ヨハネ20:1-31「主はよみがえられた!」

2024年3月31日(日)イースター礼拝メッセージ

聖書 ヨハネ20:1-31
説教 「主はよみがえられた!」
メッセージ 堀部 舜 牧師

Tapestry: The Resurrection by workshop of Pieter van Aelst. Wikimedia Commonsより

【今週の聖書箇所】

 19その日、すなわち、一週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人をおそれて、自分たちのおる所の戸をみなしめていると、イエスがはいってきて、彼らの中に立ち、「安かれ」と言われた。20そう言って、手とわきとを、彼らにお見せになった。弟子たちは主を見て喜んだ。21イエスはまた彼らに言われた、「安かれ。父がわたしをおつかわしになったように、わたしもまたあなたがたをつかわす」。22そう言って、彼らに息を吹きかけて仰せになった、「聖霊を受けよ。23あなたがたがゆるす罪は、だれの罪でもゆるされ、あなたがたがゆるさずにおく罪は、そのまま残るであろう」。

 24十二弟子のひとりで、デドモと呼ばれているトマスは、イエスがこられたとき、彼らと一緒にいなかった。25ほかの弟子たちが、彼に「わたしたちは主にお目にかかった」と言うと、トマスは彼らに言った、「わたしは、その手に釘あとを見、わたしの指をその釘あとにさし入れ、また、わたしの手をそのわきにさし入れてみなければ、決して信じない」。

 26八日ののち、イエスの弟子たちはまた家の内におり、トマスも一緒にいた。戸はみな閉ざされていたが、イエスがはいってこられ、中に立って「安かれ」と言われた。27それからトマスに言われた、「あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。手をのばしてわたしのわきにさし入れてみなさい。信じない者にならないで、信じる者になりなさい」。28トマスはイエスに答えて言った、「わが主よ、わが神よ」。29イエスは彼に言われた、「あなたはわたしを見たので信じたのか。見ないで信ずる者は、さいわいである」。30イエスは、この書に書かれていないしるしを、ほかにも多く、弟子たちの前で行われた。31しかし、これらのことを書いたのは、あなたがたがイエスは神の子キリストであると信じるためであり、また、そう信じて、イエスの名によって命を得るためである。

ヨハネ20:19-31

※イースター礼拝では、動画を用いてヨハネ20:1-31が聖書朗読され、ショートメッセージをしました。

イースターおめでとうございます。イースターは、イエス・キリストの復活の記念日です。 ▼教会ではクリスマス以上に、一年で一番重要な日とされてきました。旧約聖書で安息日として定められた土曜日ではなく、日曜日に礼拝を捧げるのも、主イエスが日曜日に復活されたからでした。 ▼主イエスの復活は、キリスト教の信仰の<原点>にある出来事です。

■【1.復活の証拠】

教会に来て間もない方から、「復活という不思議な出来事を、どうして信じられるのですか?」と聞かれることがあります。

<復活信仰>とは、復活を目撃した人々が伝えた証言を「聞いて受け入れる」ことです。▽使徒パウロも、自分は復活の時に立ち会わなかったので、ほかの使徒たちから教えを「受け」、自分も「伝え」た、と述べました[①]。▼復活という出来事は、①実感として感じるとか感じないとかいう問題ではありません。また②復活は「この世界」に「新しい世界」が入り込んできた出来事ですので、「この世界」の秩序を調べる科学によって検証できる事柄でもありません[②]。▼復活は、証言を聞いて吟味した上で、最終的には<信仰をもって受け止める>事柄です。

①空の墓

 主イエスの復活を示す状況証拠の1つ目は「空の墓」です。ローマ兵は命がけで墓を守り、ユダヤ人たちは復活を否定するために主イエスの遺体を必死に探しましたが、見つかりませんでした。墓泥棒は、高価な香料と亜麻布を放置するはずがありません。復活以外に、遺体がなくなった理由は説明できません。

②巻かれた亜麻布

第2の証拠は「巻かれた亜麻布」です。古い宗教画では、亜麻布は遺体に固く巻きつけた形で、横たわっています。亜麻布がほどかれることなく、身体だけがなくなっていました。それは、復活した主イエスの身体が、亜麻布を通り抜けて出て行ったことを示しています。

③弟子たちに現れる

 第3に、復活した主イエスは、多くの弟子に・同時に500人以上の前に現れ、語り合い、触れ合い、食事をとられました。ある人々は、弟子たち全員が幻覚を見たと言いますが、幻覚は個人単位で起こる現象で、大人数が同時に同じ幻覚を見ることは、通常、考えられません。この出来事を説明できる合理的な説明は、他にありません。

