マタイ28:1-10「恐れることはない」

2023年4月9日(日)イースター礼拝 メッセージ

聖書 マタイ福音書28章1-10節
説教 「恐れることはない」
メッセージ 堀部 里子 牧師

【今週の聖書箇所】

「わが口は真実を述べ、わがくちびるは悪しき事を憎む。わが口の言葉はみな正しい、そのうちに偽りと、よこしまはない。」

箴言8:7-8

「この御使は女たちにむかって言った、「恐れることはない。あなたがたが十字架におかかりになったイエスを捜していることは、わたしにわかっているが、もうここにはおられない。かねて言われたとおりに、よみがえられたのである。」

マタイ28:5 -6a
シモン・チェホヴィッチ画: 「復活」 Wikimedia Commons

イースターおめでとうございます。皆さんはどのような受難週を過ごされましたか。先週木曜日に教会員のYさんのもとに、フィリピンから里子(さとご)のMさんが来日されました。教会挙げてMさんのビザのため、来日のためにお祈りを重ねてきたからか、私は初対面ですのに懐かしい感じがしました。MさんとYさんは血は繋がってはいませんが、まるで実の親子のようです。お二人の再会が実現して主に感謝いたします。YさんはMさんに「お父さん、教会に行ってください」と懇願されて、コイノニア・クリスチャン・チャーチに導かれました。金曜日にMさんが教会にご挨拶に来られた時、たくさんのお証しを伺いました。日本行きのためにいくつものチャレンジがあったそうですが、不思議とすべてのことを神様が絶妙のタイミングでクリアしてくださったそうです。Mさんも「神様、どうしたらよいでしょうか」と信仰をもって必死に祈ったので、神様が明確な答え与えたのでしょう。彼女の信仰の歩みに私は大いに励まされました。Yさんのように誰かの一言が心に残り、実際に行動を起こさせ、人生に大きな変化をもたらすきっかけとなることが私たちにもあるのではないでしょうか。

【キリストの地上における使命】

「人の子がきたのも、仕えられるためではなく、仕えるためであり、また多くの人のあがないとして、自分の命を与えるためである。」(マルコ10:45)

今日は「イエス・キリストの復活」をお祝いする礼拝ですが、復活の話に入る前に、その前に起こった「十字架の死」について触れたいと思います。イエス様は不当な裁判にかけられ、十字架刑で一度完全に死なれました。イエス様の地上の生涯を一言で表すなら「人に理解されなかった人生」だと私は思います。神の子であることを人々に理解されずに死にました。イエス様の十字架上で発された言葉に「すべてが終った」(ヨハネ19:30)という言葉がありますが、他の翻訳では「完了した」「成し遂げられた」と訳されています。これは決して絶望的な意味でなく、「完成した・目的を達成した」という意味が込められています。

イエス様の達成した目的とは何だったのでしょうか。それは、十字架の死による罪の赦し・救いでした。そのための身代わりの死でした。イエス様が架かった十字架にすべての罪が吸収され、一斉に死に葬られました。しかし同時にイエス様のもう一つ重要な使命が「復活すること」でした。「死と復活」が表裏一体で、ワンセットなのです。イエス様の死には、新しい命が満ちているのです。

「よくよくあなたがたに言っておく。一粒の麦が地に落ちて死ななければ、それはただ一粒のままである。しかし、もし死んだなら、豊かに実を結ぶようになる。」(ヨハネ12:24)

フランスの啓蒙期時代、ひとりの男が、皮肉屋で無神論者である当時の首相タレーランのところに来て、「私は新しい宗教を広めようと思っているのですが、首相であるあなたの署名をお願いできませんか」と言った。その男はまた、自分の宗派のために、どうしたら大衆の支持を獲得できるか知恵を貸してほしいと頼んだ。そのときタレーランは、「それなら、自分を十字架について、三日目によみがえってみせることをお勧めしますね」と答えたと言われている。(「キリストの復活」メリル・C・テニイ著p50)

もしイエス様が他の人間と同じく死んだままよみがえらなかったなら、ただ英雄の一人が死んだと見なされただけだったかもしれません。イエス様の死がすべての人類に救いをもたらすことになったのは、復活されたからこそ他の人間とは別なのだということがはっきりした出来事となりました。あなたはイエス・キリストの復活を信じますか。

【二人のマリアが目の当たりにしたこと】

 今日の聖書の記事を見て見ましょう。

「さて、安息日が終って、週の初めの日の明け方に、マグダラのマリヤとほかのマリヤとが、墓を見にきた。」(1)

