マルコ2:13-17「歩こうイエスの道を」

聖書 マルコ2:13-17ヨハネ14:6
説教 「歩こうイエスの道を」
メッセージ 堀部 里子 牧師

わたしは道であり、真理であり、命である。
だれでもわたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない。

イエスはこれを聞いて言われた、「丈夫な人には医者はいらない。いるのは病人である。わたしがきたのは、義人を招くためではなく、罪人を招くためである」。

マルコ2:17

イエスは彼に言われた、「わたしは道であり、真理であり、命である。だれでもわたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない。

ヨハネ14:6

おはようございます。今朝はファミリー礼拝で、いつもとは違う礼拝の雰囲気がしますね。皆で一緒に礼拝できることが感謝です。

人生初、レッカー車にお世話になる

私が車の運転免許を取ったとき、運転に慣れようと思い、練習をたくさんしました。高速道路に乗ったり、細い道を運転したり、バックをしてみたり…。車にナビはついていましたが、とても古いナビで実際の道と違ったりすることが多くありました。

ある日、遠くに住む教会員を訪問するために、車で出かけました。ナビの指示通りに行ったのですが、走っても走っても目的地に到着しません。辺りはどんどん暗くなってきました。山道に入りそうだったので、帰ろうと思い、Uターンをするために空き地に入りました。空き地は畑でした。その畑の真ん中に大きなくぼみがあり、タイヤがそのくぼみにはまってしまい、エンジンをふかしてもタイヤが空回りするだけで、車は一歩も動きません。私の力では、くぼみから出られなくなってしまいました。

「神様、助けてください。私はどうしたらいいですか」と祈って、教会に電話をしました。すると「JAFに電話をしなさい」と言われ、JAFに助けを求めました。するとレッカー車がやってきて、車を引っぱって元の道に戻してくれました。あの安堵感を思い出すと全身の力が抜けます。「JAFの方、そして神様、ありがとうございます」またお祈りをしました。無事に教会に着いたとき、本当にほっとしました。

考えてみると、私たちの人生も似ているかもしれません。「こっちの道かな」と思って進んでみます。「あ、ここは違っていた」と自分で何とかしようとする。でもかえって深みにはまってしまうことがないでしょうか。イエス様はおっしゃいました。

わたしは道であり、真理であり、命である。だれでもわたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない。」(ヨハネ14:6)

イエス様こそ天の父に至る道であり、人生の道に迷ったときに助けを与えてくださり、あるべき道へと戻してくださる私たちの「人生のレッカー車」です。

レッカー車、Photo by Comyu, CC BY-SA 3.0, via Wikimedia Commons

1.イエス様の道は、人をさがす道

今日は、マルコ2章を通して、「イエス様がどんな道」なのかを見ていきたいと思います。

レビという人がいました。レビはどんな人だったのでしょうか。レビは誰からも尊敬されていない取税人でした。取税人は「お金を取り立てる人」のことで、当時はローマ帝国の手先として、税金を二倍、三倍にふっかけて、差額を自分の懐に入れるという悪いことをしていました。ですから、「取税人=罪人」と考えられていました。周りの人は「あんな人は神様から遠い」と思っていました。レビも、「俺は一生、取税人として皆から嫌われて人生を終わるのかな」とどこかで思っていたかもしれません。

ある日のことです。「イエスはまた海べに出て行かれると、多くの人々がみもとに集まってきたので、彼らを教えられた。」(13)イエス様は町々や村々を周ってお話をしたり、病人を癒したりしていました。その途中でレビを見つけたのです。

また途中で、アルパヨの子レビが収税所にすわっているのをごらんになって、「わたしに従ってきなさい」と言われた。すると彼は立ちあがって、イエスに従った。」(14)

イエス様が進まれる道には、子どもから大人まで様々な取り巻きの人々がいたでしょう。大勢の人に囲まれながらも、通りがかりにイエス様はレビを見つけて声をかけました。レビがイエス様を見つけたのでなく、イエス様がレビを見つけたのです。イエス様の目は、レビの心の内側をご覧になっていました。レビの心にある孤独や寂しさ、友だちが欲しいという願いに気づいてくださったのです。

「わたしに従ってきなさい」と言われたときに、レビは躊躇せずに「立ちあがって、イエスに従った」(14)とあります。レビも「このイエスという人には何かある、信頼できる、ついて行ってみよう」と決心させるだけのものを感じたのだと思います。

バレーボールのネイションズリーグが始まっていますが、バレーボールは相手コートにボールを落とすことで点が加算されるスポーツです。見事にスパイクを決めたアタッカーにインタビューがされました。「無我夢中でした。チャンスボールが来たと思ってジャンプしてボールを打ちました」勝利のアタッカーとは、ボールが来ていろいろ考えるのでなく、やってきたチャンスをものにする人ではないでしょうか。

レビは与えられた良いチャンスを受け取りました。いつもいる収税所を後にして、イエス様について行きました。神様は良い人だけを探しているのではありません。失敗する人も、自信のない人も、神様をよく知らない人も、イエス様は探しておられます。

今日、ここに来ている皆さんも、もしかしたら神様があなたを探しておられるのかもしれません。

2.イエス様の道は、一緒に食卓につく道

イエス様について行ったレビとイエス様は一体どこへ行ったのでしょうか。

それから彼の家で、食事の席についておられたときのことである。多くの取税人や罪人たちも、イエスや弟子たちと共にその席に着いていた。こんな人たちが大ぜいいて、イエスに従ってきたのである。(15)