④弟子たちの変貌

第4に、弟子たちは、初めは決して主イエスの復活を予想していませんでしたが、イースターの後には主イエスの復活を疑うことなく、多くの反対の中で復活を証ししました。その証言のために多くの弟子が命を落としました。

この時、私たちの理解を越えた何かが起こりました。私たちは、使徒たちの言葉を、信仰をもって受け止めて、イエス・キリストは復活したと信じているのです。[③]

聖書朗読の中で、主イエスは「見ないで信ずる者は、さいわいである」と言われました。信じる人はどのように「幸い」なのでしょうか。「信じる」とはどういうことでしょうか。

■【2.信じる人の「幸い」】

(1)「平安」 ヨハネ20:19, 21, 26

 主イエスは弟子たちに「安かれ」と3回言われました。この平安こそ、キリストの十字架と復活がもたらしたものです。

 人の心が求めるものは愛だと言います。しかし、私たちが互いに自分を優先して、他人に無関心になるとき、私たちは傷つきます。▼神との関係でも同様に、神を神として敬い・礼拝しなければ、神との関係は傷つきます。▽そうした神との関係・人との関係でのあらゆる傷と痛みをご自分の身に引き受けられたのが、主イエス十字架の死でした。キリストの死は、私たちに平安をもたらします。私たちが過去にどれほど神と人を傷つけてきたとしても、キリストがその痛みを担われたので、神との関係は回復し、神の愛が私たちに注がれています。

【証し】 私は大学生の時に主イエスを信じて、洗礼を受けました。その直後のこと。聖書に忠実に従おうとして、教会に通い、毎日聖書を読み、祈っていましたが、心は渇いていました。▽忍耐強く人を愛して生きようと努めましたが、喜びや温かい愛の感情はありませんでした。そんな中で迎えたクリスマスに、非常な忙しさの中で、心が渇き切り、毎朝御言葉を書き込んで黙想していたノートを読み返していた時に、神様の愛が心に注がれてきました。▽私がどんなに無力でも、罪深くても、神様はありのままで私を愛しておられる。心の内に、「それでも、わたしはあなたを愛している」という神様の御声を聞き、悲しみも孤独も、静かな力強い愛に押し流されました。▼神が私たちを愛される土台は、私たちが何者であるかではなく、イエス・キリストが何者であるかです。▽主イエスの十字架と復活によって、私と神の関係は癒され、私が信仰によって主イエスに結びつく時、神様の愛が私に注がれるのです。そこに「平安」があります。 主イエスの手と脇腹の傷は、私たちへの愛の印、私たちの避け処です。

(2)「聖霊」 (ヨハネ20:22)

第2の幸いは、「聖霊」です。復活した主イエスは、弟子たちに「聖霊を受けよ」と言われて、神の霊である聖霊が、私たちのうちに住むようになりました。私が大学時代に、聖霊の御声を聞き、その愛の注ぎを経験したように、どんな時も、聖霊は私たちとともにおられます。私たちはもはや一人ではありません。聖霊は、イエス・キリストを信じて従う人の心に住み、聖書の言葉を自分のこととして理解させてくださり、時にかなって導きを与え、聖書の言葉や様々な出会いや機会を通して励ましてくださいます。聖霊がともにおられるということは、神が愛してくださっていることの証拠です。

(3)「いのち」(ヨハネ20:31)

もう一つの幸いは、「いのち」です。31「これらのことを書いたのは、あなたがたがイエスは神の子キリストであると信じるためであり、また、そう信じて、イエスの名によって命を得るためである」。▼このいのちは、目に見えたり、感じたりするものではありません。私たちは誰もが、やがてこの肉体は死んで朽ちていく時が来るでしょう。永遠の命は、目に見えるものではありません。▼しかし、命の尽きていた主イエスの肉体が、復活したように、やがて私たちの身体も、復活するようになることを、聖書は教えています。

固い種の中に植物の命が隠されていて、時が来ると殻を破って目が出てくるように、私たちの復活の命は、イエス・キリストのうちに隠されて保たれています。

■【3.「信じる」とはどういうことか】

私たちが「イエス・キリストを信じる」とは、どういうことでしょうか。

(1)信仰は、「段階的に深まっていくもの」

今日の箇所に出てくる弟子たちは、すでに信仰を告白し、主イエスを信じて従ってきた人々でした。▼しかし、空の墓と亜麻布を見たペテロとヨハネは、「聖句を、まだ悟っていなかった」ので、空の墓と亜麻布を「見て信じ」ました。▼使徒トマスも、復活の主イエスをその目で見て、信仰の目が開かれます。▼彼らの目が開かれた転機が何度もあったように、私たちにとっても、信仰の目を開かれる転機は、繰り返し訪れます。

