使徒の働き5:27-32「誰に従うのか」
聖書 使徒の働き5:27-32
説教 「誰に従うのか」
メッセージ 堀部 里子 牧師

29これに対して、ペテロをはじめ使徒たちは言った、「人間に従うよりは、神に従うべきである。30わたしたちの先祖の神は、あなたがたが木にかけて殺したイエスをよみがえらせ、31そして、イスラエルを悔い改めさせてこれに罪のゆるしを与えるために、このイエスを導き手とし救主として、ご自身の右に上げられたのである。32わたしたちはこれらの事の証人である。神がご自身に従う者に賜わった聖霊もまた、その証人である」。
使徒の働き5:29-32
15 聞け、勝利の喜ばしい歌が正しい者の天幕にある。
詩編118:15-20
「主の右の手は勇ましいはたらきをなし、
16 主の右の手は高くあがり、
主の右の手は勇ましいはたらきをなす」。
17 わたしは死ぬことなく、生きながらえて、
主のみわざを物語るであろう。
18 主はいたくわたしを懲らされたが、
死にはわたされなかった。
おはようございます。イースターを越えて、今日もご一緒に礼拝できることを感謝します。
<自分で決断する>
新年度に入り、新しい環境で毎日を過ごされている方々もいらっしゃると思います。私の姪が高校一年生になりました。彼女は小学校と中学校でバスケットボールをしてきたので、高校でもバスケを続けたいと入部しました。しかし、朝練が6:00から毎日あることで、部活を続けることを迷ったようです。家から学校までの通学時間が一時間以上もあり、お弁当を作る母親を含め、彼女を取り巻く家族の朝の生活スタイルが変わることになります。一日だけ朝練に参加した姪は、自分でいろいろ考え、周りの大人からアドバイスを聞こうと思ったのでしょう。私にも電話をして来ました。私自身も高校時代の通学時間が長かったので、自分の経験から私なりのアドバイスをして、最後に一緒にお祈りをしました。電話を切る直前に彼女が言ったことが印象に残りました。「お父さんがね、私がどんな決断をしても尊重する、と言ってくれた」と嬉しそうに話してくれたのです。その後、彼女はきちんと部活の先生や先輩、同級生たちに、自分の言葉で話しをしたそうです。すると勘違いや誤解もあったようで、退部でなく休部をすることに決めたようです。
どの道に進んでも覚悟が必要です。彼女は周りの大人や先輩の意見をたくさん耳にしたと思いますが、最終的に決断するのは本人です。失敗してもいいのです。進んだ後に引き返してもいいのです。私は姪の性格を知っている者として、また人生の先輩として「こうしなさい。これはしないでおいてね。」と言いたくなりますが、本人が自分の意志で決断できるように、「私はこう思うよ」と言い、祈って見守ることを教えられました。

誰に従うのか?
今朝は「誰に従うのか」というタイトルが掲げられましたが、誰でも様々な決断を迫られるときがあります。クリスチャンなら神様の声に従うことは当然だと思われるかもしれません。でもなぜ神様に従うのでしょうか。従うとどうなるのでしょうか。また従いたくないときはどうしたらよいのでしょうか。聖書の言葉から共に読み取って行きたいと思います。
皆さんは、こうした方がいいと分かっているのに、できない時はどんな時でしょうか。言うべきことを言えないとか、正しいと分かっていても空気を読んで沈黙するとか、神さまより人の目を優先してしまうことはありませんか。実はそれは根底に「誰に、または何に従っているか」の問題が含まれています。よく「自分の心の声に耳を傾けなさい」と言われますが、突き詰めてみると「なぜ私はこのようなことを求めているのか」に行きつくと思います。
私たちの人生には、二つの声があります。①人の声(評価、圧力、常識、経験)、②神の声(真理、命、召し)。大事なことは、人の声と神の声と「どちらが正しいのか」でなく、「あなたはどちらに従うのか」です。

1.人に従うより、神に従う
