マルコ8:31-38「受難と栄光の主の招き」

2024年2月25日(日)礼拝メッセージ

聖書 マルコ8:31-38
説教 「受難と栄光の主の招き」
メッセージ 堀部 舜 牧師

ヤン・サンデルス・ファン・ヘメッセン「十字架を担うキリスト」(1553年)パブリック・ドメイン Wikimedia Commonsより

【今週の聖書箇所】

31それから、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちに捨てられ、また殺され、そして三日の後によみがえるべきことを、彼らに教えはじめ、32しかもあからさまに、この事を話された。すると、ペテロはイエスをわきへ引き寄せて、いさめはじめたので、33イエスは振り返って、弟子たちを見ながら、ペテロをしかって言われた、「サタンよ、引きさがれ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている」。

 34それから群衆を弟子たちと一緒に呼び寄せて、彼らに言われた、「だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい。35自分の命を救おうと思う者はそれを失い、わたしのため、また福音のために、自分の命を失う者は、それを救うであろう。36人が全世界をもうけても、自分の命を損したら、なんの得になろうか。37また、人はどんな代価を払って、その命を買いもどすことができようか。38邪悪で罪深いこの時代にあって、わたしとわたしの言葉とを恥じる者に対しては、人の子もまた、父の栄光のうちに聖なる御使たちと共に来るときに、その者を恥じるであろう」。

マルコ8:31-39

この世にあって主に従う:ボンヘッファー

【ボンヘッファー】 おはようございます。主イエスの受難を覚えるレントの期間を歩んでいます。▽去る一週間はケズィック・コンベンションが持たれました。水曜日の集会で、ドイツの神学者ディートリヒ・ボンヘッファーが作詞した讃美歌が歌われました。ナチス政権の危険性をいち早く・鋭く見抜き、教会の立場を堅持した教会闘争の指導者の一人でした。ヒトラー暗殺計画に関わり、39歳の若さで処刑されます。

ユダヤ人迫害が激化し、戦争に向けて突き進んでいた1939年に、ボンヘッファーは兵役を避けて、米国に逃れますが、すぐにドイツに帰国します。彼は友人の神学者に、次のように書き送っています。「わたしがアメリカに来たのは間違いでした。わたしは、わたしたちの国の歴史の困難な時期をドイツのキリスト者たちと共に生きなければなりません。もし、わたしがこの時代の試練を同胞と分かち合うのでなければ、わたしは戦後のドイツにおけるキリスト教的生活の再建にあずかる権利を持たなくなるでしょう。」[①]

1943年に彼は秘密警察に逮捕され、獄中で多くの書簡を書きます。その中で、信仰者として「この世にあって」生きる重要性を教えています。▼ボンヘッファーにとって、「この世で生きる」とは、教育や社会活動に打ち込むことや、怠惰や情欲に従って生きることではありません。そうではなく、教会で共に生きる訓練を通して、キリストの死と復活を常にはっきりと認識しながら、今を生きることだと言います。

▼それは「自分の力で聖なる人間となろうとする」ことの対極にあるものです。ボンヘッファーは、言います。

「聖人であろうと、悔い改めた罪人、あるいは教会人であろうと、…人が自分自身から何かを造り出すことを全く断念した時、それが僕の言うこの世性なのだ、つまり、課題と問題、成功と失敗、経験の深さと思慮のなさの積み重なりの中で生きることだが――その時にこそ人は、自らを全く神の御腕の中にゆだねるのであるし、またその時にこそ、もはや自分の苦難を意に介せず、この世における神の苦難を真剣に考え、ゲツセマネのキリストと共に目をさましているのである。それこそ信仰であり、<悔改め>であると僕は思う。そのようにして彼は人間になり、キリスト者になるのだ」。[②]

ボンヘッファーは、信仰の従順を徹底的に教え、殉教者となるまで従い通した信仰者でした。しかし、自分の力で聖なる生活を立てるのではなく、この世に生きる自分の弱さ、課題、失敗や足りなさのただ中で、神の御手を認め、信頼し、従っていく。「この世」にあって、「徹底的に生き抜くことによって、はじめて信じることを学ぶ」のだといいます。

【聖書】 今日の聖書箇所は、キリストの受難の予告に続いて、主の弟子たちが十字架を負って主に従うべきことを教えています。 ▼キリストの苦しみの使命を思い、私たちに与ええられた十字架の使命を、考えたいと思います。

