マルコ1:21-28「主イエスの権威」

2024年1月28日(日)礼拝メッセージ

聖書 マルコ1:21-28
説教 「主イエスの権威」
メッセージ 堀部 舜 牧師

【今週の聖書箇所】

21それから、彼らはカペナウムに行った。そして安息日にすぐ、イエスは会堂にはいって教えられた。 22人々は、その教に驚いた。律法学者たちのようにではなく、権威ある者のように、教えられたからである。23ちょうどその時、けがれた霊につかれた者が会堂にいて、叫んで言った、24「ナザレのイエスよ、あなたはわたしたちとなんの係わりがあるのです。わたしたちを滅ぼしにこられたのですか。あなたがどなたであるか、わかっています。神の聖者です」。25イエスはこれをしかって、「黙れ、この人から出て行け」と言われた。26すると、けがれた霊は彼をひきつけさせ、大声をあげて、その人から出て行った。27人々はみな驚きのあまり、互に論じて言った、「これは、いったい何事か。権威ある新しい教だ。けがれた霊にさえ命じられると、彼らは従うのだ」。28こうしてイエスのうわさは、たちまちガリラヤの全地方、いたる所にひろまった。

マルコ1:21-28
イエスはこれをしかって、「黙れ、この人から出て行け」と言われた。すると、けがれた霊は彼をひきつけさせ、大声をあげて、その人から出て行った。 The Possessed Man in the Synagogue by James Tissot, Brooklyn Museum所蔵, via picryl.com Public Domain

【聖書日課】 新年度の聖書日課はマルコ福音書を読んでいます。クリスマスを経て、主イエスの誕生、そして主イエスの宣教の始まりへと読み進めています。▼マルコ福音書の舞台は、北のガリラヤから、南のユダヤ/エルサレムに向かって進んで行きます。

【主イエスの権威】 今日の箇所では、22節と27節で「権威ある教え」と言われます。主イエスの教えとは「神の国の到来」を告げる教えですが、「神の国」は悪霊の追い出しという目に見える形で、力をもって臨みます。▼主イエスのうわさは、瞬く間にガリラヤ周辺に広がります。

■【1.主イエスの教え】

21 それから、彼らはカペナウムに行った。そして安息日にすぐ、イエスは会堂にはいって教えられた。

神の子であるイエス様が来られた時、嵐や雷など、何か特別な方法でご自分を表すのではなく、礼拝の中で、聖書の解き明かしを通して教えられました。▼私たちが「主イエスと出会う」のも、そのような日常の聖なる営みを通してであることが多くあります。礼拝を通して。聖書と祈りを通して。クリスチャンとの交わりを通して。

神に出会う時、神が私たちに語られる時、私たちは心を動かされます。

22 人々は、その教に驚いた。律法学者たちのようにではなく、権威ある者のように、教えられたからである。

ユダヤ教の神学者アブラハム・ヘッシェルが、私たちが理解を越えた神の神秘に触れる時、私たちの内に「驚き」が起こると述べました。▽人々は、言葉では言い表せない主イエスの教えの力・神の権威を感じ取ったのだと思います。

当時の律法学者たちは、ユダヤ教の教えの伝統を拠り所として教えました。▽しかし、主イエスは伝統を拠り所としませんでした。山上の説教では、「昔の人は○○と言われているが、わたしはあなたがたに言う…」と、ご自分の権威によって話されました。▼主イエスが洗礼を受けた時に降った聖霊の権威によって、主イエスは語られました。▼人々は、はっきりとは理解できなくても、主イエスのうちに働いている聖なる力を感じ取り、その権威ある教えに心を動かされました。

岩波訳では22節は「人々は、彼の教えに仰天し通しだった」とあります。「驚く」という言葉は、継続を表す未完了形で書かれています。▼その驚きは、聖なるものに触れた人の驚きです。言葉に言い表せない不思議な権威と力に触れた時、未知のもの、理解を越えた聖なるものに向けて、心を動かされるのです。