イエス様は、レビの家に行って皆で食事をしました。レビだけでなく、他の取税人や罪人も一緒でした。私はこんなにたくさんの食事を用意した人は大変だっただろうなぁと思います。しかし中東やユダヤの文化は、旅人を丁重にもてなす文化ですので、例え自分たちの食事が終わっていても、お客さんのために食事を用意したと思います。

食事は「あなたを受け入れています」というしるしです。イエス様はレビに「あなたが先ず変わりなさい。職業を変えなさい、生活を変えなさい。そしたら一緒に食事をするから」とは言いませんでした。一緒にレビの家に行って、食卓に着いてくださいました。神様の愛は頑張った人だけに与えられるご褒美ではありません。

例えば親が「あなたが今日一日良い子だったから、学校のテストで100点満点を取ったから、あなたは私たちの家族なのよ」と言うでしょうか。

家族とは何でしょうか。私は一言で表すなら「特別な絆で結ばれている人たち」だと思います。先日、母が足を怪我して20針縫うということがありました。しかし、私は一週間後に父からの電話でその事実を知りました。母は私が心配するといけないと思ったのでしょう。母にすぐに電話をしました。「お母さん、私たち家族でしょ。怒らないから大切なことはちゃんと教えて」と大声で言いました。電話を切ると別の部屋にいた夫に「あなたの声はすでにとても怒っていたよ」と言われ、苦笑してしまいました。家族のことになるとどうやらヒートアップしてしまうようです。

教会は「イエス様という絆」で結ばれている家族です。イエス様は「あなたも私も大切な存在で家族なんだよ」と一緒に食事をしてくださる方です。

今日は、礼拝後にホットドッグとスープが提供されますが、これは「私たちは神様の家族です」ということを表しています。是非、皆さん、一緒に召しあがってくださると嬉しいです。

それから彼の家で、食事の席についておられたときのことである。
多くの取税人や罪人たちも、イエスや弟子たちと共にその席に着いていた。

イエス様のことを良く思わない人たち

さて、イエス様とレビたちの食事の様子を快く思わない人たちもいました。

パリサイ派の律法学者たちは、イエスが罪人や取税人たちと食事を共にしておられるのを見て、弟子たちに言った、「なぜ、彼は取税人や罪人などと食事を共にするのか」。(16)

彼らはなぜそのように言ったのでしょうか。彼らは単に意地悪だったのではないと私は思います。彼らこそ「神様に近い人は、罪から離れていなければならない」と真剣に考えている人たちでした。取税人や罪人たちには、社会の規則や律法を守れない人たちも含まれていました。だからこそ、パリサイ派の律法学者たちは、「イエスが神の教師なら、あんな人たちと仲良く一緒に食事をするはずがない」と思ったのです。彼らは「聖なる人は罪人から離れる」と考えましたが、イエス様は「聖なる神の愛は、罪人に近づく」ことを示されたのです。だからと言ってイエス様は罪を肯定したのではありません。罪は憎みましたが、人の存在を否定せずに招かれました。罪人を救うために近づかれたのです。

病院のお医者さんは、病気が好きだから病人のところに行くのでしょうか。いいえ、病人を治療するために病人のところに行くのです。イエス様も同じでした。罪を喜ばれませんでしたが、罪人を救うためにその人たちのところに行かれたのです。

そしてイエス様はパリサイ派の律法学者たちを切り捨てたのではありませんでした「あなたがたも病人であることを認めるなら、わたしのもとにきなさい」という招きの意味もあったと思います。

レビの問題は罪があったことです。パリサイ派の律法学者たちの問題は「自分は大丈夫だ」と思ったことでした。「私は大丈夫」とイエス様を必要としないひとたちは、神様から遠くなってしまいます。

だから私たちは皆「イエス様、あなたが必要です」と言いながらイエス様の道を歩くものでありたいと願います。

イエスはこれを聞いて言われた、「丈夫な人には医者はいらない。いるのは病人である。わたしがきたのは、義人を招くためではなく、罪人を招くためである」。(17)

「丈夫な人には医者はいらない。いるのは病人である。
わたしがきたのは、義人を招くためではなく、罪人を招くためである」

3.イエス様の道は、いのちに続く道

イエス様は「道を教える人」でなく、「道そのもの」です。そして一緒に道を歩いてくださる方です。またイエス様は十字架と復活によって、神様のもとへ行く道を開いてくださいました。だから私たちは自分の頑張りでなく、イエス様を信頼することを人生という道を安心して歩くことができます。

イエス様は迷っている人を探して、立ち止まっている人に声をかけ、新しい道へ導いてくださる方です。私たちに聖書は、ただ道を教えてくれるだけでなく、道そのものであるお方を紹介しています。

皆さんは山に登ったことがありますか?山の中で道が分からなくなったらどうしますか。地図を見ても分からないことがあります。そんなとき、一番安心なのは、「この道を知っている人について行くこと」です。

イエスは彼に言われた、「わたしは道であり、真理であり、命である。だれでもわたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない。(ヨハネ14:6) イエス様の道を一緒に歩き続けようではありませんか。

わたしは道であり、真理であり、命である。
だれでもわたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない。