Ⅱサムエル6:12-23「主の前に立つ喜び」

聖書 Ⅱサムエル6:12-23、ヨハネ4:23-24
説教 「主の前に立つ喜び」
メッセージ 堀部 里子 牧師

17人々は主の箱をかき入れて、ダビデがそのために張った天幕の中のその場所に置いた。そしてダビデは燔祭と酬恩祭を主の前にささげた。18ダビデは燔祭と酬恩祭をささげ終った時、万軍の主の名によって民を祝福した。19そしてすべての民、イスラエルの全民衆に、男にも女にも、おのおのパンの菓子一個、肉一きれ、ほしぶどう一かたまりを分け与えた。こうして民はみなおのおのその家に帰った。

20ダビデが家族を祝福しようとして帰ってきた時、サウルの娘ミカルはダビデを出迎えて言った、「きょうイスラエルの王はなんと威厳のあったことでしょう。いたずら者が、恥も知らず、その身を現すように、きょう家来たちのはしためらの前に自分の身を現されました」。21ダビデはミカルに言った、「あなたの父よりも、またその全家よりも、むしろわたしを選んで、主の民イスラエルの君とせられた主の前に踊ったのだ。わたしはまた主の前に踊るであろう。22わたしはこれよりももっと軽んじられるようにしよう。そしてあなたの目には卑しめられるであろう。しかしわたしは、あなたがさきに言った、はしためたちに誉を得るであろう」。

Ⅱサムエル6:17-22

1 わたしは声を出して主に呼ばわり、
 声を出して主に願い求めます。
2 わたしはみ前にわが嘆きを注ぎ出し、
 み前にわが悩みをあらわします。
3 わが霊のわがうちに消えうせようとする時も、
 あなたはわが道を知られます。
 彼らはわたしを捕えようとわたしの行く道にわなを隠しました。

詩編142:1-3

サウル王の最期(Ⅰサムエル31:1-10)

サムエル記からメッセージを続けていますが、今日からⅡサムエル記に入りました。Ⅰサムエル記の最後の章である31章には、「サウル王の死」が記されていますが、どのような死だったのでしょうか。 

サウル王はペリシテ軍との戦いの途中、ひどい傷を負ってしまいましたが、無割礼の敵に殺されたくないと、彼は自ら剣を取り、その上に倒れ込み、最期を迎えました。時を同じくして、サウロ王の息子三人も部下たちも死にました。王と息子たちの死体はペリシテ人が見つけ、武具は剥ぎ取られ、彼らの神殿に奉納され、サウロは首を切られた、その死体は城壁にさらしたと書かれています。なんという痛ましい最期でしょうか。

サウル王は戦いに翻弄された人生でした。最後はペリシテ軍との戦いでしたが、サウル王の心の中の戦いは、死ぬまで続いていました。嫉妬に狂い、ダビデを殺そうと追い続け、関係が良くなったわけではありませんでした。

戦いが終わったら平和なのか

今週15日は、日本に於いては終戦記念日で、過去を振り返って学び、「平和を考える」ときが多く与えられています。私は、グアムの残留日本兵で、戦後28年間に及ぶジャングル生活をされた横井庄一さんの生涯のドキュメンタリーを観ました。横井さんは、帰国されてすぐに病院で85日にわたる診療を受けましたが、その記録である膨大なカルテが数年前、開示されたそうです。カルテから読み解く様々な見解を興味深く思いました。戦争が終わったとはいえ、帰国後も横井さんの戦いは続いていました。軍事教育を受けた横井さんの「恥ずかしながら」という言葉が流行語になりましたが、人は受けた教育、過ごした環境を通して、様々な外敵や内敵との戦いを強いられるものです。横井さんは、何よりも「心の安定」を求めたようです。

「平和」は単に国と国との争い、人と人との争いがないことでなく、もっと根本的な問題である「私と神との和解」ができているかということが問われると思います。なぜなら人間は国や立場が違えば、自分たちの利益を最優先してしまい、戦いはエンドレスになってしまいます。それぞれの言い分に大義名分があるでしょう。その主義主張の違いを埋めようと仲介役が入っても、完全に歩み寄れないのが人間の性(サガ)ではないでしょうか。神と人との仲介役としてイエス・キリストがおられます。イエス・キリストの言葉や生き方を大切にして生きた方の最期に接するとき、平和な気持ちになり、希望が与えられることを体験します。

ある姉妹の最期

先週、長年北区のシティクリスマスの委員として奉仕して来られた姉妹の前夜式に夫婦で参加をしてきました。姉妹は病との戦いを終えて、召天されました。ご葬儀は姉妹の人柄や大切にしてこられたこと、遺志が反映され、天国の希望に満ちたものでした。ご友人やご友人、また教会の方々のお話を伺い、神を愛し、隣人を愛することを形にしっかり現わして来られた方だったのだなぁと思いました。息子さんと最後に話したとき、お母さんに対する愛と尊敬の念が溢れていました。まだ心が追い付いていないとおっしゃっていましたが、主の慰めと平安があるようにと祈っています。

