2サムエル23:8-17「愛する者のために」~ダビデの三勇士~
聖書 2サムエル23:8-17、ヨハネ15:12-13
説教 「愛する者のために」~ダビデの三勇士~
メッセージ 堀部 里子 牧師

14その時ダビデは要害におり、ペリシテびとの先陣はベツレヘムにあったが、15ダビデは、せつに望んで、「だれかベツレヘムの門のかたわらにある井戸の水をわたしに飲ませてくれるとよいのだが」と言った。16そこでその三人の勇士たちはペリシテびとの陣を突き通って、ベツレヘムの門のかたわらにある井戸の水を汲み取って、ダビデのもとに携えてきた。しかしダビデはそれを飲もうとはせず、主の前にそれを注いで、17言った、「主よ、わたしは断じて飲むことをいたしません。いのちをかけて行った人々の血を、どうしてわたしは飲むことができましょう」。こうして彼はそれを飲もうとはしなかった。三勇士はこれらのことを行った。
Ⅱサムエル23:14-17
12わたしのいましめは、これである。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互に愛し合いなさい。13人がその友のために自分の命を捨てること、これよりも大きな愛はない。
ヨハネ15:12-13
今朝は、ビオラ奏者の林のぞみさんに特別献奏をして頂き、感謝いたします。今日の午後はチャペルコンサートがあります。先週、ピアノの調律をしました。こもった感じがなくなって音が明るくなり、ピアノが生き返ったような気がします。礼拝は、一週間の様々な歩みを通して、神様に私たちの心を向けて、チューニングする時間だと言えます。

ダビデを支えた、ダビデを愛する人々
今日は、Ⅱサムエル記23章から、ダビデと三人の勇士の姿を通して、「愛する」ということについて、ご一緒に考えてみたいと思います。
Ⅱサムエル記23章は、ダビデの人生の終わりに近い老年にあります。ですから「これはダビデの最後の言葉である」と始まる23章は、ダビデの遺言のような言葉と言えます。また23章の後半にはダビデの晩年を支えた勇士たちの名前が列挙されています。
若い頃のダビデといえば、私たちは何を思い出すでしょうか。少年のとき、たった一人でゴリアテに向かっていったこと。サウル王のために傍らで竪琴を奏でる姿。サウル王から命を狙われ、荒野を逃げ回ったダビデ。そして、イスラエルの王となり、多くの戦い経験した姿など思い出すのではないでしょうか。
若いときのダビデは、自分自身が戦う人でしたが、年老いたダビデのそばには、ダビデのために戦い、ダビデのために命をかける人々がいました。その中でも、特に「三人の勇士」について聖書は記しています。私はここに、「ダビデの人生の一つの実り」を見るような気がします。共にダビデの王政を支えた人たちは、なぜ王のために戦えたのでしょうか。
人は若いときには、エネルギーに満ち溢れており、自分の力で何かを成し遂げることが容易にできます。しかし、年齢を重ねていくと、「自分一人ですべては出来ない」ということが分かってくるのだと思います。誰かに支えられ、誰かに祈られ、誰かに愛されて生きること。そして、自分のことを思ってくれる人がいる。老いたダビデの周りには、そのように彼を愛し慕う人々がいたのです。
1.愛は、相手の願いを自分のこととして受け止める
ある日、ダビデはこう言います。「だれかベツレヘムの門のかたわらにある井戸の水をわたしに飲ませてくれるとよいのだが」(15)。これは、命令ではありません。「水を持ってこい」と言ったのではないのです。「ああ、ベツレヘムの井戸の水を飲めたらなあ」と、ダビデがふと口にした言葉だったでしょう。ベツレヘムはダビデの故郷です。遠く故郷を思い懐かしんでいてもおかしくありません。

願い叶え隊
以前、練馬KGで月に一回の奉仕をしていたとき、石川県出身の90代のおばあちゃんが入居されていました。いつもニコニコされている方でした。あるときお誕生日が近いと聞いたので質問しました。「〇〇さん、お誕生日に何を願いますか。」するとこの方は「故郷に帰って地元のご飯を食べたい」とおっしゃいました。実にその願いは職員によって実現されました。おばあちゃん一人のために小旅行を企画されて、実際に石川県に職員の方々と一緒に行かれたのでした。本当に嬉しそうでした。