■【1.キリストの受難の現実に生きる】

31 それから、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちに捨てられ、また殺され、そして三日の後によみがえるべきことを、彼らに教えはじめ、32しかもあからさまに、この事を話された。

これは、主イエスが3度繰り返された受難の予告の最初のものです。3回にわたって、繰り返されたことに、この予告の重要性が表れています。

人の子」とは、当時のアラム語で「私」という意味で使われていたことが、最近の研究で明らかになったそうです。「人の子」という言葉を聞いた人々は、まず主イエスご自身を指す言葉として理解して、やがてその言葉に、旧約聖書の「人の子」の預言の言葉が重ねあわされていることに気づいたと思います。[③]

長老、祭司長、律法学者」とは、当時の宗教指導者全体です。最も不敬虔な悪党たちではなく、神の民を代表する最も優れた人々が、キリストを殺しました。ここに、神の民全体、また、人間全体がキリストに敵対したことが表わされています。[④]

~るべきこと」(「~なければならない」)という言葉に、聖書に預言された神の計画は、必ず成就するという確信が表されています。▽マルコ福音書は、主イエスの受難と復活が、神のご計画による御心であり、救い主に起こる必然的な使命であったことを強調しています。

32b すると、ペテロはイエスをわきへ引き寄せて、いさめはじめたので、

キリストをいさめようとするペテロの姿は、愚かに見えるかもしれません。▼しかし、当時のイスラエルでは、キリストが苦難にあうことは考えられないことでした。イザヤ書53章には苦難のしもべの預言がありますが、当時のイスラエルでは、キリスト預言とは考えられていなかったようです。▽ペテロは当時の常識に従って、主イエスを厳しく咎めて、主イエスの「誤り」を正そうとしました。

【適用】 キリストに従い始めた私たちは、どこかの時点で、ペテロのような自分の姿に気付く時が来ます。▽常識に従ってキリストを判断し、キリストが間違っていると考えて、キリストの誤りを正そうとしていた自分の誤りに気付きます。そうではなく、私こそキリストに聞き、キリストに従い、キリストから正されなければならないことに気付きます。▽慣れ親しんできた聖書の理解が「本当に正しいのか」と、誰かに聞くのではなく、聖書そのものに立ち返り、自分の目で聖書を調べ・自分で聖書を吟味するようになります。▼自分自身で聖書に向き合う時に、私がキリストの誤りを矯正するのではなく、私こそ矯正されなければならないことに気付くのです。

主イエスの叱責の言葉は、非常に強い言葉でした。[⑤]

33イエスは振り返って、弟子たちを見ながら、ペテロをしかって言われた、「サタンよ、引きさがれ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている」。

神から始める:ユージン・ピーターソン

【神から始める】あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている」――神学者のユージン・ピーターソンは、神学とは、「自分自身から始めるのではなく、神から始める」考え方を身に着けることだと述べています。▽祈りとは、自分のことではなく、神のことに目を注ぐことです。しかし、私たちは、神に注目するより、自分自身に興味を持つ。だから、神のことから考え始める訓練をしてくれる神学者が必要なのだ、と[⑥]

あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている」。▼私たちはどうでしょうか。主の祈りでは、まず、神の御名があがめられるようにと祈ります。私たちの個人的な祈りも、神の御名をあがめる祈りが土台になっているでしょうか。自分の願い・自分の期待・自分の理想よりも、自分が他人に期待することよりも先に、神が自分に期待することを心に留めるでしょうか。――「あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている

■【2.受難のキリストの招きに応える】

主はご自分の受難を予告しましたが、主イエスに従う全ての者も同じだと宣言されます。

34 それから群衆を弟子たちと一緒に呼び寄せて、彼らに言われた、「だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい。

【苦しみ】キリストが苦しまなければならないように、キリスト者も、苦しまなければなりません。▽私たちも主イエスの苦難にともにあずかる時に、信仰と理解を深め、主イエスを理解することができます。▼自分を否定し、苦しみと死を表す十字架を負うのでなければ、誰も主イエスに従うことはできません。

【群衆】 34節の言葉は弟子たちだけでなく、群衆に向けて言われました。「自分を捨て、自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい」という命令は、特別な信仰者への命令ではなく、主イエスを信じるすべての人に向けられています。