ダビデが心の中心に据えたもの

今朝、開かれた聖書の箇所は「神の臨在を人生の中心に迎えた人は、どのように神を礼拝するのか」という話しです。ダビデはサウルやヨナタンが命を落としたことを聞き、彼らを追悼します。サウルが死んだことで、安易にダビデ側に付こうとした部下たちに対しては真意を見抜き、悪をなす者には主が報いられるようにと言います。ダビデもサウルと同じように、多くの戦いに翻弄されましたが、ダビデの心の中心は神様がおられました。

「12しかしダビデ王は、「主が神の箱のゆえに、オベデエドムの家とそのすべての所有を祝福されている」と聞き、ダビデは行って、喜びをもって、神の箱をオベデエドムの家からダビデの町にかき上った。13主の箱をかく者が六歩進んだ時、ダビデは牛と肥えた物を犠牲としてささげた。」(Ⅱサムエル6:12-13)

第二サムエル6章は、「神の箱」をエルサレムへ迎えるという場面です。神の箱は、神の臨在を現わすものです。つまり「神の臨在がエルサレムの中心に戻るのだ」と、ダビデは喜び踊ります。しかし、ダビデの妻であるミカルは、踊るダビデを軽蔑します。

「14そしてダビデは力をきわめて、主の箱の前で踊った。その時ダビデは亜麻布のエポデをつけていた。15こうしてダビデとイスラエルの全家とは、喜びの叫びと角笛の音をもって、神の箱をかき上った。16主の箱がダビデの町にはいった時、サウルの娘ミカルは窓からながめ、ダビデ王が主の前に舞い踊るのを見て、心のうちにダビデをさげすんだ。」(6:14-16)

私の踊りはカチャーシー(沖縄の踊り)

私は最初、ダビデが「踊ったこと」に注目しました。しかし、聖書が注目しているのは「喜び」でした。ドイツ留学中の話ですが、私が知り合ったドイツ人はよく踊る人たちでした。パーティーに呼ばれると、必ず一部屋は踊るためだけの部屋でした。私は踊ることは得意でなく、リズム感もあまりありません。しかし、苦手なことを克服したいと思い、ある時、カチャーシー(沖縄の踊り)を踊ってみました。すると私の内側から喜びが湧いてきて楽しくなったのです。明らかに周りの皆と違う踊りでしたが、友人から褒められました。「あなた自身が楽しんで踊っている姿がとても良かった」と言われたのです。踊りのスタイルや形でなく、私の中の喜びに注目してくれたのだと思います。

ダビデは神の箱が帰還することで、喜びのあまり踊りました。ここでは、踊りは結果であり理由ではありません。そして、もっと重要なことは、ダビデが、主の箱の前で力の限り跳ね回り、踊ったことです。「主の箱の前で」つまり「主の臨在の前で」ということです。ダビデは喜びを神に踊りを通して捧げ、神だけを見ていたのです。

ヘブル人にとって踊りは勝利、救い、感謝を表します。例えば紅海を渡ったあと、ミリアムも踊っています(出15章)。詩篇149:3にも「彼らに踊りをもって主のみ名をほめたたえさせ…よ」とあります。つまり踊りは体全部を使った賛美です。賛美は歌だけではないのです。体も神様のものです。だからこそ、喜びが体にも現れるのです。

ダビデが喜んで踊った理由

① 神の箱の帰還=神の臨在が戻ってきた

神の箱(契約の箱)は長い間、転々としてイスラエルの中心にありませんでした。ダビデは王となりましたが、政治よりも軍事よりも、まず神を中心にしたかったのでしょう。だから神の箱が戻ってきたとき全身全霊で喜んだのでした。皆さまはどのように喜びを表すでしょうか。神様への感謝と喜びが溢れるのはどんなときでしょうか。

② ここまで導かれた恵みへの感謝

サムエルに油を注がれ→サウルに追われ→洞穴生活→ツィクラグ(ペリシテの地)での生活→部下の裏切り→サウルやヨナタンの死→王になる。

どれほど苦しかったでしょう。だから箱が帰ってきた時、「ここまで導いてくださった。」その感謝が爆発したのではないでしょうか。ダビデの踊りは、長年の神様と共に歩む中で、苦しみを通りながらも守られ、積もり積もった感謝が体から溢れた姿なのです。

③ 王であることを忘れた?

