ルツ記1:14-22「主の翼の下に生きる」

聖書 ルツ記1:14-22
説教 「主の翼の下に生きる」~帰る家を見つけた人々~
メッセージ 堀部 舜 牧師

1:14彼らはまた声をあげて泣いた。そしてオルパはそのしゅうとめに口づけしたが、ルツはしゅうとめを離れなかった。

15そこでナオミは言った、「ごらんなさい。あなたの相嫁は自分の民と自分の神々のもとへ帰って行きました。あなたも相嫁のあとについて帰りなさい」。16しかしルツは言った、「あなたを捨て、あなたを離れて帰ることをわたしに勧めないでください。わたしはあなたの行かれる所へ行き、またあなたの宿られる所に宿ります。あなたの民はわたしの民、あなたの神はわたしの神です。17あなたの死なれる所でわたしも死んで、そのかたわらに葬られます。もし死に別れでなく、わたしがあなたと別れるならば、主よ、どうぞわたしをいくえにも罰してください」。18ナオミはルツが自分と一緒に行こうと、固く決心しているのを見たので、そのうえ言うことをやめた。

19そしてふたりは旅をつづけて、ついにベツレヘムに着いた。彼らがベツレヘムに着いたとき、町はこぞって彼らのために騒ぎたち、女たちは言った、「これはナオミですか」。20ナオミは彼らに言った、「わたしをナオミ(楽しみ)と呼ばずに、マラ(苦しみ)と呼んでください。なぜなら全能者がわたしをひどく苦しめられたからです。21わたしは出て行くときは豊かでありましたが、主はわたしをから手で帰されました。主がわたしを悩まし、全能者がわたしに災をくだされたのに、どうしてわたしをナオミと呼ぶのですか」。22こうしてナオミは、モアブの地から帰った嫁、モアブの女ルツと一緒に帰ってきて、大麦刈の初めにベツレヘムに着いた。

ルツ記1:14-22

4:13こうしてボアズはルツをめとって妻とし、彼女のところにはいった。主は彼女をみごもらせられたので、彼女はひとりの男の子を産んだ。14そのとき、女たちはナオミに言った、「主はほむべきかな、主はあなたを見捨てずに、きょう、あなたにひとりの近親をお授けになりました。どうぞ、その子の名がイスラエルのうちに高く揚げられますように。15彼はあなたのいのちを新たにし、あなたの老年を養う者となるでしょう。あなたを愛するあなたの嫁、七人のむすこにもまさる彼女が彼を産んだのですから」。16そこでナオミはその子をとり、ふところに置いて、養い育てた。17近所の女たちは「ナオミに男の子が生れた」と言って、彼に名をつけ、その名をオベデと呼んだ。彼はダビデの父であるエッサイの父となった。

ルツ記4:13-17

主の翼の下で」:ニワトリとひな

以前のアパルームに、こんなエピソードが載っていました。

ひと月ほど前、私の飼っているニワトリの1羽がいなくなりました。探しましたがどこにも見当たりませんでした。そのニワトリは、人なつっこく、よく卵を産んだので、私はとても悲しくなりました。2週間後、仕事に出掛けようとすると、なんと彼女は玄関の入口に座っていたのです。撫でようとかがみながら、私を驚かせたことを少し叱ってやりました。すると、小さな黄色い頭が彼女の羽からひょっこりのぞきました。その小さな生き物は、首をかしげながら、私に向かって「ピッ」と鳴きました。そして、次の頭が飛び出しました。そしてまた次です。全部で5匹のひよこが母鳥の羽の優しい覆いによって、温かく安全にくるまれていました。私はひよこたちを集めて安全な場所に移し、餌をやりました。その後数日、私は母鳥が注意深く、忍耐強く小さなひよこたちを世話する様子を見るのが楽しみでした。寝る時間になると、彼女は座って羽を広げ、その下でひよこたちを休ませるのでした。

彼女が羽の中にかくまうために子供たちを呼び寄せるたびに、私は詩編91編を思い出しました。私たちは、神様が与えてくださる逃れ場に平安と休息とを見出すことができます。どんな恐れや疲れが私たちに重くのしかかっていても、神様は、私たちがその招きに応えて御翼の下に身を寄せ、保護と平安を得ることを、いつも待っていてくださいます。しかし私たちは、そのことをしばしば忘れてしまうのです。[①]

ルツ記2:12で、ボアズがルツを祝福した言葉として、「どうぞ、イスラエルの神、主、すなわちあなたがその翼の下に身を寄せようとしてきた主からじゅうぶんの報いを得られるように」という言葉が出てきます。今日は、この「御翼の下に身を寄せる」と、ルツ記のメインテーマである「買い戻し」という2つの言葉に注目して、ルツ記を読んでいきます。