ダビデの願い叶え隊
ダビデが故郷ベツレヘムを思い出して「昔飲んだ、あの井戸の水をもう一度飲めたらなあ。」とふと心の思いが独り言のように口から出たのは、郷愁の思いが言葉になったのかもしれません。
ところが、ダビデの言葉を聞いた三人の勇士はどうしたでしょうか。「そこでその三人の勇士たちはペリシテびとの陣を突き通って、ベツレヘムの門のかたわらにある井戸の水を汲み取って、ダビデのもとに携えてきた。」(16)驚くべきことです。ダビデは全く命令していないのに三人は、即座に立ち上がり敵陣を突破して、ダビデが望む井戸の水を汲みに行ったのです。この三人の部下たちのダビデに対する忠誠心と愛する思いが100%表れています。「王だから仕方なく従った」のでは決してないと思います。「何とかしてあげたい」そう思ったのだと思います。
愛とは相手の願いを、自分には関係のないこととして聞き流さないことではないでしょうか。もちろん、私たちは誰かの願いを全部かなえてあげることはできません。何でもしてあげることが愛なのでもありません。けれども「この人が今、何を感じているのだろう、この人は何を必要としているのだろう、この人のために、私にできることは何だろう。」そうやって相手を見ることから、愛は始まるのではないかと思います。
教会も、そういう場所でありたいと思います。「最近、あの人はどうしているかな。あの人は今日少し元気がないな。この人のために祈ろう。」そうやって、互いのことを心に留めることも、愛です。時々、「先生、〇〇さんに会いましたよ。元気そうでした」など報告を受けることがありますが、とても嬉しく思います。
2.愛は、ときに自分の大切なものを差し出す
三人の勇士は、ダビデのために水を汲んできました。しかし、その水を見たダビデは、どうしたでしょうか。
「しかしダビデはそれを飲もうとはせず、主の前にそれを注いで、言った、「主よ、わたしは断じて飲むことをいたしません。いのちをかけて行った人々の血を、どうしてわたしは飲むことができましょう」。」(16-17)
ダビデはどうしてわざわざ汲んできてくれた水を飲まなかったのでしょうか。その水を手に入れるために、三人の勇士が命をかけたからです。だからダビデには、それが単なる「水」には見えなかったのです。「それは彼らの命をかけて得たものだ」と思ったからこそ、「彼らの血ではないか」とダビデは言いました。これは、水そのものが血になったという意味ではなく、三人が命をかけて得た水だから、その水には「命の重さ」があったのです。ダビデは、その水を自分のために飲むことができなかったのです。そして、神の前に注ぎました。神に捧げたのです。「これほどの犠牲を払って、私のためにしてくれたものを、私は当然のように受け取ることはできない。」ダビデは感謝と畏れの心を表しました。
つまり三人の愛の行為を、ダビデは軽く扱わなかったということではないでしょうか。私たちは、誰かが自分のためにしてくれたことを、「当たり前」と思ってしまうことがあります。家族がしてくれることや、教会の兄弟姉妹がしてくれることがあります。決して当たり前ではありません。誰かが祈ってくれていることも当然ではないのです。
慣れてしまうと、その背後にある愛が見えにくくなることがあります。でも、本当はその一つ一つの背後に、その人の時間や労力が捧げられ、祈りがあり、時には涙があります。相手に感謝を伝え、してもらったことを当たり前にしないことは、愛を受け取る一つの姿ではないでしょうか。
3.しかし、ここには、もっと大きな愛がある
ここから、今日はもう一つの聖書箇所、ヨハネ15章へ目を向けたいと思います。イエス様は12節-13節で、「わたしのいましめは、これである。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互に愛し合いなさい。人がその友のために自分の命を捨てること、これよりも大きな愛はない。」と言われました。イエス様は、「命を捨てる愛」について語っています。
Ⅱサムエル記23章には、ダビデのために命をかけた三人の勇士がいました。彼らはダビデを愛していました。だから、危険を承知で敵陣に入りました。今日のメッセージはここで終わりでなく私たちは、もう一歩先に進みたいと思います。
三人の勇士は、ダビデのために命をかけましたが、イエス様は私たちのために、ご自分の命を捨てられました。私たちがイエス様にふさわしい人間だったからではありません。私たちがイエス様を十分に愛していないときも、私たちが神様に背を向けていたときでさえ、イエス様は私たちを愛してくださいました。そして十字架にかかってくださいました。ここに、三勇士の愛をはるかに超える愛があります。
三勇士は、愛するダビデのために命をかけました。けれどもイエス様は、罪ある私たちのために、ご自分の命を捨てられたのです。この「命を捨ててくださったキリストの愛」へ目をはっきり向けたいのです。
Kさんの質問
先日、Kさんのお宅を伺う機会をいただきました。様々なことをお互いに話しました。聖書に対するKさんの率直な思いも語ってくださり感謝でした。Kさんの一つの質問がずっと心に残っています。「隣人を愛するということは分かりますが、神を愛するとはどういうことですか」私なりに一生懸命答えましたが、皆さんならどう答えるでしょうか。

4.私たちは「愛さなければ」ではなく、「愛されている」
そして、もう一つ大切なことがあります。イエス様は、「互に愛し合う」ことの前に、「わたしがあなたがたを愛したように」と言われました。「あなたがたが頑張って愛しなさい」ではなく、「わたしがあなたがたを愛したように」です。つまり、まずキリストの愛があります。その愛を受けた者が、愛する者になるのです。
私たちは、「もっと人を愛さなければ、もっと犠牲を払わなければ、もっと聖書通りに生きないと」と思って、疲れてしまうことがあります。けれども、キリスト教の愛は「頑張って生み出す愛」ではなく、十字架を見上げて、「主よ、あなたはこんな私のために、ここまでしてくださったのですか。」と、その愛を受け取るところから始まります。愛された経験が、私たちの中に愛する力を生み出していくのです。
私の献身への道
最近、なぜこんな私が献身に導かれたのだろうと、考えさせられていました。いろいろな布石がありました。その一つが、ドイツのホストファミリーの愛でした。彼らは常に互いに愛し合い、自分の弱さも見せ、祈り合い、共に笑い合い、すべてを共有していました。一年間、ホストファミリーと過ごす中で、私の咎っていた部分が削り落とされ、曇っていた目が開かれ、彼らの中にイエス・キリストを見るようになったのでした。大学卒業するまで毎年、私の誕生日とクリスマスは、お小遣いを手紙と一緒に送ってきてくれていました。自分の思春期の子どもを育てるだけでも大変だと思いますが、そこに日本からの留学生である私が加わり、共に過ごすのですから労苦は半端でなかったと思います。夫から「ドイツのホストファミリーに、献身に導かれたきっかけをあなたたちが作ってくれたんだよって伝えたことある?」と聞かれましたが伝えていませんでした。「そうだ伝えよう」と思いました。本当に無条件でたくさん愛された者は、受けた愛を返したいと思うのです。

5.「愛する者のために」生きる
ダビデの人生の終わりには、三人の勇士を始めとする多くの部下がいました。列挙されている部下たちは、ほとんどが異邦人です!ダビデが若いときには、ダビデ自身が戦士でした。けれども晩年には、ダビデのために戦い、彼を支える人々がいました。私たちは誰のために生きるでしょうか。
子どもの歌に次のような歌があります。「♪何をささげようイエス様に、羊飼いたちは子羊を、博士たちは宝物、私は心をささげましょう♪」
愛とは、必ずしも大きなことをすることではないと思います。小さな行為が誰かの人生を支えることがあります。それは、一杯のお茶を入れることかもしれません。電話を一本かけることかもしれません。誰かの話を黙って聞くことかもしれません。どなたか病気の人のために祈ることかもしれません。教会に来られなくなった人を覚えることかもしれません。。。
【結び】
今日の箇所に出てくる三人の勇士は、ダビデのために命をかけました。ダビデは、その水を飲むことができませんでした。それほどまでに、彼らの愛と犠牲を重く受け止めたのです。しかし、私たちは今日、そこからさらに大きな愛を見上げたいと思います。
それは、イエス・キリストの十字架です。私たちのためにご自分の命を捨てられたイエス・キリストの十字架には、「あなたを愛している」という神様の言葉が刻まれていると私は思っています。先ず十字架を見上げましょう。そして「主よ、私をこんなにも愛してくださったのですね」と、主の愛を心に受け取りましょう。そして、その愛を受けた者として、「主よ、私も誰かのために生きる者にしてください。」と祈りたいと思います。
そこにキリストの愛が流れていくのです。愛された者が、愛する者になっていくプロセスを通るのです。そして、いつか人生を振り返ったとき、「私の人生には、私を愛してくれた人たちがいた」「そして私も、誰かを愛することができた」そう言える歩みをさせていただきたいと思います。「わたしのいましめは、これである。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互に愛し合いなさい。」この主の御言葉を胸に刻みながら、今日もキリストの愛の中を歩んでまいりましょう。

