マタイ22:15-22「神のものは神に」

2023年10月22日(日)聖霊降臨後第22主日礼拝

聖書 マタイの福音書 22章15~22節
説教 「神のものは神に」
メッセージ 堀部 舜 牧師

【今週の聖書箇所】

15そのときパリサイ人たちがきて、どうかしてイエスを言葉のわなにかけようと、相談をした。16そして、彼らの弟子を、ヘロデ党の者たちと共に、イエスのもとにつかわして言わせた、「先生、わたしたちはあなたが真実なかたであって、真理に基いて神の道を教え、また、人に分け隔てをしないで、だれをもはばかられないことを知っています。17それで、あなたはどう思われますか、答えてください。カイザルに税金を納めてよいでしょうか、いけないでしょうか」。18イエスは彼らの悪意を知って言われた、「偽善者たちよ、なぜわたしをためそうとするのか。19税に納める貨幣を見せなさい」。彼らはデナリ一つを持ってきた。20そこでイエスは言われた、「これは、だれの肖像、だれの記号か」。21彼らは「カイザルのです」と答えた。するとイエスは言われた、「それでは、カイザルのものはカイザルに、神のものは神に返しなさい」。22彼らはこれを聞いて驚嘆し、イエスを残して立ち去った。

マタイ22:15-22
ドミンゴス・セルグエイラカエサルのコイン 1790 パブリック・ドメイン

【先週】 先週は、ファミリー礼拝・コンサートが持たれました。初めて参加する方や子どもたちも多かったこと、感謝いたします。沖縄から家族が来られたことも、感謝でした。河口湖周辺に旅行し、ファミリーコンサートに参加し、多くの方とお会いして帰った充実した時であったこと、皆さんのお祈りとお支えに感謝いたします。

【導入】 今日の箇所は、信仰と政治の関係で、良く引用される個所です。▼教会と政治の関係は、私の教派では、教会はどちらかというと政治から距離を置く傾向があるように思います。私のような一般の牧師は専門知識がないため、政治の問題に触れるのは難しいということがあります。▼一方で、第二次世界大戦中の日本でのキリスト教弾圧や、ドイツでのナチスとの教会闘争などの歴史を振り返れば、政治に無関心であることの危険性も明らかです。▼旧約聖書の預言者たちは、政治に口を出さないということは決してありませんでした。むしろ社会の不正や暴力を厳しく糾弾し、正義を求めました。 20世紀の歴史を見ても、アメリカの公民権運動も、南アフリカの人種隔離政策撤廃も、旧ソ連時代の東欧諸国の東欧革命でも、教会が重要な役割を果たしたと言われます。 ▼現代の世界各地で、戦争・紛争の報道が増えているように感じます。

複雑な社会情勢を分析することは、牧師の役割ではありません。しかし、聖書にしたがって現実の社会にどう向き合っていくべきか、ある程度の原則が必要だとも思います。私は不勉強な分野ですので、いきなり聖書全体や教会史の話をすることはできませんが、今日の聖書箇所のような個別の学びを積み重ねていきたいと思います。

【背景】 今日の論争は、主イエスが十字架にかかる受難週の火曜日の出来事と言われます。パリサイ人たちとの対立が厳しくなり、彼らは主イエスを失脚させるために、政治的に極めてデリケートな質問をします。▼主イエスの時代、イスラエルの地域はいくつかに分割されていました。ユダの地域はAD6年から、ローマ帝国が直接支配するようになり、税金が課されます。この時、ガリラヤのユダという人物がローマ帝国に反乱を起こしました。今日の記事はその20数年後の出来事です。▽「ローマに税金を払うべきか」という質問は、納税を認めれば愛国的ユダヤ人の反感を買い、納税を認めなければローマ帝国から危険視される、危険な質問でした。

■【1.偽善者たち!】

16節後半で、彼らは偽りの謙遜で、主イエスの言葉尻を捕らえようとします。

16…「先生、わたしたちはあなたが真実なかたであって、真理に基いて神の道を教え、また、人に分け隔てをしないで、だれをもはばかられないことを知っています。17それで、あなたはどう思われますか、答えてください。カイザルに税金を納めてよいでしょうか、いけないでしょうか」。

「カエサル」は、元々は個人名でしたが、当時は皇帝の称号になっていました。当時の皇帝はティベリウスでした。▼税金にはいろいろありましたが、ここで言われている人頭税は、ローマ市民以外の異民族に課された税金です。しかも、ユダヤ人の徴税人を通してではなく、ローマ人に直接支払わなければならない直接税でした。ローマに対する服従の象徴として、暴動のきっかけとなるほど反感を集めたのが、この人頭税でした。

当時の宗教指導者たちの多くは、ローマへの納税に反対していたようです。それに対して、16節の「ヘロデ党の者たち」というのは、ヘロデ王朝の支持者ということ以外はよく分かりませんが、後ろ盾となるローマ帝国を指示していたとも推測されています。主イエスを「言葉の罠」に陥れるために、立場の異なる人々が結託しているようです。

【言葉の偽善】 主イエスは彼らを「偽善者たち」と呼びました。▼口では素晴らしい言葉で賞賛しながら、心では主イエスを罠にかけて滅ぼすことを計画していました。▽税金のことで、律法に従うことを求めているように見せかけて、本当の狙いは、ローマの手で主イエスを滅ぼすことにあります。

彼らの心は、神の前に正しく生きることを求めていたのではなく、主イエスから叱責された自分たちの名誉・プライド・既得権を守るために、主イエスを押しのけることを考えていました。 ▼彼らが求めるのは真理ではなく、自分の利益でした。主イエスには「だれをもはばかられない」と称賛しますが、彼らは自分たちの利益を求め、人々を恐れています。▽人々を恐れて、主イエスに直接手を掛けず、ローマ帝国の手で滅ぼそうとします。主イエスを罠にかけるためには、おべっかを使い、立場の異なるヘロデ党の手を使います。

18イエスは彼らの悪意を知って言われた、「偽善者たちよ、なぜわたしをためそうとするのか。19a税に納める貨幣を見せなさい」。

当時のユダヤには、ローマ帝国が作った貨幣と、ユダヤ当局が作った貨幣の2種類がありました。ローマ帝国に税金として納めるお金は、ローマの貨幣です。人頭税は毎年一人当たり1デナリオンでした。1デナリオンは日雇い労働者の一日の賃金ですから、5000-10000円。貧しい人々には負担だったと思いますが、単独で生存を脅かすような重税ではありませんでした。

19b彼らはデナリ一つを持ってきた。20そこでイエスは言われた、「これは、だれの肖像、だれの記号か」。21彼らは「カイザルのです」と答えた。

写真は当時のティベリウス帝の時代のデナリ銀貨です。皇帝が変わるたびに新しく鋳造され、その権威を表したそうです。▼彫られている肖像は、皇帝ティベリウスの像です。▽そして、刻印されている文字は、表には「皇帝ティベリウス、神である偉大な者、アウグストゥスの子」。裏には「大祭司」という意味の言葉が刻まれています。皇帝を「神」として、「大祭司」として称賛しています。 ▼これが、ユダヤ人の間で大きな問題でした。神とされる皇帝の肖像が刻まれていることは、偶像を禁じた十戒に違反すると考えられました。ユダヤの日常生活ではローマの貨幣が使われたのですが、特に神殿でこの貨幣を使うことをユダヤ人は忌み嫌いました。ローマ帝国側もユダヤ人の宗教的な反感をあおる危険性を理解して、神殿ではユダヤの貨幣を使うことを認めていました。▼(神殿で行われていた両替とは、普段使っているローマの貨幣を、神殿で使えるユダヤの貨幣に交換することでした。)

【矛盾】 彼らは、ローマ帝国への納税は否定するけれど、異教的な肖像と銘が刻まれたローマの貨幣や使い続けています。一貫性がありませんでした。▽納税という一点では、律法を厳格に守ろうとするのですが、彼らが日常的に使っている貨幣は、明らかに偶像礼拝的な肖像と銘の入ったものでした。▼あまりにも身近であったので、何も考えなくなっていたのかもしれません。▽誰も何も言わないので、あえて問題にしようとしなかったのかもしれません。 ▼主イエスは銀貨を見せるように求めていることから、主イエスの一行はローマの貨幣をもっていなかったのかもしれません。「カイザルのものはカイザルに」という主イエスの言葉は、「税金を納める」という選択肢だけでなく、律法に厳格な人々に対しては「ローマの貨幣を使わずに生きる」という選択肢もありました。▽ローマの貨幣を使って、経済的な恩恵を受けているなら、納税の義務を逃れることはできません。しかし、パリサイ人たちは、異教的な肖像と銘の入ったローマの貨幣を用いて経済的な特権を享受していながら、民族としてのプライドから、納税という民族的な屈辱は避けようとしました。

【適用】 私たちはどうでしょうか。口では「神に従う」と言いながら、言葉と行いが一致しないことはないでしょうか?改めて考えれば、二重基準に従っているような点はないでしょうか?何が神に喜ばれることか、祈り、御言葉に耳を傾けて、確信をもって従っていくことを願います。

【律法の解釈】 「皇帝に税金を納めるのが良いか」という質問は、政治的に非常にデリケートでしたが、律法の解釈の重要な問題でした。▼律法は非常に古い時代に作られて、その後時代は大きく変化しています。モーセの律法は、ローマ帝国に支配された状況を想定してもいません。そのような、時代の変化の中で、どのように律法に従っていくか、律法を解釈するのが律法の専門家の役割でした。そのような時代を越えて聖書の掟を適用していくには、専門的な知識が必要でした。▼主イエスは、まさに、律法の真の解釈者でした。

【聖書解釈の「単純さ」と「奥深さ」】 キリスト教会では「聖書は誰でも理解することができる」ということが強調される傾向があります。一方で、ユダヤ教では、聖書は生涯かけて学ぶものであり、現代社会への律法の具体的な適用は、専門家が判断することです。 ▼この両方が大切だと思います。あるキリスト教の学者が、聖書は「幼子でも理解できるほどシンプルであり、最も優れた学者が生涯かけても汲み尽くすことができない深みがある」と言いました。▽聖書は、聖霊が導いて下されば、誰でも理解でき、神を信じ、神と共に生きることができることは、重要な真理です。しかし、丁寧に読み解いていけば、汲み尽くすことのできない深みや広がりがあることを、心に留めたいと思います。

 「皇帝に税金を納めるのは、律法にかなっているか」という疑問は、政治的にデリケートなだけでなく、純粋に難しい質問でした。旧約聖書はそのような状況を想定していないからです。▽律法学者たちは、皇帝に税金を納めることに反対しながら、他方では、異教的な貨幣を使い続けていました。もし私たちがこのような問題に真剣に向き合うならば、一貫性のない生き方は、深刻な葛藤を生みます。「自分はこれでいいのか」という疑問を抱きながら生きるのは葛藤を生みますし、葛藤に目をつぶれば主イエスが咎められた偽善におちいります。▼聖書の中で疑問にぶつかる時、私たちは聖書と真剣に格闘しなければなりません。▼私たちの救いについて、信仰生活について、祈りについて、罪について、人間関係についても、実生活の中で御言葉に向き合えば、多くの疑問が湧いてきます。それを学び、深めていくことが、とても大切です。 ▼複雑なこの社会で、クリスチャンとしてどのように向き合うか、機会をとらえて学んでいかなければならないと考えています。

■【2.カイザルのものはカイザルに】

21bするとイエスは言われた、「それでは、カイザルのものはカイザルに、神のものは神に返しなさい」。22彼らはこれを聞いて驚嘆し、イエスを残して立ち去った。

ローマの貨幣には、皇帝の「肖像と銘」が刻まれていました。それは、①本来、律法を厳格に守るユダヤ人が用いるのにふさわしいものではありませんでした。そして、②その富は、皇帝に帰属することを意味しています。 ▼そうであるならば、①律法に厳格であるならば、異教的な富は、本来彼らに返してしまえばよいのです。そして、②皇帝に属する貨幣を用いているなら、皇帝が受け取るべきしかるべき分を、皇帝に納めることは当然のことです。 ▼「(皇帝に)返す」という言葉は、「もともと皇帝のものであったものを返す」「当然支払うべきものを支払う」というニュアンスがあります。

 新約聖書のパウロやペテロの教えは、この主イエスの教えから発展していると言われています。皇帝などの権威に従うことを命じています。

1ペテロ2:13-17「13あなたがたは、すべて人の立てた制度に、主のゆえに従いなさい。…16自由人にふさわしく行動しなさい。ただし、自由をば悪を行う口実として用いず、神の僕にふさわしく行動しなさい。」

ローマ13:1-2a「1すべての人は、上に立つ権威に従うべきである。なぜなら、神によらない権威はなく、おおよそ存在している権威は、すべて神によって立てられたものだからである。2したがって、権威に逆らう者は、神の定めにそむく者である。」

 特に1ペテロの手紙は、激しい迫害の中で書かれていることに心を留めたいと思います。この時代の迫害は、すでに厳しかったのですが、おそらくまだ個人的な迫害で、教会全体を滅ぼし尽くそうとするような1世紀末~2世紀に起こった組織的で徹底的な迫害はおこっていなかった、ということかもしれません。黙示録はより遅い時代に書かれましたが、ローマ帝国が悪魔的な「獣」として描かれています。

 この世の権威と神の権威が対立した時は、神の権威が優先されています。使徒4:19-20は、ペンテコステの直後、主イエスの復活を証言しないように脅された時の使徒たちの言葉です。

使徒4:19-20「19…「神に聞き従うよりも、あなたがたに聞き従う方が、神の前に正しいかどうか、判断してもらいたい。20わたしたちとしては、自分の見たこと聞いたことを、語らないわけにはいかない」。」

 第二次世界大戦中の日本や、日本の統治下の朝鮮の教会のように、政府から神社の参拝を命じられた時、これに従うことができないのは、この原則に該当します。

 神の明確な御心に背くことになるならば、「人に従うよりも、神に従う」のが、使徒たちの原則でした。▽他方で、主イエスは、皇帝への納税のような社会の制度については、支配者が受けるべき妥当な分であり、律法に背くことにはならないことを教えました。使徒ペテロ自身、上述の1ペテロ2:13のように、「すべて人の立てた制度に、主のゆえに従いなさい」と教えていることを心に留めたいと思います。[1]

【神への献身】 21節の最後に、「神のものは神に返しなさい」とあります。自分自身を神に献げることです。 ▼ローマの貨幣には、皇帝の肖像が刻印されていました。人間には「神のかたち」が刻まれています。20節の「肖像」という言葉ですが、創世記のギリシャ語訳で「神は人をご自身のかたちとして創造された」と言われた時の、「(神の)かたち」という言葉と同じです。▽(このつながりを主イエスご自身が意識して言われたかどうかは分かりません。)しかし、硬貨に皇帝の像が刻まれて、皇帝のものであることが示されているように、人には神の像が刻印されていて、神のものであることが示されています。

人間は神のものである。▼愛し合う夫婦が一体であり、互いに相手のものであり、愛によって相手のために生き、相手のために仕えます。そのように、神と人への愛の内に、キリストのように生きる者として創造されています。

 神以上に愛するものがあってはなりません。神は、妬むほどに人を愛しておられます。▽富を愛してはならない。名誉も、社会的成功も、神を愛し、求める以上であってはならない。▼皇帝に仕えるように命じられています。でもそれが富を得るためであってはなりません。社会的地位を守るためであってはならない。▽神が立てた権威として、皇帝を認め、神のしもべとして、仕えるべきです。権威を恐れてへつらってはなりません。神が守ってくださるのを信頼し、神を恐れ・愛し、自由な愛でこの世の権威に従います。