ルツ記の背景

教会暦

ペンテコステの時期に、ユダヤ教では「七週の祭り」シャブオットが祝われます。この時、シナゴーグでは、ダビデ王を記念してルツ記が朗読されるそうです。ルツはダビデの曾祖母に当たります。▽七週の祭りは小麦の収穫祭でもあり、ルツ記の季節と一致します(大麦~小麦の収穫期)。

新緑のイメージに合うのがルツ記です。▼私は今年の教会暦のこの期間、ダビデ物語を読んでいきたいと思っていますが、それに先立って、ルツ記を取り上げたいと思いました。

ルツ記の物語の背景

ルツ記の背景を簡単にお話ししますと、時代的にはダビデ王が即位した紀元前1000年より、3世代前の出来事です。イスラエルに飢饉が起こり、ナオミの家族は、隣国のモアブへ移住しました。しかしそこで夫が亡くなり、二人の息子も亡くなり、ナオミと二人のモアブ人の嫁が残されます。▽当時の寡婦は仕事に就くことができず、経済的な支えをすべて失ったナオミは、故郷であるユダヤのベツレヘムに帰ることを決めます。弟嫁オルパは、泣く泣く実家へ帰りますが、もう一人の嫁ルツは、ナオミにすがりついて、自分の故郷を離れ、ナオミと共に異郷の地であるユダヤへやってきます。そこから、ルツ記の物語は始まります。

今日の概要

ルツ記の主要な登場人物は、苦しみの中にあるナオミ、真実を尽くすルツ、そして二人を支えるボアズの三人です。この物語を、「主の翼の下に身を寄せる」そして「贖い」という2つのテーマで読んでいきます。人間側から見た「御翼に身を寄せる」という側面と、神様の側から見た「贖い」という側面の、コインの両面です。▽二つのテーマを結びつけるのは、「贖い」という言葉の根幹にある「家族として受け入れる」という意味です。ルツ記は、ただ「お金を払って買い取る」だけではなく、神様が身寄りのない私たちを「家族として迎え入れてくださる」ことを、彼らのストーリーを通して描いています。

御翼の下に身を寄せる人①:苦しみの中で主に帰ったナオミ

主の翼の下に身を寄せた一人目の人は、義理の母ナオミです。異郷の地で、愛し頼りにしていた夫と二人の息子を失ったナオミの言葉には悲しみと寂しさがにじみ出ています。

言葉少なにベツレヘムに着くと、友人たちに再会した懐かしさ以上に、自分の寂しい境遇とみずぼらしさで、意気消沈していました。

20 …「わたしをナオミ(楽しみ)と呼ばずに、マラ(苦しみ)と呼んでください。なぜなら全能者がわたしをひどく苦しめられたからです。」

「楽しみ」という意味を持つナオミという名前ではなく、マラ「苦しみ」と呼んでくれと言います。ナオミの人生は、彼女にとって苦々しいものでした。自分の力を越えた大きな力によって翻弄された、大きな苦しみでした。

21 わたしは出て行くときは豊かでありましたが、主はわたしをから手で帰されました。主がわたしを悩まし、全能者がわたしに災をくだされたのに、どうしてわたしをナオミと呼ぶのですか」。

苦々しさ

私たちも、人生の中で自分の力ではどうしようもない状況で苦しみに遭い、希望を失い、落胆し、神様に対しても苦々しさを感じる時があります。肉体や精神の病、家庭の不幸や家族・親族とのトラブル、職場や経済的な問題、難しい人間関係。神を信じていても、人生は苦いことがあります。▼そんな時、私たちはどうするでしょうか?必死で努力し、できることをします。しかし、ナオミのように、自分の力ではどうしようもないことの中で、私たちは無力感と失意に襲われます。

聖書はこうした苦々しい感情を隠しません。ナオミも、自分の苦しみを率直に言葉にします。ナオミは、ユダを出る時には、夫と息子と共に「豊か」でしたが、全てを失い「からの手で」帰って来ることになりました。「主がわたしを悩まし、全能者がわたしに災をくだされた」、13節では「主の手がわたしに臨み…」と言っています。

ベツレヘムへ帰る

そのような苦々しさの中で、ナオミにとって大切な選択は、「ベツレヘムへ帰る」ことでした。ルツ記で「ベツレヘムへ帰る」ことは、「神へ帰る」ことを象徴的に表しています[②]。神の民に与えられた相続地、神の民が本来いるべき場所に、彼女は戻っていきました。そのような目で読む時、22節は神様の恵みがすでにナオミの上に働き始めています。

