使徒2:1-21「聖霊の火によって」

2023年5月28日(日)ペンテコステ(聖霊降臨)礼拝 メッセージ

聖書 使徒の働き 2章1~21節
説教 「聖霊の火によって」
メッセージ 堀部 里子 牧師

【今週の聖書箇所】

2 突然、激しい風が吹いてきたような音が天から起ってきて、一同がすわっていた家いっぱいに響きわたった。3 また、舌のようなものが、炎のように分れて現れ、ひとりびとりの上にとどまった。4 すると、一同は聖霊に満たされ、御霊が語らせるままに、いろいろの他国の言葉で語り出した。

使徒2:2-4
作者不詳「ペンテコステ」(部分)、Wikimedia Commons

【ペンテコステに起こったこと】

① ペンテコステに至るまで

ペンテコステおめでとうございます!「ペンテコステ」とは、ギリシャ語で「50番目」という意味です。日本語では、「五旬祭」です。いつから数えて50日なのでしょうか。それは、ユダヤの大切なお祭りである「過越祭」から数えて50日です。旧約聖書の時代、過越祭で収穫の「初穂」がささげられ、そして50日後、感謝の祭りがなされました。後に、「五旬祭」はイスラエルの出エジプト後、神様とシナイ山でモーセが契約を結んだ出来事を記念するお祭りにもなりました。そのようなユダヤ教の大切なお祭りの日、キリスト教の歴史にとっても重大な出来事が起こりました。

「五旬節の日がきて、みんなの者が一緒に集まっていると」(1)

皆とはイエス様に従ってきた弟子たちです。彼らはその年の過越祭から五旬祭までの50日間に、びっくりするようなことばかりを経験していました。先ずイエス様が十字架で殺されてしまいました。でもその三日後、イエス様は復活され、彼らに姿を現しました。そして40日後に、イエス様は天に昇って行かれたのです。弟子たち一人ひとりにとって濃い激動の50日だったと思います。そして50日目に起こったことが今日の箇所で見ることができます。

突然、激しい風が吹いてきたような音が天から起ってきて、一同がすわっていた家いっぱいに響きわたった。」(2)

 聖書では「風」という言葉は、「息」や「霊」を意味する言葉です。つまり「激しい風が吹いてきたような音」とは、「聖霊が現れたこと」を意味しています。

創世記2:7で「主なる神は土のちりで人を造り、命の息をその鼻に吹きいれられた。そこで人は生きた者となった。」とありますが、神の息が人に命を与え、生きることができるようにさせた神様の力が、神の霊・聖霊です。風も息も目に見えませんが、それらが作用して動いたものを見る時、風や息の存在を知ることができます。

五旬祭の日に突然、激しい風が吹いてきたような音こそ、弟子たちの人生を揺り動かす天の神の力である聖霊が降ってきたのです。

② ペンテコステの日、聖霊は・・・

聖霊は具体的にどんな働きをしたのでしょうか。

「また、舌のようなものが、炎のように分れて現れ、ひとりびとりの上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、御霊が語らせるままに、いろいろの他国の言葉で語り出した。」(3-4) 

3節と4節に記されている事柄がその時の聖霊の働きでした。モーセが神様から召命を受けたとき、炎を伴ってモーセに出会いました(出エジプト記3章)。炎は神の働きを示す大事なしるしです。ペンテコステの日、一人ひとり上に「舌のようなもの」がとどまりますが、「舌」は「言葉」という意味もあります。4節の「ことば」と言語では同じ単語が使われています。つまり、弟子たちに「言葉が与えられ、語る力が与えらえた」ということです。弟子たちは、突然いろいろな国の言葉で語り出しますが、それらの言葉は意味不明な叫びではありませんでした。そこに居合わせた人々が理解できる言葉でした。

③ 人々の反応は如何に

「さて、エルサレムには、天下のあらゆる国々から、信仰深いユダヤ人たちがきて住んでいたが、この物音に大ぜいの人が集まってきて、彼らの生れ故郷の国語で、使徒たちが話しているのを、だれもかれも聞いてあっけに取られた。」(5-6)

 当時、多くのユダヤ人たちが周辺諸国に移り住むようになり、それぞれの土地で生まれ育ったユダヤ人たちがたくさん存在しました。そして、彼らはその土地でユダヤ人として信仰をを受け継ぎ、大きなユダヤ教のお祭りの時には、エルサレムに里帰りしてくる人も多かったようです。彼らにとっては、ユダヤの言葉よりも生まれ育った国の言葉の方が理解できたと思います。ですから、自分たちが普段使っている言葉が弟子たちによって、いきなり話されて驚いたのです。

「そして驚き怪しんで言った、「見よ、いま話しているこの人たちは、皆ガリラヤ人ではないか。それだのに、わたしたちがそれぞれ、生れ故郷の国語を彼らから聞かされるとは、いったい、どうしたことか。わたしたちの中には、パルテヤ人、メジヤ人、エラム人もおれば、メソポタミヤ、ユダヤ、カパドキヤ、ポントとアジヤ、フルギヤとパンフリヤ、エジプトとクレネに近いリビヤ地方などに住む者もいるし、またローマ人で旅にきている者、 ユダヤ人と改宗者、クレテ人とアラビヤ人もいるのだが、あの人々がわたしたちの国語で、神の大きな働きを述べるのを聞くとは、どうしたことか」。」(7-11)