(2)「実験的信仰」――研究熱心なトマス ヨハネ20:25

 プロテスタントの伝統では、自分の目で見るまで復活を信じなかったトマスを「疑い深いトマス」と呼びます。しかし、正教会の伝統では、「研究熱心なトマス」と呼ぶそうです。▽主イエスは、トマスの言葉を知っておられて、トマスに手の傷跡と脇腹の槍の傷を見せて、「信じない者にならないで、信じる者になりなさい」と招きます。

 現代の私たちは、使徒たちのように、復活の主イエスの身体を目の当たりに見ることはありません。しかし、私たちも、祈りの答えを頂き、聖書が自分のこととして心に響き、聖霊の導きや、罪の赦しによる平安や、聖霊にある愛・喜び・平安を経験することができます。これを少し古い言葉で、実体験に基づく信仰=「実験的信仰」といいます。▼復活とは、目に見える現実の物質世界の背後に、偉大な神の力が働いていることを教えます。復活の信仰は、この現実の中に生きるものです。

 主イエスは、私たちが神の力を信頼することを願われます。それは疑問を押し殺す、盲目的な生き方ではありません。疑問を通して、神を追い求める人に、神はご自分を表してくださいます。トマスのように、信仰の目を開かれた人だけが、振り返って、自分の不信仰に気づくことができるのです。

(3)真の信仰は、礼拝に導く ヨハネ20:28

 復活の主イエスを目の当たりにしたトマスは、「わが主よ、わが神よ」と言って、主を礼拝します。▼私たちは、日常を越えた聖なる神の臨在に触れる時、驚き・恐れ・戸惑い・魅了されます。私たちの理解を越えた存在に、惹きつけられます。その時、真の信仰は、神を論じるのではなく、礼拝します。神を調べるのではなく、愛して聞き従うのです。

 礼拝と賛美こそ、神に対するふさわしい態度です。真の信仰は、敬虔な礼拝に導きます。神を深く信頼し、神を礼拝し・ほめたたえる人こそ、神を深く知り・愛する者です。

■まとめ

安かれ」(ヨハネ20:19, 21, 26)

キリストの十字架の死と復活は、私たちに平安を与えるためでした。主イエスが傷を受けられたので、私たちのすべての傷ついた関係は回復することができ、神の愛が私たちに注がれています。

聖霊を受けよ」(ヨハネ20:22)

キリストが人間の救いを完成されたので、神の霊が信じる私たちすべてのうちに住まわれるようになりました。聖霊は私たちを一人にせず、語り掛け、励まし、導き、理解力を与え、信仰・希望・愛・喜び・平安を与えてくださいます。

「(あなたがたが)信じて、イエスの名によって命を得るため」(ヨハネ20:31)

イエス・キリストの身体が死の後によみがえったように、私たちも死の後に、永遠の命のよみがえりがあります。それは、今の人生に平和と希望を与え、自己中心に打ち勝つ愛と勇気を与えます。

27「あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。手をのばしてわたしのわきにさし入れてみなさい。信じない者にならないで、信じる者になりなさい」。

29「あなたはわたしを見たので信じたのか。見ないで信ずる者は、さいわいである」。

 主イエスを追い求め、主イエスを見出し、その幸いを頂く者とさせて頂きましょう。

「あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。手をのばしてわたしのわきにさし入れてみなさい。信じない者にならないで、信じる者になりなさい」。
Rembrandt, The Incredulity of Thomas, 1634 Wikimedia Commonsより

[①] 1コリント15:3-7「3私があなたがたに最も大切なこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書に書いてあるとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、4また、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおりに、三日目によみがえられたこと、5また、ケファに現れ、それから十二弟子に現れたことです。6その後、キリストは五百人以上の兄弟たちに同時に現れました。その中にはすでに眠った人も何人かいますが、大多数は今なお生き残っています。7その後、キリストはヤコブに現れ、それからすべての使徒たちに現れました。

[②] 大貫隆「イエス・キリストの復活 現代のアンソロジー」

[③] J.R.W.ストット「信仰入門」IVキリストの復活