22 こうしてナオミは、モアブの地から帰った嫁、モアブの女ルツと一緒に帰ってきて、大麦刈の初めにベツレヘムに着いた。

ナオミは「空の手で帰った」と言いましたが、ルツという彼女を愛する誠実で神様に信頼する女性がナオミと一緒にいました。このルツの存在が、ナオミの道を開きました。▼「大麦刈の初め」には、収穫によって、飢饉は終わり、神様の計画の新しい季節が来ようとしていました。飢饉が一番厳しいのは、最初に取れる大麦の収獲が始まる直前です。▽4月のイースター感謝会で、教会員のT姉がオリジナルソング「輝きに満ちた世界が」を歌ってくださいました。その歌詞に次のようにあります。「生きていれば、いろんな日がある。晴れの日、雨の日、嵐の日もあるけれど、暗闇に閉ざされたと思える時、思い出して、夜明け前が一番暗いこと」。▼ナオミとルツは知りませんでしたが、彼らのどん底の暗闇だと感じたこの時は、長い苦しみが終わる直前の時期でした。ナオミが神の前の約束の地・相続地に帰ってきた時、主の導きの新しい季節が始まっていました。

ボーデルシュヴィング牧師:四人の息子の死

ドイツで「てんかん患者の家ベーテル」を始めたボーデルシュヴィング牧師は、ある冬に肺炎で2週間のうちに4人の幼い子どもたちを立て続けに亡くしました。後から生まれた息子の一人が、この時期の様子を伝記に記しています。

四人の子の墓の傍らで、母は嗚咽しながら佇んでいることがよくあった。ある日、父が四本の支柱と板を手にして墓地へ向かう姿を見かけた人がいたが、それは四人の子の墓のある静かな場所に小さな腰掛けをしつらえ、神がそのような苦悩を通して自分たちに何を語り給わんとしたかを母とともに考えてみるためであった。

父と母は自分たちの受けた心の痛手を試練としてのみならず、ある裁きと感じていた。そして、二人がこれほどまでに心底からへりくだることができたがゆえに、神は彼らをも高め給うたのであった。…そして、熱愛せるわが子の死という深甚な体験を経たのちに、二人は新たな仕事に対する確信をもってベーテルへと向かうのである。その確信とはすなわち、「なんぢの謙卑(へりくだり)われを大(おほい)ならしめたまへり」ということであった。[③]

主は、この悲劇の後に夫妻に再び4人の子どもを与えられ、この夫妻を通して、慈しみの町ベーテルが建てられました。

ナオミにとって、「主の御翼の下に身を寄せる」とは、喪失のただ中で、「苦々しさ」を抱えたままで、主に帰って行ったことでした。

フリードリヒ・フォン・ボーデルシュヴィング牧師

御翼の下に身を寄せる人②:将来を主にささげて真実を尽くしたルツ

主の御翼の下に身を寄せた二人目は、ルツです。彼女は主に信頼して、不安定な自分の将来をゆだねて、自分の家族に真実を尽くしました。ボアズは、ルツを「親切」で、「りっぱな女」だと言いました(3:10-11)。ルツの真実は、ルツ記全体を貫いています。

モアブで

1章で家族の夫たちが皆亡くなり、ナオミがやもめとして故郷に帰り、弟嫁はモアブの実家に帰りましたが、ルツはナオミに堅くすがりつきます。16節以下のルツの言葉には、ルツの覚悟が表れています。

1:16 …「わたしはあなたの行かれる所へ行き、またあなたの宿られる所に宿ります。」

これは、「あなたがどこへ行っても、どこまででも、私は一緒に行く」という意味です[④]。当時は地域の共同体を離れては生きることはできません。しかし、ルツは「16dあなたの民はわたしの民、あなたの神はわたしの神です」と言って、故郷を捨て、信仰とアイデンティティを離れて、ナオミと生涯を共にするという決断でした。ルツはイスラエルの神、主の御名によって誓います。それは、義理の母ナオミに対する愛から出た誠実であり(4:15, 3:10)、主への信頼に基づく献身であり、主の翼の下に身を避けたのでした(2:12)。

