マタイ17:1-9「キリストの威光」

2023年2月19日(日) 公現後第6主日礼拝 メッセージ

聖書 マタイ17:1-9
説教 「キリストの威光」
メッセージ 堀部 舜 牧師

【今週の聖書箇所】

 1六日ののち、イエスはペテロ、ヤコブ、ヤコブの兄弟ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。2ところが、彼らの目の前でイエスの姿が変り、その顔は日のように輝き、その衣は光のように白くなった。3すると、見よ、モーセとエリヤが彼らに現れて、イエスと語り合っていた。4ペテロはイエスにむかって言った、「主よ、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。もし、おさしつかえなければ、わたしはここに小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのために、一つはモーセのために、一つはエリヤのために」。5彼がまだ話し終えないうちに、たちまち、輝く雲が彼らをおおい、そして雲の中から声がした、「これはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である。これに聞け」。6弟子たちはこれを聞いて非常に恐れ、顔を地に伏せた。7イエスは近づいてきて、手を彼らにおいて言われた、「起きなさい、恐れることはない」。8彼らが目をあげると、イエスのほかには、だれも見えなかった。
 9一同が山を下って来るとき、イエスは「人の子が死人の中からよみがえるまでは、いま見たことをだれにも話してはならない」と、彼らに命じられた。

マタイ17:1-9
Fra Angelico: Transfiguration of Christ, Wikimedia Commons

【教会活動】 先週の礼拝後に、今後の教会活動について話し合う懇談会を持ちました。今後の展望を自由に分かち合えたことが感謝でした。祈りつつ、聖霊の恵みの中を進んでまいりましょう。

【聖書の背景】 今日の聖書箇所の直前の16章で、弟子たちが「主イエスこそ救い主キリストだ」とはっきりと告白します。これが福音書の転換点となり、この時から主イエスはご自分が十字架で死ぬことを予告し始めます。今日の聖書箇所はその数日後の出来事です。信仰を告白した弟子の中の3人に、神は主イエスの威光を目に見える形で表わされました。

今日の聖書箇所は、モーセがシナイ山で神に会い、十戒を受け取った、一連の出来事を背景に描かれているようです。主イエスは、モーセが預言した、来るべき預言者として描かれます。モーセは神の栄光の目撃者でしたが、今日の箇所では3人の弟子が目撃者となり、主イエスの威光が表れます。[①]

今日はこの箇所から「主イエスは何者であるか?」を見ていきます。主イエスは、①「聖書が指し示す方」であり、②「王・苦難のしもべ」であり、③「栄光を受けたまことの人」です。

【1.主イエスは「聖書が指し示す方」】

1 六日ののち、イエスはペテロ、ヤコブ、ヤコブの兄弟ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。

【高い山】 主イエスが栄光の姿に変わった舞台は「高い山」でした。モーセもエリヤもシナイ(ホレブ)山で神様にお会いしたように、山は旧約聖書の重要な啓示の舞台でした[②]

【三人の弟子】 主イエスは3人の弟子を選んで山の上に行かれました。主イエスの御姿が変わり、モーセとエリヤが現れたのは「(彼らの)目の前」で、とあります(2-3節)。普段は隠されている主イエスの栄光が、彼らの前に表わされたことは、神の意志によって彼らに啓示されたことを意味します。

2ところが、彼らの目の前でイエスの姿が変り、その顔は日のように輝き、その衣は光のように白くなった。3すると、見よ、モーセとエリヤが彼らに現れて、イエスと語り合っていた。

【モーセとエリヤ】 モーセとエリヤはいずれも、山で神の栄光を見た人です。モーセとエリヤは、(1)旧約聖書の「律法書」(モーセ五書)と、「預言者」(預言書と歴史書)を代表する人物とも言えます。また、彼らは(2)来るべき救い主を指し示した人物でした 。

【キリストは「聖書が指し示す方」】 「主イエスはどのような方か?」第一に主イエスは「聖書全巻が指し示す『目的』」です。 ▼主イエスは「聖書は、わたしについてあかしをするものである」と言いました(ヨハネ5:39)。聖書の目的は、「あれをしなさい、これをしなさい」という単なる規則や命令の列挙ではなく、「神はどのような方か」「キリストはどのような方」であるかを示すことです。聖書の目的は、私たちが神との関係に入ること――キリストを通して神を知り、神を愛する者となることです。