■【2.力ある教え】

権威と力について、次のような説明がありました。▼警察官は、走っている車を停止させる「権限」を持っているけれども、強引に物理的に停車させる「力」は持っていません。法律によって車を止める権限が与えられているけれども、走っている車を物理的に止める能力はない、ということです。[1]

今日の聖書箇所の主イエスは、法的な権威・権限を持っているだけでなく、反抗する悪霊を有無を言わせずに従わせる力を持っておられます。

23ちょうどその時、けがれた霊につかれた者が会堂にいて、叫んで言った、24「ナザレのイエスよ、あなたはわたしたちとなんの係わりがあるのです。わたしたちを滅ぼしにこられたのですか。あなたがどなたであるか、わかっています。神の聖者です」。

悪霊につかれた人は、主イエスが聖書からメッセージをしたその場所にいて、大声を上げて抵抗しました。「私たちと何の関係があるのか」とは、「余計なお世話だ」「俺にかかわるな」と主イエスに対抗しようとしています。▼弟子たちは、この時点ではまだ主イエスが何者であるかを知りませんでしたが、悪霊たちは主イエスが何者であるか知っていました。

当時の考え方に、「相手の正確な名前を呼ぶことで、相手を支配できる」という思想があったそうです。悪霊は、「ナザレの人イエス」という人としての名前と、「神の聖者」という称号で呼んで、主イエスに対抗しようとしたようです。 ▼また、悪霊は「私たち」と複数形を使っています。主イエスの使命が、個々の悪霊を追い出すだけではなく、あらゆる悪霊を滅ぼし尽くすために来られた、ということを指しているようです。

悪霊の主イエスに対する知識は正確ですが、非常に敵対的です。

主イエスの言葉の力

主イエスは悪霊に厳しく立ち向かい、悪霊を追い出します。

25イエスはこれをしかって、「黙れ、この人から出て行け」と言われた。26すると、けがれた霊は彼をひきつけさせ、大声をあげて、その人から出て行った。

25節の「叱る」という言葉は、ギリシャ語旧約聖書(70人訳)で、神の力ある言葉に用いられています。

あなたはもろもろの国民を責め、悪しき者を滅ぼし、永久に彼らの名を消し去られました。

詩篇9:5

ヤコブの神よ、あなたのとがめによって、乗り手と馬とは深い眠りに陥った。

詩篇76:6

戦車も国々も立ち向かえず、たちまち滅ぼし尽くしてしまう、神の力ある御言葉による叱責が、「叱る」という言葉です。(※新改訳聖書2017では、いずれも「叱る」と翻訳されています。)

主イエスが悪霊を「叱った」時に用いられた言葉は、ギリシャ語旧約聖書のこれらの箇所で使われている言葉です。▼主イエスは、神の権能をもって、力ある御言葉で悪霊を𠮟りつけ、一言も発することなく、退散させました。ここに、主イエスの神としての力ある権能が表れています。

【「悪霊つき」と「悪霊の抑圧」】

「悪霊につかれる」という現象は、現代の日本でも見られますが、多くはないと思います。では、悪魔の存在を無視できるかと言えば、決してそうではありません。罪の背後には悪魔の力があることを聖書は教えています。性的な逸脱、様々な中毒、お金や権力に溺れること、人を人と思わず虐げること。殺人。そして、日本で多い自殺。状況はそれぞれいろいろあるにしても、こうしたことの背後には、悪魔の働きがあることを、心に留めなければならないと思います。(参照:D.ブローシュ「教会の改革的形成」第10章 神癒)

極端に走って、①悪いことがあれば、何でもかんでも悪魔の仕業だと考えるべきではありません。あるいは反対に、②合理的になりすぎて、悪魔の存在を否定することも、聖書的ではありません。そうではなく、③悪魔の存在を認め、その働きを見分ける知恵を頂いて、悪魔に立ち向かい、はるかに勝る主イエスの力に信頼して参りましょう。

様々な外側の罪は、病気でいえば目に見える「症状」です。それは、私たちがキリストのもとに行かないためにそうなってしまいます。▼B.F.バックストン宣教師と共に、明治から昭和の日本で活躍したイギリス人宣教師パジェット・ウィルクスは、非常に多くの人々をキリストに導いた人物です。彼は、人間の魂を分析しています。①悪魔は人々の理解力を暗闇の中に閉じ込めて、神について、罪について、救いについて、理解できないようにしていると。また、②悪魔は、人々の意志に影響を与え、偏見や欲望や高慢や恐れによって縛り上げて、神を求めないようにしていると。人が神に立ち返るには、神を求める願望が起き、意志の束縛が解かれ、理解に光が照らされなければならないのですが、それは、人がキリストのもとに行き、悪魔より強いキリストの光に照らされ、束縛を解かれる時に、起こるのだと教えています[2]

■【3.御言葉の力】

主の言葉は、世界を創造し、敵を倒し、私たちを強める権威ある御言葉です。

スポルジョンの回心

【スポルジョンの回心】 19世紀の説教者チャールズ・スポルジョンの回心に、主の御言葉の力強さが表れています。スポルジョンの父と祖父は牧師で、子どもの頃から信仰の教育を受けて育ったようです。しかし、15才の頃、スポルジョンは「自分の罪が他の人たちより大きい」と考え、「神に憐れみを求めても、赦してくださらないのではないか」と思ったそうです。彼はクリスチャンになるために、町のあらゆる教会を訪ねましたが、どうすれば救われるかわからず、ほとんど絶望状態に陥っていました。

16才の寒い雪の朝、予定していた教会に行こうとしましたが、激しい吹雪で進むことができず、近くの小さなメソジストの教会に入りました。12-15人くらいの人がいましたが、雪のせいで牧師が来なかったようです。一人のやせた無学な男性が立って、御言葉を読んで説教を始めました。「地の果なるもろもろの人よ、わたしを仰ぎのぞめ、そうすれば救われる。」(イザ45:22)

「これは実に単純な聖句です。これは『見よ』と云っています。見ることにさほど苦労はいりません。だれでも見ることはできます。子どもでもできます。この聖句は云います。『わたしを仰ぎ見よ』と。そうです!」「イエス・キリストは、『わたしを仰ぎ見よ』、と云われます。キリストを仰ぎ見なさい。」

「わたしを仰ぎ見よ。わたしは、血の汗のしずくを流した。
 わたしを仰ぎ見よ。わたしは十字架にかけられた。
 わたしを仰ぎ見よ。わたしは死んで葬られた。
 わたしを仰ぎ見よ。わたしはよみがえった。
 わたしを仰ぎ見よ。わたしは天に昇った。
 わたしを仰ぎ見よ。わたしは御父の右の座についている。
 おゝ、あわれな罪人よ。わたしを仰ぎ見よ!
 わたしを仰ぎ見よ!」

その無学な説教者は、10分ほど話して、言葉に詰まってしまい、新来者であったスポルジョンに話しかけました。「そこの少年。きみは大そうみじめなようすだが…」。スポルジョンは頭を殴られたようなショックを受けました。「きみはこれからもずっとみじめなままだろう。この聖句に従わない限り、生きている間も、死んでからも、みじめなままだろう。しかし今従うなら、きみは救われるのだ」。そして彼は、両腕を高く上げて、原始メソジスト派にしかできないようなしかたで、こう叫んだ。「少年よ。イエス・キリストを仰ぎ見よ。見よ! 見よ! 見よ! 仰ぎ見さえすれば生きるのだ」。