ベツレヘムで

ベツレヘムでのナオミとの会話の端々には、外国での貧困生活の厳しさが垣間見られます。落穂拾いは収穫も少なく、働き詰めの仕事でやっと食べることができる辛い生活でした。畑で働くしもべたちから邪魔者扱いされ、外国人としていじめられ、惨めな思いをしたことが、うかがわれます[⑤]。彼女の呼び名は「モアブの女ルツ」であり、「外国人(よそ者)」であることを絶えず意識していました。▼しかし、ルツは姑のナオミのためにも休みなく働く働き者でした(2:7)。町の人たちは、ルツがナオミに尽くした真実と、忠実に働く姿を見て、ルツは「りっぱな女」だと評判になりました(3:11)。▼ルツが、当時の習慣に従って、夫の親族であるボアズに結婚を求め、夫の家を回復し、ナオミの生活を安定させる道を選択をした時、ボアズは「あなたが最後に示したこの親切は、さきに示した親切にまさっています」とルツを称賛します。[⑥]

ルツは、自分の損得勘定で動きませんでした。ナオミだけを選んだのではなく、主を選びました。彼女にとって、生まれ故郷を離れ、貧しいやもめとして、外国人として生きるという不利な立場でしたが、「主の御翼の下に身を避けた」のでした。▽ルツから学ぶ「主のみ翼の下に身を寄せる」生き方とは、問題の少ない人生を求めることではありません。私たちもまた、苦しみのない人生ではなく、主ご自身を選ぶように招かれています。

ブラザー・ローレンス:普段のことを、神のために

ブラザー・ローレンスは、当時の修道院で軽視されていた厨房での食事作りをしながら、絶えず神の臨在に歩んだ人物ですが、こんなことを書いています。

私が疑いの中にある時も、私たちが神をあがめ、神への愛をもって行動するという以外に何の野心も持っていないなら、神は必ず光を与えてくださいます。私たちの聖化は、私たちがすることを変えることによるのではなく、私たちが自分のためにしていることを、神のためにすることによるのです。…私の発見した神に近づく最上の方法は、神に従う生活の中で与えられたふつうの仕事を、私たちのうちに潜む人間的な要素から遠ざけつつ、できる限りをつくして純粋に神を愛するために行うことです。[⑦]

ルツも同じように、自分の人生の選択で、神を選び取り続け、そのために神により頼み、主の御翼の下に身を寄せて生きました。

御翼の下に身を寄せる人③:神の祝福を分け与えたボアズ

御翼の下に生きた三人目は、ボアズです。ボアズとルツの出会いには、静かな神の導きがありました。ルツがそうとは知らずに訪ねた畑は、ナオミの近親の有力者ボアズの畑でした。ボアズは、ルツの噂を知っていて、ナオミへの真実な愛と、忠実な働きぶりを聞いていました。▼ボアズは、ルツに特別な配慮を示して、彼の畑で落穂拾いを許しただけでなく、しもべたちに命じて彼女を守り、水を飲ませ、食事を与え、わざと穂を落としてたくさんの麦を集めさせました。[⑧]

「買い戻し」「贖い」

彼は「最も近い親戚」と呼ばれます。これは、古代イスラエルの社会で、ナオミのように経済的に困窮して、土地を売りに出したり、奴隷として身売りしたりしなければならなくなった時に、その人を「買い戻す」(贖う)権利と責任を持つ親戚を指します。新約聖書の「贖い」のルーツにあるヘブライ語の言葉です。▼「贖い」というと、お金で買い取るというイメージがあるかもしれませんが、それだけではなく、ボアズのように亡くなった親族の妻をめとることも含んでいました。幅広い務めを指す言葉なのですが、その中心にある意味は「家族・親族としての義務」を果たすことです。▼ボアズは、ナオミの親族として、身寄りのないナオミとルツの一家に対して、親族の責任を果たし、彼らを家族として迎え入れ、彼らの家を回復させました。「家族として迎え入れる」ことこそ、「贖い」という言葉の根幹にある意味です。ルツ記は「贖い」のストーリーであり、ボアズがルツとナオミを「家族とした」ことによって、神が彼らを「家族として引き取られた」物語です。[⑨]

私たちクリスチャンが、主イエスの十字架によって「贖われた」という時、それは単に「罪の代価が支払われた」というだけではありません。それは、神が私たちの「家族となって、引き取り、迎え入れてくださった」ことを意味しています。▼神様は、「あなたはわたしの家族だ」「私はあなたを見捨てない」「私はあなたを引き受ける」と言ってくださいます。

ボアズは、ルツを「あなたがその翼の下に身を寄せようとしてきた主」の名によって祝福しました(2:12)。今度はルツがボアズに、「あなたの<翼>を、あなたのはしための上に広げて<覆って>ください」と言います(3:9)。▼神様は、いわば、ボアズという人の愛と献身を通して、ご自分の守りと慈しみの御翼を、ルツの上に広げられました。