二人のマリアという女性たちがイエス様の葬られたお墓へと急ぎました。安息日とは、太陽暦の金曜日の日没から土曜日の日没の時間で、モーセの十戒(出エジプト20:8-11)に定められた休息期間でした。神を敬うために聖別された時間なので、一切の労働が禁じられていました。ですから二人の女性は安息日が終わり、明け方になると急いでお墓へ行きました。他の福音書では買った香料を持って行ったとあります(マルコ16:1)。香料は遺体に塗るもので、二人はイエス様を偲んで最後のお別れをしに一番に来たと思われます。当時のイスラエルでは、誤って生きたまま葬ってしまうことを避けるために、葬ってから三日目にお墓を訪ねる習慣があったそうです。

またローマ時代には、遺体の腐敗臭が外に漏れないように、また動物が遺体を食い荒らすことがないように、お墓を石で封印して隙間なく塞がなくてはなりませんでした。粘土で塞いだそうです。しっかりと塞がれたお墓の石は女性二人が開くことはできませんでした。しかし二人は、愛するイエス様の死を前にして自分たちができる精一杯の愛情と誠意を表そうとしました。

すると、不思議な現象が目の前に繰り広げられました。

「すると、大きな地震が起った。それは主の使が天から下って、そこにきて石をわきへころがし、その上にすわったからである。」(2)

大きな地震が起こって、主の使いが現れお墓の前の大きな石を転がしました。大きな地震が起こっただけでもびっくりしたと思いますが、天から主の使いも出現しました。主の使い(天使)の姿は3節「その姿はいなずまのように輝き、その衣は雪のように真白であった。」とあります。お墓を見張っていた番兵たちは「恐ろしさの余り震えあがって、死人のようになった。」(4)と。その天使が女性たちに話し始めました。

恐れることはない。あなたがたが十字架におかかりになったイエスを捜していることは、わたしにわかっているが、もうここにはおられない。かねて言われたとおりに、よみがえられたのである。さあ、イエスが納められていた場所をごらんなさい。そして、急いで行って、弟子たちにこう伝えなさい、『イエスは死人の中からよみがえられた。見よ、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。そこでお会いできるであろう』。あなたがたに、これだけ言っておく。」(5-7)

 イエス様が十字架刑で死んだことで心が悲しみと不安でいっぱいだった二人のマリアは、天使からイエス様の「復活の知らせ」を受けました。彼らの心は更に混乱したかもしれません。お墓は死の象徴で、そのお墓を閉ざしていた石が転がされたことは、暗闇・死が取り除けられたこと、つまり「死に勝利したイエス様」を表しています。天使はイエス様の誕生の時にも現れましたが、正に復活が超自然的で特別な出来事だということを聖書ははっきりと記しています。

イエス様の十字架刑の後は、マリアたちや弟子たちのの心を、恐れが支配していたことでしょう。でも「かねて言われたとおりに」、イエス様は十字架で死ぬこと、墓に葬られること、そしてよみがえることを話してきました。ですからある日突然起こったことではありませんでした。

「ああ、愚かで心のにぶいため、預言者たちが説いたすべての事を信じられない者たちよ。キリストは必ず、これらの苦難を受けて、その栄光に入るはずではなかったのか。」(ルカ24:25-26)

イエス様はご自分で約束したことをしっかり守られ、「死という牢獄」を打ち破って出て来られたのです。ですからお墓の中にイエス様を探そうとすることは愚かなことです。復活の知らせを聞いた二人のマリアに、恐れの中にも喜びが芽生えました。彼女たちは、お墓から立ち去り、「主の復活」を伝えるため弟子たちのところへ走って行きました。死んだと思ったイエス様が生きていると聞き、いてもたってもいられなくなったはずです。

「そこで女たちは恐れながらも大喜びで、急いで墓を立ち去り、弟子たちに知らせるために走って行った。」(8)

【開かれた墓と開かれる心】

私の大好きなクリスチャンミュージックの曲で♪「No Longer Slaves(恐れの奴隷ではない)」という歌がありますが、私たちは自分の心が占めていることに囚われるなら、その奴隷であると言えます。あなたの心は心配や恐れ、不安がありますか。「恐れ」は真実を見えなくします。イエス様のお墓が開かれたように、私たちの心も開かれる必要があります。死を含むすべての恐れに勝利されたイエス様を心に招き入れた瞬間から、私たちの「神の子」としての歩みが始まるのです。

弟子たちに「イエス様は生きている!」とセンセーショナルなニュースを伝えに行く途中で、イエス様ご自身直接がマリアたちに出会ってくださいました。

「すると、イエスは彼らに出会って、『平安あれ』と言われたので、彼らは近寄りイエスのみ足をいだいて拝した。そのとき、イエスは彼らに言われた、『恐れることはない。行って兄弟たちに、ガリラヤに行け、そこでわたしに会えるであろう、と告げなさい。』」(9-10)