【キリストの威光の目撃者】ペテロの手紙2は、使徒ペテロが最晩年に書いた手紙ですが、主イエスの変貌の出来事を回想しています。

「16わたしたちの主イエス・キリストの力と来臨とを、あなたがたに知らせた時、わたしたちは、巧みな作り話を用いることはしなかった。わたしたちが、そのご威光の目撃者なのだからである。17イエスは父なる神からほまれと栄光とをお受けになったが、その時、おごそかな栄光の中から次のようなみ声がかかったのである、「これはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である」。18わたしたちもイエスと共に聖なる山にいて、天から出たこの声を聞いたのである。19こうして、預言の言葉は、わたしたちにいっそう確実なものになった。あなたがたも、夜が明け、明星がのぼって、あなたがたの心の中を照すまで、この預言の言葉を暗やみに輝くともしびとして、それに目をとめているがよい。」

新旧約聖書を書いた使徒や預言者は、隠された「キリストの威光」をその目で見た目撃者として証言しました。ここに、聖書の証言の権威があります。▼使徒より後の時代のクリスチャンは、ペテロのようには主イエスの栄光の姿を目の当たりに見ることはありません。そのような私たちに、ペテロは聖書の言葉に心に留めているように勧めます。▽キリストが心にはっきりと示されるまで、忠実な目撃者を通して神の霊感によって書かれた聖書の言葉を、心に留めているように勧めています。神は、私たちの心にも、時にかなって主イエスご自身を現わし、神との生きた関係に導き入れてくださいます。

【2.主イエスは「王・苦難のしもべ」】

「主イエスはどのような方か?」――1つめポイントは「聖書が指し示す方」でした。第2のポイントは「王・苦難のしもべ」です。

2 ところが、彼らの目の前でイエスの姿が変り、その顔は日のように輝き、その衣は光のように白くなった。

天使の姿が光り輝き、神が光の中に住んでおられるように、主イエスの身体が神的な光を放ちました。聖書の証言によれば、それは、主イエスが世界の創造の前からもっておられた「神としての栄光の表れ」でした。また、「復活・昇天された人の子としての栄光の先取り」とも言えます。キリストの威光が目に見えて表れた出来事でした。▽やがて再臨の時には、私たちもこの栄光の姿に似たかたちに造り変えられるのです。

ルカ福音書によると、モーセとエリヤと主イエスは、主イエスの十字架の死について話し合っていました。▼ペテロは驚くばかりの光景を見て、何か言わなければと思いましたが、何を言えば良いか分かりませんでした。ペテロは、主イエスがモーセとエリヤに並ぶ偉大な信仰者だと思いましたが、それをたしなめるように、神の臨在を表す雲が現れ、天の声が聞こえます。

5 彼がまだ話し終えないうちに、たちまち、輝く雲が彼らをおおい、そして雲の中から声がした、「これはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である。これに聞け」。

神ご自身は目に見えないけれど、輝く雲と御声によって、神がおられることが示されます。▽雲の中から聞こえた御声は、主イエスの洗礼の時に天から聞こえたのと同じ言葉です[③]。主イエスの使命を的確に捉えた言葉で、「神の子としての王・救い主」を預言した詩篇2篇と、「主のしもべ」の第一の歌・イザヤ書42章と類似します。「主のしもべ」の第4の歌(イザヤ53章)は、神の民に代わって罪を負って死んで平安をもたらす苦難のしもべとして極めて重要です。

このように、今日の一連の箇所は①主イエスの「神の子としての栄光」と同時に、②「苦難のしもべとしての十字架の使命」を繰り返し示しています。▽苦難の使命は、①受難の予告に、②モーセとエリヤが主イエスと話していた主イエスのご受難の話に、③天からの声で聞こえた「主のしもべの歌」の文脈に、繰り返し現れます[④]。 ▽神に等しい栄光を持つ方が、へりくだって人となり、最も卑しい十字架の死によって、すべての人の罪を負い、平安をもたらすという主イエスの使命が、はっきりとここに刻まれています。

6 弟子たちはこれを聞いて非常に恐れ、顔を地に伏せた。

聖書では、罪ある人間は神を見ると死んでしまうと考えられました。モーセが神にお会いした時は、岩の裂け目に入って神の御顔を見ず、エリヤが神にお会いした時にも、上着で顔を覆いました[⑤]。 ▽主イエスの弟子たちも、神の栄光の表れを見て死んでしまうことを恐れたようです。

しかし、主イエスの方から彼らのところに①「近づいて」きて、②彼らに「手をおいて」、③「起きなさい。恐れることはない」と言われました。▼私たち人間は、神の栄光に出会う時、御顔を見ることができず、言葉も失って立つこともできない弱い存在です。しかし主イエスは、まばゆい光の中におられるばかりか、私たちと同じ肉体を持つ人間として同じ立場になられ、私たちに手を置き、立ち上がらせてくださる優しい方です。