適用① 誰かに祝福を分かち合う

時には、私たち自身が、誰かにとってのボアズとなることがあるかもしれません。

私の祖父母は、私が中学生の時に続けて亡くなりました。辛い中にいた私たち家族に、大叔父の夫妻が寄り添ってくれました。父は、比較的年齢の近い大叔父と同じ職場に数年間勤めて、励まされ、乗り越えることができました。大叔父は、ある意味で、私たちにとってのボアズのような存在だったと言えるかもしれません。

ボアズは、自分が神様から受けた祝福をルツとナオミに分かち与えました。そのようにして、ボアズ自身が「主の御翼の下に生きる」人でした。

適用② 家族として迎える

私たちがドイツに行った時、ホストファミリーのお父さんは、ドイツ語ができず、初めてホストファミリーを訪問した私にとても気を遣ってくれました。「食べたい物は何でも食べなさい」。私は疲れで身体が冷えて体調を崩したのですが、旅行の時には車に温かいシートを敷いてくれました。私が眠くてウトウトしていると、会話を止めて静かにしてくれました。後日電話で「家族として迎えてくれてありがとうございました」と伝えると、「それこそ自分が伝えたかった事なんだ」と言ってくれました。

このように、私たちを「家族として迎える」ことこそ、神が私たちにしてくださったことです。

【贖い】 ルツ記の神学の中心は「贖い」です。「贖い」と聞くと、「罪の代価が支払われた」「罪の赦し」を思い浮かべるかと思います。しかし、ルツ記の「贖い」とは、単に代価を支払うだけでなく、神様が私たちを引き取って家族となってくださる温かい関係のことです[⑩]。贖いとは、主の翼の下に身を寄せる者を、神が家族として迎え入れてくださることです。

結び

私が勉強会でお世話になってきた神学者の金子晴勇先生は「教会は…絶えず帰りゆく故郷のようなものだ」といいました[⑪]

ナオミは、苦さを抱えながら、主に帰りました。ルツは、夫を失い、故郷を離れて、将来の保証が無くても、主に信頼して、主に帰り、御翼のもとに身を寄せました。私たちが帰る家・故郷は、主ご自身です。私たちがうまくいかなくても、逆境があっても、弱さを感じていても、年をとっても、なお帰るところがあります。

主は、「わたしの翼の下に来なさい」と招かれます。神様は私たちを守り、その翼で覆い、家族として迎えてくださいます。▽ナオミもルツもボアズも、それぞれの置かれたところで主に信頼し、主に帰り、その御翼の下に生きました。私たちは、どの立場に置かれているでしょうか。今いるところから、主に帰り、主の御翼の下に宿り、そこに憩う者とならせてください。

ルツ記2:12b「どうぞ、イスラエルの神、主、すなわちあなたがその翼の下に身を寄せようとしてきた主からじゅうぶんの報いを得られるように」。

【祈り】

天の父なる神様。この世にあって、頼れる者もいない者であった私たちを、ただ主イエスの恵みによって、家族として迎えてくださったことをありがとうございます。あなたの愛と恵みに信頼し、あなたの御翼のもとに憩わせてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

 


[①] アパルーム 2026年3月27日(金)

[②] 外国のモアブに逃れたことは、必ずしも「神様から離れた」ことを表しているわけではないようです。

[③] フリッツ・フォン・ボーデルシュヴィンク「父ボーデルシュヴィングの生涯」p165-166

[④] 「あなたの行かれる所」「あなたの宿られる所」がメリズムを形成し、「全ての場所」を意味する。

[⑤] 2:10「私はよそ者ですのに」、2:9「邪魔をしてはならない」2:15「彼女にみじめな思いをさせてはならない」、2:16「彼女を叱ってはならない」、2:22「ほかの畑でいじめられなくてすみます」など

[⑥] https://www.bfpj.org/know/teachingletter/?id=53 従順さ(ルツ3:5)、親切(同3:10)、清さ(同3:10)、思慮(同3:14)、愛(同4:15)

[⑦] リビングライフ 2010年1月 p162

[⑧] ちなみに、マタイ福音書のダビデの系図を見ると、ボアズは父サルモンとの間に異邦人ラハブによって生まれた子でした。外国人の母を持つボアズは、ルツの置かれた境遇に温かいまなざしを持っていたのかもしれません。

[⑨] W.ブルッゲマン「旧約聖書神学用語辞典」 「贖い」の項目参照

[⑩] この温かい物語の主人公の家系と、舞台となったベツレヘムの町から、イスラエルのダビデ王が生まれ、やがて救い主・主イエスが誕生します。それは、この神様の愛の守りと配慮が、神様の私たちすべてのものであることを示しているようです。

[⑪] 2026年4月13日、金子晴勇氏の葬儀説教より。