天使とイエス様は同じことをマリアたちに伝えました。「恐れることはない」と。同じことを違う人から違う角度で語られると私たちは「これは真実かも」と確信へ徐々に至ることができるのではないでしょうか。天使は「弟子たち」と言いましたが、イエス様は弟子たちを「わたしの兄弟たち」と呼びました。彼らに裏切られたにも関わらずです。そして「ガリラヤ」でもう一度会おうとイエス様は弟子たちを招かれました。「ガリラヤ」は弟子たちがイエス様に最初に出会った場所であり、弟子として召された場所でした。ですから「ガリラヤ」は彼らの原点とも言える場所です。

弟子たちはイエス様の十字架の死後、心を閉ざし、閉ざされた空間に閉じこもっていました。彼らの心も開かれる必要がありました。私たちの心はどうでしょうか。イエス様の前に開かれているでしょうか。あなたにとっての「ガリラヤ」はどこですか。また原点であるイエス様に戻る必要はないでしょうか。イエス様はおっしゃいます。「ガリラヤに行け、そこでわたしに会えるであろう。」(10)

【恐れが喜びへ】

イエス様は愛情を持って慕う者たちに出会ってくださる方です。「平安あれ」とは別訳では「喜びなさい」という言葉で、当時は挨拶として用いられていました。女性たちはお墓の中に死んで横たわるイエス様を見に行ったのに、生きておられるイエス様に会ったのです。

「大きな恐れと大きな喜び」はイエス様が誕生されたときにもありました。イエス様の誕生を聞かされて恐れつつも喜びながらベツレヘムに駆けつけた羊飼いたちにマリアたちは似ています。

私たちは何に対して恐れを抱き、何に対して喜びに包まれるのでしょうか。過去に対して引きずったり、同じ間違いをしないかと恐れを抱いていないでしょうか。自分自身の過去の消せない失敗や罪を心に抱え続けていないでしょうか。それらが苦い根となってあなたの心をこれ以上蝕むことのないように、すべての恐れをイエス様にお委ねしましょう。イエス様は、御自分にそれらを委ねる者には、責任をとって十字架の死で解決してくださったのです。そして新しく生きるために「恐れることはない」と私たちに声をかけてくださる方です。イエス様の十字架も復活も人生を変え、人間を変える出来事です。復活したイエス様と出会った女性たちはイエス様を拝みました。「拝んだ」ということは、イエス様がよみがえったことをはっきり信じて礼拝したということです。

【復活の証人として】

何が信じる助けになるでしょうか。充分に検証された証拠や証人の存在だと思います。しかし何よりも確実なのは、生きているイエス様と個人的に出会うなら真実だと信じざるを得ないでしょう。「イエス様が生きている」と宣言することは信仰無しには難しいことです。今回、私はイースター礼拝のメッセージを準備する中で、何が復活の証拠となるのだろうかと考えながら聖書を読み、いろいろと本も読みましたが、行きついた結論は、「ただ信じる以外ない」ということです。イエス様は私たちが信じることができるようにと出会ってくださる方なのですから。旧約聖書中にもメシアの受難と復活に関する預言が書かれており、その成就に他なりません。

 疑い深い弟子のトマスは、「わたしは、その手に釘あとを見、わたしの指をその釘あとにさし入れ、また、わたしの手をそのわきにさし入れてみなければ、決して信じない。」(ヨハネ20:25)と言っていました。するとイエス様が実際にトマスに現れて「あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。手をのばしてわたしのわきにさし入れてみなさい。信じない者にならないで、信じる者になりなさい」(27)とおっしゃったとき、トマスは「わが主よ、わが神よ」(28)と答えました。

「キリストの復活」に対して私たちが取るべき態度は信じるか、信じないかの二者択一です。人は見たこと、聞いたこと、経験したことのない出来事を前にすると、恐れを抱くことが多いのかもしれませんが・・・。

「すなわち、自分の口で、イエスは主であると告白し、自分の心で、神が死人の中からイエスをよみがえらせたと信じるなら、あなたは救われる。なぜなら、人は心に信じて義とされ、口で告白して救われるからである。」(ローマ10:9-10)

もしまだイエス様が私の罪のために十字架で死に、三日目のよみがえり今も生きておられることを信じていない方がいらっしゃるなら、是非信じていただきたいと思います。イエス様や教会から離れていた人は、戻って来てください。すでに信じている方は「復活の証人」として更にイエス様に従い続けてください。イエス様と出会った人たちは、「復活の証人」としての使命があるのです。イエス様の復活は、後の「私たちの復活の予表」です。そしてイエス様が再び来られる日まで、恐れず確実に歩んで参りましょう。皆様の新しい一週間の上に、主の復活の恵みが豊かにありますように。

「もしキリストがよみがえらなかったとすれば、あなたがたの信仰は空虚なものとなり、あなたがたは、いまなお罪の中にいることになろう。」(Ⅰコリント15:17)