8彼らが目をあげると、イエスのほかには、だれも見えなかった。

天の声が証ししたのはモーセでもエリヤでもなく、ただイエス・キリストでした。誰の教えに従うよりも、主イエスに従うことが、神に従うことです。私たちもただイエス・キリストを見つめて歩みたいと思います。

「主イエスはどのような方か?」――第2のポイントは「栄光の神の子・苦難のしもべ」でした。誰も近づくことのできない威光を持つ主イエスが、身を低くして私たちのために十字架でご自身をお捧げになりました。主イエスの威光を目撃した弟子たちのように、私たちも身を低くして、信仰と愛と勇気をもって忠実に仕えて参りましょう。

【3.主イエスは「栄光を受けた最初の人」】

「主イエスがどのような方か?」――第一に主イエスは「聖書が指し示す方」でした。第二は「栄光の神の子・苦難のしもべ」でした。第三は「神の栄光を受けた最初の人」です。

主イエスが高い山を下りて帰る時に、主イエスは弟子たちに口止めをします。「人の子が死人の中からよみがえるまでは、いま見たことをだれにも話してはならない」(9節)。

この時代のユダヤでは、救い主――特に軍事的な解放者――を期待する政治運動が盛んで、ローマ当局からも警戒されていました。主イエスは、ご自分の働きが、人々の思惑に妨げられないために、弟子たちに口止めしたと思われます。▽また、主イエスが救い主である最大のしるしは、復活でした。主イエスの働きの意味は、十字架と復活という光に照らされた時に、初めて理解できます。主イエスは、復活という最大のしるしが現れる時まで、この不思議な顕現については沈黙するように命じられました。

【神の栄光を受けた最初の人】 主イエスは「神の栄光を受けた最初の人間」(=栄化された人)です。それは、やがての再臨の時に、私たちにも与えられる恵みの最初の実現です。 ▽この恵みは、極めて特別な経験として、使徒たちが地上でキリストの栄光を垣間見たように、天国の前味として私たちも地上で経験できる可能性が開かれています。

サーロフのセラフィーム、
Wikimedia Commons

今日の山上での主イエスの変貌の記事は、東方正教会の伝統でとても重要な箇所とされているようです。19世紀初めのロシアにサーロフのセラフィームという修道士がいました。非常に長く厳しい孤独な修道生活の後に、セラフィームが人々のための働きを始めると、数えきれないほどの病気の癒しや、将来を見抜く洞察力があり、祝日には何千人もの人々が彼の所を訪ねて来たそうです。▽セラフィームは、クリスチャンが一切の罪を悔い改めて「聖霊を獲得すること」――プロテスタント教会の用語では「聖霊に満たされ続けること」――が、クリスチャンの人生の唯一の目標だと教えました。聖書に従ってあらゆる罪を悔い改めて主に立ち帰る時に、聖霊が私たちの内側に働いて神の国を打ち立て、弟子たちが見た主イエスの威光のように、神の光が私たちの内を照らして、罪の跡を洗い清めます。

セラフィームによって重い病気が奇跡的に癒され、彼の親しい友人/弟子となったニコラス・モトヴィーロフという人がいました。この師弟の会話は、ロシア正教の神秘主義霊性の最も優れた例として繰り返し伝えられています。 ▼寒い冬の朝、森の外れで弟子のモトヴィーロフがセラフィームに尋ねます。

弟子:「どのようにしたら、私が神のうちにいることを知ることができるでしょうか?」

セラフィーム:「それはとても単純なことです。すでに話した以上に、どんな説明が必要でしょうか。友よ、私たちは、今この瞬間に神の霊のうちにいるのです。……どうして私をみつめようとしないのですか。」

弟子:「父よ、私はあなたを見つめられません。あなたの目から光が放たれて、あなたの顔は太陽よりも明るくて、あなたを見つめると目が痛いのです。」

セラフィーム:「恐れることはない。この瞬間にあなたもまたわたしのように明るい光を放っているのです。」セラフィームは弟子のそばに身をかがめて低い声で言いました。「わたしたちにふり注いでいる無限の愛に感謝しなさい。…私は十字を切ることさえせず、ただ心の中で神に語りかけ祈るだけで十分だったのです。主よ、この人が肉眼であなたの霊の臨在をはっきりと見るのにふさわしい者としてください。……私の友よ、あなたが見たように、主はすぐにこの卑しい私の祈りを聞き入れて下さった。…私たち二人に恵まれたこの賜物についてどれほど神に感謝したらよいのでしょうか。砂漠の修道士たちでさえ、このような神の愛の現れにめったに恵まれなかったのです。……私の友よ、どうして私の顔を真直ぐに見つめようとしないのですか。単純な心をもってご覧なさい。主はあなたと共におられるのです。」

弟子のモトヴィーロフは、目もくらむような強い光の中で、すぐそばで語りかけるセラフィームの顔の動きが分かり、声が聞こえ、手で肩をつかまれているのが分かるけれど、まばゆい光で長老の手も、相手のからだも自分のからだも見ることができません。彼は畏敬に満ちた恐れに打たれます。

セラフィーム:「今どんな気持ちですか」

弟子:「この上なく良い気分です」

セラフィーム「どんなふうに良いのですか」

弟子:「私のたましいの中にすばらしい静けさと平安を感じて、言葉では言い表せません。」

セラフィーム:「神を愛する者よ、これは、『わたしはあなたがたにわたしの平安を与えよう』と言われた平安、人のすべての思いを超える平安です。 ほかに何を感じますか。」

弟子:「心の隅まであふれんばかりの喜びです。」

セラフィーム:「聖霊が人の上にくだり、その溢れる力が彼を覆いつくす時、魂は言い尽くせない喜びにあふれるのです。なぜなら、聖霊に触れる人はみな喜びに満たされるのですから。天国の前触れがこれほど甘美なものであるなら、悲しんでいる者のために天国で備えられている喜びは何と表現すれば良いのか。友よ、あなたもこの地上の生涯で十分に泣いてきました。主はどんなに大きな喜びをもって、この地上の生涯でもあなたを慰めてくださることがお分かりになりますか。……

主がすでに今あなたを慰めようとして送ってくださった喜びをじっとかみしめなさい。今こそ働き、いつも努め励み、キリストの姿ほどの完全な背丈に達しようといよいよ大きな力を得なければなりません。……」 [⑥]

キリストの光は、悔い改めて神に立ち帰る人の内に差し込み、キリストに似た姿に私たちを造り変えます。何にも揺るがされない平安・変わることのない喜びを与えます。それを妨げるのが、私たちの魂の内にある罪です。罪が私たちの内の聖霊の働きを妨げます。私たちが、平安がない時、喜びがない時、神に喜ばれない何か、捧げ切っていない何か、不徹底がないでしょうか。神に全く従い、捧げた心の内に、聖霊は来てくださり、温かい光をもって、平安と喜びをもたらしてくださいます。

セラフィームは、クリスチャンの生涯の目標は「聖霊を受けること」(=私たちの言葉遣いでは「聖霊に満たされ続けること」)以外であってはならないと強調したように、絶えずへりくだって悔い改め、聖霊の満たしを求めましょう。この恵みの内に、へりくだりと愛を通して、平安と喜びに歩むことを求めましょう。

【まとめ】

① 主イエスこそ「聖書が指し示す方」です。② 主イエスこそ「栄光の神の子・十字架で罪を担われた苦難のしもべ」です。③ 主イエスこそ「栄光を受けた人間の先駆け」です。 ▼キリストの威光を目撃し、キリストを見つめ続け、へりくだって従った弟子たちのように、私たちもキリストだけを見つめて、その教えに聞き従い、聖霊の恵みを頂いて、希望と喜びに生きる者として頂きましょう。


[①] 出エジプト24:12-18など。「6日」「山」「3人の信仰者」「輝く雲」「神の声」「幕屋」「モーセの顔の光」「弟子たちの恐れ」などが重なります。G. K. Beale and D. A. Carson, Commentary of the New Testament Use of the Old Testament, Matthew 15:21-18:14; G. Osborne, Matthew, Zondervan Exegetical Commentary on the New Testament, 17:1

[②]「高い山」の名前は聖書には記述がありません。伝承では「タボル山」とされますが、標高が低く、山頂にはローマ軍の駐屯地があったとの記録があります。ヘルモン山は標高が高く、ルカ福音書で山上で一夜を過ごすには寒すぎます。イスラエル最高峰のメロン山が有力候補とされます。(G. Osborne, 前掲書など)

[③] 「彼の言うことを聞け」という言葉は、主イエスの権威を示しています。

[④] ①マタイ16:21, 17:12、②ルカ9:31、③マタイ17:5、イザヤ42:1, 53章

[⑤] モーセ:出エジプト33:22-23、エリヤ:列王記上19:13

[⑥] N.T.ライト「シンプリー・ジーザス」11章、ゴードン・マーセル「キリスト教のスピリチュアリティ」5章、V.ロースキィ「キリスト教東方の神秘思想」11章、セルゲーイ・ボルシャコーフ「ロシアの神秘家たち」7章