【十字架】 特に、マルコ福音書の最初の読者にとって、「十字架を負って、従う」とは、非常に強烈なイメージでした。▼十字架に架けられる死刑囚は、処刑場まで、自分が架けられる十字架の重い横木を背負って、見せしめの行進をさせられました。▽マルコ福音書が書かれたのは、ネロ皇帝の迫害から間もないローマとされますが、ネロは多くのクリスチャンを十字架刑にしました。▼「自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい」というマルコ福音書の主イエスの言葉は、1世紀のクリスチャンにとって、文字通り、「処刑台に至るまで、わたしに忠実でありなさい」という命を懸けた忠誠を求める言葉でした。

【適用】 処刑場に至るまで、「自分を捨てて」キリストに従うとは、当然、自分の名声や社会的地位、経済的な成功を犠牲にすることを含みます。▼持ち物を誇ったり、経済的な豊かさを誇ったりすることからはかけ離れています。▽名誉ある地位を誇り、影響力を自慢するようなことは、かなぐり捨てなければ、キリストに従うことはできないのです。

カルバリの愛:エミー・カーマイケル

英国のケズィック・コンベンションから派遣された宣教師であったエミー・カーマイケルは、次のように述べています。

わたしが仕えるべく与えられた人々を もしわたしが軽んじるならば、…その時わたしはカルバリの愛をまったく知らない。

わたしを失望させてばかりいる人のことを、もしほかの人に話さないでいることができないならば、…その時わたしはカルバリの愛をまったく知らない。

友との関係において、疑わしい点は善意に解釈するということをもししないならば、…その時わたしはカルバリの愛をまったく知らない。

わたしの人生を根底から揺るがすような試練には 会いたくないともし思うならば、ひどい仕打ちを受けること、孤立すること、…理解できない試みに会うことをもし避けようとするならば、その時わたしはカルバリの愛をまったく知らない。

…十字架の道は十字架に導くのであって、花咲き乱れる土手道に導くのでないことをもし忘れるならば、…その時わたしはカルバリの愛をまったく知らない。

イエスの愛のとうとさは、愛されし者のほか知ることを得じ。

「恵みの上にさらに恵みを」と言われたように、絶えず流れ続ける川のように、恵みが恵みにとって代わり、愛が愛にとって代わる。絶えず新しく、常に古く、いつも同じでありつつ、絶えず新鮮である。[⑦]

35 自分の命を救おうと思う者はそれを失い、わたしのため、また福音のために、自分の命を失う者は、それを救うであろう。

苦難に飛び込む:ハ・ヨンジョ

【苦難に飛び込む】 韓国のメガチャーチ・オンヌリ教会の創立者であったハ・ヨンジョ牧師は、「苦難の中に飛び込んで、苦難に打ち勝つ」ことを教えています。▼主イエスが恐ろしい十字架を担うことができた秘訣は、「受難を選び」「死を受け入れて死に打ち勝ち、苦難を受け入れて苦難に打ち勝った」のでした ▼ハ・ヨンジョ先生自身、何度もガンの手術を受け、教会から派遣した宣教師から5人の殉教者が出る苦しみを通りました。しかし、「苦難から逃げずに、真っ向から突破」するようにと勧めています。

苦難に押しつぶされないでください。避けないでください。隠れないでください。突破してください。そうすれば苦難は避けていきます。死ねば良いのです。そうすれば神は生かしてくださいます。死ぬと決めたなら何でもできます。喜んで死のうではありませんか。

キリストは人類を救うために十字架という代価を払い、この世を救うために殉教という代価を払いました。死ぬのは簡単なことです。死ぬことを決めたらなんでもありません。生きようと思うからみじめになるのです。死ぬと決めたら赦せないことがあるでしょうか。死ぬと決めたならできないことはありません。…

苦難を恐れないでください。…十字架があるから復活があるのです。…私が死んだとき生きるのです。死ぬことに決めてください。捨てれば得られます。自分が所有しようとし、死なずにいようとするから、いつも葛藤が心の中にあるのです。捨ててください。そうすれば、神が皆さんの未来になります。神が私たちに満ちあふれます。自由になってください。持っていても持っていないかのように、所有していても所有していないかのように生活することができます。そのような方が、イエス・キリストなのです。 これが、十字架の道であり、苦難の道です。[⑧]