「その瞬間、私は救いの道を理解した。他に何を言われたかは覚えていない。…救われるためならどんなことでも行なうつもりでいた私にとって、『見よ!』との言葉は何と甘美に響いたことだろう。おゝ、私は目もかすめとばかりに仰ぎ見た。そのときたちまち黒雲は散り去り、暗闇は消え失せ、その瞬間に太陽が射し出た。私は、その場で立ち上がり、キリストの尊い血と、キリストだけを仰ぎ見る単純な信仰とを、ありったけの熱情をこめて高らかにほめ歌いたい思いであった。……私の魂は自分を縛っていた鎖が粉々に砕け散ったのを知った。奴隷であった私が解放され、赦しを受け、キリストに受け入れられ、ねばつく泥地とぞっとするような穴ぐらから引き出され、堅い岩の上に立たされ、確かな歩みが保証されたのを感じた。」

スポルジョンは、御言葉を通して、生ける神ご自身を見上げました。その時、神の力が彼のうちに働き、彼を内側から作り替えました。彼は「あの素晴らしい時以来、私は尽きることのない喜びと平安を味わってきた」と述べています。[3]

Yさんの証し

【恐れるな。ただ信ぜよ】 主イエスが語りかける御言葉の力で力づけられた、もう一人の証しを紹介します。ある本に掲載されていた証しです。

Yさんは、戦後に韓国から引き揚げてまもなく、29才の時に急病で夫を亡くし、3人の幼い娘を一人で育てることになりました。不自由なく育った彼女は、慣れない洋裁のわずかな収入で生計を立てていくのが大きな重荷でした。礼拝に行くための交通費や献金も、決して小さなことではありませんでした。

そのような辛い思いを神様に訴えてお祈りしていたある夜、彼女は「恐れるな。ただ信ぜよ」という、イエス様の言葉を聞いたといいます。そして、この時から、神様をまっすぐに信頼して生きる、彼女の力強い信仰の歩みが始まりました。

「あの時、私はイエス様にお会いしました」これが彼女の生涯の証しになりました。多くの人々が彼女によって信仰に導かれ、二人の娘は牧師になりました。92歳になっても輝く笑顔のYさんは教会のお母さんです、と牧師は記しています。[4]

■【まとめ】

27人々はみな驚きのあまり、互に論じて言った、「これは、いったい何事か。権威ある新しい教だ。けがれた霊にさえ命じられると、彼らは従うのだ」。28こうしてイエスのうわさは、たちまちガリラヤの全地方、いたる所にひろまった。

主イエスの権威ある教えを聞き、力ある業を見た人々は、驚き恐れました。「これは、いったい何事か。権威ある新しい教だ。けがれた霊にさえ命じられると、彼らは従うのだ」――それは、キリストの権威と力を表しているだけでなく、私たちを縛り付けている暗闇の力から私たちを自由にする、神の国の到来の出来事そのものです。▼キリストが御言葉を語られる時、光が差し込み、私たちの信仰の目が開かれ、私たちの信仰が呼び起こされ、悪魔の鎖が断ち切られます。

そこには、何か特別な奇跡や現象は、必要ではありません。今日の場面も、安息日の日常の礼拝の中の、日常のメッセージの中でした。そこにおられる主イエスが力があり、この御言葉に権威と力があります。

21それから、彼らはカペナウムに行った。そして安息日にすぐ、イエスは会堂にはいって教えられた。22人々は、その教に驚いた。律法学者たちのようにではなく、権威ある者のように、教えられたからである。

私たちは、主イエスの御言葉を、どのように待ち望むでしょうか。

「主よ、お語りください」と待ち望むでしょうか。

「お言葉を下さい、そうすれば、そのようになります」と信頼するでしょうか。

「お言葉通り、この身になりますように」と委ねるでしょうか。

主の言葉には権威と力があります。主のお言葉に信頼してまいりましょう。


[1] https://www.sermoncentral.com/sermon-illustrations/69084/authority-vs-power-by-paul-dietz

[2] パジェット・ウィルクス「救霊の動力」

[3] http://lvjcc0822.blog60.fc2.com/blog-entry-418.html http://grape.g.dgdg.jp/Spurgeon000A.htm

[4] 高橋養二「神の庭で」6/23