ここで大切なことは、「何が実際に語られたか」ということです。使徒たちを代表してペテロが語った内容が14節以降に記されていますが、要約するとこうです。

「私たちは酔ってなんかいません。皆さんに知っていただきたいことがあるのです。イエス・キリストこそ救い主です。預言者ヨエルが言っていたことが実現しました。そして、十字架で死んだイエス・キリストの生涯と復活の出来事は、『あなたがた』にとって他人事でなく、自分自身の生き方に関わることなんです!」と。イエス様がもたらした救いに関する福音が、諸外国の言葉で語られことは、「新しい時代の始まり」をも意味していました。

【全ての違いを越えて】

ペンテコステの出来事は、創世記11章の「バベルの塔」の物語とよく対比されます。「バベルの塔」が建てられた当時、世界中が同じ言葉を使っていましたが、人間の高ぶり・傲慢のために言葉がバラバラにされ、大混乱が生じました。しかし、「バベルの塔」以来のペンテコステの日に、世界の人々に通じる言葉が与えられました。それが「聖霊による言葉」です。世界中で今でも違う言語を使っていますが、多種多様な在り方はそのままで、神の言葉がそれぞれの国の人々に通じるようになったのです。すべて言葉が同じでないと通じないということを乗り越えました。

またこれまで基本的に、神信仰はユダヤ人のものでした。神様が世界の民族の中でユダヤ人を選び、エルサレムを特別な場所とし、具体的な生活の歩み方まで事細かに示した律法を与えたので、ユダヤ教に改宗する者は、ユダヤ民族の一員になるということを意味しました。しかし、ペンテコステの出来事を通して、世界中の人が改宗せずに神様の恵みを受けることが可能になったのです。

【初代教会の誕生】

ペテロの説教を聞いた人たちは「神はこのままの私に向き合ってくださる私の神なんだ」と心動かされて、使徒たちの仲間になりました。そのように新しい生き方を一緒に始めていく群れ・共同体が形成されました。それが「教会の誕生」です。言葉や習慣、文化や民族、生活の違いは問題でなく、イエス・キリストの十字架と復活が私の生き方にかかわることだと信じる人々の群れが「教会」です。

ですから、ペンテコステのことを「教会の誕生日」とも呼びます。イエス様は昇天されましたが、イエス様の働きは、聖霊に満たされた弟子たちによって継続されていき、遠く離れた日本にも福音が届きました。何と感謝なことでしょうか。

【主は陶器師~火で焼かれる~】

2011年に参加したイスラエルツアーのメンバーの中に、お父さんがクリスチャンの陶芸家の方がいました。その方のことは聞いたことありましたが、友人のお父さんとは知りませんでした。

松田共司(きょうし)親方という方です。沖縄県読谷村「やちむんの里(沖縄の方言で焼き物)」で四人の親方が1992年に共同で沖縄県内最大級の13連房の登り窯・北窯を開いて、今年で31年です。CGNTVで以前に放送された番組のドキュメンタリーを見ました。

松田親方は、イザヤ64:8「されど主よ、あなたはわれわれの父です。われわれは粘土であって、あなたは陶器師です。
われわれはみな、み手のわざです。」
という聖書の言葉で、「私は人間の陶器師として、器作りを通して神様の愛を伝えたい」とおっしゃいました。また、神様が土を使って人を創った創造の業と、土を使って器を作るということが似ているのだとおっしゃいます。陶芸の世界の言葉でいくつか心に留まった言葉を紹介したいと思います。

〈土づくり〉

「水簸(すいひ)」土を洗う作業。掘り出された土に含まれる木の根や小石などを、水の中で選り分ける。人の手でそれらを取り除くことでより純度の高い粘土へと作り変えられていく。水簸され、かわら干しされた土を人の手で触れることで、土は粘り気や柔らい粘土になっていく。

「坏土(はいど)」異なる種類や性質の違う土を混ぜ合わせ、焼き物に適した土にすること。

「土殺し(つちごろし)」土をじっくり練り、もみ込んで、完全に使いやすい土にすること。土が反発しないように、素直な土にすること。

松田親方は、「土をしっかり練ったり、土の不純物を水に洗い流すところ、創り上げていって、火で焼く。私たちも御言葉によって、聖霊の火によって焼かれないと器にはなれない。どんなクリスチャンになるのか、イエス様に従うために訓練されないといけない。洗礼を受けた時のままで終わらない。天国に行ったら神様にお前、よくやったなと言われたい。土もそのように練って造られていく。」と目をキラキラされておっしゃいました。

ただの土の塊が掘り出され、不純物を除かれ、練られて、陶器師の手で自由自在に形造られていくことは、私たち人間も正に同じだなと思います。神様が人間の陶器師です。陶器師の心が完全に現される器になりたいものです。練られる作業は、痛いです。しかし練られる以上に大変なことは、火で焼かれるということです。土は焼かれて初めて陶器として生まれ変わり、美しい器になります。器一つとっても、形、色、大きさ、使用目的も様々です。聖霊の火で焼かれること、御言葉の炎で焼かれることを喜びとしましょう。火で焼かれるような思いで試練を通らされている方もいらっしゃると思います。聖書は試練を「火」と表現しています。

「…愛する者たちよ。あなたがたを試みるために降りかかって来る火のような試錬を、何か思いがけないことが起ったかのように驚きあやしむことなく、むしろ、キリストの苦しみにあずかればあずかるほど、喜ぶがよい。

…栄光の霊、神の霊が、あなたがたに宿るからである。」(Ⅰペテロ1:7、4:12-14抜粋)

 

燃えさかる試練の火を通して、自分自身の古い性質を完全に焼き尽くし、神の器となるためのプロセスを喜んで通って参りましょう。ペンテコステの恵みは、聖霊の火が一人ひとりの上に豊かに注がれていることです。