いのちより大切なもの:星野富弘

星野富弘さんは、高校の体育の先生で、事故で首から下が動かなくなり、クリスチャンの詩人・画家となりましたが、次のように書いています。

「いのちが一番大切だと思っていたころ生きるのが苦しかった。いのちより大切なものがあると知った日生きているのが嬉しかった。」

キリストの栄光の来臨

38節では、やがて来る神の裁きの座と、キリストの栄光の来臨が述べられています。

38 邪悪で罪深いこの時代にあって、わたしとわたしの言葉とを恥じる者に対しては、人の子もまた、父の栄光のうちに聖なる御使たちと共に来るときに、その者を恥じるであろう」。

主イエスは31節で受難の使命を明らかにされた後、38節では栄光の来臨を予告します。▼キリストの「苦しみ」と「栄光」は切り離せません。キリストの「受難」が明らかになる時に初めて、キリストの「栄光」も明らかにされます。[⑨]

私たちも同じです。キリストに従い、キリストの苦しみに共にあずかる時に初めて、キリストの栄光に目が開かれていきます。私たちがキリストの苦難にあずかるからこそ、キリストの栄光にもあずからせていただくのです。

十字架を負って従う:トマス・ア・ケンピス

【キリストに倣いて】 「キリストにならいて」という霊想書は、1400年代初めに書かれて以降、極めて広く用いられてきました。十字架に関する黙想を紹介します。[⑩]

…イエスの天国をしたう者は多い。しかしその十字架をになう者は少ない。イエスから慰めを望む者は多い。しかし苦難を望む者は少ない。…すべての人はキリストと共に喜ぶことを願う。しかし彼のためにどんなことでも忍ぼうと思う者は少ない。パンをさくまでキリストに従う者は多い。しかし彼の受難の杯を飲むまで従う者は少ない。

…あなたは王国に導く十字架を負うことをなぜ恐れるのであろうか。十字架には救いがある。十字架には命がある。十字架には敵を防ぐ保護がある。十字架には、天の楽しみの注ぎがある。十字架には心の力がある。十字架には霊の喜びがある。十字架には徳の高さがある。十字架には聖潔の完成がある。十字架のほかに魂の救いも永遠の命の希望もない。それ故、あなたの十字架をとって、イエスに従いなさい。…

見よ、一切の事は十字架にある。一切の事はわれわれがそこで死ぬことにある。…聖なる十字架と、…日毎に死ぬことのほか、命と…平和に至る道はない。あなたがどこに行こうとも、何を求めようとも、聖なる十字架の道ほど高い道を上に、安らかな道を下に見出すことはないであろう。

あなたはどんな人間も未だかつて避けることのできなかったものを免れようと思うのか。この世において聖徒たちのうち誰が十字架と苦難なしで生きたであろうか。われらのイエス・キリストさえ、生きている間は、ひとときも受難の苦悶なしではなかった。…しかるにあなたはどうしてこの王道、すなわち、聖なる十字架の道より他の道を求めるのであろうか。

十字架を負い、十字架を愛し、肉体をこらしめてこれを服従させ、栄誉を避け、喜んで侮辱に堪え、…あらゆる逆境と損害を忍び、そしてこの世の栄達を求めないことは、人の生まれながらの性質ではない。もしあなたが自力に頼るならば、この種のことは何一つできないであろう。しかし主に頼るならば、天から力を与えられて、世と肉とはあなたの命令に従わされるであろう。

それ故、自らキリストの善い忠実なしもべとして、雄々しくあなたの主の十字架を負うことを決心しなさい。主は愛の心からあなたのために十字架につかれたのである。このみじめな世における多くの不幸、さまざまの苦労に堪えるよう自ら備えなさい。…もし主の友となり、また彼にあずかろうとおもうならば、愛情をもって主の杯を飲みなさい。慰めは神にゆだねて、み心のままになされるのにまかせなさい。苦難は最大の慰めであると考えて、これに堪えるよう心を定めなさい。

…苦しむことがつらくて、それから逃れようとする間は、あなたは落ちつかないであろう。そして苦難を逃れようとする願いが至るところあなたを追うであろう。

もしあなたが自分のなすべきこと、すなわち、忍ぶことと死ぬことに対して覚悟するならば、あなたはすみやかに幸いとなり、平安を見出すであろう。…イエスを愛して、常に彼に仕えようと思うならば、耐え忍ぶ覚悟をしなければならない。