王は普通、王の服装をして堂々としているものですが、ダビデは亜麻布の簡素な衣服であるエポデをまとっています。つまり王としてではなく、一人の礼拝者として神様の前に立ったのではないでしょうか。

一方で、ダビデの妻のミカルはなぜ喜べなかったのでしょうか。「サウルの娘だからでは」と思うかもしれません。それだけでなく、いくつか理由があるのかなと思います。

ミカルが共に喜べなかった理由

6:20ダビデが家族を祝福しようとして帰ってきた時、サウルの娘ミカルはダビデを出迎えて言った、「きょうイスラエルの王はなんと威厳のあったことでしょう。いたずら者が、恥も知らず、その身を現すように、きょう家来たちのはしためらの前に自分の身を現されました」。

① 神より体裁が大切?

彼女は夫であるダビデのことを「王らしくない」と思ったのです。彼女の言う王らしさとは、つまり「人から王としてどう見えるか」ということが大きかったのです。サウルも民を恐れました。サウルとミカルの内に流れていたものは、神より人の評価と言えます。

② 神への感動を失っていた?

ミカルは神の箱について、何も喜びを語っていません。ダビデと一緒に神の箱を迎えに行くどころか、外にも一歩も出ていません。窓から見下ろし、目に入ったのは夫の姿だけでした。神ではなく夫を見ている。私たちの礼拝でも同じではないでしょうか。説教者、賛美、演奏人間ばかり見ると、喜べないことが多いと思います。なぜなら私たちは皆「赦された罪人」だからです。

③ 傷が癒えていなかった?

これは私自身の推測なのですが、ミカルは「政治の道具」として生きてきたと言えます。戦いに勝利したダビデに嫁がされ、別の夫に渡され、また戻されるという経緯を辿っています。彼女の心は、その過程で傷付いていないとは言えないと思います。彼女は幸せではなかったでしょう。だから人を信頼できなくなっていた可能性があります。傷ついた心は喜ぶ力も弱くなります。そのような背景もあったかもしれません。

真の礼拝者として

ミカルではないですが、主の前で踊れない人はどうしたらよいでしょうか?今日のもう一つの聖書箇所であるヨハネ4:23-24を読むと、神が求めているのは踊りではなく、「御霊と真理をもって礼拝する人」なのだということが分かります。「神は霊であるから、礼拝をする者も、霊とまこととをもって礼拝すべきである」。だから踊れなくても関係ありません。心が神の前で自由になることが大切です。

例えばある人は静かに涙を流す。ある人は目を閉じる。ある人は賛美を口ずさむ。ある人は献金で表す。ある人は奉仕する。表現は違うかもしれません。でもそこに神様への何らかの理由の喜びがあるかどうか、それが礼拝です。

イエス様は「あなたがたが、この山でも、またエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る」(ヨハネ4:21)と言われました。つまり礼拝は場所ではなく、形でもなく、神との交わりです。だからダビデは主の前に立っていたのです。私たちも神の前に、神ご自身の臨在を喜び、立つ者であり続けたいと思います。真の礼拝者は、「神との和解」をした人です。つまり、私たちが自分の罪のために死ぬしかなかったにも関わらず、神が送ったキリストが身代わりに十字架で死んでくださいました。このキリストの救いを感謝して受け取る人こそが、神と和解をした人です。

「彼がすべての人のために死んだのは、生きている者がもはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえったかたのために、生きるためである。…神はキリストによって、わたしたちをご自分に和解させ、かつ和解の務をわたしたちに授けて下さった。すなわち、神はキリストにおいて世をご自分に和解させ、その罪過の責任をこれに負わせることをしないで、わたしたちに和解の福音をゆだねられたのである。」(Ⅱコリント5:15,18-19)

和解のことばを委ねられた者として生きる

今日は長崎で原爆投下された日でもありますが、平和は、戦争がないことだけではありません。神との和解から始まります。サウル王もダビデも戦い続けた人生でした。しかし、ダビデが一番喜んだのは敵に勝った日ではなく、神の臨在(神の箱)が帰ってきた日でした。

本当の平和とは、武器がなくなることだけではなく、神が私たちの中心におられることです。そして、その神の前に共に立ち、同じ主を礼拝するところから、人と人との平和も育まれていきます。

例えば、小さな子どもが遠くにいたお父さんやお母さんが帰ってきたのを見つけると、周りの目を気にせず玄関まで走っていき、飛びついて喜ぶ姿です。誰かに「そんなにはしゃぐのはみっともない」と言われても、その子には関係ありません。嬉しさが体いっぱいにあふれているからです。

ダビデの踊りも、それに近いものだったのでしょう。王としての威厳を示したかったのではなく、「主が共にいてくださる」という喜びが抑えきれず、全身で神を礼拝したのです。「主の前に立つ喜び」です。大切なのは表現の形ではなく、「主がおられることが何よりも嬉しい」という心です。その心こそ、ヨハネ4章でイエスが語られた「霊とまことによる礼拝」へとつながっていくのです。「和解のことば」を委ねられている私たちは、「キリストに代わる使節」として救いの喜びを告げ知らせる者でありたいと願います。