期待も大きかったのではないでしょうか。

アハブ王は悔い改めるどころか、夫婦で結託してエリヤの命を狙ってきました。エリヤは、常に孤独で責任を独りで負っており、すべての事柄がエリヤを消耗させていました。期待が外れると深い絶望に陥ることは容易に想像できます。私たちは、信仰を持っていても燃え尽きることがありますし、鬱になることもあります。エリヤも挫折し、死の恐れで逃げ惑う弱い一人の人間でした。

私たちも同じではないでしょうか。以前知り合った若い牧師夫妻が近年、心身ともに燃え尽きてしまい、療養しておられました。しかし最近牧会の現場に戻られたようです。お元気になられたことを知り、嬉しく思いました。

シナイ山(ホレブ山)の夕日

神はエリヤを休ませられた

神様は疲れ切ったエリヤをすぐに叱咤激励しませんでした。クリスチャンは弱くなると、「自分の信仰が足りないからじゃないか」とか、「弱音を吐いてはいけないのでは」と思うことがあると思います。神様はエリヤにまず御使いを遣わし、パンと水を与え、眠らせました。そして触れてくださっています。「天の使が彼にさわり、「起きて食べなさい」と言った…」(19:5)。一度だけでなく、二度目も目を覚ますまでエリヤに触れているのです。触れることは、慰めを意味します。ここに神様の憐みを見ます。

コロナ禍では、三密になってはいけないと、距離を取ることを余儀なくされました。訪問しても手を取ってお祈りをすることも許されず、歯がゆい思いをしました。「触れること」は人の温かみを感じ、安心感を与えてくれます。

御使いが弱ったエリヤに触れてくださっているくだりを読むとき、私自身が主から触れられている思いがし、心が温かくなります。

何でもすぐに「霊的な問題だ」と片づけるのでなく、神様は「まず食べなさい、飲みなさい、休みなさい」とおっしゃるお方なのです。「彼は起きて食べ、かつ飲み、その食物で力づいて四十日四十夜行って、神の山ホレブに着いた。」(19:8)

山で主と対峙するエリヤ

ホレブ山はモーセが神様と出会って律法を授与されたシナイ山です。エリヤはホレブ山に導かれました。

9その所で彼はほら穴にはいって、そこに宿ったが、主の言葉が彼に臨んで、彼に言われた、「エリヤよ、あなたはここで何をしているのか」。10彼は言った、「わたしは万軍の神、主のために非常に熱心でありました。イスラエルの人々はあなたの契約を捨て、あなたの祭壇をこわし、刀をもってあなたの預言者たちを殺したのです。ただわたしだけ残りましたが、彼らはわたしの命を取ろうとしています」。(9-10)

エリヤよ、あなたはここで何をしているのか」と神様はエリヤに問いかけましたが、エリヤに心の内を吐き出させるように導かれたのだと思います。神様はエリヤが持っている情熱、悔しさ、孤立感、死の恐怖をご存じでした。だからこそ、その質問の背後には「わたしはあなたのすべてを知っているよ。あなたをここまで回復させたのはわたしだ。さあ、一緒に次のステップに行こうと思うが用意はいいか」という意味を込めたのだと思います。

皆さんが深い絶望の中にあるとき、自ら立ち上がれないとき、神様はどのように慰めてくださるでしょうか。

11主は言われた、「出て、山の上で主の前に、立ちなさい」。その時主は通り過ぎられ、主の前に大きな強い風が吹き、山を裂き、岩を砕いた。しかし主は風の中におられなかった。風の後に地震があったが、地震の中にも主はおられなかった。12地震の後に火があったが、火の中にも主はおられなかった。火の後に静かな細い声が聞えた。(19:11-12)

主は通り過ぎられ」と翻訳されたヘブル語を見ると、「見よ、主が通り過ぎられる」です。主が目の前を正に通り過ぎておられる姿が見えるようです。大風の中にも地震の中にも火の中にも「主はおられなかった」と。旧約の時代では激しい風や地震、火を通して神様はご自分を顕現ことが多かったのですが、それらの中には主はおられませんでした。