…人が自分に対して死ねば死ぬほど、彼は神に対して生き始めるのである。誰でもキリストのために甘んじて苦難を忍ぶのでなければ、天のことを悟るにふさわしくない。…もし選ぶことができたとすれば、多くの慰めで元気づけられるよりも、むしろキリストのために苦難に堪えることを望みなさい。それはかくしてあなたはキリストに一層よく似、すべての聖徒たちに一層従うものとなるからである。…

実際、もし人間の救いにとって耐え忍ぶにまさって益のあるものがあったならば、必ずやキリストは言葉と模範でもって、それを示されたであろう。しかし彼に従った弟子たちとまた彼に従おうと願うすべての者に向かって、彼は明らかに、十字架を負うことを勧めて言われた。「だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい」と。

善き力にわれ囲まれ:ボンヘッファー

【善き力に守られて】 最後に、冒頭に紹介したボンヘッファーが獄中で書いた詩から作られた讃美歌の歌詞をお読みします。彼はどこまでも主に従い、死に至るまでナチスとの信仰の戦いを戦い抜いた人物ですが、ただ主の「善き力」に信頼していることに注目してください。

1.善き力に われ囲まれ 守り慰められて
  世の悩み 共に分かち 新しい日を望もう

2.過ぎた日々の 悩み重く なお、のしかかるときも、
  さわぎ立つ 心しずめ、御旨に従いゆく

3.たとい主から 差し出される 杯は苦くても
  恐れず、感謝を込めて 愛する手から受けよう

4.輝かせよ、主のともし火 われらの闇の中に
  望みを主の手にゆだね 来たるべき 朝を待とう

5.善き力に 守られつつ、 来たるべき時を待とう
  夜も朝もいつも神は われらと共にいます

 主イエスの招きは、キリストの受難と栄光の両方へと招くものです。苦難と十字架への招きであるので「高価」ですが、栄光の主ご自身への招きであるので「恵み」です。それは、自分の力によってではなく、恵み深い神の「善き力」に守られて歩む、恵みの歩みへの招きです。慈しみ深い主に信頼して、従ってまいりましょう。

■【まとめ】

31 それから、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちに捨てられ、また殺され、そして三日の後によみがえるべきことを、彼らに教えはじめ、32しかもあからさまに、この事を話された。

主イエスの受難と復活は、神ご自身が定められた救い主の使命でした。

34 それから群衆を弟子たちと一緒に呼び寄せて、彼らに言われた、「だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい。

主イエスご自身が苦しまれただけでなく、主イエスを信じる者すべてにとって、「自分を捨て、自分の十字架を負って、主に従う」ことは、避けることのできない主からの招きです。

38 邪悪で罪深いこの時代にあって、わたしとわたしの言葉とを恥じる者に対しては、人の子もまた、父の栄光のうちに聖なる御使たちと共に来るときに、その者を恥じるであろう」。

主イエスの苦しみは、主イエスの栄光と共に示されました。私たちが主イエスの苦しみにあずかっているなら、主イエスの栄光にもあずかるようになります。十字架においてこそ、私たちはキリストと共に歩み、キリストと共に苦しみ、キリストの心と一つになって、キリストに従って行くことができるのです。


[①] https://ocw.theo.doshisha.ac.jp/images/movie/1675731026/1675731026_10001.pdf

[②] 金子晴勇「キリスト教霊性思想史」XIX 現代のキリスト教における霊性思想

[③] William L. Lane, The Gospel according to Mark, The New International Commentary on the New Testament. 8:31

[④] James R. Edwards, The Gospel according to Mark, The Pillar New Testament commentary. 8:31

[⑤]「叱る」という言葉は、悪魔や悪霊を𠮟りつけるのと同じ言葉遣いです。

[⑥] ユージン・H・ピーターソン「聖書に生きる366日 一日一章」12月7日

[⑦] エミー・カーマイケル「カルバリの愛を知っていますか」p14, 31, 44, 70, 75, 8, 85-86

[⑧] ハ・ヨンジョ「イエスキリストの7タッチ」【苦難タッチ】

[⑨] James R. Edwards, 前掲書, 8:38、William L. Lane, 前掲書, 8:38.

[⑩] トマス・ア・ケンピス「キリストにならいて」第2篇 第11-12章