【2つの義務】カイザルのものはカイザルに、神のものは神に返しなさい」。この主イエスの教えは、「この世」に対する義務も、「神」に対する義務も、どちらもおろそかにするべきでないことを教えていると思います。▼この世に従って、神への務めをおろそかにしては習いません。/神への熱心を言い訳にして、この世に対する当然の務めをないがしろにしてはなりません。聖書はその両方を求めています。▼神のゆえに、地上の権威に従うのです。

 同時にここに、クリスチャンの忍耐が求められていると思います。しばしばこの世はクリスチャンを理解せず、冷淡な態度や批判的な態度を取ることがあります。迫害下のペテロが従うことを命じたように、主イエスが支配者である皇帝への納税を命じたように、世俗の権威に忍耐強く従うことを命じられています。

 「カイザルのものはカイザルに、神のものは神に返しなさい。」――当然するべきものであっても、決して簡単なことではありません。それを忠実にしていくことによって、私たちを見る人々が神を崇め、神に喜ばれることであることを覚えたいと思います。

 いずれもすでに紹介したことがある人物ですが、2人の人を政治の荒波の中で戦った二人の逸話を再掲します。

【矢内原忠雄】 旧東京帝大学教授の矢内原忠雄は、無教会派の指導者でした。経済学者として戦前の日本の植民地経営を鋭く批判しました。1931年に始まる満州事変で、多くの学者が沈黙する中、矢内原は覚悟を決めて、日本の国体・天皇の神性・国家至上主義という、最も本質的な問題に正面から切り込む論文を発表します。1937年、国家主義に押された教授会の圧力で、矢内原は教授職を辞職し、著書は発禁処分となります。退職前の最終講義で矢内原は述べています。「…私自身はこのことをなんとも思っていない。私は身体を滅ぼしても魂を滅ぼすことのできない者を恐れない。私は誰をも恐れもしなければ、恨みもしない。」キリスト者としての良心に従い、ただ神により頼んで、国家の罪を糾弾した、預言者のような姿を、矢内原の内に見ることができます。

【ミャンマー人宣教師】 私の友人に、日本で救われたミャンマー人宣教師(牧師)がいます。2年前にミャンマーで軍事クーデターが起きた時、彼女はミャンマー大使館で働きながら教会で仕えていました。兵士が国民に銃を向け、多くの国民が殺されていた中で、彼女は大使館職員でしたが、軍事政権への反対をSNS上で表明しました。彼女はミャンマーに家族がいて、家族は嫌がらせも受けたそうです。勇敢な反対表明の結果、彼女は大使館の職を失いました。非常に特殊な状況で前例のないビザ発給に時間がかかり、ビザがないため仕事もできず、先の見えない時期を過ごしました。今は、新しい職場でも成果が出つつあるようです。▼敵を恐れることなく、神により頼み、法に従いつつ、良心に従って歩む、生きた信仰の姿を見させて頂いています。

■【まとめ】

カイザルのものはカイザルに、神のものは神に返しなさい。」

・この世は、人々の顔色を見ます。裏があり、表があります。

・しかし、神は、神のかたちに作られた者として、まことのひととして、生きることを願われます。

 誠実を尽くし、この世の務めを果たし、不利益を受けても、神に従い通す。その人を、神は喜び、この世でも、後の世でも、報いて下さいます。


[1] 権威に反対することはできますが、制度の秩序の中で行い、暴力に訴えることは禁じられている、と理解できると思います。

追記:デジタル大辞泉「カエサルの物ものはカエサルに」の解説
神への服従と国家に対する義務とは次元の違うものであって、両者をともに守ることは矛盾ではない、と説いたキリストの言葉。本来の持ち主に返せ、の意にも用いられる。
https://kotobank.jp/word/カエサルの物はカエサルに-458898