ペテロは捕らえられ、最高法院の中に立たされ、責められるという、厳しい状況の中にいました。大祭司が「あの名を使って教えてはならないと、きびしく命じておいたではないか。それだのに、なんという事だ。エルサレム中にあなたがたの教を、はんらんさせている。あなたがたは確かに、あの人の血の責任をわたしたちに負わせようと、たくらんでいるのだ」(5:28)と尋問したとき、ペテロは何と答えたでしょうか。「人間に従うよりは、神に従うべきである」(5:29)とはっきりと言いました。ペテロは大祭司に向かって「あなたに私は従いません」と言いませんでした。「人間に従うよりは、神に従うべきである」(5:29)と言い、簡単に福音を語ることを辞めなかったのです。なぜでしょうか。一度はイエス様を否み、逃げたペテロはどこからこのような力が湧いてきたのでしょうか。ペテロにとって、「さあ行きなさい。そして、宮の庭に立ち、この命の言葉を漏れなく、人々に語りなさい」(5:20)と命じられた神様の言葉に従うことが、何よりも大切でした。一度、イエス様を否み、離れたからこそ、戻って来たときに、「これからは神に従って生きます」という気持ちに至ったのだと思います。どのような状況に置かれていても、神様に信頼することは私の決断にかかっています。そして、神様に従う人生は最後まで続きます。
私たちは毎年、年齢を重ねますが、「私はもう十分にやってきた、これから何ができるだろうか」と思うことはないでしょうか。できることがあります。「キリストの証人として生きること」です。聖書は私たちは最後まで、キリストの証人なのだということを語っています。「キリストの証人」とは何でしょうか。証人とは、何か事柄について事実であることを証言する人のことですが、イエス様が昇天される前に弟子たちに残した言葉を思い出します。イエス様の言葉の中に「わたし(キリスト)の証人」という言葉が出てます。
「ただ、聖霊があなたがたにくだる時、あなたがたは力を受けて、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、さらに地のはてまで、わたしの証人となるであろう」(使徒の働き1:8)。証人という言葉ですが、ギリシャ語では「殉教者」という言葉が使われています。ですから、「キリストの証人」はキリストが十字架に架かり、死んで三日目によみがえった神の子であることが事実だと命がけで証言し続ける人です。キリストの証人が大切にすることは何でしょうか。
2.私たちが証しする内容
神に従うことを選んだペテロは、何を語ったのでしょうか。
「30わたしたちの先祖の神は、あなたがたが木にかけて殺したイエスをよみがえらせ、31そして、イスラエルを悔い改めさせてこれに罪のゆるしを与えるために、このイエスを導き手とし救主として、ご自身の右に上げられたのである」(5:30-31)。ペテロはシンプルに、イエス様が救い主であり、よみがえられたと語りました。ペテロが神の言葉に従った理由は、単に個人的な信念によるのでなく、「神がイエス・キリストをよみがえらせた事実」を指針としたからです。命令だからでなく、神が救い主だからです。神が遠い存在でなく、癒し主であり、歴史を導く方であり、ペテロはこの方に従いたいと思ったからです。とてもシンプルではないでしょうか。人は複雑に考えますが、私たちが持つメッセージはシンプルで良いと私は思います。それは、「イエス様は生きておられる、私を救ってくださった」ということです。
思いがけない祈りの機会
私が関わっている家のおばあちゃんが入院されました。娘さんが入院中のお母さんと電話で繋いでくれて、「お母さん、里子さんは牧師さんだからこれからお祈りの言葉を告げます。しっかり聞いてね。」といきなり振られてびっくりしました。この親子の方々とは折に触れて「君は愛されるため生まれた」の曲を歌ってお祈りしていました。私は「あなたは神様に愛されています」というシンプルなメッセージが届いたらと願っていたので、ご家族が大変なときに一緒にお祈りができる機会を与えられて感謝でした。神様は、いつでも証しをする機会を私たちに与えてくださっていると思います。自分が大切にしていることをシンプルに一つでも伝えられたら嬉しいです。

3.私たちは証人
ペテロは続けて語りました。「わたしたちはこれらの事の証人である。神がご自身に従う者に賜わった聖霊もまた、その証人である」(5:32)。証人とは、難しいことをする人ではなく、自分が知っていることを、そのまま伝える人です。ペテロは脅しの中でも、語ることを辞めませんでした。都合のいい時だけ従うのでなく、恐れの中でもペテロは神様に従うことを選び取りました。神様に従うとどうなるのでしょうか。すぐに祝福が与えられるのではないかもしれません。ペテロたちはむしろ迫害を受けましたが、一方で福音は拡大していきました。