しかし、かすかな細い声が聞こえてきました。エリヤは外套で顔を覆って、外に出て洞穴の入口に立ちました。外套で顔を覆ったのは神を見て死ぬことを怖れたからです。二回目に主を質問されました。これはかすかな細い声でした。「エリヤよ、あなたはここで何をしているのか」「わたしは万軍の神、主のために非常に熱心でありました。イスラエルの人々はあなたの契約を捨て、あなたの祭壇をこわし、刀であなたの預言者たちを殺したからです。ただわたしだけ残りましたが、彼らはわたしの命を取ろうとしています」(Ⅰ列王記19:14)。

エリヤが必死で訴える言葉の中に、孤独感を感じるのは私だけでしょうか。エリヤは自分がしたことを述べ、またイスラエルの人々があまりに不信仰だったのでこのような結果を招いているのだと思っていたでしょう。

シナイ山 Abdulrhman Salem, CC BY-SA 4.0 , via Wikimedia Commons

一歩を踏み出す

しかし、神様はアハブ王やイゼベル、そしてイスラエルの民のことを聞いたのではありませんでした。エリヤ自身のことを聞いていました。エリヤの「アイデンティティと使命」について、「ここでこのままでいいのか。次の一歩を一緒に踏み出さないか」と招きの手を神様から差し出されたのだと思います。

主は彼に言われた、「あなたの道を帰って行って、ダマスコの荒野におもむき、ダマスコに着いて、ハザエルに油を注ぎ、スリヤの王としなさい。(15)

神様の次の指示は、過去を振り返ったりすること以上に、前へ進むための具体的な事柄でした。

エリヤが洞穴の入口で神様と出会う姿は、モーセが宿営の外にある会見の天幕で神様と出会う場面に似ています。宿営の外の聖所は社会的階層など、身分の区別がないものとし、新しい共同体を誕生させる力をもたらしていると言われています。その意味でエリヤは、モーセと同じように新しい一歩をホレブの山で踏み出しました。

エリヤの問題は外の環境ではありませんでした。主に対面し、主の前に出ることでした。そしてなおも主を知ること、そして新しく主の働きへ戻るために整えられることでした。

エリヤの問題は外の状況ではありませんでした。心の中にありました。モーセも(民数記11:15)荒野の旅路で、不平や恨みを民にぶつけられて大きなストレスを抱え、殺して欲しいと願いました。パウロも(ピリピ1:23)主と共にいる方がましと思いました。

エリヤも死ぬことを願いましたが、「あなたは決して孤独でない。」「七千人を残す」(18)と神様は言われました。疲労と恐れ、孤独感により現実を正しく視野が狭くなっていたのかもしれません。しかし、神様の静かな声を聞いたとき、再び使命へ遣わされていきました。エリヤを取り巻く状況は全く変わっていません。アハブ王もいます、イゼベルもいのちを狙っています。しかしエリヤ自身が変えられました。イエス様は弟子たちに言いました。「わたしは平安をあなたがたに残して行く。わたしの平安をあなたがたに与える」と。弟子たちも不安の中にいました。イエス様が十字架へ向かわれるからです。未来が見えず、恐れがあり、心が揺れ動く状態の中で、弟子たちにイエス様は「平安」を約束されました。エリヤはホレブ山で静かな声を聞きましたが、私たちは聖霊によって主の声を聞きます。神様は聖書の言葉をとおして、祈りの中で、礼拝の中で、心に確信を与えてくださいます。「私だけだ、限界だ、何も変わらない」と思うことがあるかもしれません。しかし、私たちの理解よりも大きく働いておられる神の御計画に委ねたいと思います。そして、私たちも必ずしも神とは奇跡の中でなく、日常の静かなささやきの中で出会うのかもしれません。