迫害下にある教会は、統計的にも消滅するのでなく、小さくとも信仰の灯が燃え続け、不思議と成長・拡大をすることがあります。中国でも北朝鮮でも教会は弾圧を受けていますが、クリスチャンが絶滅するどころか、増えているという報告がされています。日本でもかつて、長崎のキリスト教弾圧下の信徒たちも、隠れて信仰を持ち続けていました。
「家造りらの捨てた石は 隅のかしら石となった。23これは主のなされた事で われらの目には驚くべき事である。」(詩編118:22-23)「捨てた石」とは、イエス様のことを現わしています。人には捨てられた石だったかもしれません。しかし、要の石となり、イエス様の十字架と復活を経て福音は拡大していき、日本にまで福音が届きました。神様に従うことは必ずしも、楽になるとは限りません。しかし最終的には、神様の計画の中に参与され、意味ある人生を歩み、神の勝利を与えられるのです。
映画「ハクソー・リッジ」から
ここで、ある一人のクリスチャンの話をしたいと思います。実話で「ハクソー・リッジ」(Hacksaw Ridge 2016)という映画にもなりましたが、第二次世界大戦の沖縄戦を舞台に、武器を持たずに75人の兵士の命を救った衛生兵デズモンド・ドス(Desmond Doss)という人です。彼はアメリカ軍の1人として沖縄での地上戦に参加しましたが、「人を殺してはならない」という聖書の教えに従い、武器を持たない衛生兵として働くことを選びました。周りからは信仰を理解されず、いじめを受けたり、上司からも厳しく扱われたりしました。それでも彼は、人に従うより、神に従う道を選びました。そして激しい戦いの中で、一人、また一人と傷ついた兵士を助け続けました。崖の上から負傷した兵士をロープで降ろしながら「主よ、もう一人助けさせてください」と祈りました。結果として75人の命を救いました。
ドスは、神様に従い、与えられた場所で、また自分にできる形で証しをしました。戦争が終わり国から表彰をされ、当時の仲間がドスの信仰の姿を証言しています。ドスは牧師ではありませんでした。自分では大きな働きをしたとも思っていませんでした。でも、戦場での生き方そのものが証しでした。
私たちはどうでしょうか。戦場に行くことはないかもしれません。人の命を助けるなど大きなことはできないと思うかもしれません。しかし、ドスが「もう一人だけ助けさせてください、もう一人、もう一人」と祈ったように、「もう一度挑戦させてください。もう一度祈ろう、もう一言、励ましの言葉をかけよう、もう一歩前進しよう」そのもう一歩が、神様の前で尊い証しになるのだと信じます。私たちは最後までキリストの証人です。そしてその先には、主とお会いする喜びが待っています。
神に従いたくない時
一方で、神様に従いたくない時はどうしたらよいのでしょうか。ペテロのことを思い出してください。ペテロ自身、イエス様の弟子でありながら、自分流の信仰で歩んでいました。イエス様をいさめたり、否んだりと。否んだ後でもイエス様のことを気にして様子をうかがっていました。そのような信仰の歩みを経て変化していったのです。従いたくないと思うとき、すべてを「できません」と拒むのでなく、正直に「従いたくないです」と神様に申し上げてください。そして神様が何をしてくださったのかを静かに思い出してください。全部は従えなくても、小さく従うことはどうでしょうか。一歩の従順を試してみませんか。神様に従うことは、自分の意志の力だけでなく神様の恵みが必要です。使徒の働き5:32に「神がご自身に従う者に賜わった聖霊もまた、その証人である」とあります。ドスが戦いの最中で、「主よ、もう一人、もう一人のために、愛を示させてください」と祈ったように、私たちも「小さな一歩を、どなたか一人のために」差し出せたらと思います。
フィリピンのMさんの一言で
今日はフィリピンから来日中のMさんが、滞在中、最後の礼拝です。Mさんは里親であるYさんが昔、教会に行ったことがあるとは知らずに、いつも祈りながら「お父さん、教会に行ってください」と、聖書の御言葉を添えて、手紙を書き続けたそうです。この一言は、Yさんの心に深く留まり、Yさんは当教会の看板を見て礼拝に来るようになりました。最後の一息まで、それぞれが聖霊に導かれるままに、神様に従う者